日本機動部隊戦記 ③ 〜ミッドウェー海戦・前編〜 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


南方資源獲得のため、マレー半島、フィリピン、蘭印 (オランダ領インドシナ=現インドネシア) などを攻略する第一段作戦を早期に成功させた日本軍は、
占領した南方地域の防衛と連合軍の反攻に対する備えとして、第二段作戦計画に着手した。

第二段作戦計画の案は、連合艦隊が作成した。
それは、米豪遮断作戦としてのポートモレスビー攻略 (MO作戦)、ミッドウェー攻略 (MI作戦)、アリューシャン攻略 (AL作戦)、フィジーおよびサモア・ニューカレドニア攻略 (FS作戦) などから成り、
これらを成功させたあかつきには、ハワイ攻略を目指すという壮大なものであった。



この計画案に、海軍軍令部や陸軍は補給面などの点から反対したが、
連合艦隊司令長官 山本五十六大将は、この案が通らなければ辞任すると言って計画を押し通した。
かくして、その最初の作戦であるニューギニア南東部ポートモレスビーを攻略するMO作戦が発動されたのだが、
ここで日本海軍は、アメリカ機動部隊との間で史上初となる空母対空母の海戦 (珊瑚海海戦) を経験する。



日本海軍最大の作戦


第五航空戦隊 (『瑞鶴』『翔鶴』) をMO作戦に派遣していた南雲忠一中将率いる第一航空艦隊にも、
珊瑚海海戦の戦況は伝わっていた。
アメリカ空母『レキシントン』を撃沈したものの大損害を被り、ポートモレスビー攻略も中止されたという結果に、第一航空戦隊 (『赤城』『加賀』) や第二航空戦隊 (『飛龍』『蒼龍』) の将兵たちは、
「五航戦は技量が足りなかったからこの有り様だ。我々だったら作戦は成功していた」
と豪語した。
真珠湾攻撃からインド洋作戦と、無敵の戦いぶりを見せてきた彼らの、これは自信というより慢心だった。

第一航空艦隊 (南雲機動部隊) 陣容

  ※旗艦『赤城』

第一航空戦隊 (一航戦) 
 空母『赤城』『加賀』

第二航空戦隊 (ニ航戦)

 空母『飛龍』『蒼龍』

第五航空戦隊 (五航戦)
 空母『瑞鶴』『翔鶴』


珊瑚海海戦の結果から、日本海軍はもっと学ぶべきだった。
アメリカの情報戦略の前に日本軍の行動は事前に漏れていた上、
アメリカ空母の攻撃力と防御力は日本空母をしのぐものだった。
そのため、新鋭空母の『翔鶴』は中破し、『瑞鶴』は艦体は無事だったものの、両空母とも多くの艦載機を失った。
第五航空戦隊は、修理と兵力再編のため日本本土への回航を余儀なくされた。

そして、
第五航空戦隊を欠いた空母4隻体制となった南雲長官の第一航空艦隊に、MI作戦参加の命令が下った。
MI作戦すなわち、ミッドウェー島攻略作戦である。



昭和17年 (1942年) 5月27日、
奇しくも海軍記念日のこの日、第一航空艦隊が広島湾柱島の泊地から出撃した。

第一航空艦隊は、空母『赤城』『加賀』『飛龍』『蒼龍』の4隻の空母を中心に、
戦艦『榛名』『霧島』、重巡洋艦『利根』『筑摩』、軽巡洋艦『長良』、他に駆逐艦12隻と給油艦8隻で編成されていた。
そして、各空母には真珠湾攻撃やインド洋作戦などを経験したベテラン搭乗員たちが、多数乗り組んでいた。

※第一航空戦隊 空母『赤城』

※第一航空戦隊 空母『加賀』

※第二航空戦隊 空母『飛龍』

※第二航空戦隊 空母『蒼龍』


翌28日には、海軍陸戦隊と陸軍の上陸部隊8千名を乗せた輸送船団15隻が護衛艦隊とともにサイパン島を出航。
続いて29日には、柱島泊地から攻略部隊 (戦艦2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、空母1隻など) が、
そして、山本五十六司令長官座乗の戦艦『大和』を旗艦とする主力部隊 (戦艦7隻、軽巡3隻、駆逐艦20隻、小型空母1隻など) が、それぞれ出航した。
これに、並行して実施されるアリューシャン列島攻略作戦 (AL作戦) の北方部隊 (26日に青森県大湊を出港) も含めると、

