摩文仁の丘 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。

太平洋戦争中、激しい戦闘が展開された沖縄では、毎年6月23日を “慰霊の日” と定め、
糸満市にある平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式が行われる。

※平和祈念公園 (糸満市)


平和祈念公園は、海を見下ろす台地上にあり、
公園内には、平和祈念資料館や平和祈念像、そして、平和の礎 (いしじ) がある。
平和の礎には、国籍や軍人・民間人の別を問わず、沖縄戦で命を落としたすべての人の氏名が刻まれており※注釈1
今年も新たに判明した41人の名前が刻まれた。

※平和の礎


平和祈念公園の南には、
沖縄戦最後の組織的戦闘が行われた
摩文仁の丘 (まぶにのおか) を望むことができる。
摩文仁の丘には、
沖縄戦末期、日本軍の司令部壕があったが、
進攻してきたアメリカ軍に攻撃されて玉砕した。
その日が、6月23日だった。

ここに至るまでの戦いは、
軍人のみならず、沖縄の住民にも多くの犠牲者を出す凄惨なものであった。


昭和20年 (1945年) 3月下旬、
アメリカ軍は、艦艇1500隻、総兵力54万人で沖縄方面に来襲。
慶良間諸島を占領して補給基地化したほか、
連日、沖縄本島に対して空母艦載機の空襲と、戦艦などの支援艦隊による艦砲射撃を行った。

4月1日早朝、
アメリカ軍海兵隊および陸軍部隊18万人が、支援艦隊の10万発にのぼる猛烈な艦砲射撃の援護の下、
沖縄本島中西部の読谷 (よみたん)、北谷 (ちゃたん) 付近の海岸に上陸を開始した。

※海岸を目指す LVT (水陸両用軌道車) 
後方で砲撃しているのは戦艦『テネシー』

※一斉に上陸するアメリカ海兵隊


これに対し日本軍は、
沖縄防衛のため編成された第32軍 (陸軍第24師団、第62師団、海軍根拠地隊などから成る) の将兵およそ8万人が島内に布陣していた。
また、日本軍は兵力の不足を補うため、沖縄の住民約3万人を動員して前線に投入した。
その中には、男子中学生で編成された鉄血勤皇隊や、師範学校や高等女学校の女子生徒らを臨時の看護婦とした ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊なども含まれていた。

日本軍は、敵を内陸部におびき寄せた後に叩く作戦をとったため、
水際での反撃はほとんど行われなかった。


アメリカ軍は上陸初日に、日本軍の放棄した北飛行場 (読谷) と中飛行場 (嘉手納) を占領し、
翌日2日から3日にかけて、東海岸の石川、泡瀬方面まで進出。
本島を南北に分断する形で、5日までには、宜野湾以北の中部一帯を支配下に収めた。

※日本軍と戦闘中のアメリカ陸軍兵士


以降、アメリカ軍は、日本軍主力が防衛する南部の首里方面へ向け進撃を開始、
これを迎え撃つ日本軍との間で激戦が展開された。
当初アメリカ軍は、沖縄を1ヵ月で攻略できるとみていたが、
この予測は大きく狂うことになる。

※首里に向け進撃するアメリカ軍歩兵


首里北方の防衛線では、
嘉数 (かかず) 高地、前田高地 (=ハクソー・リッジ) などの攻防戦をはじめ、一進一退の戦いが40日間にわたって続き、両軍ともに大きな損害を出した。
しかし、物量に優るアメリカ軍は、次第に日本軍を圧倒していった。

そのさなか、
日本軍は、アメリカ軍の進攻を阻むため、総攻撃を行うことを決定。
5月3日夜から4日にかけて、温存していた砲兵隊による1万8千発の砲撃をアメリカ軍に浴びせ、
第24師団と戦車第27連隊が普天間付近のアメリカ軍前面に攻め込んだ。

