生島足島神社 | ~日常ブログ~

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6月30日に行って来た御朱印巡り。
この投稿で最後となります。
 
この日最後に訪れたのは『生島足島神社』。
 

 

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ご由緒は、以前書かせて頂いたので、省略させて頂きます。
前回この説明案内板、撮影したっけ?していなかったような気がしたの撮影。
 
~前回訪れた時の様子、URL貼ります。~
 
今日はのぼりがたっていました。
 
 
 
前回訪れたのは寒い寒い2月。
季節が違うと、見える景色も全然違いますね!!
 
 
 
ここにも「茅の輪」が。
他の所では、ただくぐっただけでしたが、生島さんでは、正式の回り方をしました。
 
 
ここだけにはお清め用の人形が置いてありました。
 
 
ここからは前回、撮影出来なかった場所を中心にアップしていきます。
 
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『西御門』
生島足島神社は、東側、西側と入れるようになっています。
多くの方は、大通りに面している、東側から入ると思われます。
西も東も同じ造りとなっています。
 
 
『御神橋』
御本社(上宮)前にある橋。
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御神橋横の大木。欅でしょうか?
 
『生島足島神社 御本社(上宮)』
池心宮園池の神島内に鎮座しています。
本殿内殿の土間が御神体との事です。
 
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『摂氏 諏訪神社(下宮)』
この本殿は、棟札から慶長十五(1610)年に上田藩主真田信之の寄進により再建されたことがあきらかになっているそうです。また、棟札には本殿の部材を一木からすべて作ったこと、大工棟梁が宮坂勘四郎であったことなども記されているとの事。
 
ここに諏訪社があることについては、社伝では「諏訪の神が天照大神から信濃国統治の命を受けて下降の時、生島足島の神に御供を献上して両神の了承を得て諏訪へ向かわれたことに由来する」となっているようですが、大和神話では、諏訪の神様である建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が出雲の国譲りの戦いで追われ、出雲から船で能登に逃れ、さらに追い討ちにあい、越後に逃れ、信濃川を逆上るようにして諏訪の地に下降する途すがら、この地に傷ついて辿り着き、生島足島の神に粥をあてがわれ助けられ、お留まりになった故事によるもので、したがって生島足島神社は、諏訪大社より古いと言われていそうです。
諏訪の神様は、その恩に報いるために粥を献じ続けられ、それが現在も「御籠祭」として残っています。その粥の献上の際には本殿に架かる『御神橋』を諏訪の神様が渡られるというそうで、その為に、神橋は人には封印されています。
 
 本殿の全体の形式は正面の柱が二・八メートルの規模の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は銅板葺(元こけら葺)である。社殿の軸部は全体に彩色を施している。現在の塗装は昭和十六年の塗り替えによるものであるが、当初からこのような塗装(朱漆塗、胡粉塗など)がされていたと考えられる。
 この本殿は、全体の建ちが高く、軽快な感じのする点が特徴である。向拝の頭貫上部にある蟇股(かえるまた・表側に竜、背面に雲を彫る)、扉の上方にある蟇股(雲・麒麟)に立体的で精巧な彫刻が施されている点、脇障子の上部に熨斗(のし)結びの透し彫りを入れている点など、この時代に中央で盛んになった桃山様式を表現している。
 なお本殿手前にある門も本殿と同時期の建築と考えられる。門は、当初は内部に床を張った諏訪系の神社にみられる「御門屋(みかどや)」の形式をとっていたことが痕跡から確認でき、この形式の門としては県内で一番古い。
 本殿・門ともに県内の桃山様式を伝える貴重な建築である。
 
御本社と向かい合い、諏訪神社の本殿と門が県宝になっています。
下社・下宮あるいは北宮とも称されているそうです。
(ネット『信州小諸通信』・パンフレットより参照。)
 
 
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『夫婦欅』
諏訪神社の前に立つ、樹齢八年の大欅。生島足島神社境内に、根幹には、男性、女性を象徴する造形が見られ、夫婦円満、子宝安産、延命長寿のご神木として崇められています。
ここの神社の七不思議の一つと云われているようです。
(ネット『信州小諸通信』・パンフレットより参照)
 
前回は境内の外から撮影した写真だったので、近くで撮影。
 
 
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『歌舞伎舞台』
本舞台は、間口九間(16.36メートル)奥行約七間(12.27メートル) その規模は本県内の江戸~明治時代に建築された農村歌舞伎舞台のなかで最大のもので、全国的にみてもトップクラスに属するそうです。
 正面右と左の中二階に「太夫座」および「下座」を設け、内部のほぼ中央に半径2.4メートルの「廻り舞台」がつくられており、またその前方二カ所に「せり上り」があるとの事。
後方の壁面には巾二間(3.6メートル)の窓があるが、これは背後の自然風景を舞台背景として利用するためのものだそうです。観客席は舞台前方の平地で花道は舞台向って左手に仮設したと云われています。
氏子の伝承によれば、本舞台は明治元年(1868)に建設されその後校舎、集会所等に利用されてきたが、最近その建築が江戸期農村歌舞伎舞台の典型的な姿をほぼ完全に伝えていることが検証され、長野県県宝に指定されたとの事です。
(説明看板参照)
 
こちらも前回は境内外がら撮影だったので、近くから撮影。
 
 
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『戴明(たいめい)学校・下之郷学校跡』
戴明学校(明治七年十一月より明治十五年迄)、下之郷学校(明治十五年より明治十七年五月迄)。
現在、近くに『上田市立東塩田小学校』がありますが、その小学校の歴史を辿って行くと、『戴明小学校』・『下之郷学校』が、『東塩田小学校』の元になった事が記されています。
 
 
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『家族欅』
一本の根から四本の欅が生えている大木です。
家内安全・家庭円満・子孫繁栄の御神木となっています。
(パンフレット参照)
 
 
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お食事中すみません(笑)
それにしても大きい(°°;;)
 
季節が変わると、見える景色も違って何度訪れても飽きないですね(^^)