原初の星の物語 -2ページ目

原初の星の物語

オリジナル作品「紺碧の採掘師」のブログ。更新情報など。

さっきYouTubeのオススメに出て来た動画のコメント欄をちょろっと見たら

なんか「自分は一瞥体験が無いから悟りを理解できない」とか悩んでる人が多いらしいけど

 

ちなみに私は「一瞥体験」なんぞ全く無いです。

 

……思い返すと、少し前は何となく「一瞥体験したい」とか思ってて

「悟りの一瞥とか不思議体験しないと悟れない」とか思ってたのを今、思い出しましたが

 

別にそんな経験なんぞ全く無くても「悟れる」っていうか

「理解」は起きるし深まりますよ。

正しく言うなら「理解は起きるし、深められる」ですけども。

 

ただ「一瞥体験が悟りの証拠だ!」とかいう思考を信じ切ってる方には

「一瞥してないならアンタは何も理解してない!」とか言われるかもしれんけど爆  笑

 

ちなみに私は「悟ってはいない」です。

 

そもそも、本当に「理解」があるならば

「私は悟った」は絶対あり得ないのが分かる筈です。

「一体、誰が悟ったのか?」って話になりますんで

 

だから理解が「起こった」が真実というか、です。

だって現に「理解が起こり続けて」ここまで連れて来られたので。

 

私は「一瞥体験」とか「不思議体験」なんて無いですが

契機になったのは

以前、記事に書いた「明晰夢」の時です。

 

 

私は元々、悟りには興味が無く

エックハルト先生の本も、何回も買っては捨ててを繰り返したんですよ。

今、思い出したけど、2023年の春頃だったかな、部屋の片づけしてて

私はエックハルトの本とかラメッシの本とか、古本に売り払ってんです。

が、その後から、なぜか「理解」が起こり出して、エックハルト先生の動画が分かるようになっちまったという……。そこからどんどん「理解」が起こり出して、ついには中野さんの本に出会ってしまったという……。

 

……でね、前の記事にも書いたけど、この「理解」の行き着く所は

「自我の死」なんですよ。

 

このハードルの前に立った時に「何で自分は悟りに興味なんか持ったのか」とか

「何で自分は中野さんの本と出会ってしまったのか」とか思うんですが

実はそれこそが自我の抵抗で、しかし

それすら「神が浮かばせた思考だ」となると逃げ場が無くなるっていう

 

……だから、「一瞥体験したら悟って幸せになる」とかってのは、うーん。

自我の立ち位置からすると………とは思うんだけれども

んでもそれも、起こるがままなんで

 

とにかく全て、全て、全てが、問答無用なんですよ(汗)

逆に言うと、何がどうでもそれでOKていう。

 

なにひとつ「自分のもの」は無い。

 

「自分(自我)は存在する」という夢から覚めるかどうかも

神の意志しかないという……ウインク

最近また自分の意識というか認識が変化しましてですね


中野さんの本だったかブログだったか忘れたけども
「人は自我の成熟が最終地点でそれ以上の進化は無いと思っているが、実はその先がある」ような事を言ってましたが、まさにそれを実感してます。

とりあえず今日はなんか「引き寄せの法則」とか「思考は現実化する」について書こうと思ったんで書きます。

 

私は数十年前に「思考現実化」の自己啓発にドップリ漬かって

大金はたいてそこのセミナーに通った事があるんですが

そこでは「世界は自分だ」というんですよ。

全て自分の思考が現実化しているのだと。

だから自分の思考を制御すりゃ世界は思い通りになると。

 

その事は以前の記事にも書いたと思うけども

まぁ普通に考えてですよ、

「世界は自分の思考が現実化したもの」ならば

起こること全てを「自分のせい」にしないとダメですよね。

 

だから私はそこに通っていた時に、何でもかんでも自分のせいにして

……だって実際、講師に「貴方が悪いんですよ」「貴方のせいですよ」と言われますんで

それで天気も地震もテレビのニュースも何もかも自分のせいにして

散々自分を責めまくって自責自罰自己否定の塊になってトラウマ症状発症して

その後、そのトラウマを癒す為に数年費やしたんですけども

 

んでもその自己啓発の講師とか主催者は全く自責自罰しとらんのですよ。

ってか、もし全てを自分のせいにするならば、

私と同様に自責自罰自己否定の塊になってトラウマ症状出るほどになる筈なんです。

しかしそうはならず「自分の望む現実が起こったー」とかハッピーな訳です。

だから講師やってんですけどね

 

当時から私は「なんかオカシイな」と思ってて、だからその自己啓発から離れた訳ですが

その「おかしさ」とは、その講師達が「自分の都合のいいとこしか見てない」からです。

都合のいいとこは自分の思考の現実化で、都合の悪いとこは「別の何かのせい」

それだと「思考現実化」は成り立たない筈なんですけどね?

