サト_fleetの港

サト_fleetの港

ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


春になると、花粉と並んで悩まされるのが、中国大陸から飛んでくる黄砂だ。
黄砂が生まれるのは、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などの砂漠や黄土地帯で、
強風によって吹き上げられた多量の砂塵が、上空の偏西風によって運ばれ、海を越えて日本までやってくる。
この黄砂のふるさとの一つタクラマカン砂漠は、
中央アジアのタリム盆地の大部分を占め、現在は中国の新疆ウイグル自治区に属している。

中国の西の果てに位置し、
ここを越えれば、古代には西域といわれていた世界が広がる。
この果てしない不毛の荒野は、
人の進入を拒むかのように立ちふさがり、
容易には越えられない。

※タクラマカン砂漠


1896年、この地を探検していたスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンは、
現地の住民から、昔この砂漠の中に “タクラ・マカン (大戈壁)” と呼ばれる都市があったという話を聞いた。
この都市は栄えたが、いつの頃か流砂に埋もれて滅んだのだという。

この話に興味を持ったヘディンは、
案内役の住民に先導され、西域の町ホータン※注釈1 を発って10日ほどで、伝説の都市の一部とみられる遺跡に到着した。
これが “ダンダン・ウィリク” である。
しかし、ヘディンは地理学者で考古学者ではないため、
簡単な調査と報告のみ行い、本格的な調査は専門家にゆだねることにした。

※ホータン位置図 (現在)
※ダンダン・ウィリク遺跡の寺院跡


後にダンダン・ウィリクを発掘調査したのは、
イギリスの考古学者オーレル・スタイン (出身はハンガリー) だった。
スタインは、1900年12月から翌年1月までに14の建築物を発掘調査し、
多数の仏教の経典、ホータン語や漢文の文書を発見した。
また、この遺跡からは、
ガンダーラ様式に似た漆喰 (しっくい) 板の浮き彫りや、木板に描かれた絵も出土している。 ※注釈2

その中に注目すべき物があった。
1901年に発見された板絵には、ホータン王に嫁いだ中国の王女が、養蚕の技術を伝えた様子が描かれていた。
絹の生産は、少なくとも紀元前3000年頃の古代中国で始まっていたとされるが、
当時、蚕 (かいこ) の繭 (まゆ) から絹を作る製法は、門外不出の機密事項であった。
しかし、ホータン王に請われた中国の王女が、
髪に蚕の繭を隠して持ち込むことに成功したのだという。
これは、1世紀頃のことだったと考えられている。

※ダンダン・ウィリク出土の蚕種西漸図
(大英博物館所蔵)


この養蚕伝来の伝説は、
玄奘三蔵法師が著した『大唐西域記』にも、“蚕種西漸” の話として紹介されている。
7世紀に玄奘がインドからの帰路ホータンに立ち寄った時には、
この地に伝わった絹の製法は定着し、絹はホータンの一大特産品となっていた。

絹の製法はホータンからペルシア (現イラン) に伝わり、さらに6世紀には東ローマ帝国に伝わった。
いずれも、密かにホータンから持ち出されたといわれている。

※現在のホータン市 (新疆ウイグル自治区)


こうして、
長い年月と多くの人々の手を経て、
タクラマカン砂漠を越えて西へ伝わった絹の製法は、
中国からの輸入に頼っていたヨーロッパに、独自に絹を生産する道を開いたのであった。※注釈3



【注釈】
1. かつてホータンは、シルクロードのオアシス国家だった。

2. 発見された漢文の文書には8世紀後半の日付が記されていることから、ダンダン・ウィリクが滅んだのはそれ以降だと推測される。

3. ヨーロッパで最も絹の生産が盛んだったのは16世紀のフランス。
一方、日本にはすでに弥生時代 (紀元前8世紀〜紀元後3世紀) 、経路不明ながら絹の製法が伝わっていたが、品質は中国の絹に及ばなかった。
日本の絹の品質が向上したのは江戸時代以降で、明治から戦前昭和にかけて、絹は日本の重要な輸出産品であった。