(前編からの続き)

この話は、だれもが子供のときに、どこかで聞いたことがあるはずだ。

私が小学生のころには「道徳」という授業があったので、そんなところで聞かされそうな教訓話だと思っていたら、精神世界の師たちも神を語るのに使っていた。

この話は、今から100年以上前に、ラーマクリシュナという師によって語られたものだ。

ラーマクリシュナは弟子たちにこの寓話を語ったあと、言った。 
「<神>の本質について議論するとき、一人一人が知っているのは無限の<神>の小さな一部にすぎない。 あなたが体験したちっぽけな一部分で、<神>を限界のあるものにしてはいけない。 <神>は、それぞれの人がそれぞれ異なった体験をすることのできるものの全体像であり、それ以上のなにかだ」 
この<神>というところを<悟り>と直せば、そのまま禅の老師の言葉になる。そのようにして、もう一度読み直してみてほしい。 おもしろいニュアンスの違いを発見するだろう。 
仏教においては神の概念は消し去られるが、仏教の生まれ故郷であるインドには数えきれないほどの神が祭られている。 そのにぎやかさと派手さは他の追随を許さないほどだ。 インドは多神教の国である。だから、神という言葉がよくでてくるが、それほど深刻ではない。 有名な歌手や俳優について話すような感覚で、シバやクリシュナやガネーシュの話をする。 
また、ヴェーダンタやヨガなどは有形の神という概念を用いないかわりに、無形の絶対神としてブラフマンという概念を用いる。 
インドと日本の宗教色のちがいは、ヒンズー教のなかから仏教が生まれた過程をみるとよくわかる。 
ヒンズー教はインドにもともとあった神への信仰の総称であり、あらゆるものをつぎつぎと内包していったがゆえに、 多くの神が共存し、木も石も、魚も猿も、みな神の仲間入りをする。それはなんともにぎやかな宗教であり、素朴で、直裁的であり、肯定的で、男性的である。 「私はあなたが欲しい」とストレートに表現してくる。 神を実現するときの表現も、「千の太陽が一度に昇るようだ」とか、「蓮の花びらが無限に開きつづけるようだ」などという積極的な表現がもちいられる。 
ウパニシャドのなかには、「全体から全体を取り出すと、見よ、全体が残る」とか、「無限に無限をくわえると、見よ、無限は変わらない」などという表現があり、 詩的な感性を駆使しながら、おおらかにそのすばらしさを歌いあげている。 
ブッダが修行していたころには、このヒンズー教体系がすでに数千年以上の歴史をもっていたわけで、既得権をもった既成宗教になっていった。 そうすると、どの既成宗教もだらけてくるもので、はつらつとした輝きがなくなってくる。 そんなころ、ほとんど同じ時期にブッダやマハヴィーラが生まれ、新興宗教としてヒンズー教にたいして強烈なアンチテーゼをたてていくわけである。 それは、当時の人々にとっては革命的なものであったにちがいない。 ブッダはこう言って、既成の宗教の鼻ずらに強烈な一発をかます。 
「光明を得ることは、千の太陽が一度に昇るようなものではない。 それは、太陽も、月も、星も、みな消えていくようなものである」 
そして、また、彼は言う。 「悟りの体験は、蓮の花びらが無限に開きつづけるようなものではない。 それは、ローソクの炎を吹き消したあとの闇のようなものだ」 
ブッダは、何千年にもわたる時間のなかで、真の光彩をうしなってしまった既成宗教にたいして「ノー!」と言ったのだ。 それは、古い伝統にあきあきしていた当時の新知識人層に、新鮮な切り口を提供したのである。 
