世界は自分の鏡 | 原初の星の物語

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オリジナル作品「紺碧の採掘師」のブログ。更新情報など。

今日は心理側の話ですが、心理と悟りはセットですんで。
 

…今、パリでは五輪が開かれてますね。

私はテレビを殆ど見ないのでネットニュースで時々目にする位ですが
なんか、とある格闘技の選手が試合で負けた後に号泣(ギャン泣き)した記事がありまして。
それに対するコメントを見てて、実に興味深いなと。

端的に言うと、その選手は東京五輪の時は金メダルで今回も相当期待されていたと。
それが、本人も想定外な所で(?)負けてしまったんでショックだったと。
そのショックで試合の場に数分居座り、審判から移動するように言われたと。
んでコーチの元に戻ってギャン泣きしたと。(それを報道陣がバンバン映した)

…という感じだと思うんだけども

コメントではそれに対して「号泣に感動・共感して自分も泣いた」という方と
「武道だし、勝った相手の選手は毅然としていたし、泣くのはみっともない」という方が居ます。
この二つの見方が拮抗している感じですね。

あくまで私個人の見方としては、全体を俯瞰して観るなら
重いものを背負って五輪という場に来ているのはどの選手も同じな訳で

全員にそれぞれの「そこまでの道程」「人生のドラマ」があります。
しかしメダルは金銀銅の三つしかないので勝つ選手はほんの一握り
敗者となる方が圧倒的に多い訳で、その方だけが「特別」ではありません。
号泣はいいとしても、その場には次の試合の出場選手も待機していたらしいので
コーチはギャン泣きする選手を控室に強制連行すべきだったなとは思います。

で、コメントには「海外の観客の方々も温かく見守っていたのに」というような事を書いた方も居ましたが、これもまた興味深い見方です。
 

だってギャン泣きした選手に対して「あらあら。子供みたいね」という見方をしていたという可能性もあるんですよ。言わば「下に見て」子供をあやすように「がんばったねー、よしよし」という感じの。

そもそも日本人って欧米の方からすると幼く見えるらしいですよね、まず容姿が。
向こうは背が高かったりで体格がそもそも大人っぽいし。
アジア人は子供っぽく見えるらしいです。
 

……というのが私の見方になるんですが

ここでタイトルの「世界は自分の鏡」に戻ります。

つまりその「ギャン泣きした」状況に対して、貴方がどう感じたかが、貴方がどのようであるかを証明するんです。

なぜなら「ギャン泣きした」状況そのものには全く意味は無いからです。

悟りの見地で言いますと起こる事はただ起こります。勝手に起こります。
「自己意志を持った個人」など居ません。言わば単なる動いている画像があるというだけです。

なのでそこに、見る側がどんな意味付けをしたかが、その見る側がどのような観念(ストーリー)を持っているかの証明になります。
なので「世界は自分の鏡」(投影)という事なんです。


で、上記の事例で「号泣に感動した、自分も共感した泣いた」という方の場合。
一つの見方としては

自分の中の「自分も頑張ったけど報われない」というようなものを投影しています。
自分の中の悲しみや悔しさを投影しているから共感する訳です。

そしてその「ギャン泣き」している状態を「皆が認めてくれている・わかってくれている」
つまり「自分の苦しみを皆が分かって当然」という思いがあります。

例えて言うならそういう方はゲームとかアニメでヒロインやヒーローが悔しくて泣いてるシーンとかにも感動し共感し「自分も可哀想なヒーローである」と思いたい(でも皆がそれを分かってくれない)というような「苦しみ」があると思います。

 

「自分はこんなに努力して苦しんでも、泣きたくても泣かないで頑張ってるんだから、ああいう状況では泣いてもいいじゃないか」と。言わば「苦しみを表現したっていいだろう!」なのでネットにコメントもします。なので必然的にそういうコメントは数が多くなり、「大多数の意見」に見えるようになったりもします。


