闘病記④ | リコーダー吹きの休日Recorderist's Holiday

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リコーダー奏者の斎藤夕輝です。
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闘病記③ の続き

引き続き、たまの日記形式。

(※)で書かれたところは後年の後書き






闘病記④

ー再出発ー



日差しが強くなってきた。

そしてこの数年、羞明の悪化により、サングラス生活、からの溶接用眼鏡生活だったのが、ついにアイマスク生活になった。

羞明っていうのは、光を見ると尋常じゃなく眩しく感じて脳がノックアウトされてしまう病気で、自分の場合少しでも光を見ると脳が一秒に百回ぐらいの速さで殴られてるみたいな感覚になって、その後長ければ数日間は寝たきりになる。

アイマスクをしてても昼間は眩しくて外に出れないし、家の中は窓や階段の踊り場をダンボールで塞いで真っ暗。

「俺は今学校祭でお化け屋敷やってんのか」と言いたい。

だけど光を見て具合が悪くなるより、何も見えない方が楽だ。

ありがとう、塞いでくれたみんな。


この''アイマスク''に行き着くまで、特殊なサングラスを試しに行った店で光を見すぎたせいで、帰りのエレベーターで悲鳴を上げて倒れてそのまま動けなくなるなんて事もあった。

溶接用の眼鏡を買って、さらにそれを、同居人でもあり数年に渡って支え続けてくれていた友人と改造しようと何時間も悪戦苦闘した挙げ句、結局上手くいかずに終わったって事もあった。

完全な暗闇を作るってめちゃめちゃ難しいんだよ。

アイマスクですら、何重にしても枠から入ってくる微かな光でやられちゃうから。


だけど、眼鏡作りが上手くいかず二人で心身ともに疲れ果てて横になった時、ふと思った。

人間が自分達の人生の脚本家だったら、その物語は味気ないものになるだろうなって。

神が監督だから、こんなにも味わい深いんじゃないかって。

それを言ったら、そいつは泣いた。

ありがとう、いつも支えてくれて。

結局完璧な遮光用眼鏡は諦めて、アイマスク+ハット+暗幕ってスタイルに落ち着いた。


ところで、アイマスク生活中でもたまに、一日数分間くらい暗がりでアイマスクを外して見れる時間がある。

それまでずっと何も見えてなくて、久しぶりに視界が戻るわけだけど、予想に反して俺は、「あれ?なんか別に見えなくてもいいかも。」て思った。

何というか、見えると情報量が多すぎるんだ。

見えてない時の方が冷静で心穏やかな感じ。

これは意外な発見だった。

まだ見えなくなって数日だから、全然あまちゃんなんだけど。


それと、音楽面でも良い影響があったよ。

見えない分音に100%集中するから、前よりも吹いてる時に自分の音が聞けるようになった。

目をつぶるんじゃダメなのよ、目をつぶろうとする事に意識使っちゃうから。

だからショパンも、暗闇での練習を勧めたんだろうな。

人生は面白い。

(2021.6.11)


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溶接用眼鏡+キャップ時代

アイマスク(?)+ハット+暗幕時代
自分はずっと食事担当だったんだけど、この状態でも俺は飯を作っていたらしい。
どうやってたんだ?
全然覚えてない。
さてはお前、乳首に目が付いてるな?
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4ヶ月前からアトラスオーソゴナル施術を受けてるんだけど、なんと一昨日、突然光が見れるようになった!

昼過ぎに、体調が優れなくて床に転がってたら、急に身に着けている遮光道具たちが鬱陶しく感じて、本能的にそれらを全部取り払って、そしたら無性に光が見たくなって、いつもなら眩しいはずの閉じたカーテンを見てみたら、・・・まぶしく・・・ない?

