映画『二百三高地』 | サト_fleetの港

サト_fleetの港

ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


今回ご紹介するのは、
1980年公開の東映映画『二百三高地』(監督 舛田利雄、脚本 笠原和夫)。
製作費3億円が相場の時代に15億円をかけて製作された3時間に及ぶ戦争大作である。

私は学生時代に、この映画を新宿の映画館で観て非常に感銘を受けた。
その後、DVDが発売されてすぐ購入し、今でも時おり鑑賞している。



『二百三高地』は、日露戦争 (1904-1905年) において、日本とロシアが雌雄を決した旅順攻防戦を舞台にしているが、
その時代の日本の政治家、軍人、民衆を広範に描いている。
さらに、軍人の描写では、将軍や参謀から一兵卒まで、それぞれの視点で戦いの局面を捉えている。




■ 開戦


“19世紀の末、貧しく未開地の多いアジアは、欧米列強の植民地化の餌食になっていた”

冒頭に流れる内藤武敏のナレーションが示すように、
19世紀後半、欧米各国はこぞってアジアを植民地としていた。
誕生間もない明治維新政府は、日清戦争 (1894-1895年) に勝利した後、
欧米に対抗する日本の防衛線として、朝鮮半島から満州 (中国東北部) 南部の支配権を目指していた。

これに対して、南下政策を続けるロシアは、
すでに、黒龍江州、沿海州、東清鉄道、旅順、大連を統治権下に置き、満州に大軍を駐留させていた。
そして、その一部は鴨緑江を越え、朝鮮半島北部へ侵入を始めた。

日本とロシアの意図は、真っ向から対立した。



日本の政府内では、強大な軍事大国であるロシアとの軍事衝突を避けるため、当初、外交交渉による解決を試みていたが、
日本を弱小国家と見くびるロシアの強硬な態度に交渉は行き詰まり、次第に開戦を求める意見が強くなっていった。

それは民間でも同様で、声高に開戦を叫ぶ主戦派グループと、戦争反対を訴える平民社のメンバーが街で対立していた。
そんなある日、たまたま金沢から上京していた小学校教師の小賀武志 (あおい輝彦) は、
激昂した主戦派グループに取り囲まれた平民社の松尾佐知 (夏目雅子) を助ける。



その頃、枢密院議長 伊藤博文 (森繁久弥) は、
もしロシアと戦争になった場合の勝算を、陸軍参謀本部の児玉源太郎 (丹波哲郎) に尋ねていた。
「おそらく五分五分、死力を尽くして六分四分・・・」
悲壮な表情で児玉は答える。

日本の10倍というロシアの国力を考慮し、伊藤は開戦に消極的だったが、
刻々と極東で増強を続けるロシア軍に対し、これ以上手をこまねいていては、
満州全土から朝鮮半島までがロシアの勢力下に置かれる。
そうなれば、日本の独立性も危うくなる。
戦いを始めるなら今しかない。

「閣下、今がご決断の時です!」
児玉は伊藤に開戦の決断を迫る。



完全な勝利は望めないにしても引き分けに持ち込み、ロシアの領土拡張政策に反対する世界の支持を集める。
そして、少しでも日本に有利な条件で講和に持ち込む。
それが日本に残された唯一の道だと言う。

伊藤もついに、開戦の決意を固める。

“明治国家は今、国民の好むと好まざるとに関わらず、残酷で巨大な事業を遂行しなければならなくなっていた”

明治37年 (1904年)2月4日、
御前会議で明治天皇 (三船敏郎) は、開戦決議に裁可を下した。
日露戦争の火蓋が切って落とされた。


このような情勢の中でも、
神田のニコライ堂では、ロシア人司祭によるロシア語講座が細々と続けられていた。
そこで学ぶ人々の中に、小賀の姿もあった。
トルストイなどロシア文学を愛する小賀は、
ロシア語を学ぶために、時折休暇を取って東京に通っていたのだ。
ここで小賀は、以前窮地を救った佐知と再会する。
ロシアを敬愛しているという小賀に、同じ考えの佐知は好意を抱き、やがて二人に愛が芽生える。