ヒンズー教の肯定的なアプローチにたいして、仏教の否定的なアプローチは衝撃的な対比(コントラスト)をなしている。 それは、新鮮な息吹であった。 日本では仏教の否定的なアプローチだけが取り入れられたため、若者にとって仏教は暗くて、抹香臭い、厭世的で、死んだような印象を与えてきたが、 それはインドにおけるヒンズー教という太陽がないからである。 月は太陽の光を反射して、その神秘的なうつくしさをいかんなく発揮する。 否定(ネガティブ)は肯定(ポシティブ)があってはじめて、本来のかがやきが発揮されるのだ。 女性がいかにうつくしく、すぐれて、心やさしいからといって、女性だけでは世界は成立しない。 野獣(けもの)のような男が隣りにいてこそ、はじめて女性の美が存分に発揮されるのだ。 
ものごとが生き生きと、よろこびに歌い踊るときにはかならず、肯定的なアプローチと否定的アプローチの両方が、バランスよく機能しているものだ。 否定的なアプローチだけがつづくと、それは本来の躍動感を失ってしまう。 
黒板に白いチョークで「涅槃」と書くから、はっきりとよく見えるのだ。 黒板に黒い墨でそうと書いても、ただ暗いだけで、はっとさせる色彩感をもたらさない。 
単純で、明るく、にぎやかなヒンズー教的アプローチのなかにいると、心がうきうき楽しくなってくる。 そして、そこにブッダのローソクの炎を吹き消した「涅槃」の切り口が、新鮮な静寂をもたらすのだ。 
山に登るときには、いろいろな登山口から登ることができる。 どの道を通ろうと、到着するところは同じである。 
どのような精神的手法によって道を歩んでも、たどりつく真理はひとつである。 ふたつあったら、それは真理ではない。 多くの宗教的なアプローチがあってとしても、至福という目的地にちがいはない。 
だが、人々は、神と言ったり、アラーと言ったり、仏と言ったりする。 意識と言ったり、本源と言ったり、空と言ったりする。 天国と言ったり、極楽と言ったり、楽園と言ったりする。 それらは、たんに異なった表現方法を用いているにすぎない。 それらは、究極的にはすべて、同じひとつのものを別々な指(表現法)によって、さししめしているのだ。 
前述のラーマクリシュナは、たいへん興味深い師たちのひとりである。 彼はこのように語っている。 
「それは水のようなものだ。 水は、それぞれ異なった言語によって、異なった名前で呼ばれる。 湖にいくつかの沐浴場(ガート)があるとしよう。 ある場所で水を飲んだヒンズー教徒は、それを<ジャル>と呼ぶ。 別な場所で水を飲んだイスラム教徒は、それを<パニ>と呼ぶ。 そして、また別な場所で水を飲んだキリスト教徒は、<ウオーター>と呼ぶのだ。 この三つの呼び名はひとつであり、同じものである。ただ名前がちがっているにすぎない。 同じように、真実を、ある者は<アラー>と呼び、ある者は<神>と呼び、ある者は<ブラフマン>と呼ぶのだ」 
だれもが、それぞれ自分の真理体験を、それぞれ自分の言葉で表現している。 だが、それらはすべて、盲目の子供たちが自分の体験によって、「象はうちわのようだ」、「柱のようだ」、「壷のようだ」と言っているようなものである。 「うちわのようだ」と言おうと、「柱のようだ」と言おうと、体験している象そのものは同じものである。 「千の太陽が昇るようだ」と言おうと、「ローソクの炎が吹き消されるようだ」と言おうと、それらはすべて真理の一断面にふれているにすぎない。 
盲目の子供たちはそれを知らない。 だが、師はそれを知っている。 だから、子供は「無知(イグノランス)」だと言われる。 一方で、師のほうは「無邪気(イノセンス)」だと言われるのである。 