 

ここで「悟り」の話になりますが

「世界は自分」というのは真実です。全ては自分自身であります。

 

とはいえ

 

貴方の心臓は、貴方の意志で動かしてはいませんよね?

貴方の呼吸は貴方がいちいち制御してませんよね?

「今日は息を止めよう」とか出来ないですよね

 

「世界」もそれと同じ事です。

「世界」は全て「自分」ですが、自分の思い通りにはなりません。

それは「生命(空・宇宙)」という神の意志で全て動きます。

 

んじゃ「私」とは何なのか?

真実を言うなら「気づき」です。何もすることは出来ません。

現に貴方は自分の心臓とか動かしてないですよね!

いちいち目の瞬きを制御しないし歩くときに右足出して左足だしてとか考えないし

 

つまり

 

「自分が制御できるものなど何もない」と理解するのが「悟り」なんです。

 

そもそも貴方は「思考」を制御できませんよね。

どんな思考が浮かんで来るかを「浮かぶ前に」考える事は出来ないです。

ガチャと同じく「出て来るまで、何が出て来るかわからない」

 

実は「思考現実化」とか「引き寄せ」というもの、つまり

「全てを自分の思い通りにしよう」というのは

もしそれが可能であるならば、自分の心臓の鼓動や呼吸まで

もっと言えば他人も天気も宇宙の星々も全てを自分の思い通りにできなければ

「全ては自分」とか「世界は自分」とか「引き寄せ」は成り立たない筈なんです。

 

……「悟り」とは、

「世界は自分」ではあるけれども

「自分の意志(全体から分離した個人の独立した意志)で思い通りに出来るものなど、何も無い」

「全ては神の意志だ」という理解、だから、「自我の死」なんです。まさに「死」なんです。

 

現に、何回も言うけど貴方の命は貴方の意志でどうにか出来ないんですよ。

 

で、全ては自動的に勝手に起こっているならば

 

「全てにおいて、貴方の責任は何も無い」んです、が!

 

ただし「悟りの理解」が甘いまま(未成熟なまま)だと

「じゃあ自分は何でもやっていいんだ」とか

「他人なんかいないし好き放題していいんだ」とかなる可能性はありますが

……現に「世界は自分だから思い通りにしよう」っていうスピとかは

上記の理解を元にやってる節がありますが、それは単に理解が未成熟なだけです。

 

本当に理解が深まると「起こる事は起こる」

「何が起こっても神の意志」となって来るので

「自分の思い通りに」なんて思わなくなるからです。

 

ただこの「起こる事は起こる」というのを受け入れるには

自我の成熟が絶対的に必要で

そうでないと「こんな嫌な事が起こるのは嫌だ」とか

「絶対成功したいんだ」とかで「起こる事を受け入れたくない」からです。

 

だから、自我の成熟が必要で、その為に色んな事が起こるんです。

逆に言うと、神が鍛えてくれてる訳ですね。自然ってそういうもんだし。

 

なので一見「問題だらけ」に見える事は実はそれで良い事だったりします。

そもそも良いも悪いもへったくれも、「悟り」の理解が深まると

 

個人がそれをやっている訳では無い事が、わかってくるからです(汗)

 

神が、宇宙がそれを起こしている、それが自然に起こっている。

だからそれでよい、となってしまうんです。

「思考現実化だ」とか「引き寄せで幸せになるぞ」とか

「望み通りの現実を作ろう」とか

全部、宇宙がそれをその人にやらせてんだなーという視点になってしまうんで。

 

その人々がそこから成熟するのかどうかとか全部、神の手にあるんで

何がどうでもそれでいいんだなと……つまり、そういう事なんです。

 

……何だか知らんがこんな文章が浮かんだので書きました。

貴方がこのブログを見るのも偶然ではないんですよ。ウインク

今日の記事はちょっといつもとは違うかもです。

適当に読み流しといて下さい。

 