大陸での戦いは、日本軍が善戦して次第にロシア軍を追い詰めつつあったが、
不足する兵員を補うため、国内では補充兵の召集が行われていた。
金沢の小賀も召集され、出征することになった。

小学校での最後の授業で、小賀は教え子たちを前にして、
ロシアにもトルストイのような優れた人はいる。ロシア国民すべてを憎まないようにと言うと、黒板に
美しい国 日本   
美しい国 ロシア
と書き、自分が戻るまで消さないように言い渡す。



そんな小賀のもとに、東京から佐知がやって来る。
佐知は教員の資格も持っており、小賀が帰って来るまで金沢で生活して待つと言う。
佐知の決心が固いことを知った小賀は、後のことを佐知に任せることにする。


■ 旅順

開戦3ヵ月余、満州の地で進撃を続ける日本軍であったが、
ここへきて、大きな難関に直面した。
ロシア艦隊が拠点とする軍港 旅順である。
旅順はロシアが清国 (現 中国) から租借していたが、軍港であることの他に満州の鉄道と兵站の一大拠点でもあった。
ロシア軍はここに世界一といわれる近代的な大要塞を築き、鉄壁の守りを固めていた。

日本軍はこの旅順を攻略するため、新たに第三軍を編成した。
第三軍は、東京第一師団、善通寺第十一師団、そして、小賀のいる金沢第九師団から成り、
司令官には、乃木希典中将 (仲代達矢) が任命された。



旅順は日清戦争の際、乃木の率いる旅団が1日で攻め落としたことがあったが、
ロシアの構築した旅順要塞は、その時と比較にならないほど強化されていた。

軍港を囲む丘陵地帯には、火砲646門、主要堡塁 (陣地)52ヵ所が設置され、
守備隊司令官コンドラチェンコ少将の下、4万2千人のロシア兵が守備していた。
中でも、二龍山を中心として、西の松樹山、東の東鶏冠山に至る本防御要塞は、当時の軍事上の最高技術を集めたものであった。
べトン (コンクリート) で固めた永久堡塁は塹壕で繋がり、周囲には高圧電流が流れる有刺鉄線が張り巡らされていた。
ロシア軍は、当時日本軍が持っていなかった機関銃や手榴弾も装備しており、
斜面を上ってくる敵に対しては、海軍が使用する機雷を投下して粉砕する準備まで整えていた。
二重三重に防備された要塞は、
仮にその一角を占領しても、周囲の堡塁から集中攻撃を浴びて殲滅される。
旅順はまさに、恐るべき難攻不落の大要塞であった。



     


第三軍内部では、旅順要塞は充分な弾薬を蓄積した後、砲撃で叩き潰してから攻略するのが正攻法と考えられていた。
しかし、ヨーロッパにいるロシア海軍の主力艦隊であるバルチック艦隊が、
旅順港内の艦隊と合流するため出港するという情報がもたらされると事態は緊迫した。
両艦隊が合流すれば、日本近海の制海権を奪われ、日本の勝利は到底望めなくなる。
一刻も早く旅順を攻め落とすことが、第三軍に与えられた至上命令となった。


■ 出撃

小賀たちにも、ついに出撃命令が下る。
金沢を発つ前日、佐知は小賀に千人結び (千人針) を渡し、
「きっとご無事で。私待っています」
と訴える。
当時の国民なら「ご武運をお祈りします」と言うところだが、
自由民権運動に携わっていた佐知の奔放な考え方と愛情の深さが伝わってくる。



予備少尉である小賀は、金沢第九師団の歩兵第七連隊に所属する小隊を指揮することにな った。
彼の下には、やはり市井から召集された兵たちが新たに配属されていた。
豆腐屋の木下 (新沼謙治)、加賀友禅職人の米川 (長谷川明男)、博徒の牛若 (佐藤允)、太鼓持ちの梅谷 (湯原昌幸) など、
そのシャバでの職業は様々であったが、
この面々で戦争ができるのかと、古参の兵たちは呆れる。



小賀は上官の中隊長 寺島大尉 (北村晃一) から呼び出された。
連隊本部の中に、小賀がロシア通であることから、前線に出すなという声があることを気にしてのことだった。
しかし、自分はロシアを敬愛しているが、あくまで軍人としての本分を全うするつもりだと答える小賀に、
寺島大尉は
「俺だってトルストイぐらい読んでいるよ」
と笑って安堵するのであった。

