〜光の宮殿〜

【本文から続くコメンタリー】 
では、真理とはなんだろうか――? 
あなたの本性とはなんだろうか――? 
抽象的な表現ではなく、具体的な言葉で言うことはできないのだろうか? 
「それは不可能だ!」とオーソドックスなアプローチをする正統派たちは言うだろう。
それはそうだ。
言葉は二元性の世界のなかでは使えるが、それを超えたものを表現することはできない。 
しかし、それは正統派の意見である。 
そして、正統派のいるところにはかならず異端が存在する。 
ユダヤ教のなかにハシディズム、イスラム教のなかにスーフィズム、そして仏教のなかには禅という異端児があらわれてきた。 
ここでは正統派の法にしばられない、異端の法を紹介しよう。 

経典を見るとこのように書いてある。 
「真理は永遠である」 
同じことを、「法は不変である」と表現しているものもある。 
インドのベンガル地方に、エクタラという一弦琴を奏でながら、歌い、旅する、バウルと呼ばれる人々がいる。
彼らはこう歌う。 
「なにもおこらなかった。 なにもおこっていない。 そして、なにもおこらないだろう。 あるものが、ただそこにあるだけ」 
彼らは大地を床とし、大空を屋根として、インドを歩く。 
そして、神は、つねに、永遠に、ここにある、と歌う。 
変わることなく、「いま・ここ」に存在していると歌い、踊るのだ。 
一方で、「般若心経」はこう言う。 
「真理は増えたり、減ったりするものではない。 法は生まれたり、死んだりするものではない。 般若―叡智―は清らかであったり、汚れたりするものではない」 
また、ウパニシャッドを開けば、こう書いてある。 「ブラフマンは一切であり、不動である。 どんな色をつけても染まることがない。 どんな鳥が飛んでも足跡を残さない」 

これらの声明は、真理にはこのような質があるということを示している。 
あなたの見つけたものが、それに合致しているかどうか確認できるようにつくられている。 
経典というものは、ほんとうはわかったあとに読んで、はじめてその意味と味わいが理解できるのである。
わからないうちは、いくら読んでも100パーセント見当違いなところを見て、とんでもないところに迷い込む。 
しかし、わかったときには実に役に立つ。 
あらゆる切り口から、あなたの認識したものが正しいものかどうか確かめてくれる。 
これらの質をすべて満たすものを、あなたは見つけ出さなければならないのだ。
それはなんだろうか――? 
それはなにもむずかしいものではない。 
それどころか、これ以上単純なものはないというほどに単純なものだ。 
それを一言で表現することはできない。 しかし、ひとつの言葉で、いくつもあるクリスタルのひとつのカット面を表現することはできる。したがって、多くの方法論が生まれるのである。 

そのなかのひとつに「気づき」というものがある。 
瞑想には無数の技法がある。 そして、そのすべての技法に共通するものが気づきだ。 
それは、実際にやってみなければわからない。
瞑想をつづけていくうちに、じょじょにわかってくるものだ。
ここでは経典は役に立たない。 
あなたが「ガネーシュ」とはなにか知らなければ、ガネーシュという言葉は機能しない。
同じように、気づきがなにかわからなければ、般若心経の言葉はわからない。 
泳ぎを知らなければ、泳ぎについて書かれた本を読んでも意味をなさない。本を読むのではなく、あなたは川に飛び込んでみなければならない。
水のなかでもがいているうちに、あるとき浮かぶコツを見つける。 そうしてはじめて、泳ぎというものが理解できる。 気づきもそのようにしてコツをつかんで、はっきりと知ることのできるなにかだ。 

