2024年は、再生の年です。
不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。
そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。
7月13日、風邪をひいて熱があってさんざんだったのですが、労働組合たんけん隊2024の第5講義「労働組合の社会的役割-みんなでつくろう、でっかいパワー」にオンライン参加しました。講師は岡山県労働者学習協会の長久啓太先生でした。
今回の労働組合たんけん隊は、もう何回か参加していて内容がダブルこともあり、新しい講義の時だけまとめをつくっていたのですが、今回のテーマは一般的にあまり知られていない労働組合の側面だと思いますので概略をまとめたいと思います。
労働組合は何にでも首を突っ込む、困っている人のいるところに労働組合は駆け付ける、それが労働組合の本来的役割の一つなのです。
はじめに、憲法で活動が保護されている組織は労働組合だけであり、それは主権者を育てる役割を期待されているからだということが語られました。
1948年に発行された文部省の教科書『民主主義』には、「民主主義の政治は、『国民のための政治』である。しかし、『国民のための政治』ならば、どんな方法で行なわれてもよいというのではない。『上から』の命令によって国民の幸福が増進されえたとしても、それは民主主義ではない。国民自らの力により、国民自らの手によって、国民のための政治を行うのが、真の民主主義である。それと同じく、政治的な野心家や、労働者のうしろに隠れているボスの力によってではなく、労働者自らの力により、勤労大衆自身の団結によって、働く者の生活条件を向上させて行くのが、労働組合のほんとうのあり方である。そういう自主的な組合の活動によって、労働者、自分自身を社会的にまた政治的に教育することができる。その意味で、労働組合は、自主的な組織を持った民主主義の大きな学校であるということができよう。それだから、労働組合の任務は、決して賃金の値上げや労働時間の短縮やその他の労働条件の改善を要求するという経済上の目的だけに尽きるものではない。労働組合は、それ以外に更に社会的・文化的な任務をになっているのである」と書かれているそうです。
1948年といえば、戦後まもなく、まだ国民にとって「民主主義」がうさんくさった頃です。
同書には、「組合は、勤労大衆の自主的な団結であるから、その組織の力を正しく発揮して行けば、民主政治の発達に強い影響を及ぼすことができる。経済民主主義の実現を図る上からいって、労働組合の健全でかつ建設的な政治活動に期待するものは、きわめて大きい」とも書かれているそうです。
現在、政治を忌避する雰囲気がありますが、労働組合が様々な運動をするのはそもそもの役割なのだと指摘しました。
第一に、労働組合の社会的役割として、声をあげられる社会にすることが語られました。
労働組合は、これまでも社会の問題を可視化する役割を担ってきました。
たとえば、1960年代に行なわれた朝日訴訟では、全国の労働運動の支援・協力がありました。これは生存権をめぐる裁判だったからです。
困りごとを自分事としてとらえる、困っている人がいたら放っておかないというのは、労働者としての倫理観であり、それは組合活動の中で鍛えられると指摘しました。
そこに大きな問題があると思ったら関与していくのが労働組合であり、これまでも公害問題、社会保障闘争、平和運動などに取り組んできました。
労働組合は、デモ、集会、署名活動、宣伝活動、SNS発信などを行ない、世論形成に寄与してきました。労働組合は組織率が落ちているといっても、今も約1,000万人が所属し、影響を与えられる組織だそうです。
高橋和之氏の著書『立憲主義と日本国憲法 第3版』には、「集会・結社の自由は、政治的力を表明する手段として不可欠である。国民が政治過程に参加する場合、集会・結社によってその力を結集することが可能となるのである。(中略)集会・結社を通じての表現活動は重要な意味をもつ」と書かれているそうです。
つまり、集会・結社を通じて、人は自分たちの声を届ける、可視化することができるということです。
社会に発信しなければ、ニーズは顕在化しないと指摘しました。その、社会に発信する力とスキルを持っているのが労働組合です。たとえば、労働組合が最低賃金の低さ、格差を社会に発信することにより、最低賃金がニュースになる問題になりました。
言葉を声に出し、書き、共有することで、原則・人権は守られると指摘しました。当たり前の要求も、それを声に出さないと守られないということです。
作家の平野啓一郎氏は2022年2月26日のツイートで、「人を殺してはいけない、戦争をしれはいけない、といった、この世界の根本的な原則が揺らぐ時には、市民の一人一人が声を出し、書き、言葉を通じてその原則を確認し合わなければならない。さもなくば、具体的な破壊だけでなく、原則そのものが破壊されていってしまう」と書かれているそうです。
