男系固執 は、暇をもて余した老害宗教的な妄想にとりつかれた魔女を除けば、

大半は、社会との繋がりを持てないまま 鬱屈した感情を燻らせ続けている 童貞野郎 の僻みと見て間違いなさそうですね(笑)。



 

 









【易姓革命】えきせいかくめい
[yi-xing ge-ming]

中国古来の政治思想。姓をか (易) え,命をあらた (革) めるという意味。天子は天命によってその地位を与えられて天下を治めるが,もし天命にそむくならば,天はその地位を奪い,他姓の有徳者を天子とするという思想。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


女性天皇 の即位が、『姓』を持つ 一般人男性 との婚姻を経て、
『易姓革命』が起きるという主張がまことしやかに語られていた時期もありましたが、これは本来の意味とは異なります。

 

 

筑波大学名誉教授の 中川八洋 が、
自身の著書『皇統断絶』の中でも女性天皇の即位を「易姓革命」だと主張していましたが、
男系固執 は、何を思って 女系天皇の皇子が即位する 所謂「女系天皇」『易姓革命』だと主張したのか!?

 



 

 

むしろ、既に一般人として我々と暮らしている 旧宮家 の方々や、
過去に皇子や男子皇族を養子に迎えたことにより『皇別』と呼ばれてきた 近衛・一条・鷹司 (※摂家、旧華族家) の子孫に皇位を継承させようとしていたこともある 男系固執 のほうが、
敬宮さま(※愛子内親王殿下) の徳を否定し、易姓革命 を目指していたと思うのですが。


結局のところ、

男系固執呆守 は、記紀 (※古事記・日本書紀) のような『国学』よりも、
江戸幕府 の正学であった『朱子学』の悪影響に根差した 陋習 を有り難がっていたわけであります。

角九曜紋 (※保科氏)

↓↓

会津葵 (※会津松平家)



また、会津藩主 『保科氏』が、
2代将軍 徳川秀忠 の 庶子 である 正之 (※土津霊神 はにつれいじん ) を養子に迎えたことにより、
後に『松平』の姓に変わった例 (※実際には、土津霊神 自身は『保科』姓を守っていたが、会津松平家の初代と数えられている) からも、

『徳川からの男系男子』を養子に迎えた大名家の例 を、無理矢理 皇室 に当て嵌めようとしているとも言えます。





古来、彼等 (※中華圏) の持つ文化や技術を熱心に学んで取り入れてきた我々日本人の祖先が、
彼等の抱えている思想的な問題から全く無縁でいられる筈もありません。

当然ながら、彼等がとらわれてきた『迷信』『陋習』などの悪しき影響の数々を、我々の祖先が受けてしまったとしても、何ら不思議ではありません。

韓国人の民族性を固定した朱子学もまた、日本に於いて『武士の道徳』として根付いており、
300年続いた徳川幕府の時代に於いても、松平定信の時代に朱子学以外の学問を禁止する動きがあったこと(※寛政異学の禁)からもわかるように、
改革を忌避したり(※実際、江戸幕府に於ける『改革』と冠する政策の殆んどは、事実上の復古主義であった)
封建的な考え方からなかなか抜け出せない等々、
儒教が我々の道徳心を向上させるのに貢献した一方で、偏狭な人間を生産する 悪しき因習 にもなりうる『負』の側面も有していることも踏まえ、しっかりと反省しなければなりません。

そして、偏狭なナショナリズムによって外国や異民族を一方的に侮ることは、それ自体が、中国などを嫌悪しつつも、
実際には、自ら進んで日本国を『小中華』にしてしまおうとする『矛盾』を抱えたものであることを自覚すべきだと思います。