イエケルの息子エイシクが夢をみた。 
それは、プラハ王宮の橋のたもとに宝物が埋まっている、という夢だった。 
同じ夢をつづけて何回も見たので、彼はプラハへの旅にでることを決意した。 
しかしプラハに着いてみると、王宮につうじる橋にはつねに見張りが立っていて、そこを掘ることはむずかしかった。 
毎日橋のたもとにでかけ、一日中、その辺りで時を過ごしていると、守衛頭がエイシクに気づいて、彼に話しかけた。 
エイシクがプラハへ来ることになった夢の話をすると、守衛頭はあきれた様子で、笑いながら言った。 
「夢のおつげを信じて、ここまでやって来たのか! 
そんな夢を信じるなんてばかげたことだ。 
似たような夢なら私も見たことがあるが、それにしたがうなら、クラクフに行って、イエケルの息子エイシクの家を探し、その暖炉の下にある宝を掘らなければならない。 
だけど、考えてごらんよ。クラクフでは住民の半分がエイシクで、残りの半分がイエケルという名前だ!」 
エイシクはていねいに礼を言って、家路についた。 
そして、自分の家の暖炉の下を掘って、宝物を手に入れた。 

 

 

最近、友人にすすめられて「アルケミスト」という本を読んだ。 
それは、羊飼いの若者が、夢のおつげを信じて、スペインからエジプトまで宝をさがしにいくという物語りだった。 
エジプトに着いて宝の埋まっている場所を掘っていると、盗賊に身ぐるみはがれてしまう。そのとき、盗賊の首領が若者に自分の見た夢の話をするのだ。 (続く)

 

 

* 7月7日〜28日 瞑想の醍醐味 [中級]  セミナー

(毎週日曜 全4回)

瞑想は真の自分につながる最良の道であり、この味わいがわかると日常のなかにスピリチュアリティの質をもちこむことになります。そうするとあなたの現実世界が少しづつ変容されていくでしょう。

https://www.mystic-live.com/meditation-seminar

 

 

 

 

 

 

 

(前回から続く)

師は探求者の用意ができていないのを見て、体験をつみかさねる旅にいざなう。 そして、その旅は世界をひとまわりして、またスタート地点に戻ったところで完結する。 
「青い鳥」をさがして世界中を旅したあげく、「青い鳥」を自分の家のなかに見つけるというメーテルリンクの物語りと同じである。 
青い鳥を自分の家のなかに見つけたとき、子供たちは叫ぶ。 
「なんだ、これが青い鳥だったのか。世界中を捜しまわったけど、最初から家のなかにいたんだ!」 
精神世界の旅も同じような旅になる。 
しかし、なおかつ、あなたは自分の足で旅をしなければならない。 
そのために、師は「いつか・どこか」で達成する魅惑的な蜃気楼をつくりださなければならない。 
ヨガは、チャクラを下から上がっていくにつれて、より崇高な境地が達成されるという精神的(スピリチュアル)な仕掛けをつくる。 
禅は「ガチョウは外だ!」と言いながらも、座禅をしたり、作務をしたり、毎日きびしい修行をさせる。 
これらはすべて<方便>である。そして、<方便>は究極的にはすべて嘘である。 
嘘はいつか嘘だとはっきりわからなければならない。 
師を探すのはむずかしいという話をしていた。 
その第一の理由は、ほんとうの師の数が少ないことだ。 
そして、第二の理由は、師をさがす探求者が、色メガネをかけて見ているからだ。 
色メガネをかけていれば、ほんとうの色は見えない。黄色のレンズをとおして見れば、すべてが黄色に見える。 
彼は「思い込み」というみずからの条件づけにしたがって、「これは好きだが、これは嫌いだ」、「これは良いが、これは悪い」という判断をくだす。 
これが色メガネである。そして、この色を外側のすべてに投影させる。