※砲火を開く日本軍の15センチ榴弾砲


この猛攻に、アメリカ軍は一時混乱に陥ったものの、
すかさず、アメリカ軍砲兵隊も反撃の砲撃を行い、開戦以来まれに見る大砲撃戦となった。
結果的には、
日本軍の砲兵陣地を航空偵察によって探し出し、正確かつ猛烈な砲撃を加えたアメリカ軍に軍配が上がり、
日本軍砲兵隊は大半の砲を破壊されてしまった。

アメリカ軍は、前進してくる日本軍に対し、
重砲のほか、ありとあらゆる火砲で攻撃を集中してこれを撃退した。
戦車第27連隊は、出撃した九七式中戦車と九五式軽戦車のほとんどを破壊されて壊滅。
第24師団の歩兵部隊も死傷者が続出して大損害を受け、
日本軍の総攻撃は、いたずらに貴重な兵力を消耗しただけで失敗に終わった。

この総攻撃失敗のあと、日本軍は表立った攻撃を行えなくなり、
山岳地帯 (高地) に築いた隠蔽陣地に潜んで、来襲するアメリカ軍をゲリラ的に攻撃する戦法に切り替えた。
日本軍主力を壊滅させたと楽観していたアメリカ軍は、
首里をめぐる攻防戦でこの戦法に悩まされ、
シュガーローフ・ヒル (安里高地) の戦いなどで、大きな損害を被ることになる。


勇戦奮闘を続ける日本軍であったが、
一連の戦いで戦力の8割を失い、戦線の維持が困難となっていた。
5月下旬、日本軍は南部の喜屋武 (きゃん) まで防衛線を後退させる決断を下し、
首里城も焼け落ち廃墟となった首里から撤退して、沖縄南端の摩文仁を目指した。

これにともない、
撤退する日本軍に続いて、大量の避難民も南部方面に移動した。
アメリカ軍に投降した住民は手厚く保護された一方、
日本軍に混じって避難する住民は、間断なく続けられる艦砲射撃や艦載機の機銃掃射にさらされることになった。
そのため、一般住民の死傷者も日を追うごとに増えていった。

※戦火を逃れて避難する住民たち


6月1日、
梅雨の時期特有の降りしきる雨の中、ぬかるんだ退路を摩文仁にたどり着いた日本軍は、丘陵地帯の洞窟に司令部を移した。
この一帯には、自然の洞窟を巧みに利用した陣地が構築され、
以後3週間にわたり、アメリカ軍の攻撃を何度も撃退したが、日本軍の兵力の消耗は限界に達していた。

6月中頃になると、
前線の日本軍の士気や規律も低下し、自分たちが避難するため、すでに壕に入っている住民を追い出したり、
それを拒んだ住民を殺害したりする兵士も現れた。

6月17日、
アメリカ第10軍 (沖縄攻略部隊) 総司令官サイモン・B・バックナー中将から、
日本軍司令部宛てに降伏勧告が出されたが、日本側はこれを無視した。
皮肉なことに、バックナー中将は、この翌日の18日、
前線視察中、日本軍の砲撃により戦死している。

※戦死する直前のバックナー中将 (右端)


6月21日、
司令部壕のある摩文仁の丘前面までアメリカ軍戦車が進出した。
日本軍の通常の野砲では、アメリカ軍のM4シャーマン戦車の装甲は厚くて歯が立たないため、
高射砲を水平射撃して数輌を撃破したが、たちまち反撃を受けて高射砲陣地は破壊された。
それでもなお日本軍は、兵士が爆雷を抱いて肉弾攻撃を敢行し、アメリカ軍の進撃を阻止すべく死闘を繰り広げた。

※日本軍陣地を攻撃するアメリカ軍戦車
(火炎放射器装備)


6月22日、
第32軍の基幹である第24師団や第62師団もほぼ壊滅状態にあったが、
師団長や幹部将校が相次いで自決。

第32軍司令部のある摩文仁の丘にもアメリカ軍が到達、
守備隊の抵抗を排除して山頂部を制圧すると、“馬乗り攻撃”※注釈2 をかけてきた。
司令部壕は、海側と陸側の2ヵ所に開口部があったが、陸側はアメリカ軍の攻撃を防ぐため閉鎖された。