ブッダの「五頭立ての馬車」のたとえを使って、この気づきのメカニズムを話してみよう。 
あなたは、今、この本を見ている。 視覚という馬が機能して、この本が見えている。
しかし視覚はこの本が見えているだけであって、「これは本だ」とは言わない。 
これがコップではなく、本だ、と識別するのは、マインドというぎょしゃである。 
そして、それと同時に、そのすべてを了解している、わかっているという気づきがある。 
ここには三つの機能がオーバーラップしているのだ。 それがわかるだろうか? 
いま、この瞬間、実際に確かめてみてほしい。 
1、視覚が働いて、見えている。 
2、マインドが働いて、本だと意識している。 
3、気づきが働いて、そのすべてを了解している。 
これはひとつひとつ別々な機能である。 
では、つぎに目を閉じてみてほしい。 そうすると、本は視覚から消えている。あなたはなにも見えないはずだ。 
したがって、このときぎょしゃは本という焦点について機能していない。 ということは、1と2の働きは停止しているということになる。 
しかし、目がとじていて、なにも見えない、ということはわかっているはずである。 
ということは、1は目をあいているときにだけ機能し、2はマインドがそこに焦点をあわせたときにだけ機能し、3は1と2が機能していようと停止していようと働きつづけているということになる。 

目という視覚の働きと気づきの関係は、スタンドの明かりと電流の関係にも似ている。 
スタンドのスイッチをオンにすると明かりがつく。
オフにすると、明かりが消える。 
それはオンにして目をあけるとものが見えて、オフにして目をとじるとなにも見えないというのと同じだ。 
けれども、オンにしようとオフにしようと、スタンドの背後に流れている電気はけっして途切れることなく、流れつづけている。 
同じように、気づきは視覚とマインドの機能がオンになったり、オフになったりしても、それに左右されることなく、一日24時間、一年365日、けっして休むことなく、あなたが生きているあいだ、ただじっと気づいている。 
わかるだろうか――? わからないときには、瞑想や気づきのエクササイズを実際にやってみる必要がある。 
のどが渇いたときに「ビールが飲みたい、ビールが飲みたい!」と唱えても、ビールはやってこない。
あなたは財布をもって、近くのコンビニまで買いに行くという行為をしなければならない。 
頭のなかでとなえたり、心のなかで願うだけでは、いつまでたっても絵に描いた餅にすぎない。 
しかし、いったんこれがわかれば、今度はそれを失うことが不可能になる。 
じっと見ていると、ある瞬間、そこに一定の文字や絵が見えるというゲシュタルト・ピクチャーがあるが、それと同じことだ。 
いったんこの「気づき」という文字がわかれば、あとはなぜ見えなかったのか考えられないほどに明白だ。 
いったん気づきがわかれば、あとは失うことも、見まちがうことも不可能だ。
これがなぜわからなかったのか、あなたは不思議に思うだろう。 
わからないうちは、長くて曲がりくねったあぜみちを歩くようなものだ。が、わかってみれば収穫したあとのの田んぼのなかを一直線に歩いてわたるようなものである。
 
これがはっきりわかれば、ここに二種類の気づきがあることも判明する。 
方便として用いる気づきと、本源としての気づきである。 
方便としての気づきは瞑想の技法として用いられる。
それは行ったり来たりする、得たり失ったりする。 
しかし、本源はつねに気づいている。
これは行ったり来たりすることなく、得たり失ったりすることがない。 
本源はたえず観照している。 これは永遠に変わることがない。

 

⚫︎ セミナー&グループ
◎ 3月12日(火)20時〜 「バリの秘法」」
FBライブ マジュヌ with 石村マティ

◎ 3月13日()20時〜 「アーユルヴェーダ・ヨガと瞑想」
Zoom ライブ マジュヌ with ハンサ
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◎ 3月14日(木)20時〜 ■オンライン無料説明会
https://us02web.zoom.us/j/82188711454
ミーティング ID: 821 8871 1454
バリ島リトリート6日間 ◎ 4月29日(火) 〜5月4日(日)
「タントラ・ブレス&瞑想のだいご味 in Bali」
https://www.facebook.com/events/1794125171388343

◎ 3月16日(日)20時〜 ■オンライン無料説明会
https://us02web.zoom.us/j/82188711454
ミーティング ID: 821 8871 1454
ブレス・ファシリテーター・トレーニングコース
2025年5月23日(金)〜6月1日(日)10日間
https://www.mystic-live.com/breath-training

