(前編からの続き)

この話は、だれもが子供のときに、どこかで聞いたことがあるはずだ。

私が小学生のころには「道徳」という授業があったので、そんなところで聞かされそうな教訓話だと思っていたら、精神世界の師たちも神を語るのに使っていた。

この話は、今から100年以上前に、ラーマクリシュナという師によって語られたものだ。

ラーマクリシュナは弟子たちにこの寓話を語ったあと、言った。 
「<神>の本質について議論するとき、一人一人が知っているのは無限の<神>の小さな一部にすぎない。 あなたが体験したちっぽけな一部分で、<神>を限界のあるものにしてはいけない。 <神>は、それぞれの人がそれぞれ異なった体験をすることのできるものの全体像であり、それ以上のなにかだ」 
この<神>というところを<悟り>と直せば、そのまま禅の老師の言葉になる。そのようにして、もう一度読み直してみてほしい。 おもしろいニュアンスの違いを発見するだろう。 
仏教においては神の概念は消し去られるが、仏教の生まれ故郷であるインドには数えきれないほどの神が祭られている。 そのにぎやかさと派手さは他の追随を許さないほどだ。 インドは多神教の国である。だから、神という言葉がよくでてくるが、それほど深刻ではない。 有名な歌手や俳優について話すような感覚で、シバやクリシュナやガネーシュの話をする。 
また、ヴェーダンタやヨガなどは有形の神という概念を用いないかわりに、無形の絶対神としてブラフマンという概念を用いる。 
インドと日本の宗教色のちがいは、ヒンズー教のなかから仏教が生まれた過程をみるとよくわかる。 
ヒンズー教はインドにもともとあった神への信仰の総称であり、あらゆるものをつぎつぎと内包していったがゆえに、 多くの神が共存し、木も石も、魚も猿も、みな神の仲間入りをする。それはなんともにぎやかな宗教であり、素朴で、直裁的であり、肯定的で、男性的である。 「私はあなたが欲しい」とストレートに表現してくる。 神を実現するときの表現も、「千の太陽が一度に昇るようだ」とか、「蓮の花びらが無限に開きつづけるようだ」などという積極的な表現がもちいられる。 
ウパニシャドのなかには、「全体から全体を取り出すと、見よ、全体が残る」とか、「無限に無限をくわえると、見よ、無限は変わらない」などという表現があり、 詩的な感性を駆使しながら、おおらかにそのすばらしさを歌いあげている。 
ブッダが修行していたころには、このヒンズー教体系がすでに数千年以上の歴史をもっていたわけで、既得権をもった既成宗教になっていった。 そうすると、どの既成宗教もだらけてくるもので、はつらつとした輝きがなくなってくる。 そんなころ、ほとんど同じ時期にブッダやマハヴィーラが生まれ、新興宗教としてヒンズー教にたいして強烈なアンチテーゼをたてていくわけである。 それは、当時の人々にとっては革命的なものであったにちがいない。 ブッダはこう言って、既成の宗教の鼻ずらに強烈な一発をかます。 
「光明を得ることは、千の太陽が一度に昇るようなものではない。 それは、太陽も、月も、星も、みな消えていくようなものである」 
そして、また、彼は言う。 「悟りの体験は、蓮の花びらが無限に開きつづけるようなものではない。 それは、ローソクの炎を吹き消したあとの闇のようなものだ」 
ブッダは、何千年にもわたる時間のなかで、真の光彩をうしなってしまった既成宗教にたいして「ノー!」と言ったのだ。 それは、古い伝統にあきあきしていた当時の新知識人層に、新鮮な切り口を提供したのである。 
ヒンズー教の肯定的なアプローチにたいして、仏教の否定的なアプローチは衝撃的な対比(コントラスト)をなしている。 それは、新鮮な息吹であった。 日本では仏教の否定的なアプローチだけが取り入れられたため、若者にとって仏教は暗くて、抹香臭い、厭世的で、死んだような印象を与えてきたが、 それはインドにおけるヒンズー教という太陽がないからである。 月は太陽の光を反射して、その神秘的なうつくしさをいかんなく発揮する。 否定(ネガティブ)は肯定(ポシティブ)があってはじめて、本来のかがやきが発揮されるのだ。 女性がいかにうつくしく、すぐれて、心やさしいからといって、女性だけでは世界は成立しない。 野獣(けもの)のような男が隣りにいてこそ、はじめて女性の美が存分に発揮されるのだ。 
ものごとが生き生きと、よろこびに歌い踊るときにはかならず、肯定的なアプローチと否定的アプローチの両方が、バランスよく機能しているものだ。 否定的なアプローチだけがつづくと、それは本来の躍動感を失ってしまう。 
黒板に白いチョークで「涅槃」と書くから、はっきりとよく見えるのだ。 黒板に黒い墨でそうと書いても、ただ暗いだけで、はっとさせる色彩感をもたらさない。 
単純で、明るく、にぎやかなヒンズー教的アプローチのなかにいると、心がうきうき楽しくなってくる。 そして、そこにブッダのローソクの炎を吹き消した「涅槃」の切り口が、新鮮な静寂をもたらすのだ。 
山に登るときには、いろいろな登山口から登ることができる。 どの道を通ろうと、到着するところは同じである。 
どのような精神的手法によって道を歩んでも、たどりつく真理はひとつである。 ふたつあったら、それは真理ではない。 多くの宗教的なアプローチがあってとしても、至福という目的地にちがいはない。 
だが、人々は、神と言ったり、アラーと言ったり、仏と言ったりする。 意識と言ったり、本源と言ったり、空と言ったりする。 天国と言ったり、極楽と言ったり、楽園と言ったりする。 それらは、たんに異なった表現方法を用いているにすぎない。 それらは、究極的にはすべて、同じひとつのものを別々な指(表現法)によって、さししめしているのだ。 
前述のラーマクリシュナは、たいへん興味深い師たちのひとりである。 彼はこのように語っている。 
「それは水のようなものだ。 水は、それぞれ異なった言語によって、異なった名前で呼ばれる。 湖にいくつかの沐浴場(ガート)があるとしよう。 ある場所で水を飲んだヒンズー教徒は、それを<ジャル>と呼ぶ。 別な場所で水を飲んだイスラム教徒は、それを<パニ>と呼ぶ。 そして、また別な場所で水を飲んだキリスト教徒は、<ウオーター>と呼ぶのだ。 この三つの呼び名はひとつであり、同じものである。ただ名前がちがっているにすぎない。 同じように、真実を、ある者は<アラー>と呼び、ある者は<神>と呼び、ある者は<ブラフマン>と呼ぶのだ」 
だれもが、それぞれ自分の真理体験を、それぞれ自分の言葉で表現している。 だが、それらはすべて、盲目の子供たちが自分の体験によって、「象はうちわのようだ」、「柱のようだ」、「壷のようだ」と言っているようなものである。 「うちわのようだ」と言おうと、「柱のようだ」と言おうと、体験している象そのものは同じものである。 「千の太陽が昇るようだ」と言おうと、「ローソクの炎が吹き消されるようだ」と言おうと、それらはすべて真理の一断面にふれているにすぎない。 
盲目の子供たちはそれを知らない。 だが、師はそれを知っている。 だから、子供は「無知(イグノランス)」だと言われる。 一方で、師のほうは「無邪気(イノセンス)」だと言われるのである。