明治38年 (1905年) 5月27日、
対馬沖で対峙した日本とロシアの艦隊は、
日本艦隊の敵前大回頭という奇抜な戦法で戦端を開いた。
ロシア艦隊から撃ち出される砲弾が上げる水柱が林立する中、日本艦隊は粛々と回頭運動を行っていく。
先頭の『三笠』がターンを行った地点に来ると、後続の艦も同じように次々に規則正しくターンする。
ロシア側から見れば、その地点を狙えば、まさに静止目標を撃つのに等しい絶好のチャンスである。
当然、命中弾を浴びる艦も増えていくが、
東郷長官はすぐには反撃に出ず、バルチック艦隊との距離を縮めていった。
午後2時10分、
バルチック艦隊まで距離6400 (メートル) に迫った時、『三笠』は敵旗艦『スヴォーロフ』に向けて、30センチ主砲の初弾を発射。
これに合わせて、回頭を終えた日本艦隊各艦も砲撃を開始した。
皮肉なことに、ロシア艦の煙突に施された識別用の黒地に黄色の塗装はよく目立ち、
日本艦隊が照準を合わせるのに役立った。
3列縦隊になっていたバルチック艦隊の左列先頭で、日本艦隊に一番近かった戦艦『オスリャービャ』は集中攻撃を浴びて大破、早々に攻撃力を喪失した。
午後2時20分、
両艦隊の距離は5000に縮まり、砲撃戦は熾烈を極めた。
『三笠』にも多数の敵弾が命中し、死傷者が続出した。
先頭を行く旗艦『三笠』は、最も攻撃が集中する宿命にあり、日本艦隊が受けた全命中弾の実に4分の1は『三笠』に命中したものだった。
その中の一弾は、艦橋付近に着弾して爆発、
破片が東郷長官の間近をかすめて、羅針儀を保護するマントレット (ハンモックを巻き付けた遮蔽物) に突き刺さった。
肝を冷やす一瞬であったが、東郷長官は泰然として瞬き一つしなかった。
相次ぐ被弾にも関わらず日本艦隊は、
装甲巡洋艦『浅間』が舵を破壊され戦線離脱を余儀なくされたほかは、各艦ほぼ攻撃力を損なうことなく航行を続けた。
日本艦隊は、激しい砲撃戦の中でも整然と行動していた。
砲撃の命中率も、練度に優る日本側が上回っており、次第にバルチック艦隊を圧倒していった。
日本側優勢の要因として、乗組員がよく訓練されていたほかに、火薬の質の違いがあった。
ロシア艦の多くは、砲弾の発射に旧式の黒色火薬を使用していたため、
砲弾発射後、もうもうたる黒煙があたりを覆い、次の照準を定めるのを妨げた。
そのため、黒煙が晴れるまで砲撃ができないほどだった。
一方、日本がイギリスから輸入して使用していた発射薬のコルダイト (無煙火薬の一種) は、
発砲時の煙が少なく、砲手の視界を妨げることが少なかった。
これにより日本艦隊は、ロシア側を上回るスピードで連射が可能であった。
また、砲弾の炸薬にも違いがあった。
日本側が極秘に開発し使用した下瀬火薬は、強力な破壊力を持ち、命中した箇所を粉々に粉砕した。
また、爆発時の高熱は、鋼鈑の塗料 (ペンキ) なども燃やし、一部金属をも溶かした。
これを撃ち込まれたロシア艦は炎上するものが多かった。
午後2時50分、
多数の命中弾を受けた旗艦『スヴォーロフ』と『オスリャービャ』は、炎上しながら戦列から離れつつあった。
『オスリャービャ』は、バルチック艦隊の中でも一際大きく威容を誇る戦艦だったが、
被弾した左舷の破孔からの浸水が激しく、傾斜復旧の見込みは乏しかった。
午後3時過ぎ、
『オスリャービャ』は、懸命の復旧作業もむなしく、左に転覆したあと、海中に艦首を突っ込む形で沈没していった。
艦長のベール大佐は退艦を拒み、艦と運命をともにした。
『スヴォーロフ』の被害も甚大だった。