町に盲学校があった。

あるとき、子供たちを森にピクニックに連れていった。

昼ご飯を食べて、皆おもいおもいに休んでいると、そこに象と象使いが通りかかった。

先生は子供たちに象という動物を学習させたいと思い、象使いに頼んでみた。

象使いはにこにこしながら言った。

「いいですよ。この象はおとなしいから、さわっても大丈夫です」 
先生の指示にしたがって、子供たちは象をとりかこむようにしながら、それぞれ象に触れはじめた。

一人の子供は象の耳にさわった。

その大きな耳をやさしくなでながら、彼はこう思った。

「象は大きなうちわのようだ」 
別な子供は象の足にふれて、思った。

「象は太い柱のようだ」 
また別な子供は象の鼻にふれて、

「象は太いこん棒のようだ」と思った。 
象の腹にふれた子供は、「象は大きな壷のようだ」と思った。 
だれもが象にふれた体験をよろこんでいた。 
学校に戻ってから、先生が子供たちにたずねた。 
「象というのは、どんな動物でしたか?」 
子供たちは、それぞれ感じたことを話しはじめた。 
「象は大きなうちわみたいなものです」と最初の子供が言った。 
「違うよ。君はわかっていない。象は太い柱みたいなものだ」と二番目の子供が言った。 
三番目の子供が、笑いながら二人のあいだにはいって、言った。 
「なんてばかなことを言ってるんだ。象はうちわのようでもないし、柱のようでもない。それは太くて長いこん棒みたいなものだよ」 
三番目の子供が言いおわらないうちに、また別な子供が口をはさんだ。 
「だれもわかっていない。象は大きな壷みたいなものだ。そうでしょう、先生!」 
子供たちの議論は白熱して、しまいには口論になっていった。

それが峠をすぎたころ、先生が言った。 
「先生が象とはどんな動物か話してあげよう。みんなが言ったことは正しくもあり、また間違ってもいる。

君たちのそれぞれが触れたのは、象という動物の一部分だ。

そこから象の全体像を描こうとしても、それは正確なものではない。

象はうちわのようでもあり、柱のようでもあり、またこん棒のようでもあり、壷のようなものでもある。

そして、これらすべてをあわせたより以上のなにかだ。

それは全体を見ることによってはじめてわかるのだ」 

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この話は、だれもが子供のときに、どこかで聞いたことがあるはずだ。

私が小学生のころには「道徳」という授業があったので、そんなところで聞かされそうな教訓話だと思っていたら、精神世界の師たちも神を語るのに使っていた。

この話は、今から100年以上前に、ラーマクリシュナという師によって語られたものだ。(続く)

 

7月7日〜28日 瞑想の醍醐味 [中級]  セミナー

(毎週日曜 全4回)

参加費: 6,800円

瞑想は真の自分につながる最良の道であり、この味わいがわかると日常のなかにスピリチュアリティの質をもちこむことになります。そうするとあなたの現実世界が少しづつ変容されていくでしょう。

https://www.mystic-live.com/meditation-seminar

 

Group1  タントラ・ブレス瞑想ABC

      〜 祝祭のアート 〜

8/23(金) - 8/25(日)

タントラ呼吸瞑想は、ブレスワークと瞑想に、タントラの実践を統合したパワフルな組み合わせです。このグループでは、ソフトなペア・ワークから始めていきます。老若男女、誰でも参加し、生命エネルギーを謳歌する体験ができるでしょう。

通常 13,000円

超早割(先着6名)8,000円

早割(8/10まで)10,000円

1日のみ参加可 7,500円

https://www.mystic-live.com/breath-group

 

 

 

 

 

 

 

(前編から続く)

 

最近、友人にすすめられて「アルケミスト」という本を読んだ。 
それは、羊飼いの若者が、夢のおつげを信じて、スペインからエジプトまで宝をさがしにいくという物語りだった。 
エジプトに着いて宝の埋まっている場所を掘っていると、盗賊に身ぐるみはがれてしまう。そのとき、盗賊の首領が若者に自分の見た夢の話をするのだ。 
スペインの教会の木の下に宝が埋まっている、という夢だ。

そして、その教会は、若者がいつも羊と一緒に休んでいた教会だった。 
エジプトまでの旅のできごとと、最後のどんでんがえしによって、奇妙なおもしろさをかもしだしていたが、その基本的な構図はこの物語りから取り入れられている。 
これもかなりポピュラーな物語りで、いろいろな師によって話されてきている。 
私は、1980年から2000年頃にかけて、インドを旅しながらさまざまな師に出会ってきた。 
あるとき、プンジャジーという師をたずねたことがあった。

