先日、通称「クラコン」の審査に行ってきた。

 

参加者は、小学校1年生から一般の方まで、そして課題曲はなく、完全自由曲制という、まさに好きな曲で受ける事ができる。

 

課題曲制でないメリットは、研究中の曲目を第三者に聴いてもらい、違った角度からの意見を貰ったり、また次にあるステージのためのリハーサルとしても活用できる。

当然、参加者の中には、今日初めてその曲を舞台で弾く方や、いくつかの舞台を踏んでいる方がいらした様に思う。

 

審査員は、全ての参加者へアドバイスと言う形で、コメントを書く。また、点数を付けなければならない。(芸術に点数はないが・・・)

 

まず、このコメントだが。

小学校低学年の方が弾く曲目は、1~3分ほどの演奏時間という、非常にこの短い間にコメントを書く必要がある。

また、本人にも読めるようにと “ひらがな” で書こうものなら、余計に時間がかかる。自動的に漢字で書いてしまった時は、後から慌ててふりがなを振る始末。書くのに追われるのである。

高学年の方以降になると、ようやく「聴いて、書く」という作業ができるようになる。

 

審査のポイントは、もちろん各審査員それぞれであり、感じ方もアドバイスの仕方も異なる。

例えば、「よく弾けていた!」と思うのと、「あともう少しいける!」とでは、講評や点数が変わる。

 

しかしながら、審査員全員がほぼ同じような点数を付けているのには驚いた。みなさん公平なのだと、点数を見て感じた。

時に、大差がついている事もあり、これもまた、感じ方の違いがあって、良い事なのだと痛感させられる。

 

万人に気に入られる演奏などは存在せず、例え有名なピアニストの演奏を真似たところで、サイズの違う服や靴を着ているようなもの。

どんな体型でも、サイズが合っていると、スマートなものだ。

 

私は、Simple is the best. ではなく、Simple is difficult.と思っている。

物の単体はシンプルではあるが、単体同士をシンプルにすることは難しい。

 

シンプルなもの同士を、融合させ、調和させ、組み立てて、そしてシンプルにするのは非常に難しい。

たいてい、シンプルなものではなくなってしまう。

 

私の審査ポイントはここにある。

もちろん、音楽を聴く時のポイントもここにある。

 

「嘘を嘘で塗り固める」ではないが、ほんの些細な事でも、ごまかして塗り固めていくと、最終的には複雑怪奇なものになる。

滑稽である。

 

 

コンクールは、本当に楽しく聴かせて頂いた。

みなさんの演奏に対する熱い想いが、ひしひしと伝わってき、それに応えようと、自動的に私の耳と手は5時間フル稼働だった。

 

審査員として行ったのに、

つくづく、「ピアノっていいな・・・。」と感じさせられる。

今回、ニューヨークに行って私が感じたこと。
 

それは、以前より活気がなかったこと。
お店も空店舗が多く、以前人気だったお店には行列もなく、私のお気に入りのお店もたくさん無くなっていた。
街全体も、人が少なかったように感じた。
以前住んでいた時、マンハッタンは気候に関係なく、年中観光客で賑わっているものだった。

トランプ大統領の影響なのかは、私は分からないが、ニューヨークに住むセレブ達が「トランプが大統領になったら、カナダへ移住する」と言っていたのは、本当だったのか。

ニューヨークの市場は今どうなっているのか、私はこれは “大スクープ”と思うぐらいだったが、メディアではそんな事は一切取り上げていない。
果たして、真相はどうなのか。単なる私の気のせいだけなのか。

しかし、日本でもそうだがメディアというのは、操作されていて、本当の“真実”など我々にはわからない。
情報の取捨選択は、我々自身でしっかりと見極めなければいけない。

かつて、私がイメージしていたニューヨークは、もうそこにはなかった。
自分自身が変わったのか、それとも時代が変わったのか、ニューヨークが変わったのか。それは自分でも分からない。

今は、情報化社会、ネット社会の中、どこに居ても「自分を試すこと」、「自分を知ること」ができる。
また世の中の情報を素早くキャッチすることもできる。

GPSのように、自分の “場所” が分かれば、“運転” しやすいだろう。

今週の日曜日から、4年ぶりにニューヨークへ行ってきた。
いつもマンハッタンに着くと、昔住んでいた時の記憶が瞬時に蘇る。 懐かしい故郷に帰ったみたいに。 
 
海外に行くと感じることだが、色んな文化の違いがあって、いつも楽しい。
もちろん普段何気なく、当たり前に暮らしている日本の素晴らしさにも、気付かされる。
文化とは、その国の歴史、言葉、食べ物、考え方、風土、体型、気候など多くの様々な事の総称なのだろう。
 
私は、この文化の違い全てが、どの分野の音楽にも大きく影響すると思っている。文化の違いは、弾き手も聴き手も変える。
 
世界中の文化の異なる地で育った人が、世界共通の同じメロディを演奏しても違いが出て当然で、またその違いがおもしろい。
特にクラシック音楽は、全世界共通の“楽譜”を、世界中の異文化の人が演奏し、また聴いている。

国や文化の違いだけでなく、人によっても音楽感は様々で、楽譜に書いている事は元より、
その「人となり」が音楽感に大きく影響するのは、言うまでもない。

また、言語においても、
同じ英語でも、訳す者や使う言葉によって、ニュアンスが異なることがある。

たまたま帰りの空港で耳にしたアメリカ人老夫婦の会話。
どこかに少し移動しようとした夫が、付いてきた妻に対し、こう言った。

“Don't follow me all the way.”

これを日本語で、
「いちいち付いて来るな。」または、
「わざわざ付いて来なくていいのに。」。

同じ英語でも、ニュアンスは分かっていても、“翻訳者”によって随分印象が異なる。

 ピアノ演奏も、同じ楽譜であっても、いかに “演奏者” によって音楽が変わるかである。

 

どう捉えているかだけではなく、どう表すかである。
 
人が、物と物の媒体になった時、その人の全てが自動的に反映され、表現される。

それを、 “芸術” と呼ぶのだろう。