先日、アメリカのオレゴン州、ポートランドで行われたジョージ・リーさんのピアノコンサートへ行きました。

昨年は、大阪と東京でも行われ、いずれも参りました。

 

なぜ、わざわざポートランドまで聴きに行くのかというと。

それは、私が唯一、真のピアニストとして彼だけにインスパイアされたからです。

 

私は、自分自身がピアノを勉強している身でありながら、同時に自分の感覚に合うピアニストはいないものかと、ずっと探してきました。

そんな中、初めて巡り会ったのが、ジョージ・リーさんでした。

 

思えば、2015年の第17回ショパン国際コンクールの予備予選を動画で観ている時でした。

80名近くの中から、自分の耳で自分の感覚に合うピアニストがいないかと、一人一人の演奏をダイジェスト的に聴いていた。

そんな中、唯一、目に耳に止まったのが、彼でした。

身体中に電気が走り、今まで燻っていたピアノに対しての何かが一気に取れ、もう他のピアニストの演奏を聴いているどころではなくなりました。

 

彼の演奏を聴くなり、私は無意識にその手で、彼のホームページを探し、彼にメールを送っていました。何の躊躇いもありませんでした。ただ応援したい、と言いたかっただけだと思う。

すると、彼のお父様からすぐに返事を頂き、「実は昨日、チャイコフスキーコンクールでシルバーメダルを取ったところです。」と、知らされた。

 

しかし私には、彼がどのコンクールでどんな評価をされるのかは、あまり興味がなく、私はただ彼の演奏にインスパイアされただけで、彼がチャイコフスキーコンクールで賞を取ったと聞いても正直驚かなかった。もちろん、ショパンコンクールで上位にいくかどうかにも関心はなかった。無論、そのこと自体は、素晴らしく名誉なことは前提であります。

 

その後、ショパンコンクールの予選は通過したが、出場は辞退し、コンサートに専念するという発表がなされた。

 

私は、彼の演奏を初めて予備予選で聴いて以来、彼の演奏にフォーカスし、できる限り彼の “生演奏” に触れていきたいと思った。

また、彼の演奏をより深い部分で聴けるよう、私自身も止まることなく勉強し続けていきたい。

 

 

 

ポートランドでの演奏は、客席総立ちのスタンディングオベーションで、周りの反応は実に冷静で純粋なもののように感じた。

私は初めて、人間が本当に感動と感心をした時の「頷き」を聞いた。

それは、演奏終了後、拍手をする前の客席からの頷き声だった。

 「 “納得” した」という心の声のようだった。

その声を、文字に書き表すと、「Umm」でしょうか。

 

どのコンサート会場でも、客席の人達と同じ音楽を共有するという楽しみもあります。

今回ポートランドの会場で、客席から零れ出た、この頷き声を聞いた時、生まれて初めて、「感動の渦」の中にいる気分を味うことができた。

 

 

先日、ある動画を観て驚いた。

 

ピアニストの、反田恭平さんのインタービューでのことです。

途中、聞き手の小田島久恵さんという方の発言に驚いた。

https://m.youtube.com/watch?v=chZfoLxpdYM

13:00~

 

「ショパンも!?ショパンって意外に最近、嫌いって言う方が多いんですが・・・、アルゲリッチなんかは公言してますよね、今日ショパン弾かなきゃいけないから機嫌が悪い・・・」

 

という、恐ろしいものでした。

 

どこの誰が嫌いと言っていたのか?

アルゲリッチと比較できるのか?

 

この発言は、私には理解できませんでした。

こういう事が、マイノリティーを生むことになると思います。

このような非常に偏った乱暴な発言は、音楽を始められたばかりの人や感化されやすい人が聞くと、ショパンという印象がとても悪くうつるように思います。


アルゲリッチと比較するのも言語道断。

何万回と舞台でショパンを弾いてきたアルゲリッチが言ったかもしれないという言葉を、この場で引用するのは、いささか強引。

 

反田さんは、うまく交わされていましたが、このような事は、他のメディアの報道でもよく見受けられます。

 

小さい日本の、ほんのごくごく一部の人が言っていたかもしれない(言っていなかったかもしれない)事を、メディアなどで、“最近は” などと枕詞を付け、あたかも大勢の人が言っているかのように。

 

今流行りの!?

今ニューヨークで話題の!?

今渋谷で人気の!?

芸能人がよく行く!?

多くの人達が!?

 

などなど・・・。

 

以前も書きましたが、

このような偏った意見や、根拠のない発言、またそれを流すテレビや雑誌などのメディアの報道に踊らされることなく、自分自身の耳で、自分自身の感覚で、自分自身の判断で、しっかりと取捨選択していかなければならない。

 

まさに、「受け手の力」である。

世界中に、様々なピアノコンクールがあり、その内容、レベルはそれぞれ異なり、審査員もいろいろ。

今日一つのコンクールが終了し、目の当たりにした事は、審査員によって、評価が極端に分かれるということ。
これは、世界的なピアノコンクールでもよくあるが、今年行われたショパンコンクールにおいても、審査員の見解は、両極端なものであった。
もちろん、どのコンクールでも、最終的な審査結果は審査員たちの平均点で決まる。

言うまでもなく、審査員全員の満点を貰えるに越した事はないが、なかなかそうもいかない。
それは、審査員たちのバックグラウンドが、想像を超えるほど、異なるからだ。


では、コンクールとはどういう意義を持つのだろうか。
結果においては、やはり自己ベストを出すことが、最大の目的ではないか。

レッスンにおける、音楽作り、テクニックの習得はもちろん、納得のいくまでその楽曲を掘り下げ、作り上げていくプロセスにこそ意味があるように、どうしても私は思う。
それは、発表会でも同じことが言える。

最大の敵は、自分。
何事も、自分との闘いなのだろう。
自己ベストが出せた時、自ずと結果はついてくるだろう。