◎ 4月6日(日)〜27日(日) オンラインzoom
瞑想の醍醐味セミナー 初級/中級コース
https://www.mystic-live.com/integrated
https://www.street-academy.com/myclass/100605



 

 

12―光の宮殿

王は、後継者を選ばなければならなかった。彼には三人の王子がいた。 
どのようにして後継者を選んだらよいか、助言をもとめるため、ある日、王は聖者を訪れた。 
「後継者にはなにをもとめるのかね?」 
と聖者がたずねた。 
「賢く見ることのできる洞察力です」 
数日後、王は三人の王子を宮殿に呼んで、言った。 
「後継者を決めるときがきた。その方法は、おまえたちの宮殿をなにかでいっぱいにすることだ。なにでいっぱいにしてもよい。しかし、予算はコイン一枚、期間は一週間だ」 
三人の王子は、それぞれ広大な宮殿に住んでいた。 
第一王子は農家から収穫後のワラを買いあつめて、宮殿に運び込んだ。 
しかし一週間後に王が訪れたとき、ワラは宮殿の三分の二しか埋まっていなかった。 
王は不満げな様子で、第二王子の宮殿に向かった。 
宮殿に近づくにつれて、いやな匂いがおそってきた。
その匂いはますます強烈になり、宮殿に着くころには呼吸することさえむずかしいほどだった。 王子は町中のゴミを集めて、宮殿をゴミでいっぱいにしたのだ。 
王は強烈な匂いに吐き気をもよおしながら、絶望的に首を横にふった。 
王宮に戻ると、いちばん若い王子が言った。 
「私の宮殿には今夜おいでください」 
王は、彼が一週間のあいだ、あらゆる家具を運び出し、毎日宮殿内を掃除して、ぴかぴかにみがきこんでいるという噂を聞いていた。しかし、そのあとになにかが運び込まれた様子はなかった。 
王は、夜になって、第三王子の宮殿をおとずれた。 
王子は宮殿内に王を招きいれた。 
宮殿にはだれもいなかった。 
家具も、食器類も、あらゆるものが運び出されて、なにひとつ残ってなかった。 
静まりかえった宮殿のなかを、二人は歩いた。 
それぞれの部屋と廊下の隅々には、明かりがともされていた。
それは神秘的なうつくしさをかもしだしていた。 
王が言った。 
「すばらしい。なんと神秘的なうつくしさだろう! しかし、宮殿のなかはからっぽではないか。私は、なにかでいっぱいにするようにと言ったはずだが・・・」 
王子はにっこり笑って、言った。 
「宮殿内の空間はすべて、明かりで照らしだされています。おわかりになりませんか? 宮殿は光で満ちているのです」 
王子の顔を見ながら、王は満足そうにうなずいた。 

 

 

◎ 4月6日(日)〜27日(日)オンラインzoom
瞑想の醍醐味セミナー 初級/中級コース
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◎4月29日(火) 〜5月4日(日)
「タントラ・ブレス&瞑想のだいご味 in Bali」
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バリのスピリチャル・パワーに包まれて、タントラと、ブレスと瞑想の甘露を味わいましょう。
バリ独特のスピリチャル磁場(ブッダ・フィールド)で、ブレス(究極の内的浄化法)と、タントラ(内なる出合い・親密性)と、瞑想(自己自身への深い満足感と、満ち足りることへの理解)の融合から、フレッシュな<自己体験>を得ることができるでしょう。

 

 

 