実に艦船350隻、航空機1千機、総兵力10万人におよぶ、日本海軍始まって以来の大部隊が西太平洋上に展開していた。



柱島を出航した日本艦隊は、徹底的に情報を秘匿した真珠湾攻撃の時と違って、その勇姿を堂々と披露して進み、
途中出会った漁船団の漁師たちに万歳で見送られたりした。

ただ、厳重な無線封止は実施していた。

アメリカ軍は日本軍の暗号電文を解読して、次の目標がミッドウェーであることを掴んだとされているが、
日本艦隊の行く先がミッドウェーであることは、呉の街のおでん屋や床屋でも知っていた。
士官が芸者に漏らし、そこから広まったという証言もある。

連戦連勝の驕りから、日本側の情報管理がずさんだったと見る向きもあるが、
日本軍にはもともと、情報軽視の風潮があった。
海軍がわざと情報を流して、アメリカ機動部隊がミッドウェーに出てくるよう仕向けたという説まである。
当時の海上兵力は日本側が圧倒的に優勢だったので、
奇襲でなく強襲でも、おびき出したアメリカ空母を叩き潰すことは十分可能と考えていたとしても不思議ではない。
いずれにしても、
アメリカ軍は、日本の大攻略部隊がミッドウェー島に迫りつつあることを、情報分析で察知していた。

ミッドウェー島は、日本とアメリカ西海岸の中間ぐらいの位置にある小さな環礁だが、戦略上の要衝だった。
日本軍の来襲に備えてアメリカ軍は、守備隊3千名を配備して、着々と島の護りを固めていた。
海岸には上陸を妨害するための鉄条網が張り巡らされ、砲台や機関銃座があちこちに設置されたほか、
島内の飛行場には、新旧の戦闘機や爆撃機120機を擁する基地航空隊が駐留していた。

日本軍は、この拠点を占領してハワイ攻略の足がかりにするとともに、
必ず出てくるであろうアメリカ空母の捕捉撃滅を企図していた。

※ミッドウェー島
飛行場のあるイースタン島 (手前)
と、水上機基地のあるサンド島
(奥) からなる。



※これらミッドウェー島のカラー
画像は、アメリカ軍に従軍した
ジョン・フォードと“モーパック” 
(米軍記録班) 撮影の記録映画より。


海軍内部でも反対の多かったミッドウェー作戦を山本五十六司令長官が強行したのは、
アメリカ空母の脅威を排除せずして日本の安全は守れないとする考えがあったからだった。
それには、4月にアメリカ軍が実施した空母『ホーネット』からのB25爆撃機16機による日本本土初空襲も影響を与えていた。
これは、陸軍機であるB25を空母から発進させるというやや無茶な作戦だったが、
東京、神奈川、名古屋などが爆撃され、民間人にも死傷者が出たほか、横須賀海軍工廠で建造中の空母『龍鳳』(潜水母艦『大鯨』を改装中) が直撃弾で小破するなどの被害が出た。

この空襲は、後に大規模かつ徹底して行われることになるB29による戦略爆撃のような本格的な戦果を狙ったものではなく、
アメリカ国内の戦意高揚を目的としたデモンストレーション的なものであったが、
突如として襲ってきたアメリカ軍機の脅威は、日本の軍部や国民に大きな衝撃を与えた。
それは、山本司令長官にアメリカ空母の撃滅を急がせることになった。


※空母『ホーネット』を発艦する
ドゥーリットル中佐のB25爆撃隊



一路ミッドウェーへ


柱島を出た日本の機動部隊は、最初 一直線に並んで航行していたが、

九州と四国の間の海峡を抜けて太平洋に出ると “警戒航行序列” という隊形にかわった。
2隻の駆逐艦がはるか前方を進む中、軽巡『長良』が艦隊の先頭に位置し、駆逐艦隊が八の字の陣形を組む。
その中心に、護られるように『赤城』を先頭に空母4隻と戦艦2隻が一列に続く。
重巡『利根』と『筑摩』はこの両側に出て離れて航行していた。
日本機動部隊は、敵潜水艦の目をくらませるためいったん南に針路をとり、その後、東へ転針した。

この機動部隊に続いて進む山本五十六直率の主力部隊は、
名前こそ主力部隊だが、実際は何のために付いてくるのかよくわからなかった。
アメリカ機動部隊の撃滅は、空母4隻を基幹とする第一航空艦隊が、
上陸部隊を支援する艦砲射撃などは攻略部隊が行う。
先行する第一航空艦隊の後方300海里 (約555㎞) にいる主力部隊は、
いかに巨大戦艦『大和』を擁するといっても、その46㎝主砲の最大射程距離は42㎞ にすぎない。
当時の世界の戦艦のうちでは最大の長射程だが、
機動部隊の500㎞以上後方にいたのでは、いざという時に支援できない。

