憲法講座 第3回「私が私でいられるために~人権を託されて~」 | 労働組合ってなにするところ?

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2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

1月5日、岡山県労働者学習協会の憲法講座第3回「私が私でいられるために~人権を託されて~」にオンライン参加しました。

講師は長久啓太先生でした。

以下、その概要をまとめます。

 

はじめに、これまでは憲法のそもそもの話をしてきたが、今回は憲法の目的である人権保障について考えると述べました。

第97条に憲法の目的について書かれており、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とされています。つまり、基本的人権とは現在及び将来の国民に託されたものであると述べました。

 

第一に、人権の核心をつかむとして、憲法の人間観が取り上げられました。

基本的人権を自分の言葉で語るとすると、長久さんは「あなたがあなたでいられるためのもの」とすると述べました。つまり、人権が奪われたら私が私でいられなくなるということです。

教科書的な説明では、「すべての人が生まれながらにして持っている、人間らしくいられるための自由、権利」となるそうです。

基本的人権の中心規定は第13条です。

第13条は「個人の尊重」の条文とされており、一人一人が大事だということを意味します。

「すべて国民は個人として尊重される」とは、一人一人違う、違うからこそ尊重されなければならない、かけがえがない、価値のある存在だということです。

これは無条件の肯定的存在承認であり、何かができるから尊重されるのではなく、あなたがあなただから尊重されるということだと指摘しました。

ものは取り換えが可能ですが、人間は取り換えがきかない、かけがえのない個人だということです。

「自由」とは、選べるということであり、「公共の福祉」とは、みんなが幸せ、みんなの幸せに反しない限り自由および権利が最大に尊重されるということです。たとえば、人を傷つける自由はないということです。

「尊厳」との関係は、一人一人尊厳があるから一人一人尊重すべきであり、尊厳はより根源的だと述べました。

そして、「尊厳」とは、人間であることを説明する言葉だと述べました。

過去の歴史の中で、人間を人間として扱ってこなかったことがあったと指摘しました。

伊藤真弁護士は『新婦人しんぶん』で、「人間の尊厳の意味は多様ですが、私は人間を道具とみないことが重要と考えています。会社の利益追求の手段として低賃金で酷使したり、医学の進歩と称して人体実験に利用したり、国を守るために国民の命を利用したりしないということです。言い換えれば、命の価値は、何かの役に立つことにあるのではなく、命をもって存在すること自体にあるのです。寝たきりになっても、また障がいのために働けなくなっても、そこに命がある限り、かけがえのない個人として尊重されるのです」と述べているそうです。

第24条には、「個人の尊厳」が書かれています。

高橋和之氏は『立憲主義と日本国憲法 第3版』の中で、「日本国憲法は『個人の尊厳』にコミットした。これに対し、ドイツ基本法は『人間の尊厳』にコミットしている。人間の尊厳という場合、人間以外のものとの対比を含意するから、人間の尊厳を侵してはならないという基本法の命令は、人間を非人間的に扱ってはならないこと、人間としてふさわしい扱いをすべきことを意味する。ナチスによる非人間的な扱いの経験が背景にある。これに対し、個人の尊厳は、個人と全体(社会・集団)との関係を頭に置いた観念であり、全体を構成する個々人に価値の根源をみる思想を表現している。この言葉が、特に結婚・家族に関する原則を定めた24条で用いられたのは、偶然ではない。戦前には、社会における最も基礎的な集団である家族関係が、個人より集団(家族)を重視する価値観を基礎に形成されていた、この反省が背景となっているのである」と書いているそうです。

補論として、優生思想と人間の尊厳についてが取り上げられました。

優生思想とは、人に優劣をつける考え方です。「優生学」は、進化論と遺伝子学の発展により、「科学」という姿で登場しましたが、優れた生命を増幅させる「積極的優生学」と、劣った生命を排除する「否定的優生学」とがあり、後者が生殖機能を奪う「断種」、女性に対する人工妊娠中絶、さらには障害者の抹殺につながってしまったそうです。