【コメンタリー】 
これは、「ネティ、ネティ」と呼ばれる有名なヴェーダンタの技法について、語っている話である。 
その技法とは、真理に到達するまで、識別できるものはすべて、否!、否!、と否定していくというものだ。 とにかく、なにが来ても「これではない!」と否定せよ、と言う。 否定して、否定して、否定するものがまったくなくなるまで、徹底して否定せよ、というのだ。 
知覚できるものは、それがなんであれ否定しなければならない。 したがって、まず「視覚」によって得られる情報をすべて否定していく。 ここで条件をつけてはならない。 汚いごみためだから否定しようとか、美しい夕日だから残しておこうとか、選別してはならないのだ。 視覚の網にひっかかるものはなんであれ、無差別に否定していく。 
私たちは、日常生活のなかで、なににもまして視覚にたよっている。 ある人の説によると、私たちがなにかを選択するとき、その80-90パーセントの情報は主に視覚にたよっているとさえいわれる。 正確な数字はわからないが、多くの情報が視覚をとおして入ってくるのは、だれもが承知している事実だ。 したがって、視覚から入ってくる情報を否定すれば、それだけで多くの情報がカットされることになる。 
つぎに、「聴覚」からの情報を一から十まで否定していく。 工場の騒音も、川のせせらぎも、鳥のさえずりも、みな一様に「これでもない、これでもない」と否定するのである。 
同じようにして、ほかの感覚器官-「臭覚」、「味覚」、「触覚」-から得られる情報を徹底的に否定する。 
こうして、外側からの情報をすべて否定すると、今度は内側にある情報が浮かびあがってくる。 「感情」というものがあることに気づきはじめる。 悲しいとか、怒っているとか、好きだ、嫌いだ、などという情報が微妙に入り交じっているから、それらをかたっぱしから否定していく。 なぜなら、そういったものはすべて、あなた本来のものではないからだ。 それらを良いものも悪いものも、みなひっくるめて捨ててしまう。 ここでも選り好みをしてはならない。 
良いものは残して、悪いものだけ捨てようとすると、あなたは落とし穴のなかに落ちたことになる。 人間は理性の動物だなどという言葉を聞くことがあるが、実際には、感情のほうが圧倒的に強いものだ。 感情のうねりが強まれば、理性などひとたまりもなく吹っ飛んでしまう。だから、いっそう注意しながら感情をしっかりと見守り、「これでもない、これでもない」と否定しつづけなければならない。 そうしていくうちに、「怒りが私のなかでおこっているが、私は怒りではない」、「悲しみが私のなかにあるが、私は悲しみではない」ということがわかってくる。 感情との自己同一化の絆に、じょじょにひびがはいってくる。 
注意しながら感覚も感情も否定しつづけていると、今度は「思考」というものが雲のように浮かんでは形を変えながら消えていき、また別なものが浮かんでは消えていく、ということを繰り返していることに気づく。 だから、それもまた同じように否定していく。 あらゆる思考を無条件に捨てさっていく。 
五感をとおして入ってくるものは、あなたの外側にある情報である。 あなたの外側にあるものは、あなたではない。 これは単純な事実である。 
同じように、あなたの内側にあるものもまた、あなたではない。 なぜなら、それらは「あなた」の内側にあるものだからだ。 それらは、あなたではない。 
それなら、そのような感覚のやどる肉体はどうだろうか? 「あなたの手」とか、「あなたの頭」とかいうが、それはあなたの手であって、あなたではない。それはあなたの頭であって、あなたではない。 手をさして、「これは私です」と言う人はいないだろう。だれもが、「これは私の手です」と言う。 「あなたの**」と言えるものはすべて、あなたではないのだ。 
このポイントをもっともっと深く究明してみなければならない。 そんなことを意識的に言っている人はいないだろうが、奥深いところではみんな知っているのである。 それにもかかわらず、意識の表面部分では、いつのまにか、肉体と自分との境を見失っている。いつのまにか、肉体が自分だと思って、肉体の快楽を追い求めている。 よーく検討してみる必要がある。 
