〜光の宮殿〜
【本文から続くコメンタリー】
では、真理とはなんだろうか――?
あなたの本性とはなんだろうか――?
抽象的な表現ではなく、具体的な言葉で言うことはできないのだろうか?
「それは不可能だ!」とオーソドックスなアプローチをする正統派たちは言うだろう。
それはそうだ。
言葉は二元性の世界のなかでは使えるが、それを超えたものを表現することはできない。
しかし、それは正統派の意見である。
そして、正統派のいるところにはかならず異端が存在する。
ユダヤ教のなかにハシディズム、イスラム教のなかにスーフィズム、そして仏教のなかには禅という異端児があらわれてきた。
ここでは正統派の法にしばられない、異端の法を紹介しよう。
経典を見るとこのように書いてある。
「真理は永遠である」
同じことを、「法は不変である」と表現しているものもある。
インドのベンガル地方に、エクタラという一弦琴を奏でながら、歌い、旅する、バウルと呼ばれる人々がいる。
彼らはこう歌う。
「なにもおこらなかった。 なにもおこっていない。 そして、なにもおこらないだろう。 あるものが、ただそこにあるだけ」
彼らは大地を床とし、大空を屋根として、インドを歩く。
そして、神は、つねに、永遠に、ここにある、と歌う。
変わることなく、「いま・ここ」に存在していると歌い、踊るのだ。
一方で、「般若心経」はこう言う。
「真理は増えたり、減ったりするものではない。 法は生まれたり、死んだりするものではない。 般若―叡智―は清らかであったり、汚れたりするものではない」
また、ウパニシャッドを開けば、こう書いてある。 「ブラフマンは一切であり、不動である。 どんな色をつけても染まることがない。 どんな鳥が飛んでも足跡を残さない」
これらの声明は、真理にはこのような質があるということを示している。
あなたの見つけたものが、それに合致しているかどうか確認できるようにつくられている。
経典というものは、ほんとうはわかったあとに読んで、はじめてその意味と味わいが理解できるのである。
わからないうちは、いくら読んでも100パーセント見当違いなところを見て、とんでもないところに迷い込む。
しかし、わかったときには実に役に立つ。
あらゆる切り口から、あなたの認識したものが正しいものかどうか確かめてくれる。
これらの質をすべて満たすものを、あなたは見つけ出さなければならないのだ。
それはなんだろうか――?
それはなにもむずかしいものではない。
それどころか、これ以上単純なものはないというほどに単純なものだ。
それを一言で表現することはできない。 しかし、ひとつの言葉で、いくつもあるクリスタルのひとつのカット面を表現することはできる。したがって、多くの方法論が生まれるのである。
そのなかのひとつに「気づき」というものがある。
瞑想には無数の技法がある。 そして、そのすべての技法に共通するものが気づきだ。
それは、実際にやってみなければわからない。
瞑想をつづけていくうちに、じょじょにわかってくるものだ。
ここでは経典は役に立たない。
あなたが「ガネーシュ」とはなにか知らなければ、ガネーシュという言葉は機能しない。
同じように、気づきがなにかわからなければ、般若心経の言葉はわからない。
泳ぎを知らなければ、泳ぎについて書かれた本を読んでも意味をなさない。本を読むのではなく、あなたは川に飛び込んでみなければならない。
水のなかでもがいているうちに、あるとき浮かぶコツを見つける。 そうしてはじめて、泳ぎというものが理解できる。 気づきもそのようにしてコツをつかんで、はっきりと知ることのできるなにかだ。
ブッダの「五頭立ての馬車」のたとえを使って、この気づきのメカニズムを話してみよう。
あなたは、今、この本を見ている。 視覚という馬が機能して、この本が見えている。
しかし視覚はこの本が見えているだけであって、「これは本だ」とは言わない。
これがコップではなく、本だ、と識別するのは、マインドというぎょしゃである。
そして、それと同時に、そのすべてを了解している、わかっているという気づきがある。
ここには三つの機能がオーバーラップしているのだ。 それがわかるだろうか?