これは労働条件、私たちの人間らしい生活にも当てはまることであり、あきらめが支配された時、原則そのものが壊されていくと指摘しました。
「声を上げる」、「モノを言う」ことに勇気が必要な社会になってしまいましたが、「おかしいよ」、「何とかしようよ」、「こうしたほうがいいよ」ということで問題が可視化されると述べました。
しかし、そういう存在は周囲の冷めた反応を受けがちであり、「うざい」、「押し付けがましい」、「めんどうな人たち」、「どうせ変わらないのに」などと言われてしまうと指摘しました。
『虎に翼』の脚本家の吉田恵里香さんは『ウーマンタイプ』2024年5月のインタビューで、「この国では長らく『声を上げても何も変わらない』、『一人が騒いでも意味がない』という空気があって。私もその考えを子どもの頃から無意識のうちに植えつけられた世代の一人です」と述べているそうです。
自己責任論の本質は、相手を黙らせることにあると指摘しました。
「自己責任」とは、失業や不安定雇用、貧困などを「個人の問題」としてしまう、その責任を当の個人の努力や能力の不足によるものとし、「上から目線」で投げつける言葉であり、対話は成立しないと述べました。そして、「自己責任論」は「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に近藤させ、支配層・権力にとって不都合なことすべてを「自己責任」に解消することで、社会的・公共的責任を放棄し、隠蔽しようとするものだと述べました。
荒井祐樹氏は著書『まとまらない言葉を生きる』の中で、「そもそも、ぼくたちは『理不尽に抗う方法』を知っているだろうか。誰かから教えてもらったことがあるだろうか。『理不尽に抗う方法』を知らなければ、『理不尽な目にあう』ことに慣れてしまい、ゆくゆくは『自分がいま理不尽な目にあっている』ことにさえも気づけなくなる。『自己責任という言葉で人々が苦しめられることを特に理不尽だとも思わない社会』を、ぼくは次の世代に引き継ぎたくはない」と書かれているそうです。
労働組合は、「声を上げる」トレーニング場として最大にものであると指摘しました。言葉を発し、表現することを通じて人は自己実現をしているのであり、表現の自由は人間の尊厳そのものだと述べました。
吉田恵里香氏は前述のインタビューで、「何より声を上げることを否定してしまうと、『しめしめと思う人』たちがいっぱいいるんだよ、ということを伝えたくて」、「自分に聞いてみるといいと思います。『声を上げる自分と、声を上げない自分、どっちが好きか』って。繰り返しますが、声を上げる余裕がない時はあるもの。だから、声を上げられなかった自分を責める必要はありません。それでも、10年後、20年後に振り返ったとき、声を上げた自分の方が好きだと思えるなら、少しは勇気も湧いてくるんじゃないかな」と述べているそうです。
思っていることを言えないのは苦しいことであり、言わないとわからないことはいっぱいあると述べました。
7月3日に放映された『虎に翼』第68回では、「おかしいと声を上げた人の声は決して消えない。その声は、いつか誰かの力になる日がきっとくる」というセリフがあったそうです。
声を上げるためには、「仲間」と「場」と「練習」が必要だと述べました。特に、今の日本では。
本当に切実な「声」というのは、それを表現できる関係性や場がないと、決して表に出てこないのであり、自分の声を聴いてくれる仲間がいて、はじめて「声を出していい」という安心が育つと述べました。
教育学者の佐貫浩氏は著書『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育』の中で、「主権者性の実現のためには、その関係的空間が主権者性を『出現』させる質をもっているかが問われる。(中略)自己の思いを表現し、他者に伝え、共感しあい、議論し、共に生きることを求める民主主義が働くときに、そこに『出現の空間』が生まれ(中略)生きる場の主権者が現れるのである。そのとき1人ひとりは、生きる世界の矛盾や困難や課題性を感受し、それに応答して主体的に生き、成長する道を選び取るだろう」と書かれているそうです。
つまり、主権者性の実現とは、自分が主体性を持って声を上げていくということであり、民主主義を体験できる場で主権者性が育てられるということです。
ビリー・リー氏の著書『実践 コミュニティーワーク~地域が変わる 社会が変わる』の中には、「力を感じるためには、他者とのつながりを経験しなければならない。コミュニティ感覚、つまり共通の経験や夢の発見、再構築は、無力感を減少させる。またそれは、社会変化を達成する戦いになくてはならない要素である」と書かれているそうです。
そうした、「動いたら変わった」という成功体験を積めるにも労働組合であり、学校教育では学べないと述べました。行動のブレーキになるのが「動くための知識不足」と未経験からくる「恐れ」であり、小さな成功体験を積み重ねることができるのが労働組合だと指摘しました。
労働組合では、会議、企画、集会、学習会、要請、アンケート活動、ニュース発行など、さまざまな行動を経験することできます。