これを読んでいる人のなかには、手術で胃の三分の一を取ってしまった人とか、事故で手や足を切ってしまったという人もいるだろう。 彼らはみずからの体験から、肉体の一部が失われても、あなたにはなんの影響も及ぼさない、ということを知っている。 あなたの機能の一部が失われるだけで、あなたはまったく変わらない。 反対に、骨折した骨のつなぎとして体のなかに金属がはいっていたり、心臓にペースメーカーがはいっていたりしているとしても、やはりあなたは変わらない。 
肉体は増えたり、減ったりする。 年齢とともに大きくなったり、小さくなったりする。 しかし、よく見ていけば、あなたはそのような肉体の増減、快不快などとはまったく別な存在であることがわかる。 あなたは増えたり減ったりするようなものではない。 
たとえば、ここに40歳の人がいる。彼は40歳という肉体と年齢を今もっている。10歳のときには体は小さかった。20歳のときには、体はみずみずしかった。体は変化している。 だが、よく見ていけば、彼のなかに、5歳のときも、10歳のときも、20歳のときも、40歳の今も、変わらずにあるものがひとつある。 それがあなただ。 それが真理だ。 それを見つけなければならない。 
肉体は刻一刻変化している。 マインドは一瞬たりともとどまることがない。 だが、あなたはけっして変化しないなにかだ。 
この動きつづけるふたつのものに、自分の土台を築こうとすると、あなたはサムサーラという輪廻の世界に生きることになる。 あなたの人生は、砂の上につくられた城のようなものになる。 なぜなら、土台が動きつづけるからだ。 あなたは、けっして動かないものを土台として見つけなければならない。 肉体やマインドにたいする自己同一化から解放されて、永遠の土台石の上にあなたの城を築かなければならない。 
ブッダは、これを五頭立ての馬車にたとえている。 
五感が馬であり、肉体が馬車であり、ぎょしゃがマインドである。 その目的は、馬車のなかにいる主人を無事に送りとどけることだ。 五頭の馬とは、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚である。 
ときには事故や老齢のために、馬は使いものにならなくなることがある。 ときには聴覚や臭覚という馬が死んでしまうこともある。 そうすると、馬車はのこりの3頭でひっぱらなくてはならない。 機能はずいぶん衰えるだろう。馬車のあゆみは遅くなるだろう。 しかし、馬車のなかの主人に変化はない。 
ぎょしゃはそれぞれの馬を叱咤激励し、ちゃんと目的地に着くかどうか心配したりするかもしれない。なぜなら、それがマインドの仕事であるからだ。 しかし、主人は馬車が早く走ろうと、ゆっくり歩こうと、まったく頓着することがない。馬が老齢化によって能力が低下しようと、馬車が古くなって色がはげおちてこようと、主人は変わることなく、なんの影響も受けることがない。 なぜなら、目的地というのは馬車にとって必要なだけで、実際のところ、主人はどこへも行く必要がないからだ。そして、それを主人は知っている。 
しかし、あなたは馬車が主人だと思っている。 だから、馬車の機能が低下していくにつれて、あたかもあなた自身の価値が低下していくような錯覚におちいって、本来の覇気をうしなう。 ぎょしゃが主人だ、と多くの人は思っている。 そうすると、彼らは馬車がスムーズに動いているときにはよろこび、故障すると悩む。うまくコントロールできるときには至福をかんじ、できないときには惨めに思う。 
自分ではないものを自分だと思っているうちは、混乱と混沌がつづく。 自己と自己でないものを同一化しているうちは、不安のなかに落ちつづけるだろう。安心のなかに落ち着くことはけっしてない。 
あなたが感知できるあらゆる情報を断固として「否!」、「否!」と否定しつづけなければならない。 最後に、否定できる情報がなにもなくなったとき、それはあなたの「永遠の恋人」にたどりついたときだ。 あなたは、無言で、ただにっこり微笑むだろう。 