当時、彼は80歳をこえており、世界中からあつまる人々にパパと親しみと尊敬をこめて呼ばれていた。 
インドで年長の人を呼ぶときには、名前のあとに「ジー」という敬語をつける。それで、彼は「パパジー」と呼ばれていた。 
プンジャジーに初めて会ったときの印象は、まったく意外なものだった。 
彼は、大柄な身体を付き添いの人にささえられて、会場に入ってきた。 
そして、壇上の椅子に「どっこいしょ!」というかんじで腰掛けたのだが、それはどう見ても「肉屋のおっちゃん」といったかんじで、優雅さとは遠くかけ離れたものだったのだ。 
その当時、私には、悟りをひらいた師はどことなく優雅でうつくしいものだという思い込みがあったので、「なんじゃ、これは!?」とがっかりした記憶がある。 
彼はどう贔屓目にみても、普通の人以上には見えなかったからである。 
しかし、それは後になって、なににも代えがたい贈りもの(ギフト)となった。 
どうみても普通の人にしかみえない、というところがである。 
そのときは、「遠路はるばるやって来たのに、なんだ、ただのおっちゃんか!」と少しがっかりしながら彼の話を聞いていたのだ。 
ところが、人々が彼のまえに進みでて質問しだすと、場の雰囲気が一定方向に収束していき、さまざまなことがおこりはじめた。 
ある人は泣きだすし、ある人は沈黙のなかに入ってしまう。

ある人は感動しながら、「そうです(イエス)、そうです(イエス)!」と言うばかりだ。 
ほんとうになにがおこっているのかは、当の本人にしかわからない。 
しかし、それは私の魂の琴線にふれて音色をかなでるのだ。 
私はすっかり魅せられていった。 
彼の仕事(ワーク)ぶりは、まるで年期のはいった職人芸のようだった。

刃物の切れ味がよく、かんなをかけたあとがスパッと切れて、光沢(つや)があるというかんじだ。 
彼はラマナ・マハリシの弟子で、主な仕事(ワーク)は「私はだれか――?」という問いに基づいている。 
しかし応答はつねに生き生きとしていて、ユーモアと機知にとみ、目を離せないほど興味深いものだった。 
あるとき、一人の男性が進みでて質問した。 
「パパジー、あなたはだれですか? 
そして、私はだれですか? 
私とあなたの違いはなんですか?」 
プンジャジーはクックックッと彼独特の笑いを見せながら、しばらく笑ったあと、 
「あなたと私のあいだにはなんの違いもないよ」と言った。 
男性はその答えに満足せず、つづけた。 
「パパジー、私はオランダからあなたに会うためにインドまで来ました。でも、あなたは私に会うためにオランダまで行かないでしょう。どこかに違いがあるはずです」 
なかなか的をえた突っ込みだった。すぐれた問いには、すぐれた答えが返ってくるものだ。 
「オーケー」と一息ついたあと、プンジャジーは言った。 
「あなたのなかには、自分自身にたいする<疑い>というものがあるはずだ。そうでなければ、こんな遠くまで私に会いにやってくるはずがない。 
この<疑い>が旅をさせるのだ。私には<疑い>がないから、どこへも行かない。そのほかに違いはないよ」 
プンジャジーは、その<疑い>はここにある、と頭のところをゆびさして、愉快そうに笑った。 
またあるとき、「悟りとはなんですか?」という質問に、やはりクックックッと笑いながら、 
「疑問符というのはマインドのなかにあるだけで、実存のなかには存在しないものだ。 
いいかね。私の言うことに、ちゃんとついてきなさい。まず、最初にもう一度質問をくりかえしてごらん」と質問者にうながした。「悟りとはなんですか――?」 
と質問者が繰り返すと、プンジャジーが言った。

「<何>と<か?>という疑問符をまず落としてごらん。そうすると、なにが残るかね?」

「悟り・です」

「そうだろう? 
つぎに、<悟り>という概念もマインドのものだから、落としなさい。そしたら、なにが残る?」

「・です」

「そうだ。私は医者です、彼は風来坊です、あなたは主婦です、どんなものがその前に来ようと、この<です>という基本形は変わらない。 
なあ、わかるだろう? 
この、<です>、ただ在る、というところから一歩も先に出ないことだ。

そうすると、それは変わることなく、動くことがない。 
いいかね、ついてきているか? わかるかね?」 
サットサン会場に静けさが広がり、深まった。そして、しばらくしてからプンジャジーが言った。  
「・・・じゃあ、最後に、それも落としなさい。そしたら、なにが残る?」