小賀は教師だったことから、士族 (元武士階級) の家柄だと思われる。
これは明治維新後、武士は警官か教師になる者が多かったことを反映している。
主に士族出身の将校が、平民出身の兵を率いて戦う。
明治新政府が推し進めた “国民皆兵” の兵政改革のステレオタイプがここに描かれていた。


6月初旬、第三軍は広島の宇品港から遼東半島に渡ると、前線拠点を次々に攻略して旅順に迫った。
そして、旅順要塞の東および北方面に向かって全軍を配置し、強力なロシア軍と対峙した。

この頃、乃木は大将に昇進していた。



大陸での戦いが活発化する中、
大本営は満州方面での作戦を統括する満州軍総司令部を新設し、
総司令官に大山巌元帥 (野口元夫)、総参謀長に児玉源太郎大将を任命した。

7月15日、児玉は、第三軍司令官の乃木と参謀長の伊地知 (稲葉義男) を大連の満州軍総司令部に招き、旅順攻略について意見を交わした。
児玉と乃木は同じ長州出身で、旧知の間柄であった。

旅順攻撃をいつ頃始めるつもりかと問われた伊地知参謀長は、
充分な弾薬の補給がないため、いまだ総攻撃の開始日時を確定できないと答える。
これを聞いて児玉は、早期に旅順を攻め落とす必要性を強調する。



無理に攻めるとすれば、強襲突撃による攻撃しかないが、そうなれば将兵の犠牲が増えると躊躇する乃木。
すると児玉は
「多少の兵の犠牲より、今は時間の方が大事なんじゃ」
と言い放つ。

乃木は、苦渋の決断を迫られた。


■ 第一次総攻撃

第三軍は、ついに総攻撃の実施を決定。
8月19日を作戦決行の日とした。
第三軍隷下の3つの師団は、
第一師団が大頂子山、水師営方面。
第九師団が二龍山方面。
第十一師団が東鶏冠山のロシア軍陣地を、それぞれ正面攻撃目標に定めた。



総攻撃の朝、
最前線の将兵たちは緊張を隠せない。
タバコを吸う者、酒を回し飲みする者、武者震いしながら立ち小便をする者など。

塹壕で配置に就く小賀の小隊でも、兵士たちが雑談で気を紛らせていた。
金平伍長 (三南道郎) が口を開いた。
「おい米川、絶対死ぬなや。生きて内地に帰るんやぞ


妻に先立たれた米川二等卒 (二等兵) は、
金沢に幼い子供二人を残して出征していた。
ある古参兵は、女物の襦袢の切れ端を米川に手渡す。
これを持っていれば、敵の弾丸に当たらないという一種のお守りである。


日本軍の野砲隊が砲火を開いた。
これに呼応して、第三軍は総攻撃を開始した。
突撃ラッパが鳴り響き、
歩兵たちが一斉に突撃して行く。



ロシア軍の防御砲火も猛然と火を噴いた。
鉄条網をなんとか突破しても、斜面の上の胸壁が立ちふさがる。
そこに据え付けられた重機関銃から撃ち出される銃弾が、日本兵をなぎ倒す。
たちまち築かれる屍の山。
日本軍が初めて遭遇する機関銃の威力は凄まじく、
1分間の突撃で、中隊規模の部隊が全滅する光景を目の当たりにする。


      


機関銃の猛射に加え、手榴弾や機雷の投擲で応戦するロシア軍に対し、
日本軍は、銃剣を装着した歩兵銃を構えて突撃を繰り返すしか術がなく、死傷者が続出した。
20日まで行われた攻撃で、
第三軍は、大頂子山を攻めた第一師団右翼隊の第二中隊が全滅。
同左翼隊は、水師営南方堡塁突入に失敗、
第一大隊、第三大隊が全滅。
第九師団右翼隊は、龍眼北堡塁の攻撃に失敗、
歩兵三十六連隊が大損害を受けた。

