1914年 6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇嗣フランツ・フェルディナント大公と その妻ゾフィーが、セルビア人青年によって暗殺された『サラエボ事件』に端を発し、
ヨーロッパ各国がドイツとオーストリアを中心とする中央同盟国とロシア、フランスや英国などからなる連合国に分かれて争った第一次世界大戦は、
毒ガスやタンク、航空機などの新兵器がはじめて実戦投入されたのに加え、塹壕戦による膠着状態が長期間続いたことによって戦死者の数がそれまでの戦争と比較にならないくらいに増大し、ジェノサイドによる非戦闘員の犠牲者も合わさって、それは悲惨なものとなりました。
大戦の概要をざっくり説明するならば、ヨーロッパ列強同士の帝国主義や植民地政策に基づいた利害対立がぶつかり合った戦争であり、
列強の新興勢力であったドイツ帝国と、フランス・イギリスが保有する既得権益との争いでもありました。
この戦争の結果、参戦国のなかには革命やそれに伴う帝国の崩壊といった政治的変革が伴ったのに加え、
1919年に連合国とドイツとの間で結ばれたヴェルサイユ条約に於いては、ドイツは多額の賠償金を課せられたのに加え、軍備にも細かい制限を加えられるなどの報復措置がとられました。
これらの、ドイツにとって あまりにも屈辱的すぎる内容は、終戦後も禍根を残すところとなりました。
ですが、日本は連合国の勝利に少なからぬ貢献があったにも関わらず、
その後の英米、特に米国の行動は、日本に対し その恩を仇で返すような冷淡なものでありました。
一応、日本は大陸と南洋諸島のドイツ権益を引き継いだものの、
1922年に行われたワシントン軍縮会議では、主力艦の保有数を著しく制限され、翌年8月にはアメリカによる圧力によって日英同盟も解消させられてしまいました。
列強のなかでも中国大陸への進出に出遅れていたアメリカには、日本が大陸に独自の排他的経済圏を作るのではないかという疑念と焦りがあり、
日本が新たに委任統治することとなった南洋諸島は、自国の植民地であるフィリピンとグアムに肉薄することもからも、
元来、白人支配層が潜在的に抱いている人種差別意識も加わり、何かにつけて日本を敵視するようになったわけでありました。
第一次世界大戦の戦勝国でありながら、敗戦国ドイツのそれに近い扱いを受けてきた日本でしたが、
その後しばらくの間、日本は国際社会に於いては、欧米諸国にとって与しやすい紳士的な国であり続けました。
そんな日本が、米国相手に戦争をするに至ったのはなぜか?
それについては、次回にお話させていただこうと思います。