第501回('07) 鳴子温泉から気仙沼まで列車で移動。震災前の気仙沼・魚市場付近をぶら | 『乗り鉄』中心ブログ(踏破編)

『乗り鉄』中心ブログ(踏破編)

当ブログでは、私の鉄道乗りつぶしの過程や、最近の乗り鉄のレポート等を中心に紹介いたします。

前回の続き…
2007年8月11日~15日、まずは新幹線で東京まで移動し、『青春18きっぷ』などを使用して東日本を乗り鉄しました。
中でも、3日目~4日目は宮城県と岩手県の三陸方面を旅したのですが、訪問地が2011年の東日本大震災で大きな被害を受けてしまいショックでした…。

今回は3日目、8月13日後半の模様です。
午後は鳴子温泉から陸羽東線→東北新幹線→大船渡線→気仙沼線のルートで南気仙沼まで移動しました。
そして南気仙沼から魚市場のある気仙沼港まで延びていた気仙沼線貨物支線跡を探訪しましたが、この場所は4年後の3月11日、東日本大震災の津波によって大きな被害が発生してしまいました…。
今回の日程 2007年8月13日(月) 【後半】

鳴子温泉1403(陸羽東線・1736D)1449古川1456(東北新幹線・やまびこ53号)1514一ノ関1606(大船渡線・337D)1725気仙沼1739(気仙沼線・2944D)1744南気仙沼1750(徒歩・気仙沼線貨物支線跡)1805気仙沼港駅跡1807(徒歩)1810ホテル

【宿泊】
鳴子温泉駅では『18きっぷ』で入場し、再び陸羽東線の列車に乗りました。小牛田行き1736Dはキハ110形の2両編成で、車内はそこそこの数の乗客がいましたが、今回も1人掛けの回転シートが空いていたので、そこに座りました。

1736Dは定刻の14時03分に鳴子温泉駅を発車しました。道中は車窓風景を眺めたり、時刻表を見て行程を確認したりしながら過ごし、14時49分に古川に到着しました。私をはじめ多くの乗客が下車しましたが、入れ替わりにほぼ同数の人が乗車していました。私はここで新幹線に乗り換えました。



イメージ 1

古川駅では一度改札を出て、一ノ関までの乗車券と自由席特定特急券を買いました(途中にあるくりこま高原駅は後に開業した為、2区間でも特定特急券が設定されています)。そして改札内へと入り、高架ホームへ上がるとすぐに東北新幹線・『やまびこ53号』盛岡行き(E2系10連)が入線しました。大勢の帰省客が下車していき、その後に乗車しましたが、なおも満席で。私はデッキのドア脇で立席となりました。



イメージ 2

『やまびこ53号』は14時56分に古川を発車し、田園地帯を一直線に北上します。そしてあっという間にくりこま高原駅に到着し、ここでも大勢の乗客が下車しました。私は疲れていたので空席を…と思い客室へ入ると、3列席通路側のC席が空いていたので私は着席し、一ノ関までの数分間は少しだけくつろぎました。そして15時14分に一ノ関に到着。大勢の帰省客と一緒に私は下車しました。

乗り継ぐ予定の大船渡線列車の発車まで52分あったので暇つぶしの為に一ノ関駅では一度改札を出ましたが、東北地方とはいえ陽射しが強く暑かったのですぐに退散し、今度は『18きっぷ』で入場して大船渡線ホームへ。列車を待っていると新幹線との間の留置線には、仙台地区にE721系が投入されて運用を外れた455系3連が3本留置されていました。当時、仙台地区では一例として455系6連の列車がE721系4連へと短編成化され、ラッシュ時はもの凄い混雑になっていると増結の声が上がっていたことを記憶しています…。



イメージ 3

しばらく待っていると、気仙沼行き337Dが入線してきました。側面に『ドラゴンレール大船渡線』と書かれたロゴが貼られているキハ100形の2両編成です。陸羽東線などで使用されているキハ110系よりも車体長が短いです。私は早速車内へと入り、ボックス席の進行方向窓側席をゲットしました。そして発車まで20分以上待ちましたが、乗客はなかなか増えません…。結局、1ボックスに1人程度の乗車率で337Dは16時06分に一ノ関を発車しました。



