あまりコントロールが効かず、噛み合わない数週間を送っている。こんな時に演奏や研究に深く入り込むことは難しい…しかし、レッスンなど人に何かを言うことは平時と変わらず。いかに芸術、思索に心の強さが求められるか思い知るばかり。
そんな中、今日は以前ピアノを教えていた学生が出演する邦楽の演奏会に。楽しみにしていた会でもあったし期待が過剰に膨らんでいたが、それ以上に楽しく、また思考の新たな広がりを感じる空間だった。
私が学生の頃、師匠から「日本人が西洋音楽を演奏する意義を考えておくように」と教えをいただいたことは今も意識に強く根付いている。しかし、納得できる答えには至っていない。「日本人の精神を持って、西洋音楽を弾くことは西洋音楽の新たな面を開拓する」という答えが恐らく最も短絡的でそれらしいが、根本的にずれているように感じていた。まずもって、西洋音楽に今以上可能性を求める必要はあるのだろうか。
今日邦楽に身を委ねる中感じたのは、空間への意識の強さだ。邦楽、特に西洋の影響を感じないものはそれが顕著だった。というよりも、空間以外その場にないように感じた。音は空間を縁取り、誘うものとして超越的に存在し、人々はただ空間の揺らぎに身を任せ心を放つ。そんな悠然とした場を邦楽はもたらすのではないだろうか。これが「間」なのだろう。
不思議と、拍手が仄かに億劫に感じた。私もただ礼を返し、空間が元に戻ることも楽しみたいというか…マァそもそも拍手ってなんなんだ、という疑問は西洋音楽の演奏会にもつきものなのだが。舞台の空気を読んで拍手を切り上げればいいものを、誰もやめないからという方の空気を読んでしまって拍手が蛇足的に続くのは私はよろしくないと思う。(こういう普段溜めてる苦言はサラサラ出てくるところに人間の醜悪さを感じる)
それに対して、西洋音楽は空間を創出する力が強いのではないか、と気づいた。理論があり、方程式的に聴衆の感覚に働きかける、ようは音楽自体の意志の力を感じる。(当然そうではない音楽も多いし、一絡げにはできないだろう!という反論はもっとも。モーツァルトなんて、全てを超越してると思うしね)
思考の飛躍があるのは百歩承知で、植民地的な思考とも言えないだろうか。自らの思うように空間を生み出し、規定し、導く。何となくアフリカの国境線や、日本人が勝つようになると規定を都合のいいように変えるスキージャンプが浮かぶのだ。後者はニッチすぎるけど笑
もちろん、空間創出や意志の強さが悪いと言っているわけではない。素晴らしいものは素晴らしい、ベートーヴェンの創った圧倒的なスケールに誰が否と言えるだろうか。
ここで、邦楽に流れる精神と私の音楽に対する信念めいたものが非常に近しいと気づいたのだ。
私は空間、魂を創出するのではなく、私の意志なく自然発生的に共有することが最上と信じている。それはもしかして日本人のアイデンティティがそうさせているのではないだろうか。
…だとしたら、西洋音楽にはそぐわないのでは?日本人、私が西洋音楽を演奏するのは根本的に矛盾が大きすぎるのではないか、という疑問から逃れることはできない。
ただ、知る人は皆肯首すると思うが、私の演奏は決して滅私的ではなく、意志が非常に強い方だ。…曲がそうさせているから、と私は思っているが、どうだろうな…笑
ここで私が至ったのは、日本人が空間を感じる、寄り添う、委ねることを好む精神を根底に持っているのであれば、曲の空間を過不足なく伝えることに適しているのではないか、ということだ。
本来、西洋音楽は作曲家と演奏家の区別はなかった。作曲家自身が演奏することで、空間は意図したものになっていただろう。職業ピアニストが過去の楽曲を演奏するようになった現代はまさに隔世の感である。
しかし私たち日本人であれば、根底に流れる空間への意識を武器に、時代も歴史も違う作曲家の生み出した空間をそのまま表出できるのではないだろうか。
これが師匠の問いへの答えになるのかもしれない。
ただまあ、もう国籍はもちろん、アイデンティティはなくなっていくのかもしれないね。余りにも世界にはボーダーがなく、えーなんだ?グローバルになった。これは人間の本質を考えると、意志と関係なく向かうところなのだと思う。
私は私を失わずに在りたい、そして空間を望む人に開ける存在になりたいものだ。
と極めて強引にまとめてみたが、言いたいことは今日の演奏会は楽しかったということなのです。ほほほ。いい空間をありがとう!