上矢印これの続きです。

 

 

 

 

占いに行ったら

まあ大抵の人が言う「あるあるただのド正論」を聞かされて

モヤモヤしてきたので

このモヤモヤの正体を解明してみたいと思う。

 

 

 

 

 

でもその前に、

私個人的に考える “虐待の定義” を。

『大人になってもほぼ24時間 

漠然と希死念慮をもっていること。

それが親との関わりの中で生まれたものなこと』です

 

 

 

 

 

例え起きた事は違っても、希死念慮を持っていたら

「虐待があったんだろうな」と私は想像してしまう。

 

 

 

 

 

それに今までいろんな方のブログを読んで

その中のたくさんの方が言っていたけど

『虐待を受けたこっち側と、

虐待を受けてない、もしくは

不満はあるけど親は自分を愛してくれた と

思って生きてるあっち側との溝は とても深くて大きい』

うん。ほんとにそう思う。

 

 

 

 

 

ぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶー

 

 

 

 

 

占いに行ったら

【寂しさ、孤独、悩みは

加減は違えど皆持っている。

ある意味 “皆一緒”

だから「私だけいつもひとり」「私だけいつも不幸」のような

「自分だけが特別意識」「自分だけ被害者意識

を手放しましょう】 と言われた。

これにモヤモヤ全開。

 

 

 

 

 

まず 『皆一緒』

え?違うよね?「みんな一緒」じゃないよね?

それともなに?みんな虐待されて生きて来たの?

 

 

 

 

 

この場合の 「皆一緒」 は

生きていれば誰でも感じる悩みだったり問題だったりするそれだよね。

身体で言ったら例えば風邪とか骨折とか そういう事だよね。

 

 

 

 

 

 

 

じゃあ「ガン」になってしまったら?

それか目に見える形で体の一部に障害があったら?

 

 

 

 

 

 

ガンになった人に「辛いのは皆一緒だよ」なんて言える人はどの位いる?

例えば目の見えない人に「自分だけが辛いんじゃないんだよ」って言う?

このあたりになると

当事者でもないのに当事者の気持ちを分かったふりして

無責任な事を言わないように努力する人はそれなりにいると思う。

 

 

 

 

 

 

でも虐待の話となるとなんで多くの人が 

自分もさも知ってるかのようなトンチンカンなお説教をし始めるんだろう。

虐待も命に直結してるんだけど。

子どもの頃から自分の命の危機を親から感じて生きて来たんだけど。

どんな親の元に生まれるかを自分では選べないのは

病気にかかってしまうかどうかを自分で選べないのと同じことなんだけど…

 

 

 

 

 

 

私は今も基本生きていたくない。

でもきっと死にたくはない。

いざ死ぬって時になったら絶対「死にたくない!」と喚く自信がある。

死は怖い。その瞬間の痛さや苦しさはどう考えても怖い。

でも死んでしまった後はきっと

「あ~あ。死んじゃった…

でもやっと苦しさから解放された。もうこれ以上苦しまなくて怖がらなくて済む」

と安心もすると思う。

(でも本当の本当を言うと、最近普通に「死にたくない」 と思えるようになってきた。

これは多分私の心が以前より健康になってきたってことだと思う)

 

 

 

 

 

 

もしその瞬間「まだやりたいことがあったのに…」

なんて思えたら

それはきっと幸せだったという事だ。

 

 

 

 

 

 

ぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶー

 

 

 

 

 

話は変わりますが

数か月前「腎生検」をした。辛かった…!

生検後は血を止める為に身体を動かしてはいけないらいく

18時間くらいずっと少しの寝返りも禁止されて

身体が痛すぎて一睡もできなかったのが何より辛く

それにカテーテルも初体験、

さらには細胞を採る為に刺されれた針?が

体の中に入ってくる感覚の気持ち悪さが数日消えず、

もう色々あって本当に辛かった。「腎生検」舐めてました。

 

 

 

 

 

で、実は身体がしんどい間 

母さんの事も虐待の事も

「もうどーでもいいわ」 と思った時が何度かあった。

心の傷よりも体の傷の方がはるかに辛い。

それは痛感した。

 

 

 

 

 

でもだからと言って

心の傷が軽視されていい事にはならないのも実感した。

病気や怪我をした時の気持ちは

経験して無くてもたくさんの人が想像出来る。

でも心の傷になると

想像できる人が一気に少なくなるのは何なんだ。

 

 

 

 

 

私の場合の身体の傷は治ってしまえば『熱さ忘れる』だったけど

でも心の傷はまた復活した。

だって治って無いもんね。

 

 

 

 

 

心はずっと血をダラダラ流し続けている。

でも必死で自分で何とかしようとしている人はたくさんいる。

誰にも教えてもらえないのに自分のやり方で

何と這い上がろうとそれこそ皆頑張ってる。

 

 

 

 

 

その人生かかった頑張りを

「風邪」や誰にでも巡ってくる「人生の壁」などと一緒かのように

何も知らない他人に言われるのは我慢ならない。

私が腹を立てるのも当たり前。

そこには「言う側の“無知”のせいもある」と私は考える。

 

 

 

 

 

 

昔は「サボり病」だったものが「鬱」と認知されたように

「ただの鼻かぜ」が「花粉症」になったように

「発達障害」が世の中に広まったように

 

 

 

 

 

虐待を経験したことは無いくても 

「“常軌を逸した親”は普通に存在する」事を知っている人が増えて欲しい。

虐待をされた人間はどのような状態になるのかを

広く広く認知されてる世の中になって欲しい。

「親不孝」だの 「甘い」だの

「親子ってそんなもんだよね」だの

うるせーっちゅうの。

 

 

 

 

続きます