日本の競馬を考えた、あの時
競馬に関する読み物は結構たくさん読んだと思う。
雑誌(当時は週刊競馬ブックか優駿ぐらいしかなかったと思う)からスポーツ新聞、
馬券必勝法読本に至るまで。
もちろん、「どんな馬が強い馬なのか?」「どうすれば勝ち馬を見つけられるのか?」
を探るための情報収集のつもりで。
で、そこで知り得た事実として、ひとつはっきり分かったことは、
馬券では勝つこと(お金儲け)は非常に難しい、ということでした。
(もちろん、的中率の良い一部の人たち(本当に居るとして)は別として)
つまりギャンブルの“親”が、集めたお金の一部を抜いてから配当する以上、
仮に全員が的中者であったとしても、目減りするしかない事実があるのだから。
では、“親”になるのか?
いやいや、そんなことをしたら“競馬”を楽しめなくなる。
競馬は面白い。
その面白い競馬をさらに面白くする方法として、
勝ち馬予想が当たるというシチュエーションがある。
“親”になるのは本末転倒だ。
そして、記事のひとつにこんな内容を発見した。
「日本の競馬の賞金は世界一」
「未勝利戦の1着賞金は、どこそこの国の重賞競走のそれと遜色ない」
へえ~、そうなのか。
馬券売り上げで儲けた“親”は、それを高い賞金にして馬主に還元してるのか!
部屋に積みあがっていた週刊競馬ブックを引っ張ってきて、
巻末にあるレース結果のページを繰ってみた。
勝ち馬紹介欄には、一見しか出てこない馬主さんもたくさんおられたが、
結構何度も繰り返し出てくる馬主さんのなんと多いことか!!
サラブレッドを持つことは“道楽”で、儲かるものではない。
「血統のロマン」「競走馬の美しさ」「レースに勝つ喜び」
お金に代えられない何かを求める“道楽”だ、と。
でも、本当にそうなのか?
こんなにたくさんの馬を持っていて、こんなに勝ちまくっているなら
儲かっているんじゃないの?
時間だけはたっぷりとあった私は、ちょっと記録をとってみた。
サラブレッドの価格は全く不明だったが、馬名登録されている馬の数と
何ヶ月間かでの賞金累計額を単純に見比べた。
誰の?は、ここでは書かないし、たまたま?と言われればそれまで。
基準がおかしいんじゃないの?と非難を浴びようとも、
この時の記録が示したのは、「明らかにプラス」という結果に他ならなかった。
儲けているのは“馬主”?
若き天才騎手武豊がスーパークリークで淀を沸かした、大学3年の秋の大発見でした。
苦悩の時代
私が大学受験に失敗したのも束の間、
競馬の世界ではまたもや三冠を期待させる馬が皐月賞を勝ち、
バブル経済の兆しとともに、大いに盛り上がりを見せ始めてきました。
骨折という不運に見舞われ、三冠馬の誕生はなりませんでしたが、
ルドルフが七冠を達成したり、レース体系(特に距離別)の整備が進み、
ニホンピロウイナーという名マイラーがその地位を確立するなど、
何かと話題も豊富で、スポーツ新聞の一面が競馬で飾られる日も多く、
人気が徐々に広く一般的になりつつありました。
私はと言いますと、受験勉強もそこそこに、
毎週週末になると淀へ出かけては、負けることの繰り返しでありました。
まあ、時には勝つこともありましたが、それがまた泥沼への呼び水というところでもあり…。
余談ですが、このころの競馬場には、
スタンドに売り子さん(と言ってもおばちゃんですが)が、
「ビ~ルに焼きそば、あたりめどうでーす!」と徘徊されていまして、
スタンドに陣取っている私たち(私と友人)のそばに来ると、
「子供がこんなトコで遊んでたらあかんよー!」と注意してくれました。
体が小さく、おぼこい顔つきだった私は、
お世辞にも大人とは見えず(事実そうなのですが)、
よく補導もされずにいたもんだなぁと、今さらながら想い帰されます。
さて、浪人を1年で卒業し、運良く地元の私立大学へ潜り込んだ私を待っていたのは、
競馬好きの新たな仲間たちでありました。
馬券の腕前は一向に上がらず、アルバイト代はたちまちハズレ馬券へと
姿を変え続けていました。
「う~ん、一体どうしたら競馬に勝てるんだろう??」
サクラチヨノオーのダービー優勝を眺めながら、
ただ漠然とそんなことを考える、大学生3年目の私がいました。
初めて共同馬主を知ったのは…
初めて共同馬主の存在を知ったのは、競馬を始めて直ぐでした。
申し添えておくと、「競馬を始めた」というのは
「自分のお金で馬券を購入し始めた」という意味です。
競馬自体はもっと早くから知っていて、
父親や伯父がしているのを横で見ていました。
(伯父は淀競馬場の直ぐ近くに住んでいました。数年前に他界してしまいましたが)
私の初めての馬券は84年の有馬記念です。
シンボリルドルフが無敗の三冠馬となり、
三冠馬のミスターシービーが天皇賞(秋)をすさまじい追い込みで勝利し、
カツラギエースが日本馬としてジャパンカップに初めて勝利した年でした。
その中に、ダイナカールという牝馬が出ていて、
この馬の解説をどこかのスポーツ新聞で読んだときに、
馬主が共同クラブ馬主であることを知りました。
このときはまだ、お金持ちの人が集まっているクラブ、
という読み方(事実そうだったとは思いますが)をしていて、
一競馬ファンが関われるものではないと思っていました。
知り合いの競馬通はこのとき、
このようなクラブ馬主の馬がそんなに勝つ筈がない、と力説していました。
(その後の共同クラブ馬主の発展を考えると、彼の予想は大外れに終わった訳ですが…。)
私は特に感慨もなく、ひたすら予想に熱中しており、
言わば自分に関係のないクラブの事よりも、
この単枠指定馬3頭の中で何が勝つのか?
という事のほうが圧倒的に重要な関心事でした。
ちなみに先ほど登場した競馬通の彼は、
ジャパンカップをフロックで勝ったカツラギエースを単枠指定にした日本中央競馬会を嘲笑し、
ルドルフ⇔シービーの1点買いでボーナスの相当額を突っ込んでいました。
(結果はご存知のとおりです)
まあ、私の予想は置いておくとして(汗)、
とにかく、この時が共同クラブ馬主との初めての出会いだという事です。
大学入試を年明けに控えた高校3年生の事でした。