あなたの世界は、すべてこの投影によって成り立っている。 
だから、世界はあなた自身がつくりだしているのである。 
惨めさであろうと、怒りであろうと、悲しさであろうと、不安であろうと、それらは実はあなた自身がつくりだしているのだ。 
「あなたが世界だ」と覚者は言う。 
あなたが自分であなたの世界をつくりだしている。 
そこが理解できれば、あなたは世界を変えることができる。 
なぜなら、あなたは宇宙のすべてと、親密に、密接にむすびついているからだ。 
あなたがほんとうに変われば、それにつながる存在のすべては微妙に影響をうけることになる。そのようにして、あなたが変われば世界が変わる。 
そのためには、まず、あなたのかけている色メガネをはずさなければならない。 
師をさがし、真理を実現したいと思うのは、単純に言えば、それを知らないからである。「私は無知だ」と自認しているわけだ。 
しかし、あなたのなかには、師とはこういうものだという思い込みがある。その思い込みにあわせて師をさがす。そして、それによって正しい師か偽者かを判断することになる。 
だが、それで正しい師を見つけることはできない。

あなたがくだす判断は100パーセントまちがったものになる。 
真理を悟った師は美しいオーラで満ちている、という色メガネをかけている人は、美しいオーラのない人は偽者だという判断をくだす。 
至福を達成した人は優雅にふるまう、という色メガネをかけている人は、特定の雰囲気をもつ人以外は目にはいらない。 
だが、真理は美しいオーラや顔つきとはなんの関係もない。

優雅さと悟りのあいだには、なんのつながりもないのだ。 
悟っていない人でも優雅にふるまう人はいる。 
真理を実現した人でも、優雅さとは遠くかけ離れた人もいる。 
優雅さはなんの基準にもならない。 
それにもかかわらず、多くの人はそのような何かを判断基準にする。 
そして、自分にはほんとう師を見わけることができるという自惚れもつ。それが障害になる。 
それは、多くのの探求者がおちいる罠である。 
それは長い間探求していることから生じる探求者のエゴである。 
あなたは「思い込み」という壊れたはかりによって師をはかり、あやまった判断をくだす。

それは避けようがない。正しい目をもっていないのだから、これはどうしようもない。 
自分ではすべてわかったような気になって、迷いのなかにいつづける愚者の相手などしたくないと思う覚者は、沈黙する。 
そんな生意気な者たちでも目覚めさせたいと思う覚者は、演技しなければならない。そして、「師(マスター)」という役を演じる。 
さもなければ、あなたはこの道から離れていってしまうからだ。 
あなたは、師とはこういうものだというイメージをもっている。 
師はそれが間違ったイメージだということを百も承知で、それを演じていく。 
それは慈悲以外のなにものでもない。 
それは疲れる仕事である。

こんなことはよほど好きな人でなければやらない。 
だから、師は大切にしなければならないのだ。 
師は基本的にみなすぐれた役者であり、それぞれ味のある芝居をする。 
問題は、偽者も演技するということだ。 
実際、彼らのほうが見た目には上手に演技する。だから、ますますわからなくなってしまう。 
それではどのようにして本物と偽者を識別するか、ということが大きな問題になる。 
だが、困ったことに、それを識別する方法は究極的には皆無である。 
だから、状況は絶望的だ。 
まず、あなたの思い込みがあるかぎり、ほんとうの覚者を見わけることはできない。 
それから、慈悲心によってあなたの色メガネの色にそうようにあらわれるごく少数の師を、あふれかえる偽者、 ペテン師からよりわけるのは不可能に近い。

それは、砂浜に落とした一粒のダイヤモンドを見つけだすようなものである。 
だから、あなたの目によって、ほんとうの師を見つけだすのはむずかしい。 
しかし、存在はそのような理屈によって挫折することはない。 
あなたが全存在をかけて「ほんとうの自分とは誰か」を追求していけば、つじつまのあわない矛盾が起こりはじめるだろう。 
あなたは、いつかかならず師に出会う。 
だから、偽の師たちを恐れる必要はない 
それは、あなたが真に成熟するのに必要な一里塚だとも言える。 
彼らは、あなたを先に進ませてくれるだろう。 
実際問題、あなたは真に価値のあるものをなにひとつ持っていない。


だまされ、すかされ、盗みとられてしまうようなものなど、もともと価値のないようなものばかりだから、どんどんはぎ取られてしまうがいい。 
なぜなら、それを恐れてどこにも一歩も出かけなければ、「青い鳥」を見つけることはできないからだ。 
あなたは勇気をかきあつめて<急流>という旅のなかに飛び込まなければならない。

