看護の日スペシャル 60分de名著『夜明けがくる』 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

報告の順番が前後してしまいましたが、5月11日、翌日の看護の日にちなんだオンライン学習会、「看護の日スペシャル 60分de名著『夜明けがくる』」に参加しました。

講師は岡山県労働者学習協会の長久啓太先生でした。

以下、その概要をまとめます。

 

『夜明けがくる-立ち上がる看護婦たち』は、新潟県立病院での二・八闘争の記録だそうです。

二・八闘争は、夜勤について人間としての権利を保障されることが、患者や住民の権利の擁護に結びついているという、公憤に基づいての闘いだったそうです。患者や住民とともに闘争を展開したことが特徴であり、全労働運動に輝かしい指針となるものだと述べました。

長久先生は2008年に読了し、感動してブログに紹介記事を書いたそうです。

 

なお、現在では「看護師」の名称が用いられていますが、当時の表記に従って「看護婦」という名称を使用するとのことでした。

 

第一に、看護婦の喜びと悲しみと願いについてです。

1965年12月27日の早朝、34歳の看護師が亡くなったことが始まりでした。異常分娩での出産後、入院中に倒れ、一人で亡くなっていたのが発見されたそうです。

彼女のお葬式で、横山分会長は職場を代表して弔辞を読むことになっていましたが、涙があふれてとても読めなかったそうです。その弔辞には、「必ず夜勤を制限させます」という決意が書かれていたそうです。

同僚たちは、二人目の子どもの出産、家を建てた直後の、看護婦になって15年目の死に、涙を流して悔しがったそうです。

背景には、あまりの非人間的な看護婦の労働実態がありました。

終戦直後からひどい状況で、全寮制、通勤の禁止、結婚したら退職といった非人間的な労働条件の数々は徐々に改善されてきましたが、夜勤だけはひどいままだったそうです。「人減らし合理化」により、月の半数を超える無制限の夜勤回数、一人夜勤といったあまりにも「人並みではない」労働実態と生活が続いていたそうです。

『夜明けがくる』には、「新潟県立病院における看護婦夜勤制限のたたかいは、こうした息苦しい現実を土台にしてはじまったのである」と書かれているそうです。

ニッパチ闘争の前触れとして、1985年に「44闘争」と呼ばれている闘いがあったそうです。

これは、県立病院の看護師の勤務時間を週44時間労働にさせることを要求した闘いだそうです。当時は週48時間労働の慣行がありましたが、土曜日半ドンを勝ち取ったそうです。

県職労の定期大会で方針を決定し、「業務カット」という実力行使を行なったそうです。

1960年、全国的な医療労働者統一闘争が行なわれ、3万人がストライキに参加したそうです。

新潟県立病院は、増員を勝ち取ってきた経験を蓄積しており、17病院で個々に、「要求通りの配置を認めないなら新病棟は開設させない」とした交渉や、がんセンターでの自主的二人夜勤などで、増員要求を認めさせてきたそうです。

医療上増員が必要であるという具体的事実をつきつけ、「実力で勝ち取る」交渉をしてきたそうです。

ここで【教訓1】として、どんなたたかいも、そこにいたる「経験の蓄積」、「成功体験」、「職場でのたたかいのキモ」を得ていった土台(力の蓄え)があるということが指摘されました。

 

1967年夏、県立病院看護婦のたたかいは、夜勤制限という本丸へ攻め込むことになったそうです。

1965年に全医労の夜勤制限に対する人事院の「判定」で、「平均月8日以内とすることを目指すべき」とされたことをテコに、1967年夏の県職労医療部会の常任幹事会において看護婦の夜勤について議論が行なわれ、「44闘争」のように実力をもって勝ち取ることを目指し、「月8日以上は夜勤をしない」という方針が決まったそうです。

1967年10月の第11回医療部会総会において、片桐公企部長が「夜勤を制限することは、看護婦の命と健康を守ることである」、「これは直接的には看護師の要求であり、看護婦という職業を、子どもが生まれても働ける職業として確立することである」、「これは、真の介護とはなにかを考え、真に患者に目を向けるたたかいへとつながっている」と語り、患者のための闘いでもあることを提起したそうです。