攻撃は21日以降も続けられたが、
第九師団の歩兵第七連隊、同第三十五連隊が盤龍山前哨堡塁突入に失敗。
第七連隊は、総員2千9百名の90パーセントを失い、連隊長も戦死した。

また、
東鶏冠山永久堡塁を攻めた第十一師団は、
カポニエールと呼ばれる巨大な外壕に阻まれるなどして突入に失敗。
カポニエールに落ちた兵士たちは、底に設置された鹿砦 (ろくさい=先を尖らせた木材を組んだ罠) に串刺しになるか、側壁の無数の銃眼からの射撃で蜂の巣にされた。

24日夕刻になって、第三軍は損害の甚大さに驚き、やむなく攻撃を中止した。



この総攻撃では、第九師団歩兵第七連隊の寺島中隊が、盤龍山前哨砲台陣地を占領したのが唯一の戦果であった。
その寺島中隊も、中隊長の寺島大尉が重傷を負ったほか多数の戦死傷者を出し、
隸下の小賀たちの小隊も、金平伍長や古参兵の大半が戦死。
残ったのは、小賀と一緒に召集された米川ら補充兵を含むわずかな兵たちだけであった。



激しく雨が降り続く夜半、小賀たちは占領した陣地を死守していた。
「飯がきましたぁ!」
木下二等卒が、届けられた飯の入ったカマス (ムシロを二つ折りにした大型の袋) を運んできた。
開封するや、手づかみでむさぼるように食べる兵士たち。
その時、誰かが気付いた。
「この赤いのは何だ」「五目飯でないかい」
だが、それは飯にベットリと付着した戦死者の血だった。
皆があわてて吐き出す中、木下だけは無心に食べ続ける。

貧しい家庭に育って豆腐屋で働いていた木下は、一見ぼんやりしているが、軍隊という組織の中では抜群の適応力を発揮する。
その後も、戦死したラッパ手のラッパを拝借し、それを吹いて仲間をなごませたりしていた。


■ 第二次総攻撃

第三軍は、第一次総攻撃が失敗したことから、
次の攻撃は手堅く正攻法で行う方針を固める。
その第三軍のもとへ、本土から二十八サンチ砲 (二十八糎榴弾砲) が搬入された。
これは、重さ300キロの砲弾を発射する強力な大口径砲で、
本来は、対艦用として110門が国内の重要港湾に設置されていたが、
うち18門が、特別構築班の手によって旅順に運ばれ、通常3週間かかるところを9日間で前線に据え付けられたのだった。



大勢の戦死者が出た第九師団のお膝元 金沢では、
戦死者の遺骨を抱いた遺族たちの長い葬送の列が続いていた。
それを、戦争ごっこに興じていた子供たちが “捧げ銃 (つつ)” の姿勢で見送る。
無邪気な子供たちとの対比で、戦争で家族を亡くした人々の深い悲しみが伝わってくる。

金沢にいる佐知は、
赤十字の施設を逃げ出して警察に保護された米川の二人の子供を引き取ることにする。
小賀の妻だと言っても、婚姻届けが出されていないと不審がる巡査に、
佐知は小賀の勲章を見せて信用させる。
今でいう事実婚といったところだろう。



一方の小賀は、第一次総攻撃での功績が認められて中尉に昇進し、負傷して内地に送還される寺島大尉に替わって中隊を指揮することになった。
戦死した金平伍長らの墓標の前で、小賀は瀕死のロシア兵から預かった家族の写真と、佐知から託されていた髪を焼く。
「佐知、僕は今日まで大勢の部下を亡くした。ロシア兵も殺してきた。しかし、これが戦争なんだ。
僕は中隊長の責任を果たさなければならない。昔の僕のことはもう忘れてほしい」
そう、心の中でつぶやく小賀。
博愛主義者だった彼の心に、ある変化が生じ始めていた。



10月16日、戦艦12隻、巡洋艦8隻を主力とする37隻からなるバルチック艦隊は、
旅順艦隊と合流すべくバルト海のリバウ軍港を出港した。
この報に危機感を募らせた日本海軍や満州軍総司令部からの度重なる要請に、
10月26日、再び乃木第三軍は総攻撃に踏み切った。(第二次総攻撃)

