2026年は、正念場の年です。
医療・介護・福祉の制度改悪と負担増にストップをかけ、防衛費倍増をやめさせて庶民の生活を豊かにするために税金を使わせ、外国人や社会的弱者を敵視して真の闘うべき相手から目をそらさせる誤魔化しにだまされず、核抑止の矛盾を明らかにして核兵器禁止条約を批准させ、全産業平均よりも何万円も低い医療・介護従事者の賃金を改善し、最低賃金を大幅に引き上げ、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。
5月23日、原水爆禁止埼玉県協議会(以下、埼玉原水協)の2026年度総会に参加しました。
以下、総会で行なわれた記念講演の概要をまとめます。
講師は日本被団協代表委員の田中煕巳さんでした。
田中さんは1932年生まれで、今年94歳になられたそうです。
埼玉県に住んで30年になり、その前は仙台に37年間住み、宮城県原水協と宮城県の被爆者の会で活動されていたそうです。埼玉県に来てからは、日本被団協の仕事が忙しくて埼玉県原水協にはあまり関わって来なかったそうです。
本日講演に呼ばれたきっかけは、一昨年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことだと述べました。日本被団協が受賞したのは、核をめぐる情勢が厳しくなったからだと指摘しました。受賞後、さらにトランプ大統領がとんでもないことをやり、核をなくせという声よりも核を利用しようという声が高まっていると述べました。もしかすると、自分が生きているうちに核兵器が三度使われることがあるかもしれないと思うようになっており、人間は自らがつくったもので自らを滅ぼす道を進もうとしていると思われると述べました。
田中さんは工学の仕事をしてきたそうですが、それは人間の生活を豊かにするものだったが、今はむしろ不必要なものを作り出して人間の生活を壊そうとしているのではないかと述べました。
三度核兵器を使わせないために活動をしている中で、「核兵器は兵器ではない」という話をしているそうです。核兵器を使いあう戦争とは何なのかということを考えなければならないと述べました。核兵器は悪魔の凶器であり、たった1発で数十万人を殺すものであり、そんなものはあってはならないというのは当たり前のことだと述べました。
しかし、大部分の人はそう考えていないと指摘しました。「核で武装した方がいい」、「核で守ってもらった方がいい」ということが平気で言われていると指摘しました。
核をなくすためにどうすればいいかと毎日話し合っていかなければ、そう遠くない将来に核兵器が使われてしまうかもしれないと述べました。
指導者だけを見ても、ロシアのプーチン大統領が出てきて、とんでもないことをやっても国の中で誰も止めることができないと指摘しました。アメリカではトランプ氏が大統領となりました。これまでアメリカは民主主義で、日本人はアメリカに頼っていいのではないかと考えてきたし、いい文化も社会もあると述べました。しかし、そのアメリカからトランプ大統領が出てきて、彼は商売人で、自分よりも弱い国へ自分に有利な条件を押し付けていると指摘しました。
NPT再検討会議は、イランに対して核兵器を開発、取得してはならないと求める文言が保留とされ、最終文書が合意できなかったそうです。
アメリカの国民にも、もう少し頑張ってほしいと思うと述べました。
田中さんは13歳の時に長崎で被爆したそうです。中学1年生の時です。
4月に入学しましたが、その時には沖縄に米軍が上陸していたそうです。アメリカは東南アジアの国々を日本から取り戻し、本国へ向かって来ようとしていたそうです。
当時、中学の3学年は工場で就労し、2年生は学校につくられた工場で作業し、1年生は外で作業していて、授業は1週間に1回あるかないかで、空襲警報があれば山へ逃げるという毎日だったそうです。
6月には米軍が沖縄を占領し、九州上陸に備えるようになったそうです。そうした中で原子爆弾が使われました。
それ以前に、日本の大都市はほぼ空襲を受けていたそうです。今の学生には、東京空襲しかなかったと思っている人がたくさんいるそうですが、大都市のほとんどは焼け野原だったそうです。
田中さんは父親が軍人だったので軍国少年で、米軍が来たら戦って死んでやろうと思っていたそうです。
そういう中で、広島に新型爆弾が落とされたという報道がありましたが、どういうものかはわからなかったそうです。その3日後、長崎に原爆が落とされました。
当時、一機だけで爆撃をするとは考えられず、爆撃機は連隊で来るものであり、一機だけで来たので偵察だと思ったそうです。
田中さんは爆心地から3.2kmのところで被爆し、家が壊れ、ガラス戸の下敷きになりましたが、ガラスが割れなかったので助かったそうです。
その時は爆心地がどうなったかはわからなかったそうです。午後になって、大火傷を負って逃げて来た人たちを見て、大変なことになったと思ったそうです。
爆心地から700mくらいのところに田中さんのおばさんたちが住んでいて、5人が10日以内に亡くなったそうです。
大変な被害を受けているだろうと思ったそうですが、爆心地の方へ入れたのは3日後で、母親と2人で向かうと、爆心地までの道には何もなく、中身がなくなったコンクリートの建物だけが残っていたそうです。浦上天主堂はガレキの山になっていたそうです。
おばさんたちとたまたま東京の大学から帰って来ていた孫は家の下敷きになって焼け死んでいたそうです。
原爆は地上ではなく上空で爆発し、爆風が下に向かったので、周囲1kmくらいの木造の建物を全て押し潰したそうです。
