原初の星の物語

原初の星の物語

書こうと思った事を書いてます。

今日の記事は、物凄く久々に、悟りや心理と全く関係ない、私の個人的な話です。

前回の記事を書いた後に気づいたんですが

よく見たらこのブログ、2022年10月から始まってるんですね(汗)

でも実は、このブログそのものは、確か2017年頃からなんです。

元々は2017年に「Ameba Ownd」に登録したのが始まりで、

「紺碧の採掘師」という自分のオリジナル作品の絵を掲載しようと思って借りたんですけど
確かAmeba Ownd借りるとAmeba IDが出来て、自動的にAmebaブログも作られるんですよ。


ブログは最初、全く使っていませんでしたが、

作品掲載のお知らせに使い始めて、長らく放置した後に、
2022年の10月に何か知らんけど心理の事を書き始めて、それがずっと続いてしまって
心理から哲学から臨死体験から悟りまで書くようになって、

いつだったか、記事を整理しようと思った時に、

2022年以前の記事は全部消したんでした(汗)
 

 

実は2017年以前にもAmebaブログを借りた事があって、

その時に自分のトラウマについて書いた気がしますが
その時の記事は、Ameba退会してブログ自体を消したので全く残っていません。

だから前回の記事で「このブログが自分の変化の軌跡です」と書いたんですが
確かに2022年から今に至るまでの変化は書いてますけど、それ以前のは無いですね(汗)


それにしても思うのが、Ameba Owndを借りたりしたのが

全て上手い具合に活きたというか、人生って不思議だなと(爆笑)

まずAmeba Owndを借りようと思ったのは

「紺碧の採掘師」の絵とかを載せようと思ったからなんですが……

作品本編の文章を載せようとは全く思ってなかったです、当時は。

最初は一つだけ借りようと思ったのが、

Ameba Owndはサイトデザインとかがオシャレで、当時は全て無料だったし(現在は無料版には制限があります)、何となくもう一つ借りてしまいました。

それで https://konpeki.amebaownd.com/ と https://yesod.themedia.jp/

という二つのサイトが出来た訳です。

(現在、紺碧の方は有料版Owndで、yesodの方が無料版Owndです)

最初の頃は、マジで載せるものがなかなか出来なくて、殆ど放置サイトと化してました。

この二つのサイトを一体何に使うんだろうと思ってました。

ところが、2020年に突然、「紺碧の採掘師」のシナリオ版をサイトに載せようと思い立ち、
片方にはキャラ設定を載せようと思い立ち、

上記の二つのサイトは見事にフル活用された訳です。


で、更に、ロクな記事が無かったAmebaブログも
2022年から突然、色々と書き始めて、気づいたらこんな感じになってました。

当時はまさかこんなブログになるとは、露程も思ってなかったです。

 

ブログタイトルが「原初の星の物語」なのは元が作品ブログだからです。

「紺碧の採掘師」は、「原初の星」という星の物語だから「原初の星の物語」なんです。

そのままです(笑)

 

 

という事で、ほんっとうに人生って不思議だなと思うと同時に

無駄な事は無いし、全ては必然だなぁとしみじみ思う訳です。

なんかもう私の作品の経緯、変遷を考えると不思議な事が多々多々ありまくりでして、

私はその実体験で、悟りを理解したと言っても過言じゃないです。

だって当時は「何でこんなもん作ってんだろう」と思った事が、

その数十年後に作った意味が分かるとか、活きるとか、本当に凄い(汗)

 


ちなみに「紺碧の採掘師」という私の趣味の作品ですけど、

2020年に掲載したのは「シナリオ版」という非常に読みにくい体裁のものでした。

それを2025年にリニューアルして「小説版」としてサイトに掲載しましたが、

 

なにせ私は「小説」を殆ど読んだ事が無いので、

「小説の書き方がワカラン!!」と嘆きながら

何とかかんとか頑張って「小説的に」しました。

 

でも時間が経って、今、読むと

「もっと直したい」と思ってしまうんですよ…いつになったら納得するねん(汗)

恐らくまたリニューアルすると思います!! ていうかリニューアルしたい(爆笑)

 

で、上記には、続編である

「紺碧の採掘師2 ーカルセドニーの記録ー」てのがありまして、

2023年に書いたものですが、「シナリオ版」なんです(汗)

 