2本のマストと前部煙突は折れ、上部構造物はほぼ破壊されて、舵も利かなくなっていた。
司令長官のロジェストヴェンスキー中将がいる司令塔は厚い装甲で防御されていたが、
ここも、日本艦隊の正確な砲撃による直撃弾で主要な計器が破壊され、幹部士官に複数の戦死者が出た。
ロジェストヴェンスキー長官も頭部に重傷を負い、もはや艦隊を指揮するのは不可能だった。
(後に、ロジェストヴェンスキーは、接舷した駆逐艦に移乗させられ『スヴォーロフ』を離れた)
この時点で、
『スヴォーロフ』に代わって2番艦『アレクサンドル3世』や3番艦『ボロジノ』がバルチック艦隊を先導しようとしたが、
たちまち日本艦隊の集中砲火を浴び、それを避けるため戦列から離れていった。
日本とロシア両艦隊は、互いに有利な位置を占めようと、
右に左に回頭運動を繰り返しながら並航して砲撃戦を続けていたが、
終始、一糸乱れぬ艦隊行動をとる日本側に比べ、ロシア側の隊列は千々に乱れていた。
『オスリャービャ』の轟沈と『スヴォーロフ』の旗艦機能喪失は、ロシア側の混乱を招き、将兵の士気を阻喪させるのに十分であった。
バルチック艦隊は、もはや、日本艦隊を撃滅しようという気概を持ち合わせず、
日本艦隊の攻撃をかいくぐって、なんとかウラジオストクへ逃げ込もうとするのがやっとだった。
午後4時半を回る頃、
日本艦隊主力 (第1・第2戦隊) は、靄 (もや) のため、遁走するバルチック艦隊主力を一時見失った
その頃、別行動をとっていた第3~第6戦隊は、バルチック艦隊に随伴する仮装巡洋艦と特務船の部隊を攻撃していた。
第3戦隊 (装甲巡洋艦4) と第4戦隊 (防護巡洋艦4) は、
曳航船『ルーシ』を撃沈、仮装巡洋艦『ウラル』と工作船『カムチャツカ』を大破させた。(両艦とも後に沈没)
第5戦隊 (防護巡洋艦3、海防艦1) と第6戦隊 (防護巡洋艦4) もこれに加わったが、
午後4時40分頃に南下してきたバルチック艦隊主力 (戦艦隊) の一部と遭遇して交戦、
防護巡洋艦『浪速』が被弾して浸水する被害を受けたため、いったん待避した。
その後、
バルチック艦隊主力は、再び針路を反転して北上していった。
午後5時57分、
第2戦隊と分かれて北北西に向かっていた
『三笠』以下の第1戦隊は、前方に見失っていたバルチック艦隊主力を再び発見。
戦艦『ボロジノ』『オリョール』『アレクサンドル3世』など10隻の艦隊は、巡洋艦、海防艦などをともなって航行していたが、
日本の第1戦隊は、これを追撃して並航し、砲撃を加えた。
まず、先頭を進んでいた『ボロジノ』に攻撃が集中したが、爆発炎上する黒煙で照準が困難となったため、
攻撃目標は2番艦『オリョール』に移った。
多数の命中弾を受けた『オリョール』は大半の砲が破壊され、浸水もかなりあったが、かろうじて航行を続けた。
艦長のユーンク大佐は重傷を負い、後日死亡した。
午後7時頃、
『アレクサンドル3世』は、艦首が損傷するなどして戦列から落伍していたが、
浸水による左舷への傾斜が増し、突如転覆して沈没していった。
同艦の乗組員900名全員が死亡したとされる。
午後7時10分、
日没のため、『三笠』は砲撃を中止。
第1戦隊の他の艦もそれに倣って、7時20分頃までに砲撃を中止したが、
その間際、戦艦『富士』が最後に放った主砲の30センチ砲弾が『ボロジノ』の前部舷側砲塔付近に命中。
砲弾は貫通して艦内部で炸裂、弾薬庫が誘爆した『ボロジノ』は、大爆発を起こして轟沈した。
翌朝、水兵1名が日本の駆逐艦に救助された以外『ボロジノ』の生存者はいない。
日本艦隊の戦艦、巡洋艦など大型艦は、