最近つくづく分かった事は、世の中には様々なスピ本や悟り本があるけれども

それは「その段階に来ないと理解できないから」だ、という事で

だから色んな事を言う本があり、それを書く人が居るんです。

 

小学生が大学生の本を読んでも理解できないが

大学生になった時にはその本の内容が水を飲むようにスルスルと分かる

 

小学生の時には小学生の為の本を読み、理解すべきなんです。

小学生の時に大学生の本を理解する必要は無いし、分からないと悩む必要も無い

 

だからまぁ、ウチのブログはその過程そのものを表しているというか

そういう事になってしまったんだけども

 

 

何はともあれ全ては、ただ起こっている壮大なストーリー……

 

 

これが分かって来ると、人によってどんな感情が起こるかすら選択肢は無いんだけれども

私の場合は寂寥感ですね。

 

とりあえずこのブログ。なぜか「原初の星の物語」というタイトルですけども

……なんて絶妙なタイトルなんだろうと思います(汗)

だってそれそのままやん……orz

 

このブログに書いてある事も、「紺碧の採掘師」も、全く同じでして

もっと言えば、まぁ、「全てが」物語なんですよ。

神が、宇宙が、大自然が創造した壮大なストーリー

 

 

「悟り」というものは、一気に飛躍するものではなく

つまり一瞥体験とかで一気に「悟り」というものに到達する訳では無く

……いや一気に飛躍して「悟りきる」みたいな人は、いるとは思うけれども

もしそれが起こったならそれは、壮絶な大衝撃というか

「死」です。真面目に「死」なんです。それは。

 

ちなみに思考が完全に止まってしまうと自我の死です。

だから自我は思考を止めたくは無いんです。

だって自我は死にたくないからです。

 

これがよく分かるのは、物語を作ってる時なんですよ。

何のセリフも無い状態なら誰も居ないんです。

 

だから、徐々に、少しずつ少しずつ、進んでいくのが楽というか何というか、なんですが

どんな風に悟っていくのか、進んでいくのかすら、選択の余地は無いという。

「ゆだねる」とか言いますが、それすら選択の余地は無いんです。

 

 

逆に言うと

神が、全体が、貴方をそのようにしているのだから、全てそれでOKなんです。

誰もが完璧に愛されていて、起こる事は全て完璧でOKなんです。

どんだけ自我が「嫌だ」と抵抗したとしても。

その「抵抗」すら問答無用で、貴方そのものだから、それでいい訳です。

何がどうでも貴方は貴方であればよい、という事なんです。

 

今日の記事は、細かい説明無しでダイレクトに書きました

正しく言うと「書く事が起こった」って事ですけども(笑)ウインク

五輪の記事を見て非常に興味深いなと思うのは「食」についてです。

なんか東京五輪の食は素晴らしかったという記事が多々ありますね。

他国と比較して初めて分かる自国のすばらしさ、なんですよ。

これぞ「鏡」という事です。

 

自分の事は自分では分かりません。

「当たり前だ」と思ってる事は評価できないんです。

 

だから、世界には多様性があり

「比較」によって違いが分かるようになっています。

二元性の対極はその為のものです。朝があるから夜が分かる。

 

五輪関連の記事を見てると日本のトイレ事情の素晴らしさも分かりますね!

当たり前に綺麗なトイレに行って、当たり前に用足し出来る事が

実は素晴らしい事だったという。

 

東京五輪の時を思い出すと、逆に、他国の方が日本のトイレに驚いてましたね。

「このボタンは何なんだ!」という海外の記事も見た気がします。

逆に、海外のトイレを見ると、日本人からすると「どうやって用足しするの?」ていうトイレもあります。

 

 

ネットニュースの色んなコメント見てて何となく思うのが

日本人って他国の方より自己否定が多いんじゃないかな……

だってガンガン自己主張して自己権利を主張して当然みたいな国柄じゃないし。
 

…エックハルトが以前、動画で、悟りの道は色々あるが、個人によって合う道、合わない道があるから自分に合うのをやれって言ってたけども、それ納得しますね。

個人主義バリバリ観念のお国柄の人々と、謙虚と奉仕の精神が美徳な日本人では観念が全く違うので……例えば個人主義バリバリの国の方には「ワンネス!全て自分なんだから自我(エゴ)はダメ!」みたいな事を声高に言った方がバランスが取れるだろうし、日本人には「自我を立てよう、個も大事」みたいな事を言った方がバランスがとれる。

 

