日本機動部隊戦記 ④ 〜ミッドウェー海戦・後編〜 | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


3空母被弾


アメリカ機動部隊の雷撃隊が、ほとんど全滅に近い損害を受けて戦果をあげられないでいる中、

(現地時間6月4日) 午前10時20分、
クラレンス・マクラスキー少佐率いる空母『エンタープライズ』の急降下爆撃隊 (SBDドーントレス急降下爆撃隊30機) が来襲した。

当初、マクラスキー隊は日本機動部隊を発見できず、
燃料消耗のため、航続範囲の限界を越えつつあった。
このため、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となった。
マクラスキー少佐は、日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行した。
その結果、雲の合間から眼下に、飛行甲板に日の丸の塗装がある一群の空母を発見した。

珊瑚海海戦で、攻撃隊が間違えて敵の空母に着艦しようとした教訓から、
日本空母の飛行甲板前部には巨大な日の丸が描かれていた。
これはアメリカ軍攻撃隊にとって格好の目標となった。



直掩の零戦隊も、雷撃機を警戒して低空に下りている。
上空はガラ空きだった。

マクラスキー隊は、この絶好のチャンスを逃すことなく、
高空からダイブして『加賀』に襲いかかった。

※急降下して爆弾を投下する

SBDドーントレス急降下爆撃機



「敵機直上、急降下!」
見張りの兵が叫んだ時にはすでに遅かった。
対空砲火も間に合わず、投下された爆弾が次々に『加賀』に降り注いだ。
『加賀』は岡田次作艦長の機敏な操艦で、爆弾3発までを回避した。
アメリカ軍機のパイロットは、『加賀』の艦橋で、小柄な岡田艦長と思われる人物がとび跳ねるようにして指揮をしているのが見えたという。
だが、回避運動もむなしく、続く4〜5発の爆弾が命中。

このうち、艦橋のそばにあった航空ガソリンを満載した給油タンク車に命中した1発は大爆発を引き起こし、爆風で基部を除いた艦橋を吹き飛ばした

これにより、岡田艦長以下幹部のほとんどが死亡した。


また1発は、艦橋下の搭乗員待機所を直撃し、待機中の搭乗員多数が犠牲になった。

さらに、兵装転換中で格納庫内にあった航空魚雷や爆弾、艦載機などが次々に誘爆した。

爆発のたび『加賀』は大きく揺れ、巨大な黒煙をあげて航行を停止した。


※爆撃を受け爆発炎上する『加賀』


午前10時25分、
『エンタープライズ』隊と相前後して、
マクスウェル・レスリー少佐指揮の『ヨークタウン』艦爆隊が来襲。
ドーントレス急降下爆撃機17機が『蒼龍』を攻撃した。
『蒼龍』もほとんど防戦する間もなく爆弾3発が命中。

それぞれ3基のエレベータ付近に1発ずつ命中し、

1発が格納庫下段、2発が格納庫上段で炸裂した。

これにより、第2次攻撃隊として出撃予定の爆弾を搭載した九九艦爆と、

帰艦した第1次攻撃隊の九七艦攻に搭載するために置かれていた魚雷18本が次々に誘爆した。

大爆発を起こした『蒼龍』の飛行甲板から、駐機中の艦載機が吹き飛んだ。


午前10時45分、

『蒼龍』の柳本柳作艦長は総員退艦を言い渡したが、

大部分の将兵は炎に追われ、退艦命令が伝わらない者も多数いた。

救助にあたった駆逐艦『磯風』乗組員は、

海上に脱出した『蒼龍』生存者に、アメリカ軍機が機銃掃射をするのを目撃している。

その『磯風』も攻撃され、至近弾1発を受けたが被害はなかった。


※回避運動を行う『蒼龍』


『蒼龍』への攻撃が開始されたのと同じ頃、
『エンタープライズ』艦爆隊の3機が『赤城』を狙って急降下した。

投下された初弾は外れて『赤城』艦首の左舷10mに水柱をあげ、

2弾目は至近弾となり、3弾目が命中した。

この時『赤城』では、直掩の零戦が給油を終え、再び発艦しようとしていた。

1番機が発艦した直後、飛行甲板中央に爆弾が命中した。

発艦直前の2番機が爆風で艦橋付近で逆立ちになって炎上した。
その火はやがて艦橋に燃え移った。

『赤城』に命中したのはこの1発だけだったが、

第2次攻撃を準備中だった機や、爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した。

当時、赤城の格納庫内には3機の零戦、魚雷を装備した艦攻18機、収容したばかりの第1次攻撃隊の艦爆18機があった。

特に九七艦攻はアメリカ軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には外した陸用爆弾が散乱していた。

