蘇る“風船爆弾” | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


アメリカ上空を浮遊していた正体不明の気球は中国のものと判明した。

ただ、中国は民間の観測気球が誤って入り込んだとしている一方、アメリカは中国の偵察気球だと主張。
この気球が通過したモンタナ州にはICBM (大陸間弾道ミサイル) の発射施設があるため、その情報を収集するのが目的とみている。

米中双方の主張が対立する中、
気球は大西洋上に出た段階で、バイデン大統領の指示により撃墜された。

※ミサイルで撃墜された気球 (右上)。
その下はミサイルを発射したアメリカ
軍のF22戦闘機。


気球撃墜をめぐり米中で非難の応酬が続いているが、
アメリカは、海中に墜ちた気球の残骸を回収して徹底的に調査する方針で、事実はいずれ明白になるだろう。
しかし、初期の段階から中国の偵察気球と断定していたところをみると、
アメリカは事前に情報をつかんでいたのかもしれない。

この気球によく似たものは、2020年に宮城県や福島県上空に現れ、2021年には岩手県でも目撃された。
気象観測用のラジオゾンデではないかとの声もあったが、
当時、日本の警察、自衛隊、気象台そして政府は、その正体を突き止めて公表することも、飛行を阻止することもしなかった。
あれが中国の偵察気球だったとしたら、悠々と日本の何らかの情報を収集して去っていったことになる。
日本の防空はどうなっているのか・・・。

※2020年に東北地方上空に出現した
正体不明の気球。
十字型の機器を吊るしている。


ところで、アメリカが領空に侵入した気球に敏感に反応したのは今回が初めてではない。
以前にもある国から兵器としての気球で攻撃を受け、対策を迫られたことがあった。
気球でアメリカを攻撃した国とは、ほかでもない日本である。

太平洋戦争 (大東亜戦争) 末期、
敗色の濃い日本軍は、なんとかアメリカ本土を攻撃できないか思案していた。
だが、日本には太平洋を越えて北アメリカまで飛行できるような長大な航続力をもつ爆撃機はない。※注釈1

そこで考案されたのが、
知る人ぞ知る “風船爆弾” と呼ばれる秘密兵器である。
これは、正確には風船ではなく気球に爆弾や焼夷弾を吊るして高高度へ浮上させ、
上空を西から東に流れるジェット気流にのせてアメリカ本土まで飛ばして攻撃しようというものだった。

その頃、アメリカ軍は着々と原子爆弾を製造していたことを考えると、
バカバカしいまでに荒唐無稽な作戦だが、日本軍は大まじめで考えていた。
実質的な戦果は、せいぜい西海岸の森林地帯に落ちて山火事を起こさせる程度だろうが、
本土を攻撃されたという心理的ショックを合衆国国民に与え、少しでも戦意を阻喪させようとしたのである。※注釈2

※日本軍の開発した風船爆弾。


気球の直径は約10mで、水素ガスを充填して浮揚させる。
これに15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発を搭載した装置を吊るし、アメリカ本土に到達した頃に時限装着で落下するようになっていた。
総重量200kgになるこの気球をジェット気流にのせてアメリカ本土まで届かせるためには、気球の飛行高度を安定化させる必要がある。
そのための気圧計とバラスト (おもりの砂袋) 投下装置が連動した計器も開発され組み込まれた。
順調にいけば、50時間でアメリカ本土に到達する。


風船爆弾の製造は昭和19年 (1944年) から本格化した。
気球部は楮 (こうぞ) 製の和紙を5層に貼り合わせて作り、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。
本来ならば気球はゴムなどで作るところだが、すでに原材料の産地である南方と日本本土間の制海権は敵に奪われていたため、
入手困難となった材料の代わりに和紙が使われたと思われる。
楮の皮剥作業や紙漉 (す) きは軍の命令により昼夜兼行で行われ、
作業は警察の監督のもと続けられたという。
接着剤にするコンニャクは軍需物資になり、
ただでさえも食料不足の折、ますます国民の口に入らなくなった。

陸軍造兵廠などの工場で行われた風船爆弾の製造には、勤労動員された高等女学校の生徒たちが従事した。
彼女たちは15~16歳で、
作家の向田邦子もその一人だった。
(部品の製造にあたり、慣れない旋盤作業を行ったと著書に書いている)
長時間の製造作業に従事する際には、
疲労からくる居眠り防止のため、ヒロポン (覚醒剤の一種) を与えて作業を続けさせたとの証言もある。
過酷な作業中の事故で、少なくとも6名の死者が出たという。

