6月30日の御朱印巡りの話の続きです。
勧請の年月日は不詳であるが、真田安房守昌幸が天正12年(西暦1584年)上田城築城にあたり鎮護のために、東御市の八幡神社(現:滋野神社)を現在の地へ移したと伝えられているそうです。
真田氏のあと、上田藩主となった仙石氏・松平氏の崇敬篤く、藩主自らの参拝、社殿の修築再建などは藩の費用で行われたとの事。
松平氏のころ、弓矢の神と崇めて、毎年正月三日の射初式のとき金小的に当てた者は、十四日の宵祭りと翌十五日未明のその的と矢を奉納することを例として幕末まで続けられていたそうです。
なお、旱魃の年には、大星神社、大宮神社と当八幡神社の三社合同で雨乞い祈願を行ったとの事。
最近発見された白鷹・黒鷹の大絵馬は、上田藩主仙石政明の献上になる上田市の文化財で東信地方で最大だそうです。また、その他、絵馬三つ、狛犬、棟札なども文化財とされているそうです。
祭神: 応神天皇、神巧皇后、仲哀天皇、玉依姫命
(境内説明書より参照)
『紺屋町八幡社絵馬』
八幡社に掲げられている一対の大絵馬(102cm×160cm)。
滝を背景にしての岩頭の黒鷹(普通の色)と松の枝上の白鷹を、1羽ずつ描かれているそうでで、2面ともに、金箔を地に押した豪華な作品だそうです。
いずれも表に「奉掛御宝前 貞享五戊辰年五月吉辰」の墨書銘があり、裏面には「絵鷹二枚之内 雪舟末葉長谷川等栄信舟筆」と書かれているとの事。
作者長谷川等栄は、その名より、雪舟を画系の祖と仰いだ長谷川等伯の起こした長谷川派の一画家であったとみられいます。
また『改選仙石家譜』に「(貞享4年10月)二十六日、画工長谷川等栄を招て俸米五拾石五人扶持を与ふ」とあり、仙石家御抱えの絵師であったことが知られるそうです。
この絵馬には奉納者名はないが、これより、時の上田藩主仙石政明の奉納と考えて間違いないとの事。
また、貞享5年(1688)奉納というこの絵馬は、上田小県地方に残る最古の絵馬ではないかともみられ、その点においても貴重資料とされているそうです。
鷹の絵の奉納ということについては、鷹狩による獲物を、御贄〔おにえ〕として神前に供することがなされたところからのものか、と考えられているとの事。
白鷹については、鎌倉末期の『白鷹記』という記録があり、信濃国の住人称津神平(本拠地東部町祢津)が、それを見る人誰をも驚かす大変優秀な白鷹を朝廷に献上したと記されているそうです。
仙石氏は鷹匠を家臣として抱えており、鷹匠町という町名もあることとあわせて、興味のあるところ。
この八幡社は上田城の鬼門(北東)の方角に位置し、その守護神として代々の城主の崇敬があつく、社殿の造営・修理等は藩費でまかなわれていたそうです。
特に仙石政明は、自らしばしば参拝し、貞享3年には同社(および大宮社も)の玉垣を造らせているとの事(改選仙石家譜)。
(「上田城と仙石氏資料アーカイブス『仙石氏資料』より参照)
残念ながら、本殿は閉まっていた為、絵馬は見れませんでしたが、看板板に絵馬の写真が載っていました。