甲板中央部に命中した爆弾の爆発でこれらが誘爆を始め、

『赤城』は収拾がつかない状態となった。


※爆撃下の『赤城』
飛行甲板前部に識別用の日の丸の
塗装が見える。


機動部隊司令部は、将旗を軽巡『長良』に移すことを決定。

短艇 (カッターボート) が横づけされ、

艦橋を脱出した司令官の南雲中将や草鹿参謀長ら幹部たちが、下ろしたロープを伝って移乗した。

淵田中佐や報道班員の牧島カメラマンも乗ってきた。

淵田中佐は手術のあとが回復していないのか、短艇の中で体を横たえた。

水兵たちの漕ぐ短艇は、3本煙突の旧式巡洋艦『長良』に向かった。

南雲中将も参謀たちも、みんな呆然として燃える『赤城』を見つめている。
断続的に起こる爆発のたび、真っ赤に焼けた鉄片が周囲に降り注いだ。

それでも『赤城』の高角砲は上空に向かって火を吐いていた。

青木泰二郎艦長ら、まだ艦内に残って戦っている将兵がいるのだ。


アメリカ軍攻撃隊は、日本機動部隊の3空母が被弾して炎上するのを見て、撃沈確実と判断して引き上げた。

この状況の中、第二航空戦隊の空母『飛龍』はスコールの雲に隠れる形になっており、

また、アメリカ軍雷撃隊の攻撃を回避して他の空母から離れていたため、被弾を免れ無傷だった。


しかし、

歴戦の4万トン空母『赤城』が爆弾1発でノックアウトされたという事実は、

攻撃力は強いが防御力が弱い日本空母の弱点を露呈するものであった。




『飛龍』の反撃


第一航空艦隊の空母で唯一残った『飛龍』艦橋からは、

南の水平線上に、天に届くほどの黒煙をあげて炎上する3空母が遠望できた。

『飛龍』座乗の第二航空戦隊司令官 山口多聞少将は、

自らの主張通り、敵空母発見と同時にすみやかに攻撃隊を発進させていれば、と悔しがった。


※この時点で無傷だった日本空母は『飛龍』のみだった。



午前10時50分、

第一航空艦隊の次席指揮官である第八戦隊 (重巡『利根』『筑摩』の部隊) 司令官 阿部弘毅少将は、

『赤城』『加賀』『蒼龍』の被弾炎上を山本五十六司令長官のいる主力部隊に報告した。

阿部少将は続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた。


山口少将は、この時すでに独自の判断で『飛龍』を北東方向に進めていた。
そして、来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と推測し、
『飛龍』1隻の航空戦力で十分に戦えると考えていた。
「こうなったら『飛龍』単独で、殴り込みをかける!」
今ならアメリカ軍の空母は、日本機動部隊の攻撃から帰還した攻撃隊を収容中のはずで、
これに乗じて攻撃すれば、より効果が大きいと判断したのである。
まず『飛龍』に残っている艦載機のうち、
九九艦爆 (急降下爆撃機)18機に護衛の零戦6機を付け、第1波攻撃隊が編成された。

※零式艦上戦闘機 (零戦) 

※九九式艦上爆撃機 (九九艦爆)


午前11時、
小林道雄大尉指揮の第1波攻撃隊24機が『飛龍』を発進した。
小林大尉は発進してしばらく後、
日本機動部隊を攻撃して、母艦に帰還する途中のアメリカ軍機の編隊を発見。
これを追尾して、アメリカ機動部隊に接近しようとしたが、
この編隊が、これから日本艦隊攻撃に向かうところと勘違いした零戦隊が攻撃をかけ、交戦する事態となった。
零戦隊の勇み足だった。
結局、機銃弾を使い果たした1機が『飛龍』に引き返し、1機が不時着して (搭乗員は救助) 護衛の零戦隊は4機に減ってしまった。