実力行動の計画は、労働組合が1人夜勤を2人夜勤として勤務表をつくって実施すること、夜勤が月8日以上を超えたら夜勤につかないこととしたそうです。

方針のなかには、「いくつかの分解では、職場闘争の結果、病院局のいう基準を上回って人員を獲得している。(中略)その推進力は、『その人数がいなければ、医療がこのように破壊される』という具体的事実のつみあげである。これは闘争の重みをもつものである」と書かれていたそうです。

この方針は職場で大きな反響をよびましたが、「夜勤制限は必要だが、実力でたたかうなどとんでもない」というのが多くの職場の反応であり、「もう少し別の方法はないのか」という受け止めが大半だったそうです。そこで、職場集会と職場オルグを徹底的に積み重ねたそうです。

闘争ポスターに載せられた詩には、「人が寝るときに起きて働く生活/これがどれほど看護婦の体を蝕んでいることか/胃腸障害、貧血、妊娠障害…が/組合の調査に記入された/そのペンの跡も痛々しい」、「病気を治す病院で/病気がつくり出されているこの事態を/わたしたちはだまっていられない」、「その元凶「一人で無制限の夜勤」を/みんなの力でやっつけよう/一人ひとりが決意しよう/「八日以上の夜勤はしない」ことを/看護婦を「子供を生んでも働ける職業」として確立するために/婦人労働者の社会的権利獲得のために」、「人がいる 人を増やせ/患者のために/看護婦の人間解放のために」、「勇気をもとう/明日の幸せを切り開くための/今日の勇気を」と書かれていたそうです。

【教訓2】として、執行部が腹をかため、何がなんでも取りに行くという構えで方針を練り上げていったこと、また大きな戦略は出すが、現場の看護婦が立ち上がらなければ勝利はないと、徹底的に現場の労働者自身に議論をうながし、戦術を考える方向での努力が進められたことで、全体の確信と熱量があがっていったと指摘しました。

 

1968年2月10日から11日にかけて、県立病院労組定期大会が行なわれ、県職労の佐藤委員長が「たたかいの4つの性格と2の特徴」について説明したそうです。「たたかいの4つの性格」とは、第1に増員のたたかいであること、第2に権利をまもるたたかいであること、第3に医療をまもり、医療のあるべき姿を示すたたかいであること、第4に法律をまもらせるたたかいであることがあげられました。「2つの特徴」とは、第1に実力でたたかうこと、第2にその戦術が職場=病棟ごとにまちまちであり、1人ひとりの積極的な行動なくしては成功しないたたかいであることがあげられました。

146人の代表が熱心に参加したそうです。

第1波は3月1日からとし、二人夜勤の勤務表をつくり、実施することになりました。

第2波は、8日以上の夜勤は切り捨てることとしました。その穴埋めは、組合間の支援で行なうこととなりました。

「穴」を巡る議論は、10日の全体集会後の分散会で行なわれ、不安の意見は多く出されましたが、誰1人実力行使は駄目だとは言わなかったそうです。

集会のまとめとして、「団結とは、人を信頼することである。たたかいの勝利は団結の度合いによる。実力行使にあたって、いろんな討論があり、困難につきあたるかも知れない。そのときに、仲間を信頼しよう。ときどき意見が違っても、同じ夜勤の苦しみを味わっている仲間であることを。…人はみんな同じように自覚しない。それは不均等である。しかし、労働者なら必ず要求と行動は一致するものであることを固く信頼しよう。組合も、すすんだ分会、遅れた分会、自覚した人、まだそこまで達しない人-いろいろな状況の中で、夜勤で苦しんでいる人たちなら、必ず立ちあがってたたかう力をもっていることに不動の確信をもってたたかう。患者も、医療破壊の同じ被害者である。話をするなら、必ず支持してくれることに確信をもとう。…勇気をもとる。明日の幸せのために、今日の勇気を」との発言がされたそうです。