で、その反対のコメント、つまり「泣くのはみっともない」というコメントに対して反発する訳です。

「お前らに俺の苦しみが分かるか!」「貴方に私の苦しみは分からないのよ」みたいに。

コメントの中には「五輪に出た事も無い癖に」とか「あの選手がどれだけ苦しんだか分からないくせに」とかいうのがありましたが、つまりそれは「貴方は私自身になった事も無い癖に、好き勝手言うな」という事なんです。

 

実はここを深く突っ込むと、「お前らに俺の苦しみが分かるか」「あの選手の苦しみも分からないくせに」というのは「自分は自分の苦しみが分かっていない」という事でもあります。

だって、上記に書いたように、ギャン泣きする五輪選手に共感するという事は、自分の中にその苦しみがあるから共感している訳なので、それは自分の苦しみ(悲しみ)なんですよ。

だけどそれが「自分の中のものだ」と気づいてない(気づきたくない)からこそ、外側に見て「選手が悲しんでいる」と見えている訳です。

もしも、気づいて理解しているなら「ああ自分はこんなに悲しいんだ」となります。

さらに「泣くのはみっともない」に対する反発の怒りも、「ああ自分は、理解されなくてこんなに怒っていたのか」となり、それ自体が「自己理解」となります。

そうやって自己理解していくと、それが自己受容になりますので自己愛が育まれ、癒され、楽になって行きます。

 

 


かたや「泣くのはみっともない」という方の場合は、私がそうなんですが
幼少期に「そんな事で泣くな!」とか親から怒鳴られたような経験があると思います。

「苦しいのはアンタだけじゃないんだよ!」「お母さんだって大変なんだからね!」
「周りの事も考えろ、みっともない!」「貴方は恵まれてるんだから、我慢しなさい」

つまり自分がどんなに苦しかろうと、それを表に出さずにじっと耐えて自分の中で感情を消化してきたような人です。周囲に自分の苦しみを理解してくれる人は居なかった。

自分の感情より周囲の事を慮り「迷惑を掛けないように」裏でひっそりと泣くような人です。

だからSNSやネットニュースにコメントもしませんし、上記のような「分かってくれて当然」というような方々が何だかんだ言うのに対してあまり反論もしません。
仮に反論する時には「こんな事を言ったらお叱りを受けるかもしれませんが」と前置きして本音を言ったりします。

こういう方が人前で泣くとしたら、よっっっっぽどの時です。

泣き方や態度、雰囲気が「ギャン泣き」とは違います。

恐らく号泣したとしても凛とした雰囲気を保っている筈です。

……ちと文章では表現できんので(表現力がっ…)、分かる人は分かって下さい(汗)

 

 

 

まぁ、心理の観点から言うと、その場の状況を無視して自分の感情に忠実になるのは「楽」なんですよ。それが出来ないからこそ心身に症状が出たり、トラウマになったりする訳で。
 

社会性というか、規範というか、文化的観念、ポリシーというか。

そういったものに縛られて、苦しくても泣かずに耐えるからこそ「苦」であり、それは精神鍛錬でもあります。それによって精神的成熟が為される。(行き過ぎれば病にはなりますが)
 

スポーツ選手が自分に負荷を与えて鍛錬するように
精神鍛錬でも「負荷」が必要です。
「楽」では鍛えられません。自然とはそういうものです。


とりあえず

上記に書いた事は全て私自身の見方であり、「絶対的に正しい見地」ではありません。

ポイントは、「状況」に対して貴方がどのように感じ何を思ったかが、貴方自身を表しているという事なんです。
 

それが「世界は自分」という意味です。

そして、じゃあ何の為に「世界」という鏡で「自分を知る」のかと言えば

その自分を責めたり批判するのではなく

「どんな自分も受け入れる」為です。

 

「自己理解」が「自己受容」であり、真の自己愛、癒しで、悟りの道だから。
全ては「神」が貴方に与えたものであり、それを受容する事が「神と一体になること」なので(この辺は過去記事を読んでね)。
 

自己否定が苦であり、自己受容が愛、楽なんですウインク