それでも小林隊は、
アメリカ機動部隊と触接中の重巡『筑摩』の水上偵察機が発する電波に誘導されて、ついに米空母『ヨークタウン』を発見した。
そして、ワイルドキャット戦闘機の迎撃と対空砲火の中、
決死的急降下爆撃を行うと『ヨークタウン』に爆弾3発を命中させた。
そのうちの1発はボイラー室を破壊し、
同艦は火災を起こして航行不能となった。
『ヨークタウン』を旗艦としていたアメリカ機動部隊司令官フレッチャー少将は、重巡『アストリア』に移乗した。
艦長のエリオット・バックマスター大佐は、艦に残って消火作業を指揮した。

この攻撃で『飛龍』の第1波攻撃隊は、指揮官の小林大尉機を含む艦爆13機と零戦3機を失った。
黒煙を噴き上げる『ヨークタウン』を見ながら帰還の途についた生き残りの第1波攻撃隊は、
「エンタープライズ型空母1隻撃沈」
と報告した。
(実際は『ヨークタウン』で、沈没もしていない)

※『ヨークタウン』に爆弾が命中した瞬間
 上空には激しい対空砲火が炸裂している。


その頃、軽巡『長良』に移っていた第一航空艦隊司令部は、
アメリカ機動部隊の空母は3隻であることをようやく把握していた。
これは、捕虜にしたアメリカ軍機のパイロットを尋問した駆逐艦隊からの情報によるものだった。
この情報は『飛龍』の山口少将にも もたらされた。
山口少将は、残りのアメリカ空母攻撃のため第2波攻撃を命じる。
第2波攻撃隊は、先のミッドウェー島空襲部隊の隊長だった友永大尉が再び指揮をとることになった。
攻撃隊は、魚雷を装備した九七艦攻10機と零戦6機で編成された。

山口少将は、わざわざ艦橋から下りてきて、
攻撃隊の搭乗員一人一人の手を両手で握り「仇を取ってくれ」と言って見送った。

※九七式艦上攻撃機 (九七艦攻)
 雷装 (魚雷を装備) した機 


ところが、友永大尉の搭乗機 (九七艦攻) は、ミッドウェー島空襲の際に被弾して燃料タンクに穴があいていた。
そのため燃料が漏れ、アメリカ空母の位置まで行き着くことはできても、
『飛龍』まで帰還できるかわからない状態だった。
友永大尉は、他の搭乗員が別の機体に替えるよう進言しても
「今は1機でも多い方がよかろう」
と言って聞かず、応急修理を施して出撃して行った。

午後2時40分、
友永大尉の第2波攻撃隊が、他のアメリカ空母からやや離れて航行中の空母『ヨークタウン』を発見した。
この時、小林隊の第1波攻撃で炎上していた『ヨークタウン』の火災は鎮火していた。
アメリカ空母の設備には、日本空母にない油火災も鎮火できる万能ノズルや、
酸欠状態でも消火隊の活動を可能にする酸素供給機があった。
防御力の弱い日本空母と違い、アメリカ空母のダメージコントロール能力は非常に高いものがあった。
このため『ヨークタウン』は、2時間ほどで自力航行できるまでに復旧していたのだ。
そうとは知らない友永大尉の第2波攻撃隊は、攻撃していない別の空母だと誤認して再び『ヨークタウン』を攻撃した。


 


魚雷攻撃のため、海面すれすれに『ヨークタウン』に肉迫する攻撃隊の周りに激しい対空砲火が炸裂した。
弾幕をかいくぐった第2波攻撃隊は挟撃雷撃を敢行し、魚雷2本を左舷に命中させた。

これにより『ヨークタウン』は、ボイラー室と発電機を破壊されて再び航行不能となった。

バックマスター艦長は総員退艦を命じ、艦長を含む乗組員全員が脱出した。


この攻撃時、指揮官の友永大尉機は魚雷を発射後、対空砲火を受けて翼から火を噴いた。
その時の記録は、日本軍の戦闘詳報に残っている。
隊長機を示す尾翼の塗装がある友永大尉機は、炎上しながら『ヨークタウン』の艦橋付近に突入して自爆したという。

この第2波攻撃で日本側は、友永大尉機を含め、艦攻5機、零戦2機を失った。
一方『ヨークタウン』は、魚雷の爆発孔から浸水、左舷に傾斜して停止したが、まだ浮いていた。

