★沼垂古町通り 〜古信濃川と起き返り地〜
場所・ 新潟県新潟市中央区沼垂西1〜3丁目くらい
竣工・ 明治以降
構造・ 木造2階建て
見どころ・ 小路 醸造所 看板建築 町家 猫
最終訪問・ 2017.03
新潟市中央区の昔町、奈良時代の文献にも「ぬたりの柵」として登場する、とても古くからの港町、商業町で、今の新潟港町の礎となった地域の一つ
沼垂の路地
それでいて、JR新潟駅から徒歩20分ほどとアクセスも良いので、駅から近い昔町として、これからもっと観光名所になってほしいなと思う地域です
昔、信濃川と阿賀野川の河口は割と近い位置にありました
寛永8年(1631)の洪水で阿賀野川の信濃川への流入が始まり、河口は大きく変化します
流作場(りゅうさくば)の三社神社
王瀬(現在の東区山の下地区の松島から上王瀬)にあった沼垂の町は新発田藩唯一の港町でしたが、河口の変化によって町が浸食されたり、川底が浅くなったりしたため、
寛永年間から現在地に定住する貞享元年(1684)までの約50年の間に4度もの移転を余儀なくされました
長嶺町の蒲原神社
その後、沼垂町は明治22年(1889)に蒲原・長嶺・流作場と合併、大正3年(1914)には新潟市と合併し、中央区として現在に至っています
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沼垂町は現在地に移転した後も町の西側を信濃川に浸食されました
浸食が止まり、陸地が増え始めたのは、江戸時代の延保年間(1744〜48)頃からです
信濃川中州と沼垂町の間の流路は次第に狭まり、古信濃川と呼ばれました
旧栗の木川沿いにある「峰村醸造」
このように、いったんに川に浸食された土地が陸地となって再び利用された土地を「起き返り地」といいます
栗の木川以西には、起き返り地が再び町並となったところがありました
沼垂の酒造 「越の華酒造」
宝暦3年(1753)には元古二之町だったあたりに「新片原町」という町名が、明和6年(1769)の絵図には元古三之町だったあたりに「新地」という地名が現れますが、
これらは現在の沼垂西1,2丁目と3丁目の一部にまたがる場所で、起き返り地と考えられます
沼垂の湊稲荷神社 信濃川河口を両岸から護る
沼垂の湊稲荷神社は、浸食のために通船川(旧阿賀野川)対岸の王瀬に移転していましたが、明和6年(1769)、古四の町があったところの下手の起き返り地に戻ってきます
高砂稲荷神社
文化年間(1804〜18)頃には神社の周辺も市街地になり、幕末までに稲荷門前、稲荷横門前、稲荷川前町など神社名の付いた多くの町ができました
1. 百川小路(ももかわこうじ)
明治初めの絵図には、小路の角に百川徳蔵の屋敷が記されていることから、その姓が名の由来と思われます
下の画像、運よく猫が来てくれて、奇跡の一枚になりました
レトロな町屋の向こうには、現代の北前船「新潟日報本社ビル・メディアシップ」(グッドデザイン賞)が見えます
2. 五助小路
大正期の地図に五助小路と記されていて、この小路の近くに住んでいた人の名前と思われます
レトロな町屋の向こうには、東区の北越製紙などの工場の煙突が見えて、面白い比較です
右奥に見える東区の工場群
3. 吉助小路
大正期の地図に吉助小路と記されていて、この小路の近くに住んでいた人の名前と思われます
看板建築も古町通りには2件あり、もう1つは写真館です
他にもこの沼垂古町通りから横に伸びる小路には、清左衛門小路、能登屋小路、仁三郎小路、久八小路、由兵衛小路などがあり、この辺りに住んでいた廻船問屋の名前や人の名前が由来になった小路があります
古町通りには醸造所もあり、現在でも産業の町、醸造の町として稼働している町です
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*これで沼垂地区の記事は終了で次は信濃川対岸の下町
(しもまち)の港町エリアへ