いま、この瞬間、実際に確かめてみてほしい。
1、視覚が働いて、見えている。
2、マインドが働いて、本だと意識している。
3、気づきが働いて、そのすべてを了解している。
これはひとつひとつ別々な機能である。
では、つぎに目を閉じてみてほしい。 そうすると、本は視覚から消えている。あなたはなにも見えないはずだ。
したがって、このときぎょしゃは本という焦点について機能していない。 ということは、1と2の働きは停止しているということになる。
しかし、目がとじていて、なにも見えない、ということはわかっているはずである。
ということは、1は目をあいているときにだけ機能し、2はマインドがそこに焦点をあわせたときにだけ機能し、3は1と2が機能していようと停止していようと働きつづけているということになる。
目という視覚の働きと気づきの関係は、スタンドの明かりと電流の関係にも似ている。
スタンドのスイッチをオンにすると明かりがつく。
オフにすると、明かりが消える。
それはオンにして目をあけるとものが見えて、オフにして目をとじるとなにも見えないというのと同じだ。
けれども、オンにしようとオフにしようと、スタンドの背後に流れている電気はけっして途切れることなく、流れつづけている。
同じように、気づきは視覚とマインドの機能がオンになったり、オフになったりしても、それに左右されることなく、一日24時間、一年365日、けっして休むことなく、あなたが生きているあいだ、ただじっと気づいている。
わかるだろうか――? わからないときには、瞑想や気づきのエクササイズを実際にやってみる必要がある。
のどが渇いたときに「ビールが飲みたい、ビールが飲みたい!」と唱えても、ビールはやってこない。
あなたは財布をもって、近くのコンビニまで買いに行くという行為をしなければならない。
頭のなかでとなえたり、心のなかで願うだけでは、いつまでたっても絵に描いた餅にすぎない。
しかし、いったんこれがわかれば、今度はそれを失うことが不可能になる。
じっと見ていると、ある瞬間、そこに一定の文字や絵が見えるというゲシュタルト・ピクチャーがあるが、それと同じことだ。
いったんこの「気づき」という文字がわかれば、あとはなぜ見えなかったのか考えられないほどに明白だ。
いったん気づきがわかれば、あとは失うことも、見まちがうことも不可能だ。
これがなぜわからなかったのか、あなたは不思議に思うだろう。
わからないうちは、長くて曲がりくねったあぜみちを歩くようなものだ。が、わかってみれば収穫したあとのの田んぼのなかを一直線に歩いてわたるようなものである。
これがはっきりわかれば、ここに二種類の気づきがあることも判明する。
方便として用いる気づきと、本源としての気づきである。
方便としての気づきは瞑想の技法として用いられる。
それは行ったり来たりする、得たり失ったりする。
しかし、本源はつねに気づいている。
これは行ったり来たりすることなく、得たり失ったりすることがない。
本源はたえず観照している。 これは永遠に変わることがない。
⚫︎ セミナー&グループ
◎ 3月12日(火)20時〜 「バリの秘法」」
FBライブ マジュヌ with 石村マティ
◎ 3月13日()20時〜 「アーユルヴェーダ・ヨガと瞑想」
Zoom ライブ マジュヌ with ハンサ
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◎ 3月14日(木)20時〜 ■オンライン無料説明会
https://us02web.zoom.us/j/82188711454
ミーティング ID: 821 8871 1454
バリ島リトリート6日間 ◎ 4月29日(火) 〜5月4日(日)
「タントラ・ブレス&瞑想のだいご味 in Bali」
https://www.facebook.com/events/1794125171388343
◎ 3月16日(日)20時〜 ■オンライン無料説明会
https://us02web.zoom.us/j/82188711454
ミーティング ID: 821 8871 1454
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2025年5月23日(金)〜6月1日(日)10日間
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