“ヤマト”の国 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


古代中国3世紀末の歴史書『三国史』の “魏書” の中に次のような記述がある。


“倭人在帶方東南大海之中 
 依山島爲國邑 舊百餘國” 

【現代語訳】
倭人 (日本人) は帯方郡 (朝鮮半島中西部にあった郡) の東南の洋上にあり、
山や島を利用して集落国家を形成している。
もとは百余国あった。


いわゆる “魏志倭人伝” (ぎしわじんでん) と呼ばれる一節である。
これが、黎明期の日本が文献に現れた最初であった。
太古の時代、日本は文字を持たなかった。
そのため、古代中国などの先進地域の書物からしか様子を知ることはできない。
魏志倭人伝はさらにこう記している。

“南至邪馬壹國 女王之所都 
 水行十日陸行一月
 (中略) 
 可七萬餘戸”

【現代語訳】
(九州北部に上陸して)
南へ向かうと邪馬壹国 (邪馬臺国) に至る。
女王のいる都までは水行10日、陸行1ヵ月を要する。
戸数は7万戸余りだろうか。

※『魏志倭人伝』冒頭部分 (写本)


この中の邪馬壹国の “壹” の字は “壱” (いち) の旧字体だが、
写本の際、形のよく似た “臺” (台の旧字体) と間違えたのだろうというのが通説となっている。
邪馬壹国とは、すなわち邪馬台国 (やまたいこく) のことである。
魏志倭人伝には、邪馬台国が倭人の集落国家を束ねていたとあり、その女王が卑弥呼 (ひみこ) とされている。

卑弥呼はいわゆるシャーマンで、呪術によって人心を掌握し政治を行った。
魏の元号の景初2年 (238年) 以降、
卑弥呼は帯方郡を通じて数度にわたって魏に使節を送り、皇帝から親魏倭王の称号を与えられた。
卑弥呼が死ぬと、大きな塚 (古墳) が作られた。
この後、男の王が立てられたが、邪馬台国は争乱状態となり大勢の死者を出した。
そこで、卑弥呼の親族の13歳の少女を王にしたところ、国は治まったという。

※太陽に銅鏡をかざす卑弥呼のイメージ像
魏から贈られた長袍をまとっている。
 (大阪府立弥生文化博物館)


では、邪馬台国はどこにあったのか?

魏志倭人伝が記した邪馬台国に至る地理だが、
途中にある国々として、
對馬国 (対馬)、一大国 (壱岐)、末廬国 (肥前松浦郡) のように場所が比定されているものがある。
魏志倭人伝や他の古代中国の歴史書に記された日本の地名は、当時の地名の発音を似た音 (おん) の漢字で表記したものなので、
それに基づいて現在の地名の読みが合致する場所を探すという方法がある。

さて、当時の地名 (国名) の読み方だが、
邪馬台は “ヤマタイ” ではなく “ヤマト” すなわちヤマト国であるとする説が根強い。
臺 (台) は古代中国で「と」と発音したとする言語学者の研究もある。
邪馬台国がヤマト国だとすると、魏志倭人伝が記された3世紀後半には、
日本にはすでに “ヤマト” と呼ばれた国が存在していたことになる。


そもそも “倭” という呼び方は、
古代中国の王朝が、中華の思想から東方の辺境の民を蛮族扱いした蔑称である。
(背の低い人々の意味とする説がある)

文字を持たなかった古代の日本が、
中国から漢字が移入されはじめた古墳時代から飛鳥時代にかけて、
そのまま “倭“ あるいは “大倭”と書いて “ヤマト” と読ませていた時代が一時期ある。
それは『古事記』(712年編纂) にもみられ、同書では本州のことを “大倭豊秋津島” (おおやまととよあきつしま) と表記する一方、
『日本書紀』(720年完成) では、“大日本豊秋津洲” (おおやまととよあきつしま) ※注釈1 としている。
“日本” とは、中国の東にある日出ずる国の意味である。

当時の日本の為政者たちは、
徐々に、中国の模倣ばかりでは体面にかかわると感じ始めていたとみられ、
飛鳥時代に元明天皇 (707-715年) が、倭の字を和にして大の字を冠し、“大和” (ヤマト) と表記するよう定めたと伝えられる。
それが、養老律令施行時 (757年) 頃には全国に普及し、平安時代 (8世紀後半~12世紀後半) には、日本の国名は “大和” で周知されていたという。

国名が継承されていることから、
古代中国にもその名を知られた “邪馬台国=ヤマト国” は、
後に日本列島の緒国を統一して “大和国” となったと考えるのが自然だと思う。
ところが、
古く江戸時代から続いてきた邪馬台国所在地論争が、ここに立ちはだかる。

魏志倭人伝に記された邪馬台国までの距離や方角を、そのまま現在の地図に当てはめてみると、
邪馬台国ははるか日本列島の南の太平洋上にあったことになってしまう。
そこで、研究者たちは距離や方角の解釈をいろいろ変えてみるなどして、邪馬台国のあった場所を推定していった。
その中で、北部九州説と畿内説が二大有力説として注目されてきた。

このうち、畿内説をとれば、
邪馬台国は後の大和朝廷 (大和王権) に繋がる皇室のルーツということになる。
北部九州説をとれば、
邪馬台国は日本列島が大和朝廷によって統一される以前にあった九州の豪族連合国家ということになる。
だが、これらの説はどちらも説明が難しい難点を抱えていて、長年にわたる論争でも決着をみていない。

ここに、大正時代に入ってから登場してきたのが、邪馬台国の東遷説である。※注釈2
これは、最初九州に誕生した邪馬台国が後に畿内へ遷都したというもので、
日本神話にある高千穂峰への天孫降臨や、神武天皇の東征の物語に反映されているようで興味深い。
戦後は敗戦の影響で国家神道が忌避され、日本のアカデミズムの場から神話が排除されてしまったが、
日本神話に関係なく、邪馬台国の東遷はあり得たとする説は今も有力である。

これ以外にも、四国説、大和朝廷が邪馬台国を征服した説などさまざまな説が存在し、また新しい説も発表され続けている。
しかし、いずれも決定的証拠となる考古学上の発見でもない限り証明するのは難しいだろう。
邪馬台国の所在地は、諸説あって現在もなお謎に包まれている。

※邪馬台国があったという説のある府県一覧。
(『NIKKEI STYLE』より)


とはいえ、
3世紀後半の日本列島に、自らを “ヤマト” と呼ぶ国があったことは事実である。

約2千年近くにわたって脈々と存続してきたヤマトの国
そのルーツはどこにあり、どんな国だったのか。
歴史の謎とロマンに想いをめぐらせるのも楽しい。



【注釈】
1. 大日本の読みについては、『日本書紀』の神代巻第四段本文に、
「日本、此を邪麻謄 (やまと) と云う」とある。

2. 和辻哲郎がその著書『日本古代文化』(1920年 岩波書店刊) の中で提唱した。