それを今、小説版に大リニューアル作業しています。

「紺碧2」は「紺碧1」よりも登場人物が多く、長いので、結構時間が掛かっていまして、

…今年中に、掲載は…でき ない かも しれません(汗)

 

 

まぁそんな訳でして、

 

今日は、久々に、私個人の話と、作品についての記事でした。

 

なんか知らんけど私の人生はこの作品と共にあります(爆笑)爆  笑

恐らくこのブログを見に来るような方は、「悟り」に興味がある方で、
「悟り」に興味があるという事は、「幸せになりたい」という事だと思うんだけども

まぁ巷には「悟ったら幸せになれる」とか

「これで幸せになれる」というのが溢れてますよね。
悟りのみならず、心理カウンセリングも、スピ系でも
全ては「幸せになりたい」人の為にありますが


思い返せば今から10年前の私は、不安と恐怖のどん底に居た…

というのは相当過去の記事に書いたような気もしますが(忘れたけど汗)

実はそれより以前にも私は恐怖のどん底に居まして、
そのもっと以前にも恐怖の中に居たんです(爆笑)

この辺を説明するのは非常にめんどくさいので書きませんが

説明しやすい部分を書くと、例えば2009年辺りまでの私は
精神安定剤の薬物依存だったんですよ。
それを、死を覚悟で断薬して、全く薬を飲まない人になったんですけども
ただ断薬した後、その反動というか、まぁ色々ありまして長期間大変でした。

そもそもなぜ、精神安定剤を飲まねば生活できなかったかという原因がありますが
それは書くと長くなるんで書きませんけども

その原因のトラウマとか、思い返せば何だかんだと色々あったなぁ(爆笑)

今ではすっかり忘れてしまいました爆  笑

過去記事には書いてあるかな…

とにかくここで言いたい事は、

どんだけ壮絶に苦しい事とか、壮絶な憎しみや、重いトラウマでも

キレイさっぱり忘れてしまう程に、

私が変わった、癒された、幸せになったという事です。



過去の私は、とにかく苦しくて、とにかく早く楽になりたくて足掻いていました。

世の中のスピ系とか悟った人とかは、

「ある日、目覚めて幸せになった!」とか「突然、幸せになった!」とか、

そのご自身の経験を元に「貴方もすぐ楽になれる」とか

「これをしたら楽になれる」とか言いますね。

自己啓発とかも、「このメソッドをやったら幸せになれる」とか。

私も様々な、色んなものに夢と希望を託して、まぁ色々やりました。
でもダメでした。全く幸せにならないどころか
むしろトラウマを受けて苦が増えたりもしましたよ。

その中で唯一、続けてきたのが、かなり前の過去記事に散々書きましたが
大嶋信頼先生が主催する「インサイト・カウンセリング」でのカウンセリングです。

…と書くと「じゃあ自分も」と思うかもしれません。

現に、過去に、何人かの方からアメブロのメッセージで
「インサイトのカウンセリングって効くんですか?」と尋ねられた事があります。
「カウンセリング受けてるけど効果が出ないんです」と相談された事もあります。

私はプロのカウンセラーでも何でもないので

自分の経験と意見しか書く事が出来ませんし

このブログの記事もそうですが、参考程度にして欲しいんですけども

大嶋先生ご自身が言ってますけど
「万人に効く手法は無い」です。

 

そして私が個人的に思う事は

「全ての手法が、必要だから、この世に存在します」
つまり、誰もが自分の道を持っていて、その道は個々人で違うって事です。
ある人にはスピの道が、ある人には占いとかの道が、幸せへの道なんですね。
全て、何でも、誰かにとって必要だから、それは存在します。

なのでどの道が一番良いとか、絶対に正しいとかは無いです。

 

自分に何が合うのか、自分の道は、自分で探すしかありませんし、

実は探さなくても誰もが全員、自分の道を、問答無用で歩んでいます。

それが「成功」であっても「失敗」であっても「良く」ても「悪く」ても

全てがその人にとって必要だから起こっている、その人の道程である訳です。

 

 

