江戸の初鰹 (はつがつお) | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


“目には青葉  山ほととぎす  初鰹”


これは、江戸時代前期の俳人 山口素堂の有名な句。

(“目に青葉” とも伝えられているが、“目には青葉” が正しいらしい)


棒手振 (ぼてふり) と呼ばれる
行商人が初鰹を売り歩く図。
右上には素堂の句が書かれている。
(『東都歳時記』初夏交加図 部分)



春から初夏へと季節が変わりつつある頃、

木々の葉は緑を濃くし、山からはホトトギスの鳴き声が聞こえてくる。

そして、初鰹も出回りはじめる。


江戸時代は今よりはるかに自然が豊かだったので、

視覚や聴覚から感じる季節の変化も、より鮮やかに感じられたのだろう。

また、初鰹の登場で、味覚の上でも初夏の到来を感じたようだ。


江戸の人々は、鰹を刺し身にして、辛子 (からし) 醤油で食べるのが一般的だった。

傷みやすい鰹を食べるには、生臭さを消す辛子が重宝された。

ほかには、カラシ味噌や大根おろしも使われた。


※初鰹の刺し身 (イメージ)


生鮮品の保存技術が発達していなかった当時、獲れたての鰹は鮮度が落ちないよう七挺の櫓を備えた快速船で魚河岸に運ばれた。

早馬や早飛脚も使われ、天秤棒を担いだ行商人 (ぼてふり) も早足で売り歩いたといわれる。

つまり、通常の商いより物流コストをかけて流通させていたわけだ。


これに、初物ならではの御祝儀相場が加わり、初鰹は驚くほど高かった。

とくに、明和・安永 (1764〜1781年) から文化・文政 (1804〜1830年) にかけての頃に一大ブームが起こり、

江戸の人々が競って手に入れようとしたため、価格はさらに高騰した。


そこで、こんな川柳が出来た。


“まな板に  小判一枚  初鰹”


初鰹1本が1〜2両したそうだ。

1両は現在の価格でいくらぐらいだったのかといえば、

江戸時代は260年以上も続いたので、小判の値打ちも時代によって変動したが、

江戸中期を例にした場合、

米価を基準に換算すると約6万円になる。

また、1両で大工23人の日当に相当したというから、大工は23日間働くと1両稼げたことになり、

これを現在の賃金で換算すると約35万円。

と、米価換算とちょっと幅がある。


そこで、別の面から見てみると、

当時の平均的商家の奉公人の年収が、男性で2両、女性で1両ほどだったという。

(以上、日銀貨幣博物館HPより)




江戸の大工の賃金は比較的高く、奉公人は住み込みで食事付きだったから賃金が安かったと考えても、

これではさらに差が拡大して、よけいわからない。

1両の価値を現在にあてはめるのは、なかなか難しいようだが、

江戸の長屋に住んでいた庶民たちは、一生小判を見ることがなかったといわれるほどだから、

初鰹がいかに高価であったかがわかる。


しかし、初鰹はサッパリして初夏にはうってつけの食べ物の上、

縁起がいいとされていたので、なんとか食べたいと思うのが人情というもの。


“女房を  質に入れても  初鰹”


この川柳を真に受けて、実際に奥さんを質入れした人はいないと思うが、

(だいたい質屋は人身売買はしない)

初物好きの江戸っ子は、借金をしてでも初鰹は食べるべきだと意気込んでいたようだ。


では、実際にはどんな人たちが初鰹にありついたのだろうか?

江戸時代後期の文人 大田南畝 (蜀山人) の記録によると、

文化9年 (1812年) に日本橋の魚河岸に揚がった初鰹は17本。

そのうち6本は将軍家、3本は高級料亭 八百善が買い上げ、残り8本は市中の魚屋に卸したとある。

ちなみに、魚屋に卸されたうちの1本は、人気歌舞伎役者の中村歌右衛門が買い、その代金は3両だったとのこと。


高価で1本買いできない庶民は、切り売りしたものを買っていたようだ。

それでも、初鰹は簡単に口に入るものではなかった。


※初鰹を捌く魚屋。近所のおかみ
さんたちが器を持って買いに来る。

(三代歌川豊国『卯の花月』部分)



“目と耳は  ただだが  口は銭がいり”


これは、山口素堂の “目には青葉・・・” の句の本歌取りである。

青葉やホトトギスなど、視覚や聴覚で楽しむものは “ただ” だが、

初鰹など、味覚を楽しませるものには金がいると、ちょっと皮肉を込めてオマージュしている。


初鰹が水揚げされる頃になると、江戸っ子はその話題で持ち切りだったようだ。

こうして、初鰹は初夏の風物詩になっていった。


※歌川広重『魚づくし 鰹に桜』