私が昨日書いた記事では「自分のネガな面を受容しよう」って事を強調して言ったけど、全てはバランスなので「自分のポジな面」も受容するのが大事、しかし私も含めて日本人はコレが苦手っぽい気がする爆  笑

 

他国の方が「鏡」となって見せてくれてんだから、しっかりと「自分の素晴らしさ」も受け入れようね!日本人が当たり前にやってる事は実は素晴らしかったりしますんで。

そういや少し前の記事でこういうのを書いたな

 

「お辞儀」とか「申し訳ない」とか、他国の人から見たらメッチャ礼儀正しく他人思いなのにそれを当たり前にやっている。

 

それは即ち「貴方の素晴らしさ」なんですよウインクニコニコ

さて今日は、前回の記事のこの部分について、深く掘り下げてみようと思います。

その全体性が分かっていないというのは、どういう事かというと
自分の全体性が、分かっていない、という事なわけですね。

 

しかし思うんだけど自分の記事より中野さんの動画の方が分かりやすいっていう(汗)
私が書くと、ちと小難しい感じになるような気もするがまぁいいや!

 

って事で「自分の全体性」とは何かというと「全てが自分だ」、つまり

「全ては自分の鏡だ」という事なんです…ってそういえば以前こんな過去記事書いたな。。


鏡を見た時、そこに自分が映りますよね(普通一般の意味で)
鏡には自分の身体が映ってますが、その全てが自分の身体であり
「こんなの自分の手じゃない!」とか「こんなの自分の顔じゃない」は自己否定ですよね?

同様に、貴方の感情も思考も「空」という鏡に映った「自分」なんです。
もっと言うと全てが「空」という鏡に映った「自分」です。
だから「こんな感情は自分じゃない!」「あんな人は自分じゃない」等の全てが自己否定なんです。
なので「一旦、全てを自分のものとする」が出来ないと「全ては自分ではない」も成立しません。

詳しく解説すると

我々の本質は空に発生した「気づき」なんです。
言わば「空」と「色」の間にあるものです。

例えて言うなら「スクリーンに映った映画」があるとして
誰かがそれを見なければ、映画は認識されません。
誰も見ないならその映画は「無い」に等しい。

誰かが 映画を 見て 初めて「スクリーンに映った映画」というものが認識されます。

その「誰か」という観客、「気づき」が、我々です。

「空(スクリーン)」に映った「色(映画)」を「認識する者」です。

その「気づき(認識する者)」として

「空(スクリーン)」の側に立つなら「全て(映画)を自分としない」となりますし
「色(映画)」の側に立つなら「全て(スクリーン+映画)を自分とする」になります。
なぜなら映画はスクリーンが無いと成り立たないからです。基盤は「空」です。

 

「この部分は自分だけど、この部分は自分じゃない」は成り立ちません。


 

ちなみにkindleとか見ると「ノンデュアリティ(非二元)」の本が色々ありますが
「非二元」=「分離は無い、全ては一つ」は「二元性(個人)」とセットです。
たまに「非二元」重視で「二元」を否定するものがあったりしますが
それだと単なる自己否定になってしまう可能性があります。


「非二元」=「全の立場で生きる」
「二元性」=「個の立場で生きる」

全と個はセットです。全ては対極で存在するので両極を受け入れねばなりません。
だから「この部分は自分だけど、この部分は自分じゃない」は悟りにおいては成り立ちません。
しかし普通、人は誰もが「この部分は自分だけど、この部分は自分じゃない」をやっています。
なぜならいきなり「全部自分だよ」って言われても受け入れられないからです。

「あのクソ野郎も自分とかふざけんな」
「あんな素晴らしい方が自分な訳が無い」

とはいえ「全ては自分の鏡」なんです。「空」という鏡に映った自分。
ここでババーンと心理の華々しい出番なんですが

「人の数だけ世界があり、一つの世界には貴方しかいない」

映画を見た時、そこに映っているのは単なる画像、映像、色と形ですよね?
そこに音楽やセリフ、ナレーションなどが入って物語になっていますが
 

例として、例えばそれが貴方が理解できない言語だったとしましょう。
貴方が初めて見る国の、未知の種族の、未知の言語の映画。
良く分からない建物や、食べ物、生活習慣が出てきます。

「ナンダコリャ?」

貴方は自分の知っている日本語で、貴方の育った地域の生活習慣、貴方が幼少期から培った観念で、その映画を解釈しようと頑張ります。「これはこういう事なのかな?」「多分あれは、こういう仕事をしてるのかな」「ああ、あれは挨拶なのか」