…私は「インサイト」のカウンセリングですぐに良くなった訳ではありません。
良くなったり、悪化したり、一進一退しながら、地道に地道に続けて今に至ります。

で、過去に比べたら相当、楽になったんですね。

そして色々自分で考察したり経験したりしてきたからこそ、

「悟り」がどういうものか分かったんです。
その理解の道のりが、このブログの軌跡なんですけども。


「心理」と「悟り」は同じ道です。
前回の記事に書いたように「考えを信じてしまう事」が全てなんです。
「自分が何を信じ込んでいるか」だけです。

だから心理療法ではそこに焦点を当てますし、
そこを奥深く突き詰めて行けば悟りに到達します。
要は「どこまで突き詰めて行くか」です。

その信念(何を信じているか)に目を向けないと、
仮にもし、貴方が一瞥体験したとしても
その「幸せ感」に執着すれば、もうそこで苦が発生します。

つまり「自分は苦しむべきではない」とか「私は悟っているべきだ」とか

「至福以外はあってはならない」等の信念を信じた途端に
「苦」が発生するという事です。


この世界は二元性の世界で、朝と夜、生死、光と影のように必ず「対極」が存在します。
なので「幸せ」には必ず「苦」がセットになります。
 

片方だけに執着すると、必ず苦が発生するので

両方受け入れたら、楽なんですよ。

とはいえ…そう、「とはいえ」なんです。
分かってはいても「そう簡単にはいかない」んですね。
どんだけ悟り本を読んで理解しようが、

どんだけ心理を学んでトラウマについて理解しようが

どんだけ色々な事をしようが

全ての物事には時機があります。

 

そして、いつが、自分にとってベストなタイミングかは分からないんです。

なぜなら「未来」を見る事は出来ないからです。



長くなりましたが端的に言えば、流れのままに、って事です。

世の中には「すぐに」幸せになる人も居ますが、

私のように、なかなか楽になれずに七転八倒する人もいます。

でも、自分の道を信じて歩いて行けば、必ず幸せになれると、私は思います。
苦を乗り越える=言い換えれば「苦を受容する力がつく」と、

器が広がるので楽になって行くからです。

実際、私の実体験がそうですし、気づいたらそうなっていました。

そして今もまたチャレンジが…まぁ本当に人生奇想天外ですよ。

でも苦を乗り越える度に、自己信頼が深まり、楽になって行くんですニコニコ

前回から暫く記事を書いていませんでしたが、理由は、単に書く事が浮かばなかったからです。

そもそも「悟り」というのは知識じゃないので、特に書く事が無いんです。

過去記事に散々書いたので、繰り返しになるんですけど

 

「悟り」というのは「思考の夢から醒める」って事です。

 

例えばの例で説明すると

 

もしも貴方が「悟れば幸せになれる」と信じているのに悟っていないとします。

今、悟れない事が苦しいとします。

 

つまり現実は「今、悟っていない」のに

「悟らねばならないという思考を信じているから」苦しい訳で、

であればその「悟らねばならない」という思考を信じなければ、苦しみは無い訳です。

 

言い換えると「悟らねばならない」という思考の夢から醒めたら、

その夢に対しては「悟った」という事になります。

そもそも「悟り」の定義がどのようであるか、てのがありますが、しかし

「悟りとはこういうものだ」、というのも一つの「考え」ですので

そこに固執するのもまた「悟りとはこういうもの」という夢にはまる事になってしまう。

 

ともかくその夢にはまって苦しいならば

その夢から醒めたら苦は無い訳です。

 

で、現実が「今、悟っていない」のならば「悟っていなくてOK」なんです。

明日は悟るかもしれませんし、二日後に悟るかもしれませんが、

ともかく「今 悟っていない」ならそれで良い訳です。

 

 

…別の例として、例えば、

「自分の人生は失敗だ」とか思って苦しいなら、それはその

「人生失敗」という考え、思考の夢にはまっています。

もしもその考えが無かったら、問題は無いのでは?

 

以前の記事で散々書いた「バイロン・ケイティ」のワークってのは上記のような事です。

「それは本当?」「もしもその考えが無かったらどうなる?」

 

「現実はあるがまま」

 

 

 

どんだけ瞑想しようが、どんだけ悟りの知識を学ぼうが、

自分がどんな考え、信念、思考を信じているかに気づき、

それに疑問を抱かない限りは

その考え・思考の夢から解放されません。

 

つまり自分自身を知る事が、絶対的に必要という事です。

 

 

ある意味では「引き算」です。

自分が信じていたものを捨てて行くというか。

 

だから、例えば自分の思い通りの現実を生きるとか、

人間関係が良くなるとか、嫌な事が起こらなくなるとか

全く苦しまないとか悩まなくなるとか、そんなの関係ありません。

そういった事を目的として「悟り」を求めると苦しくなると思います。

 