最終工程である気球から水素が漏れないかのテスト (満球テスト) には、天井の高い建物が必要だったため、
東京では日劇、東京宝塚劇場、浅草国際劇場 (松竹歌劇団の劇場)、両国国技館などが軍に接収された。
同様に、名古屋では東海中学校・高等学校講堂、京都では祇園甲部歌舞練場、大阪では道頓堀の映画館や劇場など、
全国で大きな建物が接収されて風船爆弾の製造やテストが行われた。

※気球の最終テストに励む女学生。
彼女たちの身長に比べて気球の大きさ
がわかる。


もともとジェット気流は日本の気象台が発見した偏西風の強い流れで、
寒帯および亜熱帯の上空1万メートル前後の高高度を蛇行しながら西から東に吹いている。
陸軍は気象台の協力で、太平洋上空のジェット気流を詳しく観測し、風船爆弾の飛行コースを策定した。
こうして、
昭和19年の11月3日、明治節 (明治天皇の誕生日) の日、
どしゃ降りの雨の中、茨城県大津、千葉県一宮、福島県勿来の各海岸にある基地から、最初の風船爆弾が空に放たれた。

この作戦が終了する昭和20年 (1945年) 3月までに、約9300発の風船爆弾が放球され、太平洋を越えていった。
このうち、アメリカ本土に到達したものは、
アメリカ軍の調査記録では285発、西部防衛司令部参謀長W・H・ウィルバー代将の報告書では約1000発前後となっており数に幅がある。
これは、アメリカが徹底した情報管理を行って被害を隠蔽し、日本に戦果確認が出来ないようにしたため、公式記録では過小な数字になっているのではないかと思われる。
風船爆弾がアメリカのあちこちで被害を与えたと正直に発表すれば、
いたずらに日本軍の士気を高める結果になるからである。

いずれにせよ、相当数の風船爆弾がアメリカ本土に到達したのは確かで、
オレゴン州で不発弾に触れた民間人6人が爆死したほか、各地で小規模な森林火災を発生させた。
また、ワシントン州リッチランドのプルトニウム製造工場の送電線に引っ掛かって一時停電を発生させたとの記録がある。
この工場で製造されたプルトニウムが日本に投下された原爆に使われたことを考えると、
損害を与えるには至らなかったものの、日本軍はアメリカの原爆製造拠点の一つに攻撃をかけていたことになる。

風船爆弾の到達範囲は、西海岸の州のみならず、西部山岳地帯のワイオミング州から中西部五大湖沿岸のミシガン州まで広い範囲におよんだ。
アメリカ本土だけでアラスカを含む18州、
加えてカナダ、メキシコ、ハワイにも到達が確認されている。

国民のパニックを恐れたアメリカは、その対策に多くの労力を割かねばならなかった。
とくに、風船爆弾に細菌兵器が搭載されているのではないかと警戒し、※注釈3
落下した不発弾の調査には、防毒マスクに防護衣を着用して臨んだ。
また、
調査に動員された細菌学者はのべ4000人におよんだというから、
アメリカの後方を撹乱するという日本軍の所期の目的はかなり達成されていたと考えられる。

※ネバダ州の山中で発見された風船
爆弾。


だが、先述のように、日本軍の士気を上げないようアメリカ軍が事実を秘匿したため、
日本軍は風船爆弾は目ぼしい効果がないと判断。
空襲で製造拠点が被害を受け始めたこともあって、5ヵ月足らずで作戦を中止してしまった。
この作戦実施期間中、日本軍は風船爆弾を放球する際の爆発事故などで兵士6名が死亡、10名近くが負傷している。
こうして、風船爆弾は歴史の闇に消え去っていった。


この日本軍の気球によるアメリカ本土空襲を手本にしたかどうかはわからないが、
中国は現代に適応すべく進化させた気球兵器で、アメリカの軍事機密を収集しようとしていたのだろうか?
撃墜された中国の気球は、ゴンドラに相当する部分が大型バス3台分もある巨大なもので、推進装置もあったと思われる。
これで飛行コースを変えて目的地上空に移動することも出来たのだ。

爆弾のようなものは積んでいなかったようだが、
この気球が新たな火種となって、米中関係が “爆発” しなければよいが。



【注釈】
1. 太平洋を越えてアメリカまで飛行できる6発エンジンの超長距離爆撃機『富嶽』の開発計画があったが、終戦までに物資不足のため中止された。

2. 昭和17年 (1942年) に日本海軍の潜水艦が行ったアメリカ西海岸砲撃では、ロサンゼルスなどの都市が大パニックに陥った。

3. 実際に陸軍の登戸研究所 (現在 明治大学生田校舎の敷地) でペスト菌や炭疽菌などの気球搭載が研究され、
牛痘ウイルスの搭載は可能な段階に達していたが、昭和天皇の裁可を得られず実行されなかった。