しかし、またしても旅順要塞を攻略することはできず、第二次総攻撃は中止された。
元老閣僚会議の席上、その報を受け取った伊藤は
「旅順か、あんな軍港一つが日本の命取りになるのか!」
と、吐き捨てるように言う。
折から会議では、旅順での日本軍の苦戦が、
アメリカに働きかけている講和の話に悪影響を与えているという指摘があったばかりだった。



犠牲ばかり増えて一向に旅順が陥落しないことに、国民の怒りも頂点に達していた。
東京の乃木の留守宅には暴徒が押し寄せ、
「人殺し」「息子を返せ」「能なし司令官は職を去れ」などと口々に叫び、投石をする騒ぎになっていた。

この騒ぎで、警察か憲兵隊に通報するべきだと言う使用人たちに、
静子夫人 (野際陽子) は、5月に南山の戦いで戦死した長男勝典の遺骨を祀った仏壇に手を合わせながら、
「好きにさせてあげなさい。こんな家なんかかまいません」
と言うのであった。



バルチック艦隊が迫る中、第三軍が第二次総攻撃を中止したことに失望した海軍は、
伊藤を通じて陸軍参謀本部の山縣有朋総長 (神山繁) に、乃木の更迭を要求する。
山縣は御前会議で、乃木更迭の裁可を明治天皇に仰ぐが、
「乃木を替えてはならん」
明治天皇の声が厳かに響いた。



乃木は、更迭されれば生きてはいないだろう。
そうなれば、今日まで乃木の下で身命を賭して戦ってきた将兵の辛酸をないがしろにすることになる。
それが、乃木をよく知る明治天皇の考えであった。

乃木の更迭は却下されたが、もう一つの案であった旭川第七師団の追加投入は認められた。
第七師団は、北海道防衛のため残してあった最後の常備師団であった。


■ 第三次総攻撃

8月に始まった旅順攻囲戦も3ヵ月が経過し、旅順は冬を迎えようとしていた。

寒風の中で作業をしていた牛若二等卒に、馬に乗った乃木が近付いてきた。
乃木は牛若にタバコを差し出し、
「寒いじゃろう。体は大丈夫か?」
と労った。
「どうせわしら消耗品ですさかいに、これくらいの寒さ」
そう言って、牛若はハッとした。
乃木は悲しげな表情を浮かべると馬を歩ませ、その場を離れた。
「あのう、わしゃあ口下手ですさかい・・・
弁解する牛若の声を背中に聞いた乃木は、
振り返り、無言でうなずくのであった。



11月26日、第三軍は本防御線正面への攻撃を再開した。(第三次総攻撃)
この攻撃では、
第九師団が、歩兵第十九連隊を主力として二龍山に突入。
第十一師団は、歩兵第二十二連隊が主力となって東鶏冠山に突入するなど、それぞれ激戦となった。

夜間には、第三軍の各部隊から志願した将兵で編成された決死隊 “白襷隊” (しろだすきたい) による強襲突撃が敢行された。
白襷隊の由来は、夜間の味方識別のため、兵士が白い襷を掛けていたことによるものであった。



白襷隊の隊員は、立ち止まっての射撃は禁止されており、銃剣突撃をもって正面要塞陣地を突破分断し、旅順市内に一気に斬り込むよう指示されていた。
白襷隊の夜襲は、先に第一師団が攻撃に失敗した松樹山砲台に対して行われたが、
ロシア軍は探照灯 (サーチライト) で日本兵を照らし出して射撃を浴びせ撃退した。

白襷隊同様、他の部隊も苦戦し、攻撃目標手前で前進を阻まれていた。
小賀の中隊も、すでに弾丸はなくなり、代わりに敵陣に石を投げている有り様であった。
これまで生き残っていた小賀の部下たちも次々に死んでいった。
梅谷二等卒は病死し、古参の上等兵は極寒の中で凍死した。
米川二等卒も、ロシア兵との小競り合いで投げ込まれた手榴弾の爆発で息絶えた。


第三軍司令部では、手詰まり状態の戦況を鑑みて、主攻目標への攻撃を一時中止し、
攻撃目標を二百三高地に変更する決断をする。
これは、旅順港を見下ろせる二百三高地を占領し、(観測地点を設けて照準を定め)
二十八サンチ砲で港内のロシア艦隊を砲撃してほしいという海軍の要望に沿うものであった。