※艦橋付近から激しく黒煙をあげる『ヨークタウン』

 
  ※傾斜した『ヨークタウン』艦上



南雲機動部隊壊滅


6月4日早朝 (現地時間) に日本機動部隊がミッドウェー島を空襲してから10時間以上が経過していた。
この間の戦闘により、すでに『赤城』など3隻の空母は炎上して機能を停止している。
残った空母『飛龍』には、帰還した第2波攻撃隊の生き残りや、飛行甲板が破壊された他の空母から移ってきた分を含めても、
出撃可能な機は、零戦6機、艦爆5機、艦攻4機、それに偵察用に試験配備されていた十三試艦爆 (後の彗星) 1機しか残っていなかった。

アメリカ機動部隊の防空能力は高く、山口少将は予想を上回る味方機の損失に驚いたが、
それでもなお、第3波の薄暮攻撃を計画していた。
一方、アメリカ機動部隊も『飛龍』攻撃のため、続々と攻撃隊を発進させていた。



 


午後5時過ぎ、

朝から食事もとらず『飛龍』艦橋に詰めていた山口少将は、参謀が持ってきたぼた餅を食べ

「ぼた餅がこんなにうまいとは・・・」

と、つぶやいた。

その直後であった。

アメリカ機動部隊の急降下爆撃隊24機が、
『飛龍』とその周辺に展開する軽巡『長良』(南雲長官座乗)、戦艦『榛名』および 重巡2隻、駆逐艦3隻から成る日本艦隊を発見し、攻撃に移った。

午後5時30分、

直掩の零戦6機の迎撃と『飛龍』の加来止男艦長の操艦によって『エンタープライズ』隊6機の攻撃は失敗したが、

続いて『ヨークタウン』隊、『エンタープライズ』隊が太陽を背にして攻撃してきた

護衛の重巡『利根』『筑摩』が対空砲火で迎撃したが阻止できず、

ついに『飛龍』に爆弾4発が命中した。

爆弾の爆発による衝撃は、艦載機用昇降機 (エレベーター) を吹き飛ばし、艦橋の前部に突き刺さるほどだった。

『飛龍』はあちこちから火災が発生した。


『飛龍』が沈没すると判断した残りの『ヨークタウン』隊は、攻撃目標を随伴艦に変更し、

付近にいた戦艦『榛名』を爆撃したが、至近弾を与えたのみだった。

遅れて到着した『ホーネット』の艦爆隊15機は『利根』と『筑摩』を攻撃したが、

投下した爆弾はいずれも回避された。

アメリカ機動部隊の攻撃隊が引き上げた後にも、
ハワイから飛来したB17爆撃機が『飛龍』と『筑摩』を狙って高空から爆弾を投下したが命中しなかった。


※戦艦『榛名』


『飛龍』は、炎上しながらも、日没後まで浮いていた。

日本機動部隊の他の3空母も燃えながら漂っていたが、

そのうちの『蒼龍』は午後7時13分、

日没と共に沈んでいった。

乗組員たちは、柳本艦長に脱出を促したが拒否された。

『蒼龍』乗組員の戦死者は、艦と運命をともにした柳本艦長以下約720名。

江草繁飛行隊長ら艦載機搭乗員は、その多くが救助された。


『加賀』は午後7時26分、

2回の大爆発を起こした後、水平を保ったまま沈没した。

『加賀』は岡田艦長以下800名以上が戦死し、

艦載機搭乗員の戦死者も、機上・艦上あわせて21名にのぼった。


『赤城』は消火作業を続けたが、誘爆は収まらず、

午後7時25分、青木艦長は総員退艦を命じた。
燃え残った前部飛行甲板に集合した乗組員に青木艦長は
「艦と運命をともにするという考えは捨て、最後の最後まで命を大事にして日本に帰れ」と訓示した。
生存者は救助の駆逐艦『嵐』と『野分』に移乗した。
青木艦長も部下たちに説得されて駆逐艦『嵐』に移った。
しかし、艦底にある機関室からの脱出は困難で、
覚悟を決めた機関科員たちが歌う “君が代” が、伝声管から響いていたという。

