緑区革新懇総会記念講演「私たち市民が切り拓く日本の平和」 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

1月7日、緑区革新懇の総会に参加しました。

そこで行なわれた記念講演「私たち市民が切り拓く日本の平和~今こそ9条を活かし、市民の手で豊かな日本を!」の概要をまとめます。

講師は国際ジャーナリストの伊藤千尋さんでした。

 

まず、石川県が大変なことになってしまったと述べました。

伊藤さんは、5年前、石川県に9条の碑が建ったので、取材に行ったことがあるそうです。

不幸中の幸いは、原発が大丈夫だったことだと述べました。実は、珠洲市にも震源地の左右、2基の原発をつくる計画があったそうです。1976年に計画が立てられ、1977年に国が地盤がかたいから大丈夫だとOKを出したのですが、1979年にスリーマイルの原発事故があり、市民が市役所の40日間座り込みをして計画をストップさせたそうです。市民の取り組みによって原発ができなかったということです。

もし2つの原発ができていたら、福島のようになったはずであり、行政任せではなく自分たちのことは自分たちで守らなければならないと指摘しました。

 

ウクライナのオデーサは港町であり、ポチョムキンの階段を上がるとその上に市街地があり、白壁に色を塗った美しい街並みが広がっているそうです。そして、第二次世界大戦時に殺されたユダヤ人の慰霊碑があるそうです。ユダヤ人をかくまった42人の人たちを称える記念碑もあるそうです。そこには、「一人の命を救う人は世界を救う」というユダヤの格言が書かれているそうです。人類はこうあってほしいと述べました。

イスラエルが出している「諸国民の中の正義の人賞」を受賞している日本人は一人で、リトアニアで「命のビザ」を発行した杉原千畝さんだそうです。杉原さんが発行したビザにより、ユダヤ人は日本経由で世界中へ避難したそうです。

そのユダヤ人が今ではパレスチナ人を虐殺しており、なぜそのようなことが起こるのかと問いかけました。

ネタニヤフ首相はガザに広島原発に匹敵する爆弾を落としており、それはハマス撲滅のためなのだそうです。しかし、ガザにいる人を全て殺そうとしていると指摘しました。ガザでは、爆撃で子どもが死んでもわかるように、子どもの手足に名前を書いているそうです。イスラエルは「ハマスに反撃するのは当たり前だ」と言って子どもを殺していると指摘しました。

世界はイスラエルびいきであり、それはユダヤ人を差別してきた負い目があるからだと指摘しました。

しかし、世界は変化しているそうです。10月27日に出された国連人道的休戦を求める決議は賛成121ヵ国でしたが、12月13日の停戦をも止める決議は153ヵ国の賛成で採択されたそうです。これは、市民が政府を変えさせた結果であり、国際人道法の浸透を示していると指摘しました。

ガザを封鎖し、そこに見境なく爆弾を落とすのは集団虐殺であり、イスラエルは事前通告をしたと言うが、南へ逃げるように言ったのに南部を攻撃しており、それを世界は許さないという動きが起こっていると述べました。

本来なら、虐待されたら人を虐待してはならないと考えますが、しかし、イスラエルは「生きるためにはあいつらを殺さなければならない」となっており、憎しみの連鎖を生んでいると指摘しました。

それを断ち切るにはどうしたらいいかと問いかけました。

第二次世界大戦後、日本軍に被害を受けたアジアの人々は、1951年のサンフランシスコ講和会議において、「日本が再び立ち上がれないように賠償金を取ろう」と主張しました。しかし、南アジアのスリランカの代表であるジャヤワルダ大統領が、「憎しみは愛によって克服されなければならない」と述べ、中国の周恩来などもそれに賛同し、他国もそれにならったそうです。日本はそのおかげで復興できたそうです。しかし、そのことは教科書には書かれていないと指摘しました。

ウクライナ侵略に対するロシア非難決議は、賛成141ヵ国、反対5ヵ国で採択されたそうです。これは世界中の市民がデモ行進することに影響されたからだそうです。デモで、人々は青と黄の旗を持っていたそうです。これはウクライナ国旗の色であり、さらにその旗に「No War」と書いたそうです。「世界の誰もが平和に生きる権利がある」というのが世界中の動きだと指摘しました。