起こる事は起こります。

なぜなら「現実」は、誰かの意志で動いてる訳じゃありません。

 

という事は、もしも貴方が何かをしたなら、それはすべきだったんです。

それが「いいこと」であっても「わるいこと」であっても。

それがどんな事であれ、貴方はそれをする必要があった。

 

もし貴方が何かをしなかったなら、それはすべきではなかったんです。

 

…というように「現実をあるがままに」解釈すると楽ですよ。

そしてそれがケイティが言っている「悟りを生きる」なんです。

 

その視点で言うと、今、貴方が何か「苦しい考えの夢」から醒めていないならば

それはそれで良い訳です。今は醒めるタイミングではないという事になります。

だって今、現実は、その夢の中にいる訳ですから。

 

「苦しんではならない」…それは本当でしょうか?

 

真の自己受容、自己肯定とは苦しむ自分を受け入れる事も含まれます。

 

とにかく何がどうでも貴方の自由なんです。

苦しむのも苦しまないのも。

「こうでなければならない」ってのはありませんので

 

記事のタイトルは「夢から醒める」ですけども

「今は、夢から醒めてない」でもOKなんです。

…となるとブログに書く事が無くなってしまうんです(汗)爆  笑

 

最近つくづく思うんですけど
「悟り」と言われるものは実際には非常にシンプルで、

思考の幻想性を完全に見抜けば、それがもう「悟り」と言われる状態で、人生は楽しくなります。

ケイティは「好奇心」という事を多々言うんですが、

ちょっと前に見たケイティの動画の話で、なんかケイティご自身が

生きるか死ぬかの重篤な状態になり、病院に担ぎ込まれたと。

そこで「これからどうなるんだろう!」とワクワクしてたまらなかったと。


もはや「死」の観念が無い、そもそも「私」という観念が無い、

全ての思考(観念)の幻想性を見抜いている。

全てはただ起こっていて、そこに神のシナリオ(思考・考え)が与えられている(ただし信じる訳では無い)、なんてありがたいのか。
全ては未知で、一瞬、一瞬、何が起こるか分からないからワクワクしている、好奇心。
散歩に行こうと右足を出したら、次に左足がどこに出るのか分からない。
本当に散歩に行くのだろうか? それは散歩に行った時に分かる。
「好奇心、好奇心、好奇心だけです」

…という事を現在もう80を過ぎたケイティが動画で力強く言ってました(爆笑)

「人生は贈り物です」


でも大半の人は、そう簡単に夢から醒められないのも事実ですが、それも含めて神のシナリオ。

ケイティは「ここは地球学校」と言うんですが、

人生が素晴らしい贈り物だと分かるまで、我々は色々学ばされると爆  笑


悟りの道は色々です。

エックハルト・トールの動画で、重いトラウマを持った人の「私は悟れますか」という質問に、エックハルトは「カウンセリングや心理療法を受けなさい」とアドバイスしてました。

ケイティの動画を見てても、なかなかワークに納得できない人も居ます。
「上司が俺の事を馬鹿にしたんです!」という人に対してケイティがワークしましたが、
その方は、どうやっても、「でも馬鹿にしてたんです!」から離れられませんでした。
しかしケイティは別に怒ったりせず、ただ静かに様々な見方(視点)を提示して
「上司は馬鹿にした、それは本当?」と問い掛けるんですが、

本人も、自分がその考えを信じているだけだと頭では分かっているんですけど、
(だって動画に撮られる事を了解の上で自らケイティのワークを受けている位なので)
感情が付いて行かず、納得できず、「でも!」と反論してしまう。


悟りには「沈黙を意識する」というのがありますが

観念(考え)の幻想性を見抜くとその観念が無くなるので自然と思考が減り、沈黙に在れるようになります。

逆に、自分の考えを信じ込んでいると、上記の「上司が!」という方のように
沈黙に在りましょう、ただその思考を見守りましょう、言わば「考えるな」と言っても
なかなか難しいです。なぜなら感情がバンバン沸くからです。

であれば、むしろ思考や感情に突っ込んで行けというのが「ワーク」です。
「ワーク」で最も重要なのは、「その場面を想像し、感情を感じつつワークする」事で
つまり上記のように「上司が!」と、その場面を思い出し、その時の感情を感じた状態で
「それは本当か?」と問うんですね。