そんな折、小賀は第三軍司令部の幕営地にいた。
ロシア語の話せる小賀は、ロシア兵捕虜の尋問の通訳に駆り出されたのだった。
尋問を進めるうち、捕虜の侮辱的な発言に苛立った小賀は、拳銃を抜いて発砲する。
弾丸はそれ、小賀は周りの兵に取り押さえられる。
「部下の敵討ちであります。ロシア人はすべて自分の敵であります!」
と小賀は叫ぶ。
多くの部下の死を見てきた小賀の中で、
ロシアに対する憎しみが、理性で抑え切れないまでに増大していた。

捕虜に危害を加えることを禁じた乃木司令官の通達を知らないのかと問いただされた小賀は、
前線で苦痛にまみれて死んでいく兵を、乃木式の軍人精神で救えるのかと激しく反論する。
小賀の行為は、軍法会議にかけられるほどの軍紀違反だったが、
この騒ぎを見ていた乃木は、小賀に
「隊に帰りなさい」
と諭すだけであった。



11月28日、二百三高地への攻撃が開始された。
この攻撃には、新たに到着した第七師団を中心に、第一師団の残存部隊などを加えて再編成した集成部隊が投入されたが、
一方のロシア軍も総力をあげて反撃したため、一進一退の攻防が続いた。
混戦の中、この攻撃に参加していた乃木の次男保典も戦死する。


■ 二百三高地


二百三高地攻撃が進展しないのを見かねた満州軍総参謀長の児玉は、盟友乃木の窮地を救おうと、
大山総司令官に特別な許可をもらい、第三軍支援に向かう。

第三軍の前線司令部に到着した児玉は、
ストーブで暖をとっている参謀たちを見て激怒する。
「バカモン! 軍の最高指導部がこんな所でストーブを囲んでおって、それで戦争に勝てると思っちょるんか!」
打つべき手は打っていると反論する伊地知らに、さらに児玉は言う。
「それで二百三高地の攻略ができんとは、いったいどういうわけじゃ。こんな所でバカ面をさらしておって、何が手を打ったじゃ!
貴様らのような鈍感な頭では参謀は務まらんのぉ。肩章 (参謀肩章) なんぞ、みんな外しちまえ!」



参謀たちでは話にならないので、軍司令官の乃木と話したいと言う児玉に、
参謀の一人が、乃木の子息が昨日戦死したことを伝える。
児玉は乃木と二人きりで話をすることにする。

乃木と会った児玉は、第三軍の作戦指導に立ち入らせてほしいと頼む。
これに対して乃木は、
自ら攻撃隊を率いて二百三高地に突っ込むつもりなので、後は任せたと言う。
乃木が責任をとって死のうとしているのを知った児玉は、
今、ロシア軍が最も恐れているのは、旅順を猛攻してきた第三軍とその司令官の乃木の名前であり、
乃木には来るべき奉天の大会戦で第三軍を指揮して戦ってもらいたい。
「ここは、黙ってわしが投げる石になってくれ」
そう言って乃木を説得する。
すると、
「児玉!わしは木石 (ぼくせき) じゃないぞ!」
突然、乃木が声を荒げた。



息子を含めて大勢の将兵を死なせたことに心を痛める乃木は、
これ以上、感情のない木や石のように使ってくれるなと児玉に言いたかったのだろう。

「乃木、貴様の苦衷なんぞ斟酌している暇はわしにはない!
わしの考えていることはのぉ、ただこの戦争に勝つこと。それだけじゃ!」
児玉は、
そう言って感傷的になっていた乃木を説き伏せた。


後日、居並ぶ第三軍の幕僚たちを前に、
児玉が作戦の変更 (砲兵部署の修正) について指示していた。
「一つ、東北正面の重砲隊すべてをすみやかに移動して高崎山に陣地変換し、敵の回復攻撃を制圧せしめる。
二つ、二百三高地占領のあかつきには、二十八サンチ砲をもって一昼夜ごと15分おきの連続砲撃で敵の逆襲に備える」