そのように世界が変わったのには、100年の歴史があるそうです。100年前は、強い国が弱い国から奪うのは当たり前でした。1918年にパリ不戦条約が結ばれ、戦争の違法化が行なわれました。これは、日本が主導したそうです。当時外務大臣だった幣原喜重郎が奔走したそうです。そして、1945年の国連憲章は、第3条で紛争の平和的解決を定めたそうです。これが日本国憲法へつながるのだと述べました。

しかし、日本はその流れに逆行しており、岸田政権は軍拡に走っていると指摘しました。

2年前の暮れ、安保3文書を閣議決定し、「専守防衛」からの転換、先制攻撃を可能にしました。これは、安倍政権時代につくった文書に付け足しをし、「平和国家として~」という文章を削ったものだそうです。

なぜそうしたことをするのかというと、「抑止論」に固執しているからだと指摘しました。「抑止論」とは、「敵と同じ戦力を持てば攻められない」という考え方ですが、そうした考え方は軍拡競争につながり、防衛予算が倍増し、国民の暮らしのために税金が回らなくなると指摘しました。政府は中国に追いつくまでと言いますが、しかし、2年前に中国の軍事費は27兆円だったそうです。それではどんどん防衛費を上げていくことになります。しかも、中国は「アメリカに追いつく」と宣言し、軍事費を101兆円にしているそうです。日本の年間予算が約100兆円であり、「中国に追いつくまで」は成立せず、国民は生活できなくなってしまうと述べました。

さらに、「抑止論」は既に破綻していると指摘しました。ソ連が崩壊したのはアメリカと軍拡競争をしたからだそうです。ミサイルは飛ばせても、国民にパンを配れなくなったと述べました。政府は国民生活を守るためにあるのであり、それができなければ破綻するということです。

日本はソ連と同じ道を進もうとしていると指摘しました。日本の基地化が進められており、馬毛島には自衛隊基地を建設することが決定したそうですが、基地建設が決まる前に土地開発業者が馬毛島の土地を買い、滑走路をつくったから防衛省に倍の価格で転売したそうです。その差額は税金だと指摘しました。種子島の漁民は基地建設に反対していましたが、防衛省が切り崩しを行なったそうです。

沖縄では、石垣島に陸上自衛隊ミサイル基地が建設されていますが、その前に元自民党議員がゴルフ場を買い上げ、その後、中国を攻撃できるミサイルを配備することになったそうです。住民の不安に対し、自衛隊は「それは我々の役割ではない」と主張しているそうです。法律により、有事の際に国民を守るのは自治体の役割であり、自衛隊が守るのは「国」とされているそうです。「国」とは「岸田政権」のことだと指摘しました。

南西諸島がミサイル基地化されており、与那国島ではレーダー基地がミサイル基地へ変えられたそうです。住民投票をやると、既に元からの住民よりも自衛隊員とその家族の方が多くなっているので、賛成が上回ってしまうそうです。

中国は、自分たちに向けたミサイルが配備されているので、それに対抗して軍拡を進めることになります。

台湾有事は、台湾が独立しようとするなら中国は軍隊を出すとしており、米軍は台湾を支援して軍隊を出し、日本はアメリカを支援するとして拡大していくことになります。

しかし、台湾の人々は、有事を想定した避難訓練は7月に30分やっただけだそうです。台湾の新聞の世論調査では、「独立したい」は2割で、8割の人は「我々は既に独立している」と考えているそうです。「台湾は中国政府に支配されている訳ではない」、「政治も経済も独自に発展している」、「独立宣言などする必要がない」、「よそから来た人は余計なことを言わないでほしい」ということだそうです。余計なことを言うのは麻生氏やアメリカの国会議員で、なぜ言うかというと軍需産業がもうかるからだと指摘しました。

「日本が攻められたらどうする!?」というのは、日本を武装化するための誘導尋問であり、日本は今攻められておらず、攻められる理由もないと述べました。戦争はある日突然始まるのではなく、たとえばウクライナ戦争も、2004年のクリミア併合から始まっていると指摘しました。

また、紛争はあっても話し合いで解決できると述べました。たとえば、中国とロシアは領土問題を条約で解決したそうです。

そうした努力をしないで、武力強化をあおるのが岸田政権だと指摘しました。

「憲法9条で国を守れるか?」という問いに対しては、国を守るという発想が戦争の論理だと述べました。

敵と味方をけるとうのは、殺すための発想であり、人間が人間ではなくなると指摘しました。戦争になると、国民は国によって兵隊にとられ、国家の部品とされると指摘しました。たとえば、イスラエルでは国民全員が徴兵され、男性は3年、女性は2年兵役につかなければならないそうです。