イメージ 4
イメージ 5

列車は少し走るとすぐに農村部、そして北上高地の山間部へと入り、ローカルムードが溢れてきました。そして北上川を渡り陸中門崎(りくちゅうかんざき)から千厩までは「我田引鉄」の代表例である有名な「鍋弦線」区間へと入っていきます。この区間の線形を竜に見立てて、大船渡線の愛称が『ドラゴンレール大船渡線』になったそうです。
まずは陸中門崎から北へ向かい、陸中松川の町を経由して名勝地のある猊鼻渓(げいびけい)で進路を東へ変えます。次は摺沢(すりさわ)で進路を南へ変えてひたすら進んだのちにようやく東向きへ進路を戻して千厩に着く、といった具合です。この間実に26.1kmありますが、陸中門崎と千厩の直線距離は8km少々で、大船渡線は実に3倍以上の距離を走っていることになります。ちなみに並行する国道284号はほぼ一直線に両駅を結んでいます(実際には国道は陸中門崎駅の約2km南を通っています)。この差が大船渡線に対して路線バスにとって有利になっている要因のひとつです。

千厩から先も山間部を東へ走りますが、この時点では車窓風景を見る限り三陸の海が近付いている実感はないです。やがて左手に室根山が見えてくると折壁に到着。ここからは大川の谷を進み、いつしか岩手県から宮城県へと入っていました。しばらく走ると平地へと出て、大川を渡って右側から来た気仙沼線と合流すると市街地へと入り、終点の気仙沼に到着しました。

殆どの乗客は改札を出ていきましたが、私はここで気仙沼線に乗り換えました。小牛田行き2944Dはキハ48形の2連で、車内へ入ると見事に誰もいませんでした! 車内で発車を待っていると、窓から改札口が見えてきて、改札口の横にE2系とE3系をベースとした戦隊モノのキャラクターの等身大パネルが飾られていましたw E2系が男性の「HAYATE」、E3系が女性の「KOMACHI」でしたが、今はE5系とE6系に代わっているのでしょうね…。



イメージ 6
イメージ 7

結局、発車直前になっても4~5人といった閑散ぶりで2944Dは気仙沼を発車しました。発車直前に到着した下りの2945Dは乗客がそこそこ乗っていましたが…。列車は大船渡線と分かれ、大川を渡って内陸の住宅地を進みます。そして不動の沢を過ぎると再び大川を渡り、海沿いの開けた市街地を走ると程なくして南気仙沼に到着しました。私はここで下車しましたが、下車客は私だけで、入れ替わりに遊び帰りの高校生が10人ほど乗車しました。



イメージ 8


ホームを一通り撮影した後、私は改札を出ましたが、有人駅にもかかわらず業務が17時30分で終了とのことで、駅員はいませんでした…。そして駅の外へ出るとタクシーが1台停車していて、運転手が車外へ出て暇を持て余していました。これから私はタクシーには乗らずに気仙沼線貨物支線跡の探訪へと入りました。



イメージ 9この4年後、津波により変わり果てた姿に…

まずは駅から南東へ歩いて気仙沼線との分岐点へ。分岐点までの貨物線跡には雑草が生えていました。そして分岐点からは地図でも分かるように180°近い大カーブを描いていて、廃線跡は並行していた道路の拡幅スペースとして使われたようです。



イメージ 10

そして廃線跡はフカヒレなどで有名な(?)魚市場の用地へ吸い込まれていき、10分ほどで貨物支線の探訪が終わりました。



イメージ 11

その後は魚市場近くにある「気仙沼パークホテル」へチェックイン。観光客風の家族連れが多かったです。

この時点でまだ夕食を食べていなかったので、一度ホテルを外出して、コンビニを探しましたが見つからず、南気仙沼駅近くにある地場のスーパー「ハマダ」へ。時間帯が時間帯なので、にぎり寿司が2割引で売られていました。私はこの寿司などを買ってホテルへ戻り、食べました。余談ですが、スーパー「ハマダ」は僅か4か月後の2007年12月に倒産したようですね…。私が行った時はそこそこ賑わっていた気がしたのですが…。

夕食後は入浴を済ませてテレビを観ていました。なぜかCMのうち3回に1回は「DMM.com」のCMでしたw 時期的にこの手のCMが多いのは分かりますが、あの歌が頭から離れなくなってしまいましたwww そして、DMMの歌が頭に残ったまま22時頃に就寝しました。

(つづく)


あとがき

私が訪問した南気仙沼駅~魚市場一帯の市街地や、宿泊した気仙沼パークホテルは、4年後の2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波、そして火災で甚大な被害を受けてしまいました。
気仙沼パークホテルは今も休業中で、まだ街の復興には時間がかかりそうですが、一刻も早い復興を願ってやみません。


今回の新規踏破路線はありません



今回新たに徒歩で訪問した廃線跡

路線名区間備考
国鉄:気仙沼線(貨物支線)南気仙沼→気仙沼港(1.3km)1977年廃止
(参考:Wikipedia)