「・・・なにもありません」

「そうだ。それだ!無だ」

「えっ!?・・・」 
「なにもない(Nothing)」と否定的に言った同じ言葉が、満面の笑みとともに「無がある」と肯定的に切り返されて、一瞬マインドがストップしたのである。

質問者は、深い沈黙のなかにはいっていった。 
パパジーのやりとりはつねに絶妙だった。 
言葉を羅列しただけでは、その味わいの90パーセント以上は失われてしまう。 
私自身もときどき彼の前に座って、質問や対話をしたが、いつのまにか内側から力強い気が満ちあふれてくるようであった。 
その秘密は、クックックといかにも面白がっているような笑いのなかにあるように思えた。 
記録にのこされた師の言葉と、生きている師の言葉とのあいだには、同じような言葉であるにもかかわらず、千里のへだたりがある。 
それはいかんともしがたい真実である。 
だから、昔から生きている師をさがすことが探求者の重要なプロセスだったのだ。 
経典というものは、ほとんど、それが目のまえでおこったときの感動の記録なのだが、記録されたあとには、むなしい「文字」が残るだけで、 
ほんとうの「できごと」は消えてしまっている。 
それは、四季折々の会席料理を、外国の日本料理店で食べるようなものである。 
舌が恋しがっているから、それはそれなりにおいしいだろうが、その季節に日本独特の自然環境、温度や湿度のなかで食べるそれとは、質的に異なっているのはやむをえまい。 
生きている師が、生きている状況のなかで繰りひろげるエネルギーの場(フィールド)は、過去の師たちの記録と質を異にする。 
生きた師とやりとりができる機会にめぐまれたら、なにをおいても逃してはならない。 
あるとき、プンジャジーがこの話をしたことがある。 
彼は場所や人の名前は省略して、もっと単純な形で物語りを話したあと、こう言った。 
「見張りの男が『エイシクの家の暖炉の下に、宝が眠っている!』と言った瞬間、それを聞いただけで、もう踊りださんばかりにうれしいだろう? 
そして、家に帰るあいだじゅう、そのうれしさは増していくばかりだ。 
最後に我が家に着いたときのよろこびはどれほどのものだろう? 想像もつかない。 
道具を取り出して、暖炉の下を掘りはじめるときの興奮、その宝の壷にカチっとあたったときの感動、そして掘り出して、実際に触れたときのよろこび、 
至福、感謝・・・、それはもう言葉をこえている。 
そして、実際のところ、これには時間はかからないのだ。一秒でも長すぎる。 
聞いた瞬間、ハートの奥にもどれば、カチっと音がして、宝はそこにある。 
ああ、なんてすばらしいんだろう!」 
聞いているだけで、うれしくなってくるような彼の話しぶりであった。 
宝は実際に手にしたときにのみ、よろこびがわいてくるというものではない。 
宝はあなたのものだ、と聞いただけで、どれほどのよろこびわいてくるだろう? 
そして、そこへ向かう旅のよろこび・・・それはつねに我が家にもどる旅である。

それを、一休は歌う。 
「有露地より無露地へかえる一休み 
雨ふらばふれ風ふかばふけ 」
うれしさに歌い踊りながら、あなたは叫ぶ。「なんだ、そうだったのか! 
宝は最初から私の家の中にあったのか。

なんてことだ。なんてすばらしいんだ!」 
そして掘り出した宝を、目のまえにしたとき、あなたは言葉を失うだろう。 
あなたは至福のなかで沈黙するだろう。 

 