機動部隊の将兵たちは、これを “戦争見物” と皮肉った。

※戦艦『大和』


『赤城』では、柱島停泊中に『大和』で行われた作戦会議に参加した飛行隊長の村田重治少佐が、
機動部隊を先に出しておいて、あとから付いてくるだけの主力部隊は役に立たないと、搭乗員仲間たちと息巻いていた。
「俺達にも敵を残しておいてくれよ」
と軽口を叩く連合艦隊の参謀もいたという。
“雷撃の神様” と呼ばれた村田少佐には、
連合艦隊司令部は『大和』など戦艦部隊は後方に温存する一方、
機動部隊は、その露払いのように使っているとしか思えなかった。
機動部隊の搭乗員たちには、実質的な主力部隊は自分たちだとの自負があった。

ミッドウェー作戦を取材するため『赤城』に乗り組んでいた報道班員の牧島カメラマンは、

艦橋下の飛行甲板に張られたテントの中で寝転がっている数名の搭乗員の中に、顔見知りの吉川飛行兵曹を見つけた。
彼らは、敵の偵察機が現れた時の迎撃に備えて待機していたのだ。(今風に言えばスクランブル要員)
吉川兵曹も牧島カメラマンに気付き、航空糧食の飴をすすめた。
牧島カメラマンは吉川兵曹から、
良い写真を撮りたいなら、零戦に乗せてミッドウェーに連れて行ってやると言われた。
牧島カメラマンが、村田少佐からも誘われていると言うと、
「九七艦攻 (3人乗り) は速力が遅いのでやられやすい。零戦の方が安全だ」
「でも、零戦は一人乗りじゃないですか」
「操縦席の後ろに座布団を敷いて座るんだよ」
そんな冗談も飛び交うのどかな光景が見られるほど、
瀬戸内海を出た後しばらくは平穏な航海が続いていた。



順調に見えた航海も、旗艦『赤城』艦上では一つの異変が起きていた。

真珠湾攻撃からインド洋作戦と、攻撃隊の総隊長を務めた淵田美津雄中佐が、腹痛で苦しみ出したのだ。
翌日になってさらに激しい痛みを訴えた淵田中佐は、
軍医長の診察の結果、虫垂炎 (盲腸炎) と診断され手術が行われた。
手術後の淵田中佐は、艦内の医務室で絶対安静になってしまった。
それに、こちらも真珠湾攻撃以来のベテラン航空参謀 源田実中佐も、
風邪をこじらせて高熱を出していた。

このことは、たちまち艦内に知れわたった。
これまで、日本機動部隊の航空隊を引っ張ってきた淵田中佐らが作戦に参加できないと、将兵の士気が下がると心配する者もいたが、
多くの士官たちは「どうせ勝つから心配ない」と、楽観視していた。
任務がない時は、広い士官室はタバコの煙が立ち込め、
大勢の士官たちがビールや日本酒を飲みながら、トランプや囲碁・将棋に興じていた。
機動部隊の4隻の空母には、通常の艦載機部隊のほか、
ミッドウェー島占領後に進駐する基地航空隊として、大分航空隊の航空機とその搭乗員や指揮官も乗せていたので、各艦は満員状態だった。


その頃アメリカ軍は、ミッドウェー島基地航空隊のカタリナ飛行艇による哨戒を行い、

接近しつつある日本機動部隊の早期発見に全力をあげていた。


※PBYカタリナ飛行艇



さらに、ミッドウェー島の北東で、

フランク・J・フレッチャー少将指揮の第17任務部隊 (空母『ヨークタウン』) が、

レイモンド・A・スプルーアンス少将指揮の第16任務部隊 (空母『エンタープライズ』『ホーネット』) に合流した。

17任務部隊の空母『ヨークタウン』は、先の珊瑚海海戦で大破したが、

ハワイの真珠湾に回航されて急ピッチで修理を行った結果、48時間後には作戦に参加できるまでに復旧していた。

同じ珊瑚海海戦で損傷した日本の空母『翔鶴』の修理が、ミッドウェー作戦に間に合わなかったことを考えると、

アメリカ軍の復旧能力の高さに驚かされる。

この統合されたアメリカ機動部隊の指揮は、フレッチャー少将がとることになった。


※真珠湾の乾ドックに入渠中の
第17任務部隊 空母『ヨークタウン』
 (USS Yorktown, CV-5)