まとめに続いて、県当局への「実力行使の通告の決議」、「全国の医療の仲間へのアピール」が満場の拍手で確認されたそうです。

1968年2月11日には、「新潟県内医療労働者総決起集会」が開かれ、400人が参加したそうです。そこでは、県立病院の看護婦のたたかいが報告され、保安要員の支援協力の訴えが行なわれたそうです。

看護婦の渡辺アイ子さんは、帰宅後に夜中の1時でしたが夫に感動を伝え、「私もこうしちゃいられないという気持ちだ」と述べたそうです。

【教訓3】として、闘いの体制をつくるピークとして、「集会」を組み、それを大きく成功させたことで、全体の熱量が爆発的にアップし、「集まる」ことで執行部が予想もしない効果、新しいたたかいの担い手を生み出していったと指摘しました。

 

集会を受け、各病棟ごとの議論・方針の具体化が進められました。

なかなか議論がすすまなかった加茂病院では、ガンセンターの渡辺静さんが集会に参加し、「二人夜勤制と月8日の夜勤という要求は、私たち看護婦の要求です。看護婦にかわって、たたかってくれる人などいません。(中略)ガンセンターでは、いま二人夜勤をやっていますが、ただの一度だって上から命令されてやったことはありません。私たちが、みるにみかねてやったんです。(中略)真に患者を守り、医療を守っているのは、私たち看護婦です。病める患者さんのために、少しでもいい看護がしたい。それを妨げているのは、誰でしょうか。実力をもってたたかうのは、それを妨げている人たちに早く頭を切り変えてもらおうというのです」と述べたそうです。

彼女が看護婦の心をもって伝えたことで、加茂病院の仲間たちもみずからの手で勤務表を組んでいったそうです。

【教訓4】として、看護婦の心を動かしたのは、同じ立場や思いで働く看護婦の言葉であり、他の誰も代われない、自分自身の奥底から湧き出てくる思いと決意は、多くの仲間の胸を強くゆさぶったと述べました。

川嶋みどり先生は著書『歩きつづけて看護』の中で、「闘いを通して、看護婦として、1人の人間としての自分の生き方をふりかえる機会となった」と書いているそうです。

 

1968年2月21日、新潟県庁の病院局長室で集団交渉が行なわれたそうです。

あまりにも実態を知らない当局に対して、交渉団は病棟ごとの現場の看護婦から実情を語ってもらうこととし、次々と看護婦が発言したそうです。15分の休憩の後も当局の答弁は変わらず、さらに現場からの発言が続いたそうです。

六日町病院の仲間は、交渉前に組合の役員を処分すると脅してきた当局に対して、「役員を処分するなら退職の戦術を決行する」ことを決め、連判状までつくっていたそうです。

看護婦たちは、「私たちは看護婦として当然やるべきことができずに苦しんでいる」、「手足の動かない患者のことを考えてください」、「患者をもっと人間らしく扱えるようにしてほしい」、「準夜でも食事もとれない」などの発言を行なったそうです。

涙なしでは聴けない告発が続き、佐藤委員長は「医療といのちを守る真実のこえが、患者のためにという立場から共通して出された。もはや労働争議などと片づけられない重要な問題がふくまれている。この問題は、県民に責任を負う局長という立場で考える必要がある。休憩して、もういちど考えたらどうか」と促したそうです。

交渉が始まって7時間、やっと局長は前向きの姿勢で検討するという態度を示し、「組合の要求は当然であるので、実施するように努力する」、「そのための実施計画案を、早急に組合に提示する」、「そのため、院長会議や衛生部長、財政東京など関係当局と折衝する」という3つの提案をしたそうです。

この交渉は、「見知らぬ顔」の看護婦が主人公だったと述べました。つまり、これまで組合に要求を出したり、会合や交渉に顔を出したりしたことがなかった看護婦たちが、自らの言葉で現場の真実をぶつけたということです。