燃えながら漂っていた『赤城』には処分命令が下り、
翌5日 午前4時50分に第四駆逐隊の4隻の駆逐艦 (『萩風』『舞風』『野分』『嵐』)が魚雷を撃ち込んだ。
『赤城』は、断末魔の悲鳴のような轟音をたて、艦尾から沈んでいった。
『赤城』乗組員の戦死者は220名余り。
淵田中佐のほか、村田重治少佐、板谷茂少佐ら艦載機搭乗員のほとんどは救助された。

『飛龍』は午後9時頃まで機関は無事だったので、消火作業に全力をあげていた。
護衛の駆逐艦も接近して消火を試みたが、誘爆が発生し、やむなく断念された。
6月5日 午前2時30分、
復旧の見込みなしと判断され、生き残った乗組員に退艦命令が出された。
山口少将は、部下たちと最後の別れの挨拶を交わしたあと、
赤々と夜空を焦がして燃える『飛龍』の艦橋に加来艦長とともに残った。

※煙を上げ続ける『飛龍』


しかし、この時『飛龍』の艦底部にある機関室には、必死の消火活動を続けた機関科の兵たち100名ほどがまだ生存していた。
甲板につながる通路は、ミッドウェー島占領後の食糧とするため積み上げられていた米俵に火がついて通ることができず、
機関室と外部をつなぐ電話も不通となって連絡がとれなかったため、機関科員は全滅したと思われていた。
しかし、彼らは機関室を守れば『飛龍』は日本へ帰ることができると信じ、持ち場を死守していたのだ。

午前5時10分、
『飛龍』を魚雷で処分するよう指示を受けた駆逐艦『巻雲』が『飛龍』に魚雷を発射した。
魚雷は命中したが、『飛龍』はすぐには沈まなかった。

その間に、機関室に取り残されていた機関科員のうち39名が脱出に成功した。
やがて『飛龍』は沈没したが、
彼らはボートに乗って漂流しているところを、15日後にアメリカ軍に救助されて捕虜になった。

漂流中に2名が死亡したが、

『飛龍』の機関科員が捕虜になって生存していることを、日本軍は後々まで知らなかった。

『飛龍』乗組員は約400名が戦死し、艦載機搭乗員の戦死者も、友永大尉や小林大尉ら72名にのぼる。

『飛龍』搭乗員の戦死者は、その奮戦ぶりを象徴するかのように、

他の空母より突出して多くなっている。


真珠湾攻撃以来、無敵の活躍を続けた南雲中将率いる機動部隊は、ここに壊滅した。




MI作戦の終焉


これより少し前、
後続の主力部隊旗艦『大和』艦上では、
山本五十六司令長官が寄生虫性の腹痛を紛らわせるめ、参謀相手に将棋をさしていたが、
『赤城』など3空母炎上の報に、
「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるだろう」とつぶやいただけで、そのまま将棋を続けたという。
山本司令長官は、それでもミッドウェー島攻略の望みをすてておらず、
近藤信竹中将指揮の攻略部隊に、ミッドウェー島に夜襲をかけるよう命じた。
近藤中将は、麾下の第七戦隊 (重巡『熊野』『鈴谷』『三隈』『最上』) を輸送船団の護衛から分離して、
ミッドウェー島の地上施設と飛行場に艦砲射撃を加えるべく同島方面に向かわせた。

しかし、山本司令長官はその後、
アメリカ機動部隊が依然 優勢な勢力を維持していることと、
『飛龍』も攻撃され炎上したことを知り、
夜襲の中止を決定した。
日付は午前零時を過ぎ、6月5日になっていた。

そして 午前2時55分、
山本司令長官は敗北を認め、参加全艦隊にミッドウェー島攻略の中止を伝達するとともに、撤退を命じた。


※第七戦隊の巡洋艦
手前から『最上』『三隈』『熊野』



作戦中止命令により、ミッドウェー島に全速で接近していた第七戦隊は針路を反転し、本隊へ帰還を始めた。
その途上、縦列隊形の先頭を行く旗艦 重巡『熊野』がアメリカ潜水艦『タンバー』を発見、
回避のため、緊急回頭を繰り返し命じたため、混乱した3番艦の重巡『三隈』と最後尾の同『最上』が衝突した。
『最上』は艦首が圧壊したが、応急作業で速力14ノット程度で前進可能となった。