そのまま、今度は思い切ってカーテンを開けてみる。

この時の自分は、数年ぶりに遮光無しの普通の視界で、窓の外を見た事になる。

外を見るの自体、一ヶ月ぶりくらいだった。


お隣さんちの庭に植えられた木々の葉が、白い光にキラキラと、何食わぬ顔で揺れている。

その後ろには、ほんのり曇り模様の空が、ムンと気だるげに佇んでいる。

そんな何て事ないはずの光景が、久々に開かれた視界を、静かに圧倒する。


眩しく無かった。


世界は明るかった。

地球が青かったのは知ってたのに、世界が明るかったって事は、30年生きてきたのに知らなかった。

大げさじゃなく。


それはまるで、寝起きの母親が、まだ眠い目を擦りながらも、優しく微笑みかけてくるような、そんな風景だった。


ちょうどその時、さっきまで昼寝をしていた同居人が起きて、遮光道具を身に着けずに、変質者みたいに半笑いで茫然としている俺に気付いた。

そいつは最初寝ぼけてたけど、次第に、俺が遮光道具を身に付けていないという異常さに気付いて、それからはもう、ただただ二人で大歓喜だった。


俺は踊り狂った。

そいつもつられて踊り狂った。

ナイトクラブでキメてる人達かってぐらい踊り狂った。

そいつはピアノでモンポーの激しい曲を弾いて、自分はそれに合わせてお尻を振り乱して踊った。

それから、少しだけ泣いた。


翌日、念願だった''ゴミ出し''が出来た。

当然、遮光無しの視界で外に出たのも数年ぶりだった訳だけど、外の景色を直に見た時にふと、小学生の頃に何度か見た、田舎のおじいちゃんおばあちゃんちの庭の風景を思い出した。

「あ、こんな感じだったな。」って。

自然の風景なんて他にいくらでも見てきたのに、思い出すのはそんな昔の、何度も見た訳でもない景色だなんて面白いなと思った。


その日、同じ病気でユーチューバーをやってる方にこの事を知らせると、なんと僕のような重度の羞明が良くなったという事例は世界で初めてかもしれないとの事だった。

その方に羞明界のプリンスと呼ばれた僕は、さっき書いた「世界は明るかった」って名言が生まれた事を話したんだけど、電話を切り終わった後で、「世界は眩しかった」って言い間違えてた事に気付いた。

それじゃあ治ってないじゃんかよ・・・。


それでもまだ完治はしてなくて、昼過ぎに少し具合が悪くなって横になった。

やりたい事が出来そうで出来ない、おあずけ状態。

人間、おあずけが一番辛いのかも。(※つい数年前まで身体的苦痛が一番辛いって言ってたのに勝手だな。)

理想の未来を想像してはもどかしくなった。


人はする事が無いと哲学をし出すらしい。

古代ギリシャの人達もすることが無くて哲学を始めたって聞いた事がある。

未来に対してもんもんとしていた自分は、「未来じゃなくて今を生きよう。」と思う事にしたけど、とことん哲学モードに入ってた自分は思った。

「何で今を生きなきゃいけないんだ?」

飲み会にこんなやついたら面倒臭がられるんだろうな。

自分はそういうの好きなんだけどな。

だけど安心してくれ、答えはすぐに降りてきた。


全ては、遠い過去になる。

そして過去にどんなに幸せだった事があろうとも、後になれば「幸せだった」という記憶が残るだけで、その時に五感で感じたものを100%思い出す事は出来ない。

だから、遠い過去が自分を100%幸せにする事は無い。

そして未来も、いつかは遠い過去になる。

じゃあいつ幸せになるのか。

それは、無数の''今''という時間だ。

人は日々ドラマを刻んでいて、その時その時にしか、リアルな感情を持つ事は出来ない。

過去も未来も、自分を幸せにする事は出来ない。

''今''だけが、100%の幸せを感じうる瞬間なんだ。

人は、''今''を味わいながら生きていく生き物なんだ。

(どうやら人間はする事が無いとクサくもなるらしい。)

(2021.7.6)




ちょっと前、まだアイマスクをしてた頃、楽しみにしてた演奏会に行った。

尊敬してる、とあるピアニストの演奏会。

危うく行けないところだった。

行けるかもって思ったからチケットを予約したんだけど、当日になって体調が悪くなって、やっぱり行けないかもって思ったら、頭では「これが最善だ」って思ってるのに体が勝手に落ち込んで、それから体調がもっと悪くなった。

闘病生活の7年間が我慢我慢だったから、生きる僅かな楽しみさえ奪われる事に脳が耐えられなかったのかも。


それで、演奏会はというと、苦行だった。

俺は修行僧なのか?と思った。

ピアノの音がでか過ぎて聴覚過敏がある自分には耐えられず、指を耳ん中に突っ込んだはいいけど、たまたま爪が伸びすぎてて皮膚に食い込むは、だからといって力を抜くと音がうるさすぎるから、痛みをこらえながら耳を塞いで、聴覚過敏から来るしんどさのせいで体が動かせなくなって、その後は耳栓を使って何とかしのいだ。