【教訓5】として、動かしがたい、人手不足からくる現場の「事実」と「窮状」、それをリアルに語ることができるのは現場の労働者であり、その事実の力ことが、現実を動かし、また、仲間の心を動かしたということが指摘されました。

 

ひろがる共闘の波は、保安体制づくりへの取り組みにつながったそうです。「共闘連絡会議」がつくられ、夜勤の空白を埋めるために近くの病院を支援する働きかけが行なわれたそうです。

「共闘」の高まりは、県立病院労働者のたたかう体制づくりをより強固にすることにつながり、地域の労働組合、患者や患者会などにも協力がひろがり、たたかう体制と団結は急速に固まっていったそうです。

そして、3月1日からの実力行使突入は、二人夜勤制への切り替えは25病棟、三人夜勤制への切り替えは6病棟になったそうです。

【教訓6】として、要求実現するために、「誰が闘うのか」、「どのように闘うか」、「支援者は誰か」を明確にし、共闘の輪を広げ、世論も変えていったと指摘しました。

また、これはコミュニティ・オーガナイジングの手法で、戦略づくりの最初の質問、「誰が立ち上がるのか」、「誰をエンパワーメントするのか」と同じであり、集会を行ない、闘いのエネルギーを高めていくことも共通していると指摘しました。

 

2・21交渉後も、県当局との交渉は何度も行なわれていましたが、回答は抽象的で、医療の危機の事態を解決する意思を感じられるものではなかったそうです。

2月29日、闘争本部は「実力行使」の声明文を発表し、3月1日から実施されることになりました。

3月1日午前0時30分、ガンセンター外科病棟では3人夜勤が実施されるのを、NHKのカメラが入って報道したそうです。小出病院では、「2人になったら何をやるか」を書き込んだノートを握って、2人夜勤に入ったそうです。このように、このたたかいは患者さんへのケアをより豊かにする闘争だったのです。

新発田、加茂、吉田では、患者が闘争後援会をつくり、組合が予想した以上に看護婦を増やしてほしいという思いを持っていたことを示したそうです。

3月1日15時、県人事課長から組合に「副知事に会ってほしい」という連絡が入り、翌2日午前10時から交渉を行なうことになったそうです。

3月2日も、引き続き各病院は組合ダイヤで勤務し、商業新聞はいっせいに組合を支持する論調を示したそうです。

副知事との交渉は、午前10時、午後2時、4時と、断続的に行なわれ、最終的に病院局は組合要求を全面的に認める「覚え書」に調印したそうです。実力行使突入後、63時間で、組合の全面勝利の労働協約を勝ち取ったということでした。

5月11日、全国から看護婦が新潟に集まって集会が開かれ、新潟のたたかいを今度は全国でやろうと確認したそうです。

そこで、新潟の代表は、「どうして豆腐が石に勝ったのか、そのわけを、私たちはこう考えています。だれもが否定できない医療破壊の事実の前に立って、人間的な怒りをかきたてたこと、病院の看護婦でなく、患者の看護婦としてそれを告発してたたかったこと、仲間を信頼し、組合を信頼し、患者を信頼してたたかえば、豆腐が石に勝つことが出来るんだと確信しました」と述べたそうです。

こうして、新潟の「ニッパチ闘争」は全国に広がっていき、労働協約を勝ち取ったそうです。

『夜明けがくる』の結びの文章には、「看護婦たちは、全国へ散っていった。タンポポの花が、空をとんでおりたところで必ず花を咲かすように、全国のいたるところで、看護婦の、医療労働者の良心からの叫び、『医療の守り手』としての火を吐くたたかいが必ずはじまる。新潟のたたかいは、そのときほんとうに勝利するのだ。私たちの夜明けは必ずくる。その夜明けへの大きな一歩が、いまはじまったのだ」と書かれているそうです。

この本が発刊されたのは、驚くべきことに1968年6月25日、つまり、闘争が行なわれたその年だということです。そのため、闘争の熱量がそのまま伝わる本となっているとのことでした。

 

以上で報告を終わります。