あけましておめでとうございます


今年もゆるゆる書きたいときに書き、ギリギリに告知をするブログとして機能?させていきたいと思います。


昨年は結構弾いたな〜という実感はあるのだが、案外新しい曲を読んだ数は大したこともなく…今年は少し本番のペースは落とすことになるだろうが、未知なものに躊躇なく挑戦する年にしたい。


それにしても1年は短い。何か計画するとしても1年ではとてもとても…改めて、40歳までの計画を立て直すことも進めたい。



まずは2/4のベートーヴェン32人で全曲プロジェクト、ハンマークラヴィーアの演奏に向け全力を。こればっかりは片手間ではできない笑。自分の現在地を計る意味でも、出来る準備を最大限に。




油断するとすぐブログの存在ごと忘れてしまう、困ったもんです。





来週は大学時代の同級生との演奏会があります。深刻な曲ばかり弾きたがる私1人だったら選べないような楽しい曲も並んでいますが、全体によく練られた面白いプログラムになりました。

これこそ2人の演奏会だな、ととても楽しく合わせてます。まだまだチケットございますのでお誘い合わせの上是非!

記事を頻繁に書いて文章力復活や!とこっちでも息巻いていたが、いつも通りブログは停滞していました笑

結局のところ対外的に何かを書く小さな圧力に負けていたので、ここ最近は紙の日記を書くようにしています。やはり手を動かすというのはいいですね…キーボードとは全く別物です。


13日月曜日は佐賀で演奏会でした。

素晴らしい集中力で聞いていただけて、本当に幸せでした。演奏家として全力をぶつけたら、その分ちゃんと良い空間が生まれる、報われるということを久々に感じました。

やはり、他人の目線を気にせず自分が絶対に良いと思えることを為すべきだなとも。


日曜日は東京公演、どんな空間になるか楽しみです。









来月10月19日(日)に、久々に佐賀の盟友大坪健人と、ソロと連弾の演奏会を東京で開催します。


留学先のドレスデンで共に学び、帰国後も距離はあれど音楽の道を共に歩んできました。表向きの性格は異なれど、共通するのは人間の内面に深く思いを馳せられることでしょうか。僕が個人的にそう思ってるだけかもしれませんけど笑


今回のプログラムは、僕には彼としかできないかなと感じるプログラムです。

耳澄ます人の心が内外双方向に開かれ、自らを見つめながらも空間を共有する、そんな時間を目指して準備を重ねています。


※本公演はチケットレスとなります、チラシ記載のQRコードから、もしくは出演者に直接お申し付けくださいませ。


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2025年10月19日(日)

14時開演(13時半開場)

sonorium(永福町徒歩9分)

一般 4500/ 学生 2000/ ペア 8000


ブラームス: 3つの間奏曲 作品117(佐渡)

シューベルト: 「人生の嵐」 D947(連弾)

シューベルト: ロンド D951(連弾)


C.シューマン: 音楽夜会 作品6より「ノクターン」(大坪)

R.シューマン: 幻想曲 作品17より第1楽章(大坪)

ブラームス: シューマンの主題による変奏曲 作品23(連弾)

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ようやく暑さのピークは過ぎたでしょうか…残暑がどこまで続くやら。皆様どうぞご自愛くださいませ。

あまりコントロールが効かず、噛み合わない数週間を送っている。こんな時に演奏や研究に深く入り込むことは難しい…しかし、レッスンなど人に何かを言うことは平時と変わらず。いかに芸術、思索に心の強さが求められるか思い知るばかり。



そんな中、今日は以前ピアノを教えていた学生が出演する邦楽の演奏会に。楽しみにしていた会でもあったし期待が過剰に膨らんでいたが、それ以上に楽しく、また思考の新たな広がりを感じる空間だった。