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イエケルの息子エイシクが夢をみた。 
それは、プラハ王宮の橋のたもとに宝物が埋まっている、という夢だった。 
同じ夢をつづけて何回も見たので、彼はプラハへの旅にでることを決意した。 
しかしプラハに着いてみると、王宮につうじる橋にはつねに見張りが立っていて、そこを掘ることはむずかしかった。 
毎日橋のたもとにでかけ、一日中、その辺りで時を過ごしていると、守衛頭がエイシクに気づいて、彼に話しかけた。 
エイシクがプラハへ来ることになった夢の話をすると、守衛頭はあきれた様子で、笑いながら言った。 
「夢のおつげを信じて、ここまでやって来たのか! 
そんな夢を信じるなんてばかげたことだ。 
似たような夢なら私も見たことがあるが、それにしたがうなら、クラクフに行って、イエケルの息子エイシクの家を探し、その暖炉の下にある宝を掘らなければならない。 
だけど、考えてごらんよ。クラクフでは住民の半分がエイシクで、残りの半分がイエケルという名前だ!」 
エイシクはていねいに礼を言って、家路についた。 
そして、自分の家の暖炉の下を掘って、宝物を手に入れた。 

 

 

最近、友人にすすめられて「アルケミスト」という本を読んだ。 
それは、羊飼いの若者が、夢のおつげを信じて、スペインからエジプトまで宝をさがしにいくという物語りだった。 
エジプトに着いて宝の埋まっている場所を掘っていると、盗賊に身ぐるみはがれてしまう。そのとき、盗賊の首領が若者に自分の見た夢の話をするのだ。 (続く)

 

 

* 7月7日〜28日 瞑想の醍醐味 [中級]  セミナー

(毎週日曜 全4回)

瞑想は真の自分につながる最良の道であり、この味わいがわかると日常のなかにスピリチュアリティの質をもちこむことになります。そうするとあなたの現実世界が少しづつ変容されていくでしょう。

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(前回から続く)

師は探求者の用意ができていないのを見て、体験をつみかさねる旅にいざなう。 そして、その旅は世界をひとまわりして、またスタート地点に戻ったところで完結する。 
「青い鳥」をさがして世界中を旅したあげく、「青い鳥」を自分の家のなかに見つけるというメーテルリンクの物語りと同じである。 
青い鳥を自分の家のなかに見つけたとき、子供たちは叫ぶ。 
「なんだ、これが青い鳥だったのか。世界中を捜しまわったけど、最初から家のなかにいたんだ!」 
精神世界の旅も同じような旅になる。 
しかし、なおかつ、あなたは自分の足で旅をしなければならない。 
そのために、師は「いつか・どこか」で達成する魅惑的な蜃気楼をつくりださなければならない。 
ヨガは、チャクラを下から上がっていくにつれて、より崇高な境地が達成されるという精神的(スピリチュアル)な仕掛けをつくる。 
禅は「ガチョウは外だ!」と言いながらも、座禅をしたり、作務をしたり、毎日きびしい修行をさせる。 
これらはすべて<方便>である。そして、<方便>は究極的にはすべて嘘である。 
嘘はいつか嘘だとはっきりわからなければならない。 
師を探すのはむずかしいという話をしていた。 
その第一の理由は、ほんとうの師の数が少ないことだ。 
そして、第二の理由は、師をさがす探求者が、色メガネをかけて見ているからだ。 
色メガネをかけていれば、ほんとうの色は見えない。黄色のレンズをとおして見れば、すべてが黄色に見える。 
彼は「思い込み」というみずからの条件づけにしたがって、「これは好きだが、これは嫌いだ」、「これは良いが、これは悪い」という判断をくだす。 
これが色メガネである。そして、この色を外側のすべてに投影させる。


あなたの世界は、すべてこの投影によって成り立っている。 
だから、世界はあなた自身がつくりだしているのである。 
惨めさであろうと、怒りであろうと、悲しさであろうと、不安であろうと、それらは実はあなた自身がつくりだしているのだ。 
「あなたが世界だ」と覚者は言う。 
あなたが自分であなたの世界をつくりだしている。 
そこが理解できれば、あなたは世界を変えることができる。 
なぜなら、あなたは宇宙のすべてと、親密に、密接にむすびついているからだ。 
あなたがほんとうに変われば、それにつながる存在のすべては微妙に影響をうけることになる。そのようにして、あなたが変われば世界が変わる。 
そのためには、まず、あなたのかけている色メガネをはずさなければならない。 
師をさがし、真理を実現したいと思うのは、単純に言えば、それを知らないからである。「私は無知だ」と自認しているわけだ。 
しかし、あなたのなかには、師とはこういうものだという思い込みがある。その思い込みにあわせて師をさがす。そして、それによって正しい師か偽者かを判断することになる。 
だが、それで正しい師を見つけることはできない。