その残りは<急流>が仕事をしてくれる。

 

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ひとりの男が偉大な聖者にたずねた。 
「私は裕福で世間的には問題ないのですが、どうしても心が落ち着きません。

心の平安を見つけて、幸せを得たいのですが、それにはどうすればよいでしょうか?」 
聖者が言った。 
「ある人間に見えないものが、ほかの人間にはよく見えるものだ。

私はおまえの病を治す方法を知っているが、それは通常の治療法ではない。

それでもやってみるか?」 
絶望している男は言った。 
「どんなことでもする用意はできています」 
聖者の助言はこうだった。 
「その方法とは、旅に出て、世界でいちばん幸福な人を捜し出すことだ。

その人を見つけたなら、彼の着ているシャツをもらって、それを身につけなさい。

それがこの病の治療法だ」 
男は、その後すぐに、世界でいちばん幸福な人を捜す旅に出た。

幸福な人はつぎつぎと見つかったが、彼らは口をそろえたように、こう言った。 
「私が幸福なのは事実だが、私より幸福な人がいます」 
こうして、何年にもわたって、多くの国を旅したあげく、男はついにだれもが「世界でいちばん幸福だ」という人の住む森にたどりついた。 
森までくると、森の奥の方から大きな笑い声が響きわたってきた。

男は笑い声のする方向へ足をいそがせた。笑い声の主は、森のなかの小さな広場に座っていた。 
「世界でいちばん幸福な人というのはあなたですか?」 
と男が聞くと、 
「そのとおりだ」 
と彼は言った。 
男は自分自身について話し、旅の目的について説明したあと、 
「この病を治すには、あなたのシャツを着ることが必要なのです。どうか、それを与えてください」 
と頼んだ。 
世界でいちばん幸福な人は、じっと男の顔をみつめて、それから大声で笑いはじめた。彼は、笑って、笑って、笑いつづけた。 
笑いがおさまったあと、男が言った。 
「私が真剣に頼んでいるのに笑うなんて、あなたはおかしな人だ」 
「そうかもしれない」と幸福な人は言った。「しかし、おまえがちょっとでも注意して見たなら、私がシャツなど着ていないことがわかりそうなものだがね!」 
なるほど、よく見ると、聖者は腰布(ルンギ)をまいているだけだった。 
男は、途方に暮れてなげいた。 
「それでは、私はどうすればよいのでしょうか?」 
すると、世界でいちばん幸福な人が言った。 
「どうもする必要はない。達成しがたい何かのために努力することが、おまえの望みを達成するために必要な修行であったのだ。

 意をけっして急流に飛び込む人は、自分のなかの驚くべき力を発見して、川を横切ってしまうものだ。

おまえの病はすでに治っている」 
そう言うと、彼は頭にまいたターバンをほどいて、顔をあらわした。 
それは偉大な聖者その人だった。 
驚いた男が言った。 
「あなたでしたか!  それなら、なぜあのときそう言ってくれなかったのですか?」 
聖者は微笑みながら言った。 
「おまえには用意ができていなかった。だから、一定の準備が必要だったのだ。その試練を通過するなかで、治療薬がもたらされたというわけだ」 


*師は探求者の用意ができていないのを見て、体験をつみかさねる旅にいざなう。 
そして、その旅は世界をひとまわりして、またスタート地点に戻ったところで完結する。 (続く)

 

 

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(前項の続き)

 