※第16任務部隊 空母『エンタープライズ』
 (USS Enterprise, CV-6) 

※第16任務部隊 空母『ホーネット』
 (USS Hornet, CV-8)


現地時間6月3日 午前9時 ※以下現地時間

上陸部隊を乗せた日本の輸送船団は、機動部隊のはるか南西を航行していた。

これを、哨戒中のミッドウェー島基地航空隊のカタリナ飛行艇が発見した。

報告を受け、ミッドウェー島からB17爆撃機9機が発進、

午後4時過ぎ、輸送船団を捕捉して水平爆撃を行うが命中弾はなかった。

翌日未明には、雷装したカタリナ飛行艇4機が魚雷攻撃を行った。

油槽船 (タンカー)『あけぼの丸』船首に魚雷1本が命中して死者11名を出したが航行に支障はなかった。


アメリカ軍は当初、この輸送船団を空母や戦艦をともなう艦隊と誤認していたが、

やがて、これが日本軍の主力部隊ではないことを悟った。

だが、空母を含む主力機動部隊は必ず近くにいるとみて索敵を続けた。




ミッドウェー空襲 〜アメリカ軍航空隊の来襲


6月4日早朝、
日本機動部隊は、艦載機の航続範囲内であるミッドウェー島北西200海里 (約370㎞) の海域に到達していた。
ちょうど、国際日付変更線の上であった。
しかし、
この時まだ、日本側もアメリカ空母の所在を把握していなかった。

機動部隊司令長官の南雲中将は、この時点で敵空母に関する情報がないことから、近くにアメリカ空母はいないと判断。
魚雷や対艦用徹甲爆弾ではなく、まずは陸用爆弾を装備させた攻撃隊によるミッドウェー島空襲を行うことにした。

「総員起こし!総員起こし!」
艦内放送が響く中、起床した将兵たちは握り飯、福神漬、塩鮭、タクアンといった戦闘時恒例の簡単なメニューの朝食をすませた。
攻撃隊の搭乗員は、ブリーフィングを終えると、自分の搭乗機に走って向かう。
「機械発動!」の号令が発せられるや、
まだ明け切らぬ中、飛行甲板上はシルエットになった艦橋や機影が轟々たるエンジン音に包まれた。

午前4時30分、
「発艦はじめ!」の号令とともに、
飛行長が電燈をグルグルと回し、ピリリリッと笛の音が響く。
一番機の戦闘機が飛行甲板をスルスルと疾走し、オレンジ色に染まり始めた空に飛び立っていく。
二番機、三番機と続き、戦闘機隊が発艦し終わると、次は爆弾を抱えた艦爆の発艦が始まる。
各空母を発艦した機は上空で大きく旋回しながら編隊を作ると、
やがて、南東の空に飛び去って行った。
甲板上の将兵たちは、これを “帽振れ” で見送った。



日本機動部隊の空母4隻を発進したのは、
零式艦上戦闘機 (以下零戦)、九九式艦上爆撃機 (九九艦爆)、九七式艦上攻撃機 (九七艦攻) 各36機、合計108機であった。
この攻撃隊を、虫垂炎で手術を受けた淵田中佐に代わり、
空母『飛龍』の飛行隊長である友永丈市大尉が指揮していた。
これと前後して、第一航空戦隊の『赤城』と『加賀』から九七艦攻各1機、重巡『利根』『筑摩』から零式水上偵察機各2機、戦艦『榛名』から九五式水上偵察機1機が偵察のため発進した。
ただし『利根』4号機は、カタパルトの故障で発進が30分遅れた。


アメリカ軍は午前5時30分、
哨戒中のカタリナ飛行艇が日本機動部隊を発見していた。
そして、その10分後、別のカタリナ飛行艇がミッドウェー島空襲に向かう日本軍機の編隊を発見、ともに無電でミッドウェー基地に報告した。

午前6時、ミッドウェー島基地から迎撃の戦闘機26機 (F2Aバッファロー20機、F4Fワイルドキャット6機) が発進。


※F2Aバッファロー戦闘機

※F4Fワイルドキャット戦闘機



続いて、日本機動部隊攻撃のための攻撃隊 (TBFアベンジャー攻撃機6機、B26マローダー爆撃機4機、SB2Uビンジケーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機など) が発進した。