「対話が苦手」という人は、練習が足りないだけであり、1つひとつの対話が練習であり、民主主義のトレーニングだと述べました。
目的に向かって仲間とともにアクションを起こしていく「戦略づくり」は、集団での目標達成のために必要だと述べました。
アリシア・ガーザ氏は著書『世界を動かす変革の力~ブラック・ライブズ・マター共同代表からのメッセージ』の中で、「組織は、運動にとって決定的に重要な構成要素である。(中略)組織とは、行動を起こすスキルを身につけ、法律を変え、自分たちの文化を変えるために組織化するスキルを身につけるところだ。私たちのコミュニティが直面する問題について何ができるかを決めるために、つながるところだ。運動に参加するには組織の一員である必要はないと主張する人もいるだろう。そのとおりだ。しかし、成功している持続的な運動の一員になりたいのであれば、組織が必要である」と書かれているそうです。
上野千鶴子氏は著書『これからの時代を生きるあなたへ』の中で、「あなたも、いつかあとから来るひとに、『こんな世のなかに誰がした』って詰め寄られるでしょう。そのときに『ごめんなさい』っていわないですむ世のなかを手渡してあげたい」と書かれているそうです。
労働運動の発展なくして日本社会の変革はなく、こんな社会でいい訳がないと、声を上げる仲間を増やそうと呼びかけました。
第二に、もう一つの労働組合の社会的役割として、ケアに満ちた職場・社会をつくることが取り上げられました。
”Care”とは、気にする、心配、世話をするという意味です。
人はぜい弱な存在であり、必ずケアされながら生きていくと指摘しました。
貶められてきた”Care”にスポットを当て、政治を問い直すという動きがあるそうです。
労働者が毎日職場で働けるのは、家庭でケアされている、ケアしているからであり、ケアがなければ労働力は維持できないし、供給されません。しかし、資本主義社会ではケアが軽視されていると指摘しました
また、ケアされるとは、自分のなかに尊厳が感じられることであり、憲法13条を実現する営みだと述べました。
ケアの人間観とは、誰もがケアされる、ケアする人びとであるという人間観であり、人は「自立」しているべきであるという資本主義社会の人間観とは対極的です。
資本主義ではケアは評価されず、冷淡、副次的な扱いを受けています。
資本主義は労働力にしか関心がなく、労働者が職場を出れば生活者の役割や時間をもつのが当然なのに、職場を出た労働者は「消費者」としか考えないと指摘しました。
生活者である労働者は、ケアの担い手にもなれます。ケアとは、異なるニーズを持つ他者に対する実践であり、自分の考えの変革が求められるプロセスだと述べました。一面では負担、避けたいものであすが、実は人間を育ててくれる営みだと指摘しました。
しかし、自己責任論や競争的人間観が浸透し、労働者として視点が剥奪されている、そして、ケアの価値を認識していない権力者がケアの評価を決めている現状では、政治も、社会運動も、労働運動も、ニーズに応える実践であるが、声を上げられない、SOSを出せない人たちが多いと指摘しました。だから、こちらから一歩踏み出す必要があると述べました。
民主主義をケアの視点から問い直すと、封じられている声があるのではないかと問いかけました。たとえば、コロナ禍で突然行なわれた一斉休校の際は大混乱が起こりました。小学校低学年の子どもを持つ親たちは、周囲に子どもの世話を頼める人がいなければ働けません。結局は、学童保育がフル回転することになったそうです。誰がケアの責任を負うのか考えていない人たちが政治を牛耳っていることが露呈した出来事だったと指摘しました。
労働組合の実践も、ケア実践であると述べました。
仲間に関心を持ち、気にかけ、かかわり、声を聴く、助ける、寄り添う、団結する、連帯するという活動は、ケアを含んだものであると述べました。
労働組合のパワーを大きくすることは、職場や地域、社会や政治にケアの言葉を届けることだと指摘しました。
ジョアン・C・トロント氏の著書『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』の中で、「すべての人にとって、善く生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです。すなわち、必要なときは他者から、良くケアされ、あるいは自分自身でケアできる生活です。そしてそれは、他に人びと、動物、そして、自分の人生に特別な意味を与える制度や理念のために、ケアを提供する余裕のある生活です」と書かれているそうです。
さいごに、第1講義で取り上げた太田愛氏の小説『未明の砦』では、「いい労働者ってのは、ただ一生懸命働くだけじゃないんだ。隣りに困っている労働者がいたら、その労働者のために闘う。つまり自分たちのために闘うのが、いい労働者なんだ」という言葉があるそうです。主人公が労働者として成長していく物語だそうです。
労働組合を大きくして、「いい労働者」を増やしていこうと呼びかけました。
以上で報告を終わります。