『三隈』は舷側に幅2m、長さ20mの破孔が生じ、浸水で左に4度傾斜したが、

右舷に注水して傾斜復旧し、消火にも成功した。

第七戦隊司令官 栗田健男少将は、

『三隈』と『最上』には、駆逐艦『荒潮』『親潮』を護衛に付けてトラック島への撤退を命じ、

自らは『熊野』と『鈴谷』を率いて、本隊との合流のため北西に向かった。



衝突による損傷で速力の出ない『三隈』『最上』は、アメリカ軍の落ち武者狩りの餌食になった。
潜水艦『タンバー』から『三隈』など残留艦の報告を受けたアメリカ軍は、
(6月5日)  午前11時40分、ミッドウェー島の基地航空隊 (SBDドーントレス急降下爆撃機6機、SB2Uビンジケーター急降下爆撃機6機、B-17爆撃機8機) で攻撃を実施したが、
この日は『最上』に至近弾1発を与えたのみに終わった。
アメリカ軍は、この時ビンジケーター隊の指揮官リチャード・フレミング大尉機が『三隈』の4番砲塔に体当たりしたとして、戦死したフレミング大尉に名誉勲章を授与した。
(ただし、日本側にそのような記録はない)
『三隈』と『最上』は、アメリカ軍の追撃を避けるため、目的地をウェーク島に変更して退避を図った。

翌6日 午前6時30分、
『三隈』と『最上』は、索敵中のドーントレス急降下爆撃機に発見され、
『三隈』が命中弾1発を受ける。
午前9時、駆逐艦『荒潮』『親潮』が護衛のため合流し、4隻は西に向かって退避を続けた。
午後1時過ぎ、
空母『ホーネット』と『エンタープライズ』から、ワイルドキャット戦闘機20機、ドーントレス急降下爆撃機57機が来襲。
『最上』は『ホーネット』攻撃隊の急降下爆撃により爆弾5〜6発を受け、
後部砲塔が破壊されて艦中央部で火災が発生したが、全魚雷を射出放棄して誘爆を回避したため致命傷は免れた。
『最上』では乗組員91名が戦死した。

※重巡『三隈』を攻撃せんとする
ドーントレス急降下爆撃機


続いて『エンタープライズ』攻撃隊が『三隈』に集中攻撃を加え、

さらに『ホーネット』の第2波攻撃隊が『最上』と『三隈』を攻撃した。

『三隈』は、3番砲塔、右舷機械室、左舷後部機械室などに直撃弾を受け、

破片で艦橋の崎山釈夫艦長が重傷を負った

負傷した艦長から指揮権を継承した高島秀夫副長は総員退去を命じ、

脱出用の筏 (いかだ) を作らせるなど奮闘していたが、爆弾の直撃により戦死した。


発生した火災で魚雷が誘爆し、大爆発を起こした『三隈』は機関が停止した。

駆逐艦『荒潮』が接舷して乗組員240名を収容したが、

自艦も後部砲塔に直撃弾を受けて戦死者35名と負傷者多数を出し、作業の途中で撤収を余儀なくされた。

その後も『朝潮』と『荒潮』は海上に逃れて漂流する『三隈』乗組員の救助を続けたが、

『朝潮』も被弾し、戦死者22名、重傷者35名を出した。

さらに、至近弾で重油タンクにも損傷を受け、燃料不足に悩まされることになった


『最上』と『朝潮』『荒潮』は、救助した『三隈』の生存者を乗せ、7日午前に攻略部隊に合流した。
重傷を負っていた『三隈』の崎山艦長は、重巡『鈴谷』移乗後に息を引き取った。

その後『三隈』は、日没直前に沈下を早め、左舷に転覆して沈没した。
『三隈』の戦死者は660名にのぼる。

※大破して沈没寸前の『三隈』


後日、アメリカ潜水艦『トラウト』が、漂流する救命筏から2名の『三隈』乗組員を救助した。
当初19名が筏に乗っていたが、最終的に2名が生き残ったという。
救助された2名は、アメリカ本国のリビングストン収容所へ送られた。


日本軍の大艦隊が針路を反転して撤退したあと、
『飛龍』攻撃隊の猛攻を受けて大破したアメリカ空母『ヨークタウン』は修理のため、駆逐艦隊に護られながら真珠湾に向けて曳航されていた。
これにトドメを刺すべく、ミッドウェー島周辺で作戦行動中の『伊168潜水艦』(伊号第百六十八潜水艦) に撃沈命令が下った。