ドイツでの優生政策は、重度の知的障害者を「生きるに値しない生命」と主張し、ナチス政権でより具体化され、障害者などの強制断種、人工妊娠中絶などが推進され、さらに、心身障害者の安楽死を行なう「T4作戦」が始まり、ユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストにつながり、犠牲者は600万人にものぼったそうです。

日本では戦後の1948年に「優生保護法」が成立し、障害を理由とする強制的な断種が容認されたそうです。

強者のものさしで人に優劣をつける考えは、優生思想と結びつきやすいと指摘しました。たとえば、働けるか働けないか、若いか老いているか、役に立つか役に立たないかといったものさしです。特に、権力者、強者が「劣った人間」を黙らせようとすると指摘しました。

それに対し、「人間の尊厳」は、「生きる価値のある人間、ない人間」の区別を許さず、「人間の尊厳」や「個人の尊厳」を実現する責任は社会や国家にあると述べました。そして、学習によってその人間観は保たれると述べました。

つまり、国家が何か「人間の尊厳」や「個人の尊厳」を侵すようなことをしようとしたとき、私たちが「いや、待てよ」と思いとどまらせるようにするには、学習が必要だということです。

 

第二に、日本国憲法の人権について取り上げられました。

日本国憲法は、第11条から第40条までを人権についての条項に割いています。

第11条は、「基本的人権の享有と性質」です。この条項で、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」とされています。

第12条は、「自由、権利の保持義務とその濫用の禁止」です。この条項で、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とされています。「不断の努力」とは、絶え間ない努力ということであり、ぼおっとしていたら自由や権利は奪われてしまうという意味だと指摘しました。

第14条は、「法の下の平等」です。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とされています。200年前には生まれながらにして価値が決まっており、身分制度は絶対でした。

第15条は、「公務員の選定罷免権」です。この条文における「公務員」とは、国会議員、地方議員、自治体首長などを含みます。ここでは普通選挙についても定めています。普通選挙とは、一定の年齢になれば誰でも選挙で公務員を選べるということです。かつては選べない時代が長くあり、選べないということは主権者として扱われないということだと指摘しました。

第16条は「請願権」です。「平穏に請願する権利」とありますが、これはいわゆる「お上に物申す権利」であり、選挙で選ばれた代表だからといって何でも従わなければならないという訳ではなく、おかしいと思ったら声を上げられるということです。たとえば江戸時代は、「お上に物申す」ことは直訴と言われ、重罪でした。

第18条は「奴隷的拘束及び苦役からの自由」です。「苦役」とは強制労働のことです。

第19条は「思想及び良心の自由」です。日本国憲法は内面の自由を手厚く保障している憲法であり、このために1条をもうけている国は少ないそうです。これも治安維持法などの戦前の反省によるものだそうです。

第20条は「信教の自由、国の宗教活動の禁止」です。戦前は国家神道であり、それ以外の宗教は弾圧されました。

第21条は「表現の自由」です。

第22条は、「居住・移転及び職業選択の自由、外国移住及び国籍離脱の自由」です。職業選択の自由は、戦争によって奪われやすい自由だと指摘しました。外国移住及び国籍離脱の自由が定められているのは、国家の上に個人があるということだと指摘しました。

第23条は「学問の自由」です。

第24条は「家庭生活における個人の尊厳と両性の平等」です。これは前回詳しく説明されたので省略されました。

第25条は「生存権」です。これは後の回で詳しく説明するので省略されました。

第26条は「教育を受ける権利、教育の義務、義務教育の無償」です。教育を受ける権利とは学習する権利であり、これは大人も含めての権利だそうです。義務教育の無償については実現していないと指摘しました。