 

* 今年初めのオンラインセミナーです。

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若い娘の夫が、友人たちと一緒に妻の実家を訪れてきた。 娘とその友達が窓越しに彼らを見ていた。

娘の友達は、だれが娘の夫なのかまだ知らなかった。彼女は、若者たちの一人をゆびさして、 
「あの人があなたの夫なの?」 と聞いた。 
「ちがうわ」 と言って、娘はにっこり微笑む。

彼女はまた別な若者を指差して、 
「じゃあ、あの人が夫なの?」 と聞くと、娘はまた、 
「ちがうわ」 と言って微笑む。

三人目の若者にも、四人目の若者にも、娘の答えは同じだった。 
最後に、「あの人がそうなの?」と聞くと、彼女は「そうだ」とも「ちがう」とも言わずに、ただにっこりと微笑んだ。 それで娘の友達は、彼が娘の夫だということがわかった。 

もうひとつの話をつづけよう。 
赤ん坊のときに誘拐された息子を捜して、男は何年も旅をつづけていた。 
彼はようやくの思いで盗賊たちの館をつきとめ、扉の前までやってきた。

夜もふけて、あたりは真っ暗だった。家の奥のほうからは、盗賊たちの酒盛りの音が聞こえていた。 
男は静かに扉をあけ、注意深く暗闇のなかを進んでいった。 
椅子に触れた――これではない! 
棚にふれた――これではない! 
テーブルにふれた――これではない! 
だが、じょじょに子供の寝息に近づいているようであった。彼はなおも進みつづけた。 
ベッドの足にふれた――これでもない! 
毛布にふれた――これでもない! 
枕にふれた――これでもない! 
そして、ついに眠っている子供の身体にふれたとき、男はもはやなにも言わなかった。 よろこびが稲妻のように彼の全身をつらぬいた。 彼は子供を抱擁した。 

 

*「タントラ・ブレス瞑想のだいご味 in Bali」

4月27日(日) 〜 5月2日(金)
https://www.facebook.com/events/1794125171388343

 

 

バリ島でのグループ(6日間)
バリのスピリチャル・パワーに包まれて、タントラと、ブレスと瞑想の甘露を味わいましょう。
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(前項から続き)

真実の姿は、ときに寓話という形によって、なによりも明せきに描写されることがある。この物語りはまさにその真髄をつくもので、最高傑作のひとつであろう。 
ライオンの子供は、羊の社会のなかで育てられた。

自分の本性がライオンであることを知らず、むしろ羊のなかの一員たろうと努力している。 

だが、なにかがフィットしない。 なにかがすっきりしない。 

成長するにつれ、ほかの羊とのちがいがはっきりしてくる。 
鳴き声のトーンがちがう。 たてがみの体毛はふさふさしているが、ほかの羊のように全身が長い体毛でおおわれているわけではない。 

比較すればするほど、自分は「醜い羊の子」だと思う。 

だが、どうしようもない。 

自分が羊だと思っているうちは、あれこれ努力してみる。

そして、シシュフォスの神話のように不毛な努力のなかで、疲れ果てていくのだ。 
これはライオンと羊のたとえを使いながら、人間の本質と現実のあいだに形成されるゆがみの構造を描写している。 

寓話のなかではライオンは一頭だけだが、実際には羊はすべてライオンである。

ライオンの群れがすべて自分は羊だと思い込んで、メエーと鳴き、草を食べている姿を思い浮かべてもらいたい。 

それは、実際、奇妙な光景にちがいない。 

しかし、それが人間におこっている現実でもある。 
 

さきに、「オニオン・ピーリング・ヴィジョン」という変容のプロセスを紹介した。 

それは基本的に、今のあなたはさなぎであり、内的変容をとおして成長していくことによって、ある日「さなぎ」から脱皮して「蝶」になるという視点だ。 

そのためには、瞑想、奉仕、祈り、ハタヨガ的な肉体と呼吸の修練などのワークが必要だ。 

あなたはそのワークをとおして、より精妙で崇高な境地を達成していく。 
この視点にたいして、この寓話はもうひとつ別な視点を提示している。 

自分を羊だと思い、羊の社会に順応しようとしているライオンが、その本来の自分というものを得るためには、なにも特別なものを必要としない。

たんに目覚めることが必要なだけだ。 

夢のなかで苦しい思いをしているとき、それを解決する最良の方法は夢からさめることである。

一瞬にして、「あ、なんだ、夢だったのか!」と我にかえる。 

真実を、直接あるがままに、<観る>ことが必要なのだ。 
若いライオンは、水面にうつった自分の姿が大きなライオンと同じものであるのを見た瞬間、自分本来の姿を悟った。 

そこに時間は介在しない。 

そこにプロセスは介在しない。 

それがはっきりわかった瞬間、「ガオー!」というライオン本来の雄叫びが自然にわきおこった。 すべての疑いが氷解し、「これが私だ!」という了解が全身をつきぬけた。 そのとき、ライオンだと自覚したライオン本来の咆哮(ほうこう)が、青空にひびきわたった。 
その瞬間、なにがおこったのだろうか? 