※『伊168』は竣工当初は『伊68』と命名されたが、
昭和17年 (1942年) 5月『伊168』に改名した。


『伊168』は5日未明にミッドウェー島を砲撃しており、

アメリカ海軍の執拗な捜索を警戒しながら行動しなければならなかった

やや遅れて目標海域に到着した『伊168』は、7日午前5時30分頃、

左舷にやや傾斜して曳行される『ヨークタウン』を潜望鏡で確認。

『ヨークタウン』には、いったん退艦したバックマスター艦長ら160名が再び乗艦し、

左舷5インチ砲架の切断投棄、艦載機の残骸の投棄などの作業を行っていた。


午後1時30分、

『ヨークタウン』では、サンドイッチとコーラという簡単な昼食を済ませたあとであった。

護衛の駆逐艦が発する探知音 (ソナー音) に息をひそめながら、

『伊168』は『ヨークタウン』に接近すると、時間をかけて攻撃の好位置を探した。

艦長の田辺弥八中佐は、狙っていた (傾斜している) 左舷への攻撃は距離の関係から断念し、

大胆にも『ヨークタウン』の艦底をくぐって右舷側に出ると、距離1200 (メートル) から魚雷4本を発射した。

魚雷は『ヨークタウン』に3発、随伴していた駆逐艦『ハムマン』に1発が命中した。




『ハムマン』は轟沈、『ヨークタウン』は浸水にも関わらずすぐに沈まなかったが、翌朝ついに沈没した。

『ハムマン』は81名が戦死、『ヨークタウン』は沈没まで時間があったため、戦死者は58名にとどまった。

『伊168』は、アメリカ駆逐艦の5時間にわたる熾烈な爆雷攻撃に耐え、衝撃による電気系統の故障を克服して離脱。

6月19日、呉に帰投した


この『 伊168』による『ヨークタウン』撃沈が、ミッドウェー海戦の実質最後の戦闘だった。



この作戦で日本軍は、アメリカ軍を大きく上回る規模の艦隊を展開しながら、
それは広大な範囲に分散しており、本隊から前方に突出する形で前進していた第一航空艦隊 (南雲機動部隊) を支援できなかった。
空母『隼鷹』『龍驤』を擁する北方部隊 (第二機動部隊) は、ミッドウェー海域からはるか北のアリューシャン列島近海におり、
連合艦隊主力部隊も、戦艦『大和』『長門』などの強力な戦艦群とともに空母『鳳翔』『瑞鳳』をともなっていたが、
最終時点で、ミッドウェー沖の第一航空艦隊から数百海里も後方にいた。



ミッドウェー島基地航空隊やアメリカ機動部隊の艦載機との航空戦では、
最初、日本機動部隊は優勢に戦いを支配した。
日本軍は、質・量ともにアメリカ軍を上回る戦力を動員しながら、一瞬の隙を突かれて敗北した。

ミッドウェーの悲劇は、日本軍にとって偶然の不運だったのか?
アメリカ軍は単にラッキーだったのか?

いや、その原因となる日本軍の弱点は、この海戦に始まったわけではなく、
それまでも度々見受けられたものであった。
情報管理の甘さ、索敵の不徹底、予期せぬ敵と遭遇した場合の対処不備などである。
そもそも、指揮官の人事が適材適所だったのかも疑問である。
それらは、連戦連勝の驕りから省みられることなく改善されてこなかった。
だが、歪 (ひず) みは、いつかは破綻につながる。
ミッドウェー海戦は、その端的な例を戦史に残したのである。

この海戦における日本軍の敗北を境に、
太平洋における戦いの主導権はアメリカに移っていった。


ミッドウェー海戦における日米両軍の損害は、次の通り。

■艦船
〈日本軍〉
・沈没:空母4隻、重巡洋艦1隻
・大破:重巡洋艦1隻 (事故による) 等
〈アメリカ軍〉
・沈没:空母1隻、駆逐艦1隻
■航空機
〈日本軍〉
・喪失:約290機
〈アメリカ軍〉
・喪失:約150機
■兵員
〈日本軍〉
・戦死:3057名 (うち搭乗員110名)
〈アメリカ軍〉
・戦死:362名 (うち搭乗員208名)

※日本軍の損害のうち、航空機の喪失と戦死者数に関しては、
史料や研究者によって相違がある。