そして「その考えを信じた時にどうなりますか」を問い、その後に
「その考えが、もしも無かったとしたら、どうなりますか」と問う訳です。

「ワーク」にはやり方、手順があります。再び思考の幻想ストーリーに戻らない為です。
「でも」という反論が、また思考ストーリーに戻って自己防御しようとする自我の抵抗で、
それを防ぐ為に「決められた質問」と「質問の順番」があるんです。

「ワーク」はなかなか勇気が要ります。例えば、誰かに酷い事をされ、それに対してワークするなら、その時の事を思い出さねばなりません。
その苦しみを感じている状態で「それは本当?」と問うんですから相当勇気が要るんです。

しかし、実はこの「その時の事を思い出し、本当か?と問い掛ける」というのは
悟りで言う「観照」と全く同じ事なんです。

「観照」とは、静寂に在る、

=意識の気づきとして思考をただ見ている、感情をただ感じている状態ですが

ワークの原則は「テーマとなる観念」を紙やPC等に書く事で、つまり「文字として物理的に固める」のが原則です。頭で考えているだけでは、逃避してしまう可能性があるからです。

この、「思考を書き留め、それをじっと見つめる」事そのものが「思考をただ見る」と同じ事です。

通常の状態では、その思考や感情を完全に信じて同一化し、それそのものになっているのを、

紙(PCやスマホ画面)の上に出して、じっと見つめるだけでもう客観視であり、同一化から少し離れます。

そしてその時の状況を思い出し、感情を感じながら「それは本当か」と疑いを掛けるのだから

「思考や感情を信じない」=客観的になり、「ただ見る、ただ感じる」事になります。


例えば上記の「上司は自分を馬鹿にした」というテーマなら、
それを書き留め、それを見ながら怒りを思い出し「本当か」と問う事そのものが、
その思考・観念に対しての強力な観照行為なんです。

上記のように、その時は納得できず怒りバンバンになったとしても、

紙やPCに書いた事は、捨てない限りは残ってますから、再びそれを見てワークし続ける、

つまり「疑いを掛け続ける」なら、いつかは解放出来る時が来ます。

そのテーマの軸から絶対にブレずに、その観念と向き合うからこそ、幻想性を見抜いて解放できるんですね。

とは言っても感情的になっている時や緊急事態にワークするのは難しいので
(慣れると一瞬で無意識にワークが展開するらしいですが汗)
なので日頃から「沈黙を意識する」とか「思考をただ見る」を日常的にやっていると
ワークもやりやすくなります。

なぜなら「思考をただ見る」という時点でもう思考を信じていない=「それは本当か」と問うているのと同じ事だからです。
きちんとワークしなくても、「それは本当?」と思うだけでも思考との同一化から少し離れます。
そもそもカウンセリングとか心理療法は、基本的には「信念・観念に問い掛ける」ものですので心理カウンセリングも悟りの一端なんですね。

何はともあれ、「ここは地球学校」、全ての道は悟りに向かってるんですよニコニコ

数年前の過去記事で書いた事ありますが

昔、私はとある自己啓発に傾倒してた事がありまして、
そこでは「思考は現実化する」を教えていて

つまり自分に起こる様々な事は全て自分の思考が起こしているから
思考を修正すれば望み通りの現実が起こせると。

という事は自分の思考が現実を起こしているのだから
全ての思考に気を付けなければならなくなります。
自分にとってネガティブな事が起これば

自分の思考がネガという事なので思考の修正をしたり。
常にポジティブ思考をしなければならない、何が起こっても自分の責任。


…あれは物凄く辛かったです(爆笑)

それで精神的にやられてトラウマ症状を酷くしたお陰で
私は「思考は現実化する」から離れて、心の治療をする為に
臨床心理のカウンセリングの方へ行ったんですが

そこで知ったのが大嶋信頼先生の「無意識さん」とか「ナラティブ」の手法です。

つまり「思考・考え」に対して「それは本当か」とダウトを掛ける(疑いをかける)
そして指を振ったり、身体の感覚でもって「無意識の本心」を信じてみる。
または「ナラティブ」によって

自分が信じている信念(思考)をリフレーミングする(変える)。

何にせよその根底にあるのは「思考(頭の考え)を妄信しない」なんです。
なぜなら思い込みの力によって、狭まった視点しか見えなくなるから。


で、私がその次に出会ったのがバイロン・ケイティの「ワーク」なんですけど
当初はそれが「悟り」だとは全く思っていませんでした。
そもそもケイティの「ワーク」は心理や自己啓発のジャンルになっていて