まさか演奏会で耳栓を使う日が来るなんて思ってもいなかったよ。

健康体の同行人もでかいって言ってた。

そんなに広くないあのホールでピアノの蓋全開なんかしなくていいよ。

音は大きければ大きい方がいいと思ってるのかな。

どんな道具だって、''適正''ってあると思うんだ。


まあそれはいいとして、この事から俺は学んだ。

人が楽しみにする事なんて、結局それが本当にその人にとって良いとなるか悪いとなるかなんて分からない。

だから(特にクリスチャンは)、与えられなかったものはその人の幸せにとって不必要なんだと思えばいいんだ。


そう考えるようになったら、今回とある仕事のチャンスを逃した事も、嬉しくなったって話なんだけど。

(2021.7.12)




この前、「遠い過去は自分を幸せにはしない」って書いたけど、「世界で最も愛しいものは何か」って聞かれたら、今の自分は、''記憶''、つまり、''過去''って答えるな。

そんで無数にある''今''が、その愛しき''過去''になるんだなって。

あとは愛しいものといったら、音楽と、漫画と、酸っぱくない果物かな。

漫画と甘い果物に囲まれて音楽鳴ってりゃ生きていける気がする。

(2021.7.28)




最近、一日のうちに数十分ぐらい、ふと「本当に幸せだ」って感じる時間がある。

それも、部屋で一人何をしてる訳でも無く、というか、体が動かなくて何も出来ない時間に。

ただ、天井や部屋にある物たちを見ながら、自分や自分の人生と向き合う時間。

体がボロボロの中で一位をもらったコンクールでも、人間関係でも、こんな幸せは感じなかった。

ウナギを久しぶりに食べて、「幸せ・・・」って呟いたあの時も。

何かそういう時の幸せって、麻薬的というか、一気にハイになる感じあると思うんだけど、最近のは、嬉しいでも悲しいでも無い、どこまでも続く安堵っていうのかな。

天国ってこんな感じなのかなって思わせるような。

「人は何のために生きるのか」って質問に対して、「幸せになるため」って答えはよく聞くけど、これってもうその目的達成できてるよね?って思わせるような。

自分の最大の夢は、いつか「生まれてきて良かった」って言える事だったんだけど、「あれ?俺今そう思ってる?」って思った。


自分にとってこれは大事件だ。

だって「生まれてきて良かった」なんて、思いたくてもずっと思えなかったんだから。

この''幸せ''って感覚を味わえただけでそんな風に思えるなんて、なんだか不思議なんだ。

過去のトラウマや辛かった事全てを、今ではいい経験だったって心から思ってる。

あれがあって良かったって。

自分の人生はディープでカラフルだって、ルー大柴みたいな事が言える。 

今日だって、最近また体調が落ち気味だから、練習したくても出来なくて、人に会いたくても会えなくて、携帯解約したからネットも使えなくて、体が辛くてもうダメだ〜ってなって横になったのに。

そんな時に幸せを感じるなんて、人生ってほんと面白い。

リアリー面白い。

(2021.7.30)



最近目の調子がどんどん良くなってる。

今日なんかは暑いから外はギラギラのはずなのに、サングラス無しで余裕で見れる。

「俺の辞書に眩しいって言葉は無い」なんて言って調子乗ってる。

まだテレビなんかは見れないのに。

それと同時に、鬱もほとんど無くなって、慢性疲労になる時間もかなり減ってきた。

薬もほとんど塗ってない

なんだか気分はもう闘病終了。

まだ急に倒れたりするくせに。

症状で体がガタガタ震える事もあるくせに。

昨日の夜も辛くて寝付けなかったくせに。

でも、明らかに楽になってる。


それで、外を見てたら、急に寂しくなってきた。

なんだか今の人生にハリがない。

7年間苦しみと一緒だったから、もうそれが自分の体の一部みたいになってたのかもしれない。

分かりやすく言うと、喪失感。

自分は治るために頑張って生きてたのかもしれない。


だから、今度は自分でハリを見つけなきゃいけないのかもな。

もう一度外を見て、気合いを入れ直した。

(2021.8.11)




最近気付いたんだけど、昔の自分が一番嫌いだった''ぼーっとしてる時間''が、今では一番好きだ。

幸せを噛み締められるっていうか。

病は人を変えるって言うけど、自分の場合180度変わったな。

また別の病気になったら180度変わって元に戻ったりすんのかな・・・。

(2021.8.26)




本を読める事も読めない事も、歌える事も歌えない事も、食べれる事も食べれない事も、空に浮かんでる雲も浮かんでない空も、楽しい事苦しい事も、全てのものは恵みだ。

(2021.9.16)







『走馬灯』



闘病記⑤(まとめ)↓

羞明/他の治療について↓