では、9条は何を守るのかというと、人間性を守ると述べました。そして、憲法前文には「平和的生存権」が書かれており、これは世界中の人がともに生きられる権利、国籍を超えて人類を守る考え方だと述べました。

ドイツのカントは、『永遠平和のために』の中で、「人間の自然状態は戦争である。よって、平和は創設されなければならない」と書き、そのために必要なこととして、常備軍の廃止、侵略戦争の禁止、諸国家の民主化、平和のための連合創設をあげたそうです。

また、9条は押し付けではないということも指摘しました。

9条を考えたのは幣原喜重郎首相だそうです。その証拠は国会図書館の文書にあるそうです。幣原首相は「戦争をやめるには武器をもたないことだ」と考え、マッカーサー元帥を3時間かけて説得したそうです。幣原首相の言葉の記録として、「世界は今一人の狂人を必要としている。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から脱出できないのである。これは素晴らしい狂人ではないか。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのである」という言葉が残っているそうです。また、「憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際にできることではなかった」とも述べているそうです。

マッカーサー元帥がためらった際は、「軍縮を可能とする突破口は、自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にない」、「アメリカをも救い唯一の道ではないか」と述べて説得したそうです。

マッカーサー元帥経由で幣原首相が日本にこの憲法をもたらしたのであり、日本にもそういう政治家がいたということだと述べました。

『マッカーサー回顧録』にも幣原首相とのやり取りは記録されており、1951年にアメリカ上院議会でも証言しているそうです。しかし、幣原首相は病気で亡くなっていたため、日本政府は「押し付け憲法」のことだけを広めたそうです。

社会を変えるにはどうしたらいいかという問いに対しては、ベルリンの壁崩壊のことが語られました。

1989年にベルリンの壁は崩壊しましたが、その30年後になぜ壁が崩れたかを取材したそうです。1989年にライプチヒで7万人のデモが行なわれ、ベルリンのデモは50万人が参加したそうですが、始まりはライプチヒのニコライ協会で5人の若者が掲げたプラカードだったそうです。そのプラカードに書かれていたのは、「我々は考えなければならない」、「我々は前へ進まなければならない」という言葉だったそうです。具体的な政府批判を書けばつかまってしまうから抽象的な言葉にしたそうです。

しかし、このプラカードを見た人たちが考え、話し合いが始まったそうです。そして、黙っているだけでなく行動しなければならないということになり、5人から始まったデモが1年後には7万人となったそうです。7万人も集まると市民全員がデモをしているように見え、秘密警察は手を出せなくなったそうです。5人いれば世界を変えられるということです。

ロシアでは、一人の女性がテレビ局で「NO WAR」、「ニュースは嘘です。信じないでください」というプラカードを掲げたそうです。

日本でも変えられると述べました。

東京都杉並区では、2021年衆院選東京8区で投票率60%超になり、石原伸晃氏を落とし、49歳の吉田晴美さんが当選したそうです。2022年の区長選挙では岸本聡子さんが当選しました。2023年の区議選では、女性議員が24人当選し、無党派が増加し、自民党は16議席から9議席に減ったそうです。

区長選挙の際、区内の駅前での演説を組織化したそうです。一人街宣と呼ばれる取り組みで、区内の全ての駅で5分ずつ誰かが話すようにしたそうです。紙に書いたものを読むのではなく、自分の言葉で話すことにしたそうです。最初は恥ずかしかったが、紙を読むのでは反応がなく、自分で考えたことを話すようになるとだんだん長く話せるようになり、話すことが快感になってきたそうです。そして、街宣をしていた人が区議になったそうです。

辺野古の闘いでは、座り込みで緊張していると一人のおじいさんが歌を歌い出したそうです。警備の機動隊員は、おじいさんが帰る時に「お疲れ様でした」とあいさつしていたそうです。海上保安員は牧師に説得され、「世界を見てくることにした」と言って海上保安庁を辞めたそうです。このように、陽気にやる、向こう側の人を敵にしない、相手もいつかこちら側に立つ人だと考えるのが辺野古の闘いだそうです。

そうしたことをこれからやっていきましょうと呼びかけました。

 

以上で報告を終わります。