つまりそれが「世界は貴方の鏡」という事なんです。

貴方がその映画を見て「こういう物語だったんだろう」と思った事は
別の国の別の種族の人から見れば「ええっ?」と驚くような解釈だったりします。

という事は、とある人の言動に対して「あのクソ野郎」と思った事は、貴方の解釈でしかない、という事なんです。

貴方の中に「こういう言動は自分を馬鹿にしているという事だ」という観念があるから
「あのクソ野郎、俺を馬鹿にしやがって!」となる。

 

また、自分の中にある認識されていない感情が、観念を利用して出て来るという事もあります。

(こういった心理の色々な仕組みは過去記事に多々書いてあるので割愛します)

ここで自我の器が育っている人は「ああ自分の中にこんな怒りがあるのか」とか
「自分は馬鹿にされた悔しさがあるんだな」とか「内省」をします。自分の内側を見ます。

しかし自我が未熟な人は、(子供を見ると分かると思うんですけど)
「苦しみ」に耐える力が無いので「僕のせいじゃない!あいつが悪いんだ」となります。

自分の内側の苦を見る力が無いから、外側のせいにするんです。

SNSを見ると他者への非難が多々ありますね。

あれは実は他者を否定(攻撃)しているようで、実の所は壮絶な自己否定と自己嫌悪なんです。

逆に、生育環境によっては「何でも自分が悪いんだ」と他者が投げたものを取り入れてしまう自己犠牲パターンの方が居ますが(私がそれですが)
しかし「自分のせいだ」という内側向きなだけ、完全に他者のせいにしまくる人よりは自我が成熟はしています。

とは言っても他人の投げたゴミを受けて処理してあげてると、

他者は全く成長しないし、何より自分自身が疲弊するので
自己犠牲的な人の課題は「自他の境界線を確立する事」です。

なぜなら、そもそもなぜ自己犠牲してしまうのかというと

「そうしないと自己価値が無い」とか「嫌われる」とか
「人の望み通りにしないと見捨てられる」恐怖があるからなので

その恐怖と向き合いつつ他人にNOを言う、自己主張が出来る事が
自我の器を広げ「自分の全てを受け入れる」という事だからです。



そうやって自我の成熟が進んで初めて
「どんな思考や感情も、解釈を挟まずただ感じて流せる」ようになって行きます。


前回の記事で、中野さんが動画で言ってた

本来、瞑想というのは自分の中に存在しているあらゆるものを、頭で判断しないで全部ありのまま見て受け止めていくというものなんですね。

これが「全として生きる」という事ですが

自我の成熟が無いと「ただありのまま観る、ありのまま感じる」はちと難しいです。

なぜなら思考が納得できなくて「自分は悪くないのに」とか「でも嫌われたらどうしよう」とか
どうしても考えてしまうからです。

であれば、リフレーミングでもナラティブでも心理療法でもスピでも何でもいいんですが

「思考を納得させる」のが有効です。
または「感情エネルギーそのものに働きかけて解放させる」という手もあります。
(FAP療法とかね)

何にしろ「癒し」を使って自我の成熟を進ませようという事なんです。

自我の成熟=「自己受容の器が広がる」と、どんな感情もただ感じるとか思考をただ観るがやり易くなります。それで「悟り」の状態に近づいて行きます。



という事で、まとめると、

世界というのは「空」というスクリーンに映った「単なる映像」なんですね。
そこに、貴方がどんな意味付けをしたかが「鏡に映った自分」という事なんです。
 

貴方が「観客」として「ただ観る」が出来るようになるには「全てが自分の鏡」を受け入れる事が必要で、少しずつ少しずつそれが出来るようになって行くと、徐々に「自分という映画」をただ観て楽しめるようになっていきます。
 

とは言っても。

 

……貴方は「気づき」であり、思考も感情も五感も、自動的に起こってるんですウインク

 

貴方は「観客」であり、全てのストーリーも映画も、もう既に完成しています。

全ては完璧に与えられています。

だから「全てを受け入れようね」なんですニコニコ

 

最後は中野さんの言葉で締めよう。

今そうなっている事は必要だからそうなっているんだっていう視点、 
今はそれでいいんだっていう視点、そうなっている自分すら、ありのまま認めて自分を愛していく。そういう事がね、すごく大事です。