もう一人のおばさんは、大火傷を負って息を引き取っており、おじいさんは大火傷を負ってうずくまっていたそうですが、間もなく亡くなったそうです。助けを求めに行ったおじは、放射線による高熱で倒れ、亡くなったそうです。
そのように、生き延びても家族を失った人がたくさんいたそうです。
長崎では、原爆投下から12月までの間に7万人が亡くなったそうです。強い放射線を浴びた人は、浴びた量の順から亡くなっていったそうです。
広島は平野なので、円形に被害が広がり、14万人が亡くなったそうです。
今、戦争のニュースが流れると、一度に亡くなるのは数百人です。1発の爆弾で何万人も殺すものが兵器と言えるのかと指摘しました。
広島と長崎で21万人が亡くなりました。放射線で亡くなったのが何人なのかは記録が残っていないそうです。
広島と長崎のことだけでも、核兵器が大量殺人の道具だということはわかると指摘しました。
核兵器で国を守るということは、それを使うということだと述べました。それを誰が使うかというと、爆弾を落とした人は命令でやったと言い、責任を持つのは国の指導者ですが、しかし、関わった人は皆殺人者であると指摘しました。
日本は戦後7年間占領されていて、実は憲法も占領下でつくられており、だから押し付けだと言う人もいるが、占領下にあっても頑張ってつくった憲法だと述べました。
被爆者は、その7年間原爆の被害について話すことが禁じられ、報道も禁じられていたそうです。占領政策のためだそうです。
もちろん、当時広島、長崎にいた人は知っていましたが、故郷に戻っても話すことができなかったそうです。
話せるようになったのは、1954年3月1日のビキニ事件からだそうです。水爆実験の放射能によって被害を受けたマグロ漁船の船員のことを知り、日本人は核兵器の被害を知ることになりました。そして、原水爆禁止運動が立ち上がり、3,000万筆の署名が集まったそうです。思想を問わず、日本中の人たちが立ち上がり、日本原水協ができたのです。
その後、原爆の被害者が全国にいるはずだということで、1955年の原水爆禁止世界大会に集まった人たちが、各県に戻ってから被爆者を探し、翌年の長崎での原水爆禁止世界大会に被爆者を連れて集まったそうです。そして、被爆者が団体をつくろうということになり、1956年8月10日に日本被団協が結成されたそうです。
それ以来、被爆者は核兵器をなくすために運動してきたと述べました。
被爆者は国内でも海外でも原爆の被害を訴えてきたそうです。それがノーベル平和賞の授賞理由とされた「核のタブー」をつくってきたと述べました。「核のタブー」が倫理となり、その結果、核兵器が使われてこなかったと述べました。
1985年にも、日本被団協はノーベル平和賞の候補となったそうです。田中さんは当時、大学で仕事をしながら日本被団協の事務局長をしてきたそうです。かなり有力だということで記者会見の準備をしていたそうですが、反核医師の会が受賞したそうです。
次が1995年で、その時はパグウォッシュ会議が受賞したそうです。
2017年はICANが受賞しました。いろいろな国の核兵器反対運動のリーダーたちがつくった団体で、核兵器禁止条約ができたことに力を発揮したということで受賞したそうです。核兵器禁止条約は、内容が立派過ぎて大国はみな反対しましたが、中小の122ヵ国が賛同して2017年7月にできました。
日本被団協はICANには入っていなかったそうです。
ノルウェーはNATO加盟国なので、アメリカに守ってもらっていたから、アメリカが投下した原爆で被害を受けた日本被団協は受賞できないのだろうと考えたそうです。
なので、2024年の時は誰一人、日本被団協が受賞するとは考えていなかったそうです。その日、日本被団協は国会要請行動をしていて、箕牧さんだけが体調不良で広島に残っていたそうです。箕牧さんは高校生平和大使がノーベル平和賞を受賞するかもしれないということで、一緒に受賞者が決まるのを待っていて、受賞の知らせを受けたそうです。
受賞が決まってすぐ、当時の総理が日本被団協に電話を寄越したそうですが、田中さんは買い物に出ていて知らなかったそうです。翌日、総理からの電話を受け、総理は最初に受賞のお祝いを述べ、核兵器は絶対に使ってはならないと考えていると言っていましたが、話しているうちに核抑止は必要だという話になってしまい、一度ゆっくりお話ししましょうと話したのですが、話せないままで首相を辞めることになってしまったそうです。
「核抑止力」などというものはあり得ないと言わなければならないと指摘しました。「核抑止」とは、攻めてきたら核兵器で仕返しをするということであり、「抑止」」という言葉は簡単に言えるが、それによって引き起こされることは何万人もの人を無惨に殺すことであると指摘しました。実態をみなで話し合わなければならないと述べました。
日本には新自由主義がはびこっていますが、普通の人には頑張ってもいいことはなく、自由になるのはお金を持っている人だけだと指摘しました。
あの頃から、労働組合は分断され、競争社会になり、人と人が力を合わせたり、助け合ったりすることがなくなってきたと指摘しました。
技術は進歩しましたが、ここまで進歩させたことがよかったのか疑問に思っていると述べました。
人工知能が進歩し、人間の生活が変わり、助け合うということがなくなっているが、人は助け合わなければ本当に豊かな生活はできないと指摘しました。
助け合い、核兵器廃絶を実現するために頑張っていきましょうと呼びかけました。
以上で報告を終わります。
2026.5.24 赤字部分を修正しました。
(新聞報道を読んだところ、私がメモしたのと逆の意味合いでした。「イランに対して」求めるということを、「イランに対する」と聞き違えてしまったようです)