夜間の戦闘を艦隊所属の駆逐艦と水雷艇 (魚雷艇) の部隊に任せ、鬱陵島に移動した。
午後7時20分、
夜戦に移った日本の駆逐艦および水雷艇部隊約50隻のうち、
第11水雷艇隊が、大破して洋上を漂っていた旗艦『スヴォーロフ』を捕捉。
『スヴォーロフ』は、唯一破壊を免れた艦尾の75ミリ砲で勇敢に射撃を続けたが、
2波にわたる水雷艇隊の攻撃で、魚雷でとどめを刺される形でついに沈没した。
このほか、
ロシア側は日本軍の夜襲に対し、サーチライトを照射するなどして応戦したが、
午後9時05分、
第4駆逐隊の攻撃を受けていた戦艦『ナヴァリン』が、魚雷2本を受けて乗組員の大半とともに沈没。
戦艦『シソイ・ヴェリキー』、装甲巡洋艦『ナヒーモフ』『ウラジミール・モノマフ』の3隻も大破して後に自沈した。
日本側は、水雷艇3隻が沈没。
夜襲は、日付が変わった28日午前2時30分頃には終了した。
28日の夜明けとともに、日本艦隊の残敵掃討が始まった。
午前4時50分、
北上中の第5戦隊が、『ニコライ1世』と思われる戦艦を中心とする5隻の艦影を発見。
報告を受けた東郷長官は、これが残存するバルチック艦隊の主力であると判断、
日本艦隊主力の第1・第2戦隊を現場海域に急行させた。
この間、第3戦隊の防護巡洋艦『千歳』が、単独で航行していたロシア駆逐艦『ベズプリョーチヌイ』と遭遇、
駆逐艦『有明』とともにこれを攻撃し、『ベズプリョーチヌイ』は沈没した。
午前9時30分、
第1・第2戦隊は『ニコライ1世』など5隻を視認できる距離に到達。
敵艦隊の針路を遮る形で包囲すると、
午前10時30分、距離8000から砲撃を開始した。
10分ほどの砲撃が続いた後、
『ニコライ1世』で、ロジェストヴェンスキー中将に代わって艦隊の指揮を執っていたネボガトフ少将は降伏を決意、
「ワレ降伏ス」を表す国際信号旗X・G・Eを掲揚した。
ところが、日本艦隊の砲撃は止むことなく続いたので、
ネボガトフは、白いテーブルクロスで代用した白旗をマストに揚げた。
日本側は、ロシア艦隊が降伏の意思を示していると理解していたが、
東郷長官はまだ「砲撃止め」を命じない。
これを無慈悲と思った秋山参謀が、
「長官、武士の情けです。砲撃を中止してください」と進言すると、
東郷長官は、いつもの薩摩弁で、
「敵は、まだ走っとうじゃなかか」
と言った。
戦時国際法では、降伏する際は機関を停止しなければならなかったが、『ニコライ1世』は依然航行を続けていた。
そのため、東郷長官は攻撃を続行したのだった。
加藤参謀長が、停止信号を出させようとした時、ようやく『ニコライ1世』は停止した。
これを受けて、日本艦隊も攻撃を中止した。
『ニコライ1世』の煙突からのぼる煙が止まるのを見て、東郷長官がつぶやいた。
「これでユッサ (いくさ) は終わりもした・・・」
日本側は、降伏した『ニコライ1世』のほか、
随伴していた戦艦『オリョール』、海防艦『アプラクシン』『セニャーヴィン』、二等巡洋艦『イズムルート』の捕獲にかかった。※注釈1
この時、『イズムルート』は降伏を拒み逃走したが、ウラジオストクに向かう途上、ロシア領内ウラジミール湾で座礁してしまった。
乗組員たちは、やむなく艦を放棄して上陸し、歩いてウラジオストクへ向かった。
『ニコライ1世』座乗のネボガトフ少将は降伏したが、バルチック艦隊はすでに組織的統率を欠いており、
周辺の海域に点在する他の残存艦艇は、白旗を揚げることなく、それぞれの意思で航行を続けていた。
これらに対して日本艦隊は、巡洋艦や駆逐艦の部隊が攻撃または捕獲にあたり、
