「#論破祭り」のなかで話題に上がった 明正天皇 と 後桜町天皇。
古代の女性天皇6名のうち、最初の4名が結婚し、その皇子が天皇になった例もあったのに対し、
江戸時代の女帝は、2人とも結婚は生涯独身を貫かれていました。
男系固執が、拠り所とする「女性天皇は生涯独身!」というのは、
おそらく、こういうことなのだと思います。
【明正天皇】第108代天皇
徳川を外戚とする唯一の天皇
古代の女帝の即位は、皇嗣が未成年だったり皇位継承権を有する皇族が複数人いて調整が付かない場合に、
天皇の未亡人や近親の内親王が中長期的な「中継ぎ」として即位したという説もありますが、
実際には、天皇としての職務遂行能力としては男女の差はなく、皇太子を経て即位された孝謙天皇の存在したことからも、この『中継ぎ』説は否定する意見もあります。
しかし、2代将軍・徳川秀忠の娘を母に持つ 女一宮(※興子内親王) が 天皇 に即位されたのは僅か7歳であり、
幼くして皇位継承した女帝は、この 明正天皇 の例が確認されるのみです。
その背景には、先代の後水尾天皇が、朝廷による勅許状を幕府が取り消したことに端を発する『紫衣事件』によって譲位を余儀なくされたことによるもの(※)であり、
幕府による朝廷への干渉と統制が強まってきたなかで起きたものでありました。
(※後水尾天皇の譲位の理由には諸説あり)
後水尾天皇も、徳川家康に擁立されて即位した「時代に翻弄され続けた天皇」であり、
幕府は「公家衆法度」「勅許紫衣法度」を制定し「禁中並公家諸法度」によって朝廷に対する統制を強めており、その皇女である 明正天皇 もまた、同じでありました。
朝廷が政治的な実権を完全に剥奪され、天皇も、大名や民衆から遠ざけられて 九重の奥深く に隠される時代は、言うならば 江戸時代から始まったものでありました。
・天皇自らの意志であること
— 忍 (しのび)🇯🇵🇺🇦 (@PRIVATE_Shinobi) 2023年5月16日
・皇嗣が成年に達していること
・皇室会議と国会の議決
その条件で、皇室典範改正で『譲位』の条項を定めて充分対応可能だったと思いますが。
逆に「お気持ち表明」を受けて尚、譲位を否定し続けていた #呆守 は、#承詔必謹 を知らないな(笑)?
結局、#呆守 は天皇陛下のお気持ちを拝察する気もなければ、お気持ち表明の後も、醜態を晒していたわけですね。https://t.co/YtEU74f5w9
— 忍 (しのび)🇯🇵🇺🇦 (@PRIVATE_Shinobi) 2023年5月16日
平成の「天皇陛下お気持ち表明」をうけて、退位(※譲位)の御意志をにじませられた 上皇陛下 に背いていた 呆守 が夢想していた『伝統』とやらも、
言うならば、天皇陛下を蔑ろにする前近代的な固陋であったわけです。
【後桜町天皇】第116代天皇
現在のところ、最後の女帝
後桜町天皇 の即位は、異母弟である桃園天皇の遺詔に基づくものとされていましたが、
当時は宮中で、桃園天皇と摂関家の対立に端を発する「宝暦事件」の影響から、当時まだ5歳であった 英仁親王の即位までの「中継ぎ」として擁立された女帝でありました。
後桃園天皇即位後は 上皇 となられ、後桃園天皇が皇子のないまま崩御された後は、世襲親王家の閑院宮出身の光格天皇が即位され、
皇統が傍流へと流れた後も、後桜町上皇 は幼い天皇を輔導され、それ以降の皇統は、光格天皇の直系により継承され続けて現在に至ります。
後桜町天皇の生きた時代は、宝暦事件や、光格天皇の父である閑院宮典仁親王への追号を巡る「尊号一件」など、天皇・勤王派 VS 摂関家・幕府の対立に端を発する事件がありました。
後に、典仁親王は、明治17年に慶光天皇の諡号と大上天皇(※上皇)の称号が与えられました。