そして23日未明、
第32軍司令官の 牛島満 (うしじま みつる) 大将※注釈3 と、参謀長の長勇 (ちょう いさむ) 中将は、
海側の開口部付近に敷かれた白い布の上で、古武士の型に倣って軍刀で割腹自決した。

※第32軍司令官 牛島満大将


日本軍の沖縄における組織的な戦闘はここに終結したが、
徹底抗戦を続ける小部隊が南部の各地に残存し、アメリカ軍に対して散発的な抵抗を続けていた。
アメリカ軍はこれを、1つの洞窟、1軒の家屋と、日本兵の潜んでいそうな場所を調べてまわり、しらみ潰しに掃討していった。

沖縄の日本軍が完全に降伏したのは、
8月15日の終戦を過ぎた9月に入ってからであった。

沖縄戦において日本側は、軍の将兵約7万人が戦死したほか、
戦闘に巻き込まれた地元住民10数万人が死亡したとされる。
これに対してアメリカ軍は、
戦死者約1万3千人、負傷者約5万5千人を出した。


日本軍は地上戦のほか、
沖縄周辺海域に展開するアメリカ艦隊に対し、特攻機を中心とする航空攻撃を実施した。
のべ1800機以上の特攻機による攻撃で、
アメリカ軍の駆逐艦など36隻を撃沈し、空母や戦艦など218隻を損傷させたが、
この特攻作戦による日本側の搭乗員の戦死者は3000人を超えた。

※戦艦『ミズーリ』に突入せんする特攻機
(突入は失敗し海中に突っ込んだ)

※特攻機2機の突入により混乱を極める
空母『バンカーヒル』の飛行甲板


また4月7日には、
航空部隊の特攻に呼応し、第2艦隊の戦艦『大和』以下10隻が、水上特攻と称して沖縄に突入しようとしたが、
アメリカ軍艦載機の波状攻撃を受け、
旗艦の『大和』をはじめ、軽巡洋艦『矢矧』や駆逐艦など計6隻が沈没、約4000人が戦死している。

沖縄を守っていた第32軍は、
アメリカ軍の日本本土進攻を少しでも遅らせるため、持久戦を展開して沖縄での戦いを長引かせた。
沖縄の住民たちも、献身的に軍に協力して行動を共にすることが多かったため、巻き添えで多大な被害を受けることになった。

降伏することを許されない日本軍は、
敗北が濃厚になっても、決して捕虜になることはせず死ぬまで戦った。
敵に包囲されるなどして進退が極まると、
潔く自決するか、バンザイ突撃などで敵中に突入し、名誉の戦死を遂げる道を選んだ。
このため、大戦末期の日本軍の戦死者数は、
連合軍側の10倍から20倍という数になった。

沖縄では、動員された ひめゆり学徒隊や一般住民までもが、アメリカ軍に保護されるのを拒んで集団自決をした例が多くみられた。
これも、沖縄戦での住民の死者数を増大させた要因と思われる。

もし、終戦がもう少し遅れて、
アメリカ軍が日本本土に上陸していたならば、
沖縄戦を何倍、何十倍する民間の被害が発生しただろう。
沖縄で展開された悲惨な戦いは、本土決戦の縮図だったのである。

沖縄戦で尊い犠牲となられた人々に、
合掌。

※第32軍司令部玉砕の地 “摩文仁の丘”



【注釈】
1. 沖縄県出身者に関しては、満州事変 (1931年) から終戦 (1945年) 後の9月までの全戦闘地域における戦死者および、
戦争に起因する病気や怪我などで、終戦後1年以内に亡くなった人たちも含めるため、
碑に刻まれている24万人余という人数は、実際の沖縄戦の死者数より多い。

2. 壕に潜んで投降しない日本兵や住民に対し、壕の入口や、岩盤に掘削機で開けた穴から手榴弾や黄燐弾を投げ込んだり、火炎放射器を噴射して攻撃する戦法。
※壕に開けられた穴から携帯爆弾を投げ込む
アメリカ海兵隊員。

. 着任当時は中将だったが、自決直前の6月20日に大将に昇進した。