あなたがくだす判断は100パーセントまちがったものになる。 
真理を悟った師は美しいオーラで満ちている、という色メガネをかけている人は、美しいオーラのない人は偽者だという判断をくだす。 
至福を達成した人は優雅にふるまう、という色メガネをかけている人は、特定の雰囲気をもつ人以外は目にはいらない。 
だが、真理は美しいオーラや顔つきとはなんの関係もない。

優雅さと悟りのあいだには、なんのつながりもないのだ。 
悟っていない人でも優雅にふるまう人はいる。 
真理を実現した人でも、優雅さとは遠くかけ離れた人もいる。 
優雅さはなんの基準にもならない。 
それにもかかわらず、多くの人はそのような何かを判断基準にする。 
そして、自分にはほんとう師を見わけることができるという自惚れもつ。それが障害になる。 
それは、多くのの探求者がおちいる罠である。 
それは長い間探求していることから生じる探求者のエゴである。 
あなたは「思い込み」という壊れたはかりによって師をはかり、あやまった判断をくだす。

それは避けようがない。正しい目をもっていないのだから、これはどうしようもない。 
自分ではすべてわかったような気になって、迷いのなかにいつづける愚者の相手などしたくないと思う覚者は、沈黙する。 
そんな生意気な者たちでも目覚めさせたいと思う覚者は、演技しなければならない。そして、「師(マスター)」という役を演じる。 
さもなければ、あなたはこの道から離れていってしまうからだ。 
あなたは、師とはこういうものだというイメージをもっている。 
師はそれが間違ったイメージだということを百も承知で、それを演じていく。 
それは慈悲以外のなにものでもない。 
それは疲れる仕事である。

こんなことはよほど好きな人でなければやらない。 
だから、師は大切にしなければならないのだ。 
師は基本的にみなすぐれた役者であり、それぞれ味のある芝居をする。 
問題は、偽者も演技するということだ。 
実際、彼らのほうが見た目には上手に演技する。だから、ますますわからなくなってしまう。 
それではどのようにして本物と偽者を識別するか、ということが大きな問題になる。 
だが、困ったことに、それを識別する方法は究極的には皆無である。 
だから、状況は絶望的だ。 
まず、あなたの思い込みがあるかぎり、ほんとうの覚者を見わけることはできない。 
それから、慈悲心によってあなたの色メガネの色にそうようにあらわれるごく少数の師を、あふれかえる偽者、 ペテン師からよりわけるのは不可能に近い。

それは、砂浜に落とした一粒のダイヤモンドを見つけだすようなものである。 
だから、あなたの目によって、ほんとうの師を見つけだすのはむずかしい。 
しかし、存在はそのような理屈によって挫折することはない。 
あなたが全存在をかけて「ほんとうの自分とは誰か」を追求していけば、つじつまのあわない矛盾が起こりはじめるだろう。 
あなたは、いつかかならず師に出会う。 
だから、偽の師たちを恐れる必要はない 
それは、あなたが真に成熟するのに必要な一里塚だとも言える。 
彼らは、あなたを先に進ませてくれるだろう。 
実際問題、あなたは真に価値のあるものをなにひとつ持っていない。


だまされ、すかされ、盗みとられてしまうようなものなど、もともと価値のないようなものばかりだから、どんどんはぎ取られてしまうがいい。 
なぜなら、それを恐れてどこにも一歩も出かけなければ、「青い鳥」を見つけることはできないからだ。 
あなたは勇気をかきあつめて<急流>という旅のなかに飛び込まなければならない。

その残りは<急流>が仕事をしてくれる。

 

7月7日〜28日 瞑想の醍醐味 [中級]  セミナー

(毎週日曜 全4回)

瞑想は真の自分につながる最良の道であり、この味わいがわかると日常のなかにスピリチュアリティの質をもちこむことになります。そうすると、あなたの現実世界が少しづつ変容されていくでしょう。

https://www.mystic-live.com/meditation-seminar