「ワーク」を教えるワークショップとかでも「悟り」的な事は殆ど言わないと思います。


だから私も最初「これは心理手法だ」と思っていたんです。

ところが私自身が悟りに向かい、悟りを理解し始めたら
ケイティが言ってるのは悟りそのものだと分かってきたんです。
そしてケイティの動画でケイティが言う事の深さに驚き
そこから「ワーク」がどのようなものかを理解し始めて、やっと、

「ワーク」は「リフレーミング」のような心理手法ではなく「悟りだ」と分かりました。

まぁそれが心理だろうが悟りだろうが、それは単なる意味づけであって、実際に「ワーク」をやって幸せになればそれでOKな訳ですが(笑)

…とまぁ、こういう流れがあるので、

このブログそのものが上記の流れの軌跡だったりします。
その時々で経験したり理解してきた事をブログに書いてる訳ですから。


ちなみに「思考は現実化する」ですけども

『自分に起こる様々な事は全て自分の思考が起こしているから
思考を修正すれば望み通りの現実が起こせる』…これは「自我主体の」考え方です。

それを以下のように変えると「心理」になり、「悟り」に近付きます。
『自分に起こる様々な事は全て自分の思考が解釈しているから
解釈を変えれば望み通りの現実となる』=現実を受け入れられる。

そもそも「思考現実化」と言いますが

「現実」に対して解釈(意味付け)しているのが、思考なんです。

現実が絶対的に先であり、思考が先ではありません。思考は後です。

例えば「雨が降っている」のは、雨が降って来て初めて「雨降った」となりますよね?
どんなに雨降れ雨降れと雨乞いしても降るかどうかは自然という神の意志です。

仮にそこで雨が降ってきたとします。
「思考が現実化した!」という解釈(思考)が、起こりました。

逆に雨が降らなかった場合にも、色んな解釈(思考)が起こります。
例えば「思考が足りないから雨が降らないんだ」とか
「ハイヤーセルフとか本当の自分が望んでいないから雨が降らないんだ」とか

とりあえず思考というのは「辻褄合わせ」をする天才なので

何かしら「自分が納得する解釈」を出してきます。

なぜかというと、そうでないと納得できずに苦しいからです

何にせよ「現実」に意味づけ、解釈しているのが思考であって
思考が全く無いならば意味付けも消え、単に「現象・現実」だけがあります。
「雨」という単語も無く「水」という単語も無く「降る」という単語も無く

単に「・・・・・・・・・」だけです。(その光景があるだけ)

 


「自分が現実を創っている」と信じるなら自分が全ての事象において責任を負うべきです。
「自分が現実を創っていない」ならそんな責任は無くなります、が、

「自分の思考が現実に意味づけ(解釈)していて、それによって自分が苦しむ」ならば
その自分の思考を 信じるか 信じないか という選択と責任が自分にあります。
 

つまり「苦しむか・苦しまないか」という選択です。

苦しんでいるのは自分な訳ですから、自分がどうしたいかだけで他人や世界は関係無いです。
「貴方の世界には貴方しかいない」


ただ、それが例えば「雨降るのは嫌だ」とかいう簡単な事ならいいですが
酷いトラウマや心の深い傷などは、なかなか難しい。

 

ここに「心理」の出番があります。

トラウマや心の傷とは、「心の奥底まで深く信じ込んだ根深い信念」なので

それを手放すのは容易な事ではありません。
その信念が引き起こす感情には絶大な威力があり、身体症状を起こします。

同様に「死」の観念もそうです。
自我にとって「死」についての観念は相当根深く、簡単には変えたり手放せないのと同様に
トラウマや心の傷も、その「死」の観念と絡むので非常に難しい。

ただ、本人が決意し、ケイティのような、ある意味では「プロ」と一緒に「ワーク」をすれば、

それは解放され、もしかしたら一気に深い悟りまで到達する事もあるかもしれません。

実際それで悟った人も居るらしいです。

が、あくまで私の場合で言えば、

私は心理療法で地道に地道に信念を解放し、それから地道にワークに入って行ったので、
そういうパターンもあります。劇的な変化ではなく何年も掛かる地道な地道な道ですが、

どっちみち、行き着く所は「悟り」です。


という訳で今日は、今まで私が「思考」とどのように関わってきたかという経緯を書いてみました。
何はどうあれ、どんな道であれ、行き着く所は「悟り」=「幸せ」なんですねニコニコ