師を見つけるのはむずかしい。 
それにはいくつかの理由がある。 
第一に、ほんとうの師の数が少ないことだ。 
目覚めた人が少ないというわけではない。この地球上には、つねに少なくとも200人の覚者がいると言われている。 
この地球の物質と精神のバランスをとるためには、それくらいの覚醒した意識が必要なのだ。 
20世紀後半から現在にかけて、地球の物質的側面は救いようがないほど悪くなってきている。空気も水も汚染され、食物にはわけのわからない化学的物質が混入している。 
いわゆるテロリストや資本主義国家の爆弾があちらこちらで爆発しているし、地球上の核兵器が爆発すれば地球自体が一瞬にしてふっとんでしまうという。 
この狂気のバランスをとるためには、とても200人では足りないだろう。2000人くらいは最低でも必要だ。ということは、それくらいはいるということかもしれない。 
そして、悪いニュ-スばかりではない。ある人の説によると、この数が一万人に達したなら、この地球は新しい意識体になる可能性があるという。 
実際、20世紀というひとつの集合無意識層の幕が閉じ、新しい世紀に移行する頃から多くの人が目覚めはじめている。昔はそれが東洋にかたよっていたが、最近では西洋にも多くの目覚めた人たちがあらわれてきた。これもまたバランスというものだろう。 
しかし、目覚めた人のすべてが師になるわけではない。それどころか、ほとんどの人は目覚めたあと、静かに舞台から消えていってしまう。 
10人の目覚めた人のうち9人は沈黙すると言われている。 
それは、彼らが不必要な葛藤を望まないからだ。 
師としての資質をおおやけに宣言した人は、ほとんど大なり小なり世間から手ひどい仕打ちをうける。 
その結果、キリストは十字架にかけられた。 
ス-フィ-の師、アルヒラ-ジ・マンス-ルは、生きたまま身体をひとつひとつ切りきざまれたあげく、殺された。 
アリストテレスは毒をもられた。 
だから、よほどの覚悟をしないと、だれもそんな仕事をしたがらないわけだ。まわりじゅうから嫉妬と憎悪の矢が飛んでくる。 
それでもやりたいというのは、よほど人に教えたり、指導したりするのが好きな人たちである。 
どこにでも人に教えるのが好きな人たちがいるものだ。 
どこにでも人の世話をやくのが好きな人たちがいるものだ。 
そのような資質をもった人たちが、師としての仕事をはじめる。 
それは、実際問題、たいへん疲れる仕事である。 
なぜなら、なにもわからない人たちが、なにもかもわかったような顔をして、あらゆる種類の愚行をしかけてくるからだ。 
だから、たいていの覚者は、生のもたらす一瞬一瞬を静かに生きていくほうを選ぶ。 
覚者が沈黙するもうひとつの理由は、その目覚めたものを直接描写することが不可能だということにもある。 
百万語を使って表現しようと試みても、一言もそれに触れさえしないからだ。 
どのような行為を用いてそれを見せようとしても、真理はけっしてその網にとらえられないからだ。 
この不可能を可能にするためには技術(テクニック)がいる。 

ブッダが悟ったとき、彼のマインドのなかでこのような対話がなされた。 
「私が得たこの法はあまりにも微妙であるため、人々に理解されることはむずかしい。私はこの甘露とともに沈黙したほうがよい」 
「それでは人々は救われない。この微妙な法がわかれば、人はこの世の苦しみから逃れることができる。私は法を説くべきである」 
仏典では悪魔がささやいて、神々が説得したという構図を用いているが、それは若きブッダの心のなかの葛藤であったはずだ。 
彼は2週間のあいだ、悟りのもたらす甘露を味わいながら、これをどのように人々に分かちあたえる(シェア-)かという方法論を考えている。そして、一緒に修行した5人の仲間たちならわかるかもしれないと思って、サルナ-トへ旅立つのだ。 
おもしろいことにブッダの最初の説法はこの5人の仲間たちではなく、サルナ-トへむかう途中に出会ったひとりの年老いたサドウーになされている。 
その老人は若きブッダの熱く燃えるような説法を聞いたあと、首を横にふりながら、こう言ったという。 
「若者よ、そのようにおごりたかぶるものではない」 
さぞかし、ブッダはがっかりしたことだろう。世界に名だたる師も、出だしはさんざんだったのだ。若きブッダ、36才の頃である。 
のちに彼は四諦八正道という修行体系をつくりだすが、最初からそのように整理系統だてられていたわけではない。原始仏教経典を読むと、ブッダはたいへん素朴で単純に、詩的なたとえを交えながら、当時の人々に説明している。 
説明できないことをどのように説明してわからせるかというのは、ひとつの芸術(ア-ト)である。それには一種のセンス、才能といったものが必要とされる。 
そういったものは、だれもが持っているわけではない。 
だが、それは他人に道をしめそうとするときに必要なだけであって、それによって覚醒の質が変わるものではない。覚醒する魂に優劣があるわけではない。 
ス-フィ-の物語りのなかでは、自分の靴をみがいていた男やタクシ-の運転手が、実は覚醒した人であったという話がよくでてくる。 
実際、今あなたのとなりでコ-ヒ-を飲んでいる人が、実はそうなのかもしれない。 
だが、もしあなたがたずねても、彼は「そうだ」とは言わないだろう。おそらく「とんでもない」と言うにちがいない。 
通常、機会がつくられなければ、彼らは表面にはあらわれてこない。だから、生きているほんとうの師を見つけるのはむずかしいのだ。 
にもかかわらず、あなたが真摯に求めつづけるなら、師はいつかかならずあなたの目の前にあらわれるだろう。 
それが精神世界の法である。 