また、残りの基地航空隊機は、日本軍の空襲を避けるため上空に待避した。



※TBF アベンジャー攻撃機


※B26マローダー爆撃機

※SB2Uビンジケーター急降下爆撃機


ミッドウェー島基地からの報告で、日本機動部隊の位置を知ったアメリカ機動部隊も順次攻撃準備に移り、

司令官のフレッチャー少将は、午前7時をもって攻撃を開始することを決定した。

だが、日本機動部隊はまだアメリカ機動部隊の存在に気付いていなかった。



午前6時15分、
友永隊がミッドウェー島上空に到達した時、滑走路上には1機の機影もなかった。
そこへ、上空で待ちかまえていたアメリカ軍戦闘機が襲いかかったが、
性能に優る零戦に圧倒され、15分ほどの空戦でバッファロー13機、ワイルドキャット2機が撃墜された。
撃墜を免れて基地に戻ったうち、バッファロー5機、ワイルドキャット2機も損傷が激しく放棄された。

その後、友永隊は40分にわたってミッドウェー島を爆撃し、
重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊して基地施設に打撃を与えたが、
滑走路の損傷は小さく、地上でのアメリカ軍の死者も12名にとどまった。
日本側は、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を対空砲火で失った。
残る機も相当数が被弾損傷しており、
友永大尉機も被弾してガソリンの尾を引いていた。

  


 



島の軍事施設は堅固に防御されていたため、
友永大尉の攻撃隊は、十分な戦果をあげることが出来なかったのだ。
爆撃で穴があいた滑走路も、ブルドーザーなどの機械力を駆使すれば簡単に修復できる状態だった。
そのため、友永大尉は『赤城』の機動部隊司令部あてに
「再攻撃の要あり」(第2次ミッドウェー島空襲の必要あり)
と打電した。


その頃、日本機動部隊は、友永隊の攻撃前にミッドウェー島を発進したアメリカ軍基地航空隊の断続的な攻撃を受けていた。

午前7時過ぎに来襲したアベンジャー攻撃機6機と雷装したマローダー爆撃機4機は『赤城』に魚雷攻撃を試みたが、
戦闘機の護衛なしに飛来したため、たちまち直掩の零戦隊にほとんどが撃墜されるか、使用不能なまでに撃破された。
『赤城』に命中弾はなかった。



午前7時50分、
続いてミッドウェー島基地の海兵隊航空隊所属のドーントレス急降下爆撃機16機が来襲。
第二航空戦隊の『飛龍』と『蒼龍』に攻撃をかけたが、
零戦の迎撃でロフトン・R・ヘンダーソン少佐の指揮官機をはじめ8機が撃墜された。
(ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場は、戦死したこのヘンダーソン少佐にちなんで米軍が後に命名した)

続いて8時10分、
B17爆撃機17機が飛来して高空から水平爆撃を行うが命中弾なし。

そのあとに来襲したのは、海兵隊航空隊のビンジケーター急降下爆撃機11機だった。
戦艦『榛名』を狙って急降下爆撃を行ったものの爆弾は命中せず、
1機が撃墜され、2機が被弾不時着し、爆撃隊は退散した。

※B17爆撃機
本来は陸上爆撃に使用される。



これらミッドウェー島基地航空隊の攻撃で、日本機動部隊に被害はほとんどなかった。
日本空母の艦内には
「敵機、全機撃墜!」
といった景気のよい艦内放送が流れ、将兵たちの歓声があがっていた。

この間、友永大尉からの「再攻撃の要あり」の無電と、アメリカ軍基地航空隊の活発な来襲を総合的に考慮して、
南雲長官は、滑走路などミッドウェー島の基地機能がいまだ健在と考えた。
そこで、再度ミッドウェー島のアメリカ軍基地に対する空襲を行うことを決定。
敵空母が出現した場合に備え、魚雷を装備して待機していた攻撃機を、
陸用爆弾に “兵装転換” (雷爆転換) するよう命じた。

ミッドウェー島基地航空隊による攻撃が続いていた午前8時頃、
遅れて発進していた重巡『利根』の水上偵察機から
「敵艦隊らしきもの見ゆ」
との報告が入った。

日本機動部隊に、にわかに緊張が走った。

参謀長の草鹿龍之介少将は、

「艦種知らせ」と指示した。
この時、ミッドウェー島空襲から戻って来た友永隊の編隊が日本機動部隊上空に現れた。
これを敵機と誤認した護衛の駆逐艦が対空砲火を浴びせるという一幕も見られる混乱の中、
午前8時20分、『利根』偵察機より
「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻」
との返電があり、
やはり空母はいない模様だと機動部隊司令部が安堵した直後、今度は
「敵は空母らしきものをともなう」
との続報が入った。