私が学生の頃、師匠から「日本人が西洋音楽を演奏する意義を考えておくように」と教えをいただいたことは今も意識に強く根付いている。しかし、納得できる答えには至っていない。「日本人の精神を持って、西洋音楽を弾くことは西洋音楽の新たな面を開拓する」という答えが恐らく最も短絡的でそれらしいが、根本的にずれているように感じていた。まずもって、西洋音楽に今以上可能性を求める必要はあるのだろうか。


今日邦楽に身を委ねる中感じたのは、空間への意識の強さだ。邦楽、特に西洋の影響を感じないものはそれが顕著だった。というよりも、空間以外その場にないように感じた。音は空間を縁取り、誘うものとして超越的に存在し、人々はただ空間の揺らぎに身を任せ心を放つ。そんな悠然とした場を邦楽はもたらすのではないだろうか。これが「間」なのだろう。

不思議と、拍手が仄かに億劫に感じた。私もただ礼を返し、空間が元に戻ることも楽しみたいというか…マァそもそも拍手ってなんなんだ、という疑問は西洋音楽の演奏会にもつきものなのだが。舞台の空気を読んで拍手を切り上げればいいものを、誰もやめないからという方の空気を読んでしまって拍手が蛇足的に続くのは私はよろしくないと思う。(こういう普段溜めてる苦言はサラサラ出てくるところに人間の醜悪さを感じる)


それに対して、西洋音楽は空間を創出する力が強いのではないか、と気づいた。理論があり、方程式的に聴衆の感覚に働きかける、ようは音楽自体の意志の力を感じる。(当然そうではない音楽も多いし、一絡げにはできないだろう!という反論はもっとも。モーツァルトなんて、全てを超越してると思うしね)

思考の飛躍があるのは百歩承知で、植民地的な思考とも言えないだろうか。自らの思うように空間を生み出し、規定し、導く。何となくアフリカの国境線や、日本人が勝つようになると規定を都合のいいように変えるスキージャンプが浮かぶのだ。後者はニッチすぎるけど笑


もちろん、空間創出や意志の強さが悪いと言っているわけではない。素晴らしいものは素晴らしい、ベートーヴェンの創った圧倒的なスケールに誰が否と言えるだろうか。


ここで、邦楽に流れる精神と私の音楽に対する信念めいたものが非常に近しいと気づいたのだ。

私は空間、魂を創出するのではなく、私の意志なく自然発生的に共有することが最上と信じている。それはもしかして日本人のアイデンティティがそうさせているのではないだろうか。

…だとしたら、西洋音楽にはそぐわないのでは?日本人、私が西洋音楽を演奏するのは根本的に矛盾が大きすぎるのではないか、という疑問から逃れることはできない。


ただ、知る人は皆肯首すると思うが、私の演奏は決して滅私的ではなく、意志が非常に強い方だ。…曲がそうさせているから、と私は思っているが、どうだろうな…笑

ここで私が至ったのは、日本人が空間を感じる、寄り添う、委ねることを好む精神を根底に持っているのであれば、曲の空間を過不足なく伝えることに適しているのではないか、ということだ。

本来、西洋音楽は作曲家と演奏家の区別はなかった。作曲家自身が演奏することで、空間は意図したものになっていただろう。職業ピアニストが過去の楽曲を演奏するようになった現代はまさに隔世の感である。


しかし私たち日本人であれば、根底に流れる空間への意識を武器に、時代も歴史も違う作曲家の生み出した空間をそのまま表出できるのではないだろうか。

これが師匠の問いへの答えになるのかもしれない。


ただまあ、もう国籍はもちろん、アイデンティティはなくなっていくのかもしれないね。余りにも世界にはボーダーがなく、えーなんだ?グローバルになった。これは人間の本質を考えると、意志と関係なく向かうところなのだと思う。

私は私を失わずに在りたい、そして空間を望む人に開ける存在になりたいものだ。



と極めて強引にまとめてみたが、言いたいことは今日の演奏会は楽しかったということなのです。ほほほ。いい空間をありがとう!