これにはまず、
重砲すべてを移動することは、砲床工事を含めて短期間ではできないと反対意見が出されたが、
「一日でやれ。これは命令だ」
児玉は厳命した。

また、二十八サンチ砲で占領地域を援護射撃すると、味方も撃つことになると懸念する伊地知は、
「陛下の赤子 (せきし) である同胞を友軍が砲撃するっちゅうことは・・・」
と難色を示したが、
「陛下の赤子をこれまで無駄に殺してきたのは誰じゃ、貴様らじゃないのか!」


そう言って児玉は、
多少の流れ弾を被ることぐらい覚悟の上だと、自分の修正案を押し通した。

このやり取りを、乃木はただ傍観するのみであった。


12月5日、二十八サンチ砲の巨弾が空を切ってロシア軍陣地に着弾する中、
第三軍の二百三高地に対する攻撃は最終局面を迎えようとしていた。



この日、児玉の推進した作戦は効を奏し、
第三軍の各隊はロシア軍の抵抗を排除して二百三高地山頂に迫った。
そして、
いずれも第七師団隸下の第二十七連隊集成第三中隊が西南山頂を、第二十八連隊集成第一中隊が東北山頂を、集成第二十五連隊が中央山頂を相次いで占領した。



通信隊はただちに電話線を敷設、
二百三高地山頂と児玉や乃木たちがいる前線指揮所は電話が繋がった。
児玉は受話器を握りしめ、興奮気味に山頂の観測兵に問いかける。
「司令部の児玉じゃ、そこから旅順港は見下ろせるか!」

     


「見えます! ロシア艦隊の各艦、一望のうちです!」
観測兵の報告通り、
二百三高地山頂からは、眼下に広がる旅順港が見渡せた。

ようやく陥落した二百三高地。
児玉と乃木は、感慨をかみしめるように、その方向を見つめていた。



ほどなく、山頂の観測所からの誘導で、
重砲隊は二百三高地越しに旅順港内のロシア艦隊を砲撃、主力戦艦を含む十数隻を撃沈した。
これにより、ロシア旅順艦隊は壊滅した。


■ 勝利の陰で

二百三高地占領の報は、内地にももたらされた。
金沢では、寺の鐘や街中の半鐘が打ち鳴らされ 、人々は歓喜していた。
そんな中、
佐知は代用教員として、小賀が担任をしていた教室を受け持つことになった。
子供たちに紹介するため、左知を教室に案内した校長は、
間もなく小賀も凱旋してくるだろうから、これはもう必要なかろうと、黒板に書かれた
美しい国 日本
美しい国 ロシア
の文字を消してしまう。



二百三高地は陥落したが、
これで旅順攻略が完了したわけではなかった。
ロシア軍の主要堡塁や砲台はまだ残っており、
これらへの徹底的な攻撃が続けられた。
この頃第三軍は、
ロシア軍の堡塁の胸壁や塹壕の下まで坑道を掘り、爆薬を仕掛けて爆破してから突破する戦法をとっていた。

12月18日、第十一師団が東鶏冠山永久堡塁を激戦の末占領。
この場所では15日に、コンドラチェンコ少将が二十八サンチ砲の直撃で戦死している。

12月28日には、第九師団による二龍山永久堡塁への攻撃が行われた。
この攻撃には、小賀の中隊も参加しており、
坑道の爆薬で胸壁を爆破した後、要塞内に突入した。



残っていたロシア兵は果敢に反撃し、白兵戦となった。
軍刀を振るって斬り進んでいた小賀は、背後から撃たれて負傷する。
倒れた小賀のもとに木下が駆け寄るが、小賀はかまわずに行けと、携えていた日章旗を木下に渡す。

一人残された小賀に、若いロシア兵が銃剣で襲いかかってきた。
小賀とロシア兵は格闘となった。
素手による血みどろの死闘が続き、やがて両者とも力尽きる。
あとからやって来た牛若は、絶命している小賀を見つけた。
「中隊長どの!」
牛若は号泣する。

要塞内を進んでいた木下は、頂上の砲台に到達した。
あたりを見回すと、
日本軍の砲撃が命中したのか、累累とロシア兵の死体が横たわるのみで、砲台は沈黙していた。
「やったぞー! やった! やった!」
何度も叫びながら、
木下は砲台に駆け登り、銃に括り付けた日章旗をうち振る。
二龍山一番乗りである。