それは、さながら落武者狩りの様相を呈していた。
そんな中、午後2時15分、
駆逐艦『漣 (さざなみ) 』と『陽炎 (かげろう) 』が、ロシア駆逐艦『ベドウイ』と『グローズヌイ』を発見して追跡を開始、
午後4時45分頃には、射程距離内に収めて砲撃を加えた。
『グローズヌイ』は応戦して『陽炎』の追跡を振り切って逃走したが、
『ベドウイ』は停止して降伏した。
『漣』乗組員が『ベドウイ』艦内を点検したところ、
旗艦『スヴォーロフ』から移乗していたロジェストヴェンスキー長官を見つけた。
艦長室のハンモックに寝かされていた彼は、重傷のため動けない状態だった。
『漣』は、ロジェストヴェンスキー長官を乗せたまま『ベドウイ』を捕獲した。
こうして、28日夜までに、
残っていたバルチック艦隊の艦船も、そのほとんどが、日本側に沈められるか、降伏して捕獲された。
まる2日間にわたった大海戦も、ようやく終わろうとしていた。
ロジェストヴェンスキー長官は、佐世保の海軍病院に移され、手術を受けた。
後日、療養中の彼を東郷長官が見舞いに訪れた。
日頃は寡黙な東郷長官であったが、
その時は、通訳を介して饒舌に敵将の武勇を誉め称えたという。
ロジェストヴェンスキー長官は、
「私は、貴官に敗れたことを悔いてはいません」
と涙を流し、両将は握手を交わした。
対馬沖での海戦の結果、
バルチック艦隊は、
旗艦の戦艦『スヴォーロフ』など戦艦6隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻、その他 海防艦、特務船など5隻、計21隻が沈没 (自沈含む) もしくは擱座 。
また、
戦艦『ニコライ1世』など戦艦2隻、海防艦2隻、駆逐艦1隻、病院船1隻、計6隻が日本側に捕獲 (拿捕) された。
ウラジオストクへたどり着いたのは、
巡洋艦1隻と、『陽炎』の追跡を振り切って逃走した駆逐艦『グローズヌイ』など駆逐艦2隻の計3隻のみだった。
なお、
駆逐艦や輸送船など3隻が清国の上海港に、
巡洋艦3隻がアメリカ領フィリピンのマニラ港に逃げ込んで、それぞれの政府によって抑留されたほか、
輸送船1隻、病院船1隻が、ロシア本国へ帰還した。
ロシア側の人的損害は、戦死者4,830名、捕虜6,106名。
捕虜の中には、ロジェストヴェンスキー中将とネボガトフ少将の2提督が含まれている。
一方の日本艦隊の損害は、水雷艇3隻が沈没、
戦死者117名、負傷者583名であった。
これは、
虎の子の艦隊と将兵1万名を失って壊滅したロシア海軍に比べれば、非常に軽微な損害で、
日本側の歴史的圧勝といえた。
この海戦の大勝利により、
アメリカの仲介もあり、日本はロシアを和平交渉のテーブルに着けることに成功した。
8月に、アメリカ東海岸にあるポーツマス海軍工廠で講和会議が開始され、
9月5日、日本勝利の形で、講和条約が締結された。
日露戦争の勝敗を左右したこの海戦は、
“日本海海戦” ※注釈2 と呼ばれ、
規模の上でも、その意義においても、
空前絶後の大海戦として、名提督東郷平八郎の名とともに、歴史の1ページを飾ったのである。
おわり
【注釈】
1. ネボガトフ少将らロシア側との折衝には、参謀の秋山真之中佐があたった。
2. 日本以外の国では、“対馬沖海戦” “対馬の戦い” (Battle of Tsushima) と呼称されている。
【おことわり】
本ブログ記事 (前後編とも) に使用しました写真は実際の写真のほか、
映画『二百三高地』『日本海大海戦』、スペシャルドラマ『坂の上の雲』などから引用させていただきました。