 

ひとりの若者が、師を見いだすための旅に出た。
行く先々でいろいろな人や場所を訪れてみたが、「これこそ私の師だ!」という人には出会わなかった。
あるとき、彼は歩き疲れて、草原の大きな木の下で休んだ。そこには、すでにひとりの老人が坐っていた。
若者はとわずがたりに、自分の旅について、その目的について、老人に話した。
老人は若者の話をだまって聞いたあと、言った。
「おまえの師は、この道をどこまでも西に進んでいったところで見つかるだろう」
老人は、若者の師がどんな姿かたちをしていて、どんなところで、 どんなふうに坐っているかを詳細に語ってきかせた。
若者は老人に礼を言い、よろこび勇んで旅をつづけた。
太陽が沈む方向にむかって、ときには歩き、ときには舟に乗った。
旅先で得た情報をたよりに、さまざまな師やサドウーを訪ねてみたが、 老人が言いあらわしたような人には出会わなかった。
彼はそのたびに西にむかって進みつづけた。
そうして、20年が過ぎた。
若者はもはや壮年になっていた。だが、師はまだ見つからなかった。彼は旅に疲れ果てていた。
あるとき、彼は夕日が沈む方向に、大きな樹があるのを見つけた。そして、その下には人が坐っているようだった。
近づくにつれて、そこに坐っている人は、20年前に老人が語り描いた師の姿そのものだった。
師は、オレンジ色の衣(ロ-ブ)をまとい、長い白髪を肩までたなびかせている。
そのとおりだ。
師は、大きな木の下で、夕日にむかって蓮華座に坐っている。
まったく、そのとおりだった。
「見つけた!」
彼ははち切れんばかりのよろこびとともに、師のもとに駆けよった。
そして、師の顔を見て、驚いた。
それは、20年前に出会った老人その人だった。
老人は自分の姿を描写して聞かせ、若者はそれを見つけるために、地球をちょうど一周してしまったというわけだ。
「あなたでしたか――!」
と彼は叫んだ。
すると、師はにこりと笑って、「ようやく着いたか」と言った。
「それなら、どうしてあのときそう言ってくれなかったのですか? そうすれば、みすみす20年という時間を無駄にせずにすんだものを・・・」
彼がうらめしそうに言うと、師は毅然とした口調で言った。
「あのときも今も、私は同じだ。しかし、あのときのおまえには理解できなかった。 それがわかるためには、20年という年月の探求が必要だったのだ」


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師を見つけるのはむずかしい。
それにはいくつかの理由がある。

(次回に続く)

 

6/8(土) 13:30〜16:30 瞑想の味わい in 東京・早稲田

https://www.mystic-live.com/meditation-taste

6月2日オーシャン瞑想会、9日タントラ瞑想会は満席になったので、新たなイベントを作りました。

今回はブレスワークなしで、瞑想だけにしぼってやっていきます。

何が起こるかわからないけど、楽しみに、おいでください。

 

6/11(火) 18:30〜20:30 瞑想の味わい in 大阪・天満橋

今年の大阪は、しなやかに、やさしく、たおやかに、瞑想の味わいを味わうひとときにしましょう。みんなで瞑想すると、ハートがやすらぎ、至福に満ちていることが味わえます。

※日本で開催されるマジュヌの瞑想会、今回はこれが最終回となります。

 

 

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