その一瞬前まで、ライオンは羊だった。 

その瞬間から、ライオンはライオンである。 

この十分の一秒間ほどの<一瞬>あいだに、さなぎは蝶になったのだろうか? 

否!、である。 

この一瞬のあいだに、ライオンはなにか特別な成長をはたしたのだろうか?  

否!、である。 

このように短い時間のなかで体験できるものなどなにもない。 体験するためには時間が必要である。 

したがって、その瞬間にはなにもおこらなかった。

が、一瞬にして、「わかった!」のである。 
なにかに「なる」ためには時間がかかる。 

だが、「わかる」ときには時間はかからない。 

メガネをかけていながら、メガネをさがしまわっている人にとって、「メガネはもうかけているじゃないか」という一言だけで十分だ。 彼は、「なんだ、かけていたのか」と言って、笑うだろう。

そのとき、彼は新しいなにかを達成したわけではない。 

「あっ!」とわかるときには、時間はかからない。 

彼はメガネを得るためになにかをする必要はない。

なぜなら、彼はそれをすでにもっているからだ。

ただ、それに気づくことが必要なだけだ。 
あなたはすでにライオンである。 

あなたはすでに、あなたが求めている<よろこび>そのものである。 

あなたはすでに<自由>なのだ。 
これは、「ガチョウは外だ!」と叫ぶ禅の師の教えと同じである。 

あなたは深い海底にもぐって、真珠をさがしまわっている。 

だが、真珠はあなたが持っているのだ。 

あなたが持っている、というのもほんとうは正しくない。 

なぜなら、そのとき<あなた>と<真珠>は別々なものになるからだ。 

正しくは、「あなたが真珠そのものだ」と言わなければならない。 
玉ねぎの皮を一枚一枚 むいていった結果として、真珠があらわれるのではない。 

玉ねぎをむいているあなたが真珠なのだ。 

あなたは、それを一瞬にして、<観る>必要がある。 

一瞬にして、<知る>必要がある。 
真珠は、今、この瞬間、完璧な姿でここにある。 

あなたはそれを知らなければならない。 

玉ねぎの皮をむくのは、時をかせぐ方便にすぎない。 
あなたが真珠そのものだと宣言するこの視点のことを、「パール・ビジョン」という。

 ここには成しとげるものはなにもない。 

あなたはすでに<自由>なのだ。 

あなたの本性をはっきり<観た>とき、あなたはライオン本来の雄叫びをあげるだろう。それを獅子孔(ししく)というのだ。 

それは真の祝祭であり、つきせぬ光明(生)のはじまりでもある。 

 

 

*1. 8/23. 20:00 ~ 9/1. 15:00 (9泊10日)
 ブレス・ファシリテーター・トレーニングコース
深い呼吸を通じて内なるエネルギーを解放する「呼吸の錬金術」。トレーニングの後、ブレスの「個人セッション」ができるようなスキルと瞑想を学びます。
*トレーニングコースを受けた後は、その後のマジュヌのイベント・グループなどにヘルパー・アシスタントとして参加することができるようになります。
・オンライン説明会;8月1日&8日、20時〜(チケット無料を申し込むと、ズームのURLが送られてきます)
https://www.mystic-live.com/breath-training


*8/23(金) - 8/25(日)  タントラ・ブレス瞑想 in 広島
*8/30(金) - 9/1(日). タントラ・ブレス瞑想 in 広島
「タントラ・ブレス瞑想」は、タントラとブレスのさまざまな技法を通して、あなたのクンダリーニエネルギーが上昇することを助けます。そこには歓びがあり、祝祭があり、日々の気づきがあり、そして何よりもそれを瞑想として楽しむことができるというグループです。
https://www.mystic-live.com/breath-group


*9月神戸、名古屋、大阪、東京、仙台、岩手イベント企画中!
https://www.mystic-live.com/tantra-bless