トーマスマンの「トニオ・クレエゲル」を読んで思ったこと。
現代は兎角ラベル付け、レッテル貼り、が多い。
ラベル付けをして分類すれば理解した気になれるし、それなりの安心をもたらすだろう。知識の蓄積、整理、効率化の上で非常に有用だ。
しかしラベル付けは対象物の可能性を限定する行為のように思う。つまり、初めてそのものを見る人は、ラベルによってそのもの自体を見る目を塞がれているのではないだろうか。
これは、学習、指導の過程でも注意しなければならない。指導するに当たって、「これはこういうものだ」という指摘や知識の伝授は当然必要だ。それは良いことだし、それこそが「教え」だ。何が良いか、と指導者が確信していないことは、学ぶ側の心には響かないだろう。その上で、「これはこういうものだ」というラベルだけが記憶されることは危険である。ラベル以外の事象の方がラベル自体より遥かに多いのにも関わらず、限定したもののみを見ることにつながるからである。
モーツァルトは子どもの方が上手に弾ける。それはラベルを知らず、純粋に音楽のみを見つめているからではないだろうか。広い世の中の様々な知識をつけた大人が弾くのは難しい。意識的にも無意識的にも「こういうもの」が数え切れないほど増えているからだ。現代はますます難しい。不安なことについてAIに尋ねれば、すぐに安心できるようなラベルをつけてくれる。意識的にそれから逃れようとすると、ただ天邪鬼になることにも繋がり、途方に暮れてしまう。
だからどうしろと、と言われても私には解はない、この文にもまとまりはない笑
とにかく断定を続けるようなレッスン、演奏はしないように心がけたい。