この日、第九師団は二龍山永久堡塁を占領した。
日本兵たちが叫ぶ万歳の声が山頂に響いていた。

旅順方面を管轄下に置くロシア軍の総司令官ステッセル中将は、
年が明けた明治38年 (1905年) 1月1日、降伏の意を示し、ここに約半年間に及んだ旅順攻防戦は終結した。

多くの犠牲を払いながらも旅順を攻略した日本軍は、
同年3月、奉天の会戦でもロシア軍を破り、
また海上では、5月に連合艦隊がバルチック艦隊を迎え撃ってこれを撃滅。
日露戦争は日本の勝利で終わった。


平和が戻り、
金沢の小学校では、亡き小賀に代わって担任となった佐知が、子供たちと唱歌の授業を行っていた。
教壇には、小賀の遺影が飾られている。
小賀がよく子供たちと歌っていた『故郷の空』をオルガンで弾いていた佐知は、
突然演奏をやめて黒板に向かうと、かつて小賀が書いた
美しい国 日本
美しい国 ロシア
の文字を再び書き記そうとする。
しかし、
“美しい国 ロシア” の文字がどうしても書けない。
愛する小賀を奪ったロシアを許せないのだろう。



こみ上げる悲しみに教室を飛び出した佐知は、
校庭で一人泣き伏す。


明治39年 (1906年)1月14日、
乃木は第三軍司令官として、軍状報告のため参内した。
明治天皇の前で、復命書を奉読する乃木。
「謹んで復命す。
臣 希典、明治三十七年五月、第三軍司令官たるの大命を拝し、旅順要塞の攻略に任じ・・・」

最初、淡々と読み上げていた乃木であったが、
復命書の内容が旅順総攻撃の段になると、
次第に声を詰まらせがちになった。
乃木の脳裏には、
戦闘で死んでいった兵士たちや、乃木の軍人精神に敢然と異を唱えた小賀の姿が去来していた。
「忠勇義烈、死を視ること帰するがごとく、弾に斃 (たお) れ、剣に殪 (たお) るる者みな陛下の万歳を喚呼し、欣然として瞑目したるは、臣これを伏奏せざらんと欲するもあたわず。
しかるに、かくのごとき忠勇の将卒をもってしても、旅順の攻城には半歳の長日月を要し、
多大の犠牲を供したるは、臣が終生の遺憾にして・・・」

乃木はやがて絶句し、うなだれて膝を突き嗚咽し始めた。
これを見た明治天皇は、
乃木に歩み寄ると、その肩に手を差しのべて慰めるのであった。






映画『二百三高地』の本編はここで終わるが、
エンディングのタイトルバックには、その後の金沢の様子が描かれている。

まず、復員した牛若と木下の様子。
牛若は、縁日の興行で講演会と称し、集まった客を前に講釈師よろしく二百三高地の一席をぶっている。
木下は、出征前と同じく豆腐屋のラッパを吹きながら、荷車を曳いて豆腐を売り歩いている。
そして、
佐知は、米川の遺した二人の子の手を引き、笑顔で教え子たちと野道を散策している。
いかにも平和そうな、当時普通にあったであろう巷の光景。



これが、さだまさしが歌う『防人の詩』に乗せて流れるエンドロールとともに映し出される。

私は思った。
この映画の製作者が本当に言いたかったことが、ここにあるのではないかと。 
どこにでもあるような、平和でごく当たり前の生活。
この “平和” を維持していくことが、実際はどんなに大変なことか。
映画『二百三高地』は、そのことを我々に提起しているのではないか。

そして、
ここで描かれていたような状況は、今も世界のどこかの地域で起こっている。
それに日本も無縁ではない。

名優たちの重厚な演技が再現した明治人の気骨と覚悟が、
現代に生きる我々に重要な示唆を与えてくれているような気がする。




【おことわり】
劇中の台詞やナレーションは太字で表記しました。
また、映画の内容と史料とで相違がある部分がありますが、本ブログ記事は映画に合わせました。
一部、補足説明を加えた箇所もあります。