平安貴族の夏グルメ | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


大河ドラマ『光る君へ』では、権力をほしいままにする藤原摂関家など貴族の生活が描かれているが、

冷房も冷蔵庫もなかった時代の夏、貴族たちはどんな食事をしていたのだろうか。


※貴族の食事の様子
 (酒飯論絵巻より)


そもそも、平安時代の日本には、現在のような野菜は存在しなかった。
今ある野菜のほとんどは、後に海外から入ってきたもので、

平安時代頃に食べられていたのは、春の七草のような野菜の原種に近いものだった。

これを和え物などにして食べていた。

夏には、ウリ、ナスなどが季節感を出していたと思われる。
(ウリは縄文時代、ナスは奈良時代にユーラシア大陸から伝わった)

肉は食べたのかといえば、仏教の影響で徐々に食べなくなったが、
平安中期頃までは、狩りで獲ったシカやイノシシなどの獣の肉も食べていた。
しかし、摂取していた動物性タンパク質の中心は山鳥や魚で、
海で獲れた魚は、冷蔵技術がなかったので、干物や塩漬けにして京の都に運ばれた。
これらの食材は、蒸す、焼く、煮るといった方法で調理されたが、
調理の際は味を付けることをせず、食べる際に各自が、
塩、酢、醤 (ひしお=味噌醤油の原型) などを小皿から匙 (さじ) で取ってつけて食べた。

※平安貴族の食事のイメージ
(刀剣ワールドHPより)


主食は米で、貴族はてんこ盛りにした強飯 (こわいい) という少し硬めの白飯を、これらのおかずで一日二回食べていた。
どうみても、美味しくなさそうだし、栄養も偏っていて健康にもよさそうではない。
事実、貴族の多くは脚気 (かっけ) を患い、一説によれば、それは貴族階級の病気による死因の2割を占めていたという。
また、栄華を極めたといわれる藤原道長の死因は、
『御堂関白記』にある症状の記述から、糖尿病が悪化したものと推定されている。
労働も運動もせず、あれだけてんこ盛りのご飯を食べていれば、そうなるのもうなずけるというもの。


当時の食事は、味わうというより、空腹を満たすため、生きるために食べるというイメージが強かったようで、
『源氏物語』や『枕草子』などの平安文学には、食事の描写がきわめて少ない。
貴族の世界では、食事はあまり “雅” (みやび) なものではないと認識されていたようだ。

だから、夏になったからといって、
特段美味な季節の料理を樂しむということはあまりなかったようだ。
それでも、当時の人口の9割を占めていた農民など一般庶民が、アワやキビといった雑穀類を主に食べていたのに比べれば、
やはり、貴族の食事は極めて豪華だったといえる。

紫式部の『源氏物語』“常夏” の帖に、次のような描写がある。

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ

中将の君もさぶらひたまふ

親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす

(中略)

大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ


光源氏が暑さをしのぐため、六条院の東にある釣殿 (つりどの) で夕霧と涼んでいた時の様子を描いたものだ。

釣殿は宮中の池に面して造られた建物で、

冷房のなかった時代、池の水面を渡ってくる涼風を取り入れて、納涼や月見の場に使用された。

“常夏” の帖には、光源氏がそこへ訪れた殿上人たちと食べた料理の記述があって興味深い。


※復元された釣殿
(たけふ市 紫式部公園)


メインディッシュは鮎 (あゆ) だったようだ。
当時も季節の魚は珍重され、鮎は今も昔も夏の風物詩として好まれている。
“いしぶし” とあるのは、ハゼ科の小魚と思われる。
どのような調理をして食べたかは書かれていないが、
近くの川で獲れた魚なら、生きの良いまま運ばれたものを焼いて食べたのかもしれない。

水飯 (みずめし/すいはん) は飯を水に浸したもので、
平安時代にはまだ茶が普及していなかったため、冷たい茶漬けの代わりに夏場によく食べられた。
ここでは、貴重な氷水を使うなど、上級貴族ならではの贅沢な水飯になっている。
平安時代の氷室は朝廷が管理しており、
その氷を口にすることが出来たのは、皇族や摂関家など、やんごとなき上級貴族だけだった。
『源氏物語』は紫式部の創作だが、宮中に仕えた紫式部は、実際にそのような食べ物を見聞きしていただろうし、
自身も食べたことがあるのかもしれない。


また、紫式部のライバル清少納言の『枕草子』“あてなるもの” の段には、

清少納言が、夏に今のかき氷にあたる削り氷を食べたという記述がある。

氷を新しいピカピカの金属の器に入れたものが、“あてなる” (上品な) ものと言っているのだ。

上級貴族しか口に出来ない氷室の氷を食べられたのは、

清少納言が中宮定子に仕えていたので、その恩恵にあずかれたのだろう。


(読売新聞オンラインより)

※清少納言が食べたかき氷の再現


当時はまだ砂糖が薬品として、唐からごく少量輸入されていた時代なので、

シロップ代わりに甘葛 (あまづら) というブドウ科の植物の樹液を煮詰めて作ったものが使われていた。

この甘葛も製造に手間ひまがかかる高級品で、庶民には手の届かないものだった。

平安時代、甘味は非常に貴重だったのだ。


それを裏付けるように『今昔物語』や『宇治拾遺物語』には、

芋粥 (いもがゆ) に執着を持つ下級貴族の話がある。

芋粥とは、山芋を甘葛の汁で甘く煮て粥状にしたもので、
甘味が貴重だった当時においては大変なご馳走だったようである。
(料理というよりスイーツに近い)


あと、酒は年間を通じてよく飲まれたが、

平安時代の酒は現在のような清酒ではなく、濁ったどぶろく状のもので、

アルコール度数はさほど高くないが糖度は高かった。

ごく簡単にいえば、甘酒に近いものだった。

『日本書紀』にはすでに、暑い夏に酒に氷室の氷を入れて飲んだという記録があるので、

平安時代の貴族たちも、夏場には酒をオンザロックで楽しんだことだろう。


なお、前述の藤原道長の兄 藤原道隆は、

『大鏡』によれば、酒の飲み過ぎがたたって死んだとある。

アルコール依存症だったのかもしれない。

『栄花物語』にも道隆最期の様子が描かれているが、

水ばかりほしがったという記述から、弟道長と同じく糖尿病だったと思われる。


権勢を誇った平安貴族たちも、贅沢な食事が災いして生活習慣病で亡くなるとは、

粗食で脚気にもならず、むしろ健康だったという庶民と、どちらが幸せだったのだろうか。