“日本乞師” ~江戸時代の海外派兵騒動~ | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


17世紀半ば、中国の明 (みん) 王朝は、
北方の女真族が満州に興した清 (しん) の侵攻を受けて滅亡した。
これにより、北京を都とする清王朝が中国の支配を確実なものにしたが、
南部の諸地域に残存する明の遺臣らは、南明を建国し、明の再興をめざして抵抗を続けた。

正保2年 (1645年)、
南明は、鄭芝龍 (ていしりゅう) を使者として、日本に援軍を要請してきた。
これが、以後度々繰り返された南明による援軍要請 “日本乞師” (にほんきっし) の最初であった。

時の政権 徳川幕府は、三代家光の時代であったが、外国からの援軍要請という初めての事態に衝撃が走った。
この要請を受けるべきか、拒否するべきか、
幕府内を二分する激論が展開された。
尾張、紀伊、水戸など徳川御三家と薩摩藩は賛成し、幕閣の松平定綱や井伊直孝らは反対した。
反対派はその根拠として、かつて、太閤秀吉が明国征服の足掛かりに朝鮮半島に出兵した際、
泥沼の戦いとなって、動員された大名家がひどく疲弊したことを挙げた。

その中で、血気盛んな若き将軍家光は、
“隣人の窮地を救うのは正義である”
として、出兵に乗り気であった。

※最盛期の明と周辺諸国。


この騒動を、作家の山岡荘八は、
大河ドラマ『春の坂道』(1971年) で、
幕府の兵法指南役だった柳生但馬守宗矩 (やぎゅうたじまのかみ むねのり) の視点を通して描いている。

柳生宗矩は、父 石舟斎から伝授された “無刀取り” の極意に代表される柳生新陰流を大成した人物で、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって仕えた。
秀忠に仕えていた頃、大坂夏の陣 (1615年) で、
秀忠の元に攻め寄せた豊臣方の槍武者7人をまたたく間に斬り伏せたといわれる剣の達人であったが、
宗矩は、それ以外にはむやみに刀を抜いたことはなく、いくさや紛争に際しては、交渉や工作で事態を収拾することを得意としていた。

『春の坂道』における宗矩の行動を、
ドラマの画像をお借りして再現してみよう。

(以下、大河ドラマ『春の坂道』最終回より)

出兵反対を唱える宗矩は、出兵に賛成する家光の怒りを買い、謹慎を言い渡される。
それでも、出兵阻止工作に奔走した高齢の宗矩は病に倒れる。

心配した家光は、前例にない自ら出向いての見舞いに宗矩の屋敷を訪れるが、
病をおして正装して応対した宗矩は、この場でも家光に出兵反対を訴える。

これに対して家光は、宗矩を説得しようとする。



「これはのう、太閤のように明国を征服しようなどという大それた野心などではない。
隣人の窮状を救おうという正義の出兵じゃ」



「なぁ、わかってくれ但馬」



「いつの世でも、正義は常にいくさの道具でござりました



頑として持論を曲げない宗矩に、
家光が怒って席を立とうとした時、
どうしても出兵するというなら、自分に斬りかかってこいと宗矩が言う。
家光の刃を、無刀取りの技で奪い取ってみせるというのだ。



激しい雷鳴が轟く中、
宗矩の命をかけた真剣勝負が始まった。



思いとどまるなら今のうちだと言う家光。
しかし、
宗矩は動じる様子を見せない。



意を決した家光は、
宗矩めがけて真剣を降り下ろす。




その瞬間、
宗矩は素早く家光の懐に飛び込むと、刀を素手で押さえ、払いのけた。
そして、家光はたちまち宗矩に組み伏せられる。




「上様、どうあっても明国に兵を送るおつもりか。
ならば、但馬は上様のお命をいただかねばなりませぬ。
(出兵を) おやめくだされ、おやめくだされ!


※柳生宗矩役  中村錦之助 (萬屋錦之助)
徳川家光役  十代目 市川海老蔵 (十二代目 市川團十郎)


もちろん、
このような場面は、原作者 山岡荘八の創作であるが、
柳生宗矩は、柳生新陰流の奥義と、戦場を駆け巡って得た経験などを融合した “活人剣” (かつにんけん) の思想で、泰平の世の実現を理想としていた。
また、
それまで、戦闘の技術に過ぎなかった剣術を、禅の精神を加えることで、身を修める手段としての “武道” に昇華させるなど、
武士道の発展に大きな影響を与えた。

なお、
鄭芝龍とその息子 鄭成功 (近松門左衛門の『国性爺合戦』の主人公のモデル) による幕府への援軍要請は、実に30年間で10回におよんだが、
幕府による大陸出兵は、ついに行われなかった。
その理由は諸説あるが、南明に勝ち目はないとの情報がもたらされ、
幕府が清国との関係の方を重視したためともいわれている。

以上が、江戸時代初期の日本を揺るがせた海外派兵騒動の顛末である。
もし、徳川幕府が大陸出兵に舵を切っていたら、270年間におよぶ江戸時代の泰平の世は実現しなかったかもしれない。