インドを中心とするアジア地域に受け継がれている、アーユルヴェーダ。
薬草の種類があまりに多く、国際特許分類が新設されるまでに至っているほどですが、これとは別にもうひとつ、伝統医療の国際化には非常に厄介な問題が絡んでいます。
それは、「翻訳」です。
ここで、アーユルヴェーダと翻訳の関係に焦点をあてた論文から、一節を抜粋します。
(※IPCが新設された経緯も、同じ論文の中に出てきます。)
Dwarkanath はこうした翻訳を試みる一方で,「アーユルヴェーダの概念を西洋科学の概念へ無理矢理翻訳することによって,歪曲するべきではない」と考えていた。例えば彼は, dosa を humor (体液)19) と翻訳し,それぞれ kapha を phlegm (粘液),pitta を bile (胆液),vāta を wind (風) とした P. G. Roy に疑義を唱えた20)。Dwarkanath によると,dosa は身体の機能を描写するためのものであり,例えば vāta は「自律神経系の過程」を示すもの,pitta は「栄養システムの機能を意味するもの (熱生産系,ホルモン,酵素など腺構造の活動を含む)」,kaphaは「西洋の生理学者が骨,同化作用系に含めるもの」と考えられる。すなわち,それらは定義されるべき物理的実体ではなく,現代科学における電気と同様,その効果が観察されるのみであると論じる[Dwarkanath 1954 : 17-18]。 「翻訳可能性と不可能性の間 : 生物医療,代替医療,知的所有権制度との接触領域における「アーユルヴェーダ」の生成」から抜粋 (『人文学報』 p.166~167) |
日本のサロンや書籍などでは、dosa 、kapha、pitta、vāta を カタカナで「ドーシャ」「カファ」「ピッタ」「ヴァータ」とした上で、意味の説明を添えていることが多いです。
説明文を自由に補う余地があるため、「翻訳せずに」異文化を導入できるカタカナの良い面が出ているわけですが、翻訳の場合はそうはいきません。
一語もしくは数語に変換することで、もとの語が持つ意味や根底にある思想が捨象されるのです。
もちろん、これはアーユルヴェーダに限ったことではなく、翻訳という作業には、常についてまわります。
文字としての単語を訳すのか、単語に付随する文化を訳すのか、という問題です。
特許翻訳の場合はそこまで考える必要はないと思うかもしれませんが、たとえば上にあげた「ドーシャ」を特許請求の範囲に含む出願が、実際に存在します。
特許第5743940号と同第5103021号です。
いずれもインド企業によるPCT出願が権利化されたもので、後者は前者の分割出願です。
よって、親である第5103021号のほうから、一部を抜粋します(強調はこちらで付しました)。
【0005】 【請求項70】 |
明細書の後ろのほうに「カラ」「ヴルッディ」「ハラ」などの説明もなされているとはいえ、カタカナになった時点で、元の意味は完全に落ちています。
特許翻訳には訳語次第で権利範囲が変わり得る側面がありますが、もはやそういう次元ではなく。
まさに、「翻訳不可能性」が存在します。
ここまできたときに、ふと、カタカナの功罪に考えが至りました。
上述の論文は、間違いなく、こうした考えが生まれるきっかけになっています。
非常に示唆に富んだ内容ですし、翻訳現場からもっと論じられてもよさそうなのですが、検索してみると、どうやらそうなっていないらしいことは一目瞭然です。
おそらく、翻訳業界では、ほとんど知られていないのでしょう。
「翻訳可能性と不可能性」の問題はアーユルヴェーダ固有のものではなく、ユナニ医学や中国医学でも起こり得ますし、医薬の域を超えた他分野でも、当然に起こり得ます。
日本人は良くも悪くも安易にカタカナを使いますが、もしかしたら、安易すぎるのかもしれませんね。
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