※零式水上偵察機
(『利根』偵察機と同型のもの)


すぐにも、攻撃隊をアメリカ空母攻撃に向かわせたいところだが、
各空母の攻撃機は、ミッドウェー島への第2次空襲用に陸用爆弾に付け替えている最中だった。
陸用爆弾でも敵空母の甲板に損傷は与えられるので、そのままでも発進させるべきという意見や、
やはり、敵艦の側面に穴をあけて沈めることができる魚雷に付け替えるべきという意見など、参謀たちの意見も分かれた。

第ニ航空戦隊 (空母『飛龍』『蒼龍』) 司令官の 山口多聞少将は、
陸用爆弾のままでも、今すぐに攻撃隊を発進させてアメリカ空母を叩くべきと考えていた。
もたもたしている時間はない。
一刻も早く攻撃隊を発進させなければ、先にアメリカ空母の艦載機の攻撃を受ける。
山口少将からは、旗艦『赤城』の南雲長官あてに、
「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」
との発光信号が送られた。


これに対して南雲長官は慎重な姿勢をくずさず、
ミッドウェー島空襲から戻ってきた友永隊の航空機をまず収容し、
それとあわせて、陸用爆弾に付け替えたばかりの攻撃機の兵装を、再び魚雷に転換してからアメリカ空母を攻撃することを決定した。

こうして、いったん陸用爆弾に付け替えられた攻撃機の兵装は、また魚雷に変更されることになったが、
度々の兵装転換に、整備兵も搭乗員も戸惑いを隠せなかった。
重い魚雷や爆弾を人力で付け替える作業には1時間以上を要し、作業にあたる兵たちの疲労もかさんでいった。



ほどなくして、
日本軍の迎撃で ほぼ全滅してしまったミッドウェー島の基地航空隊に代わり、
山口少将の危惧通り、アメリカ機動部隊の空母から発進した攻撃隊が来襲した。
空母『ホーネット』『エンタープライズ』『ヨークタウン』の雷撃隊は、20~30分の間隔を置いて相次いで攻撃してきた。

午前9時20分、
まず、空母『ホーネット』のジョン・ウォルドロン少佐指揮の雷撃隊 (TBDデバステーター雷撃機)15機が来襲した。
ウォルドロン隊は『赤城』を狙ったが、
直掩の零戦隊が指揮官機以下全機を撃墜し、脱出に成功したジョージ・ゲイ少尉だけが生き残った。
ゲイ少尉はライフジャケットを着けていたため洋上を漂い、
後に救助されるまで、アメリカ空母艦載機と日本機動部隊の死闘をつぶさに目撃することになる。


※TBDデバステーター攻撃機 
初期のアメリカ機動部隊雷撃隊の
主力雷撃機。


午前9時50分、
今度は『エンタープライズ』のユージン・リンゼー少佐指揮の雷撃機14機が来襲。
『加賀』に迫ったリンゼー隊は、
これも、上空直掩の零戦隊によって9機が撃墜され、1機が不時着水、帰投した4機のうち1機も大破して海上に投棄された。
指揮官のリンゼー少佐は戦死した。
日本側は零戦1機を失ったが、ここへきて、直掩の零戦搭乗員の疲労も極限に達していた。

午前10時10分、
『ヨークタウン』のランス・マッセイ少佐指揮の雷撃隊12機が来襲。
『飛龍』を魚雷攻撃したが、すべて回避され、10機が撃墜されて指揮官のマッセイ少佐も戦死した。
残る2機も帰投中に不時着水して失われた。
この攻撃中、墜落機から脱出して漂流していたウェスレイ・F・オスマン予備少尉が駆逐艦『嵐』に救助され、日本軍の捕虜になった。
(オスマン少尉は後に乗組員に殺害された)


ミッドウェー島基地航空隊の攻撃に続いて、アメリカ機動部隊の3波にわたる攻撃を撃退した日本機動部隊だったが、
アメリカ軍攻撃機は魚雷攻撃のため、海面すれすれに水平飛行して接近してきたため、迎撃の零戦隊が低空域に誘導される形になった。
このため、日本機動部隊の上空は無警戒な状態となっていた。


 つづく