第27条は「勤労の権利」であり、これに基づいてハローワークや失業保険がつくられたそうです。

第28条は「労働者の団結権、団体交渉権、その他団体行動権」です。これらの権利については、世界の憲法の中でも日本国憲法は秀逸な内容となっているそうです。

第29条は「財産権の保障」です。

第30条は「納税の義務」です。これは、「法律の定めるところにより」とされているのが重要なのだそうです。

第31条から第40条は、刑事被告人、被疑者の人権を守る規定が続いています。かなり細かく規定されています。

青井未帆氏と山本龍彦氏の共著『憲法Ⅰ 人権』の中で、「日本国憲法には、ほかの国の憲法と比べても詳細に、刑事手続に関する権利の諸規定がおかれている。なぜかといえば、明治憲法下での刑事手続きのありようを反省してのことにほかならない」、「国家のもつ刑罰権は、私たち市民との関係のなかで、まさに『権力そのもの』として迫ってくる可能性をもつ。だからこそ、私たちがいかなる権利を主張しうるか、国家権力の行使はどう枠づけられるのかが、重要なのである」と書かれているそうです。

 

第三に、人権感覚をみがき、人権侵害とたたかうために必要なことが取り上げられました。

まず、人権について知ることです。当然、すべての他者にも奪えない人権があると指摘しました。規定と理念にはギャップがありますが、憲法の理念は目指す方向を示していると述べました。

木村草太氏は『憲法という希望』の中で、「『尊厳の担い手となった個人が公権力担当者に憲法を守らせる』のが今日の憲法のあり方であり、『憲法の番人』である『個人』が憲法を使いこなしてこそ、憲法が活きていくのです」と書いているそうです。

「個人の尊重」、「個人の尊厳」というときの「個人」とは、人権の主体としての「個人」だと指摘しました。

日本の学校教育における人権は、マイノリティの問題としがちであり、「弱者に対する配慮」などを教え、「弱者とされる側」が権利を主張したり、勝ち取ったりしてきたことは教えないと指摘しました。

人権感覚をさびつかせないためには、問いを持って議論をし、人権感覚を研ぎ澄ます必要があり、新しい人権課題も貪欲に学ぶべきだと述べました。

人権侵害の基本的構造を知るためには、人権侵害は人間関係の強弱関係のなかで起こりやすく、弱者の側が人権侵害を受けやすいということを認識すべきだと述べました。たとえば、国家権力と個人、使用者と労働者、大人と子ども、男性と女性、多数者と少数者といった強弱関係が指摘されました。

人権侵害とたたかうには、連帯や運動・組織が欠かせないと指摘しました。

荒井裕樹氏は『まとまらない言葉を生きる』の中で、「らい予防闘争」に尽力した森田竹次という人物を紹介し、「差別されて苦しむ人に対して、しばしば『勇気を出して立ち上がれ』といった言葉がかけられることがある。たぶん、言っている方は励ましているつもりなんだろうけど、森田はこうした言葉を厳しく戒めている。というのも、差別されている人は精神的にも経済的にも追い詰められていることが多く、そうした人が孤立した状態で立ち上がれば、間違いなく社会から潰されてしまうからだ。そもそも、差別と闘うことは恐ろしいことだ。そんな恐怖を前にして、人はそう簡単に<勇気>など出せるはずがない。だからこそ、差別されている人に『勇気を出せ』とけしかけるのではなく、勇気を出せる条件を整えることが大切で、そのためには孤立しない・孤立させない連帯感を育むことが必要だと、森田は訴えている」と書いています。

一人ひとりがエンパワーメントされ、つながりあうことが必要だと指摘しました。

「#MeToo運動」は、つながりあうことで「私も」と声を出せる状況とつくったと述べました。

身近な場所で、個人としての「声」を生み出す、主体的な表現を聴き合う場が必要だと指摘しました。

佐貫浩氏は『聞きの時代に立ち向かう「共同」の教育』の中で、「主権者性の実現のためには、その関係的空間が主権者性を『出現』させる質をもっているかが問われる」と書いているそうです。

三浦まり氏は『私たちの声を会議に』の中で、「民主主義の基盤としての中間団体は、そこに集う人全員にとって個人の尊厳が守られ、エンパワーメントされる(力を得る)場となることが求められよう」と書いているそうです。

 

以上で報告を終わります。