日本海海戦〈前編〉 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。

20世紀の初頭、
南下政策を続けるロシアと、中国大陸への進出著しい日本は、北東アジアの覇権を巡って真っ向から対立した。
当初、日本政府は外交交渉によって問題を解決しようとしたが、
ロシアは、強大な軍事力を背景に、日本に対する圧力を増していった。

このまま、ロシアの南下を許せば、
満州から朝鮮半島一帯はロシアの勢力下となり、日本にとって重大な脅威となる。
危機感を募らせた日本政府は、
明治37年 (1904年) 2月、御前会議でロシアとの開戦を決定、ここに日露戦争の火蓋が切られた。



戦闘は、南満州から遼東半島にかけての各地で行われたが、
軍の近代化を進めていた日本は、当時、世界最大の軍事大国だったロシアを相手に善戦した。
8月になると、日本陸軍はロシアの東洋における牙城といわれた旅順を攻囲し、4ヵ月半におよぶ猛攻で翌年1月に陥落させた。
さらに、3月の奉天の戦いでも、激戦の末ロシア軍主力を北方に敗走させた。

しかし、ロシアは、自分たちが負けているとは思っていなかった。
日本の10倍ともいわれる兵力を持つロシアは、
シベリア鉄道を使ってヨーロッパロシアの陸軍部隊を満州に増派することも可能であった。
これに対して日本陸軍は、
予備隊まで動員しての死力を尽くした戦いを続けた結果、保有する兵力をほぼ使い果たしていた。

加えて、ロシアには切り札があった。
前年の10月15日、バルト海沿岸のリバウを出港したロシア海軍の第2太平洋艦隊が、日本近海に迫っていたのだ。
日本側が “バルチック艦隊” と呼ぶこの艦隊は、
ロジェストヴェンスキー中将を司令長官とする戦艦、巡洋艦などから成る強力な艦隊で、
日本艦隊を撃滅して日本近海の制海権を握り、
ウラジオストクを拠点として、通商破壊作戦を展開するとみられていた。
これによって、日本本土と大陸の補給線が遮断されれば、日本の勝利は全く望めなくなる。

※バルチック艦隊司令長官
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将

※ロシア海軍 バルチック艦隊旗艦
戦艦『スヴォーロフ』(スワロフ)


地球を半周する大航海を経て、刻々と迫り来るバルチック艦隊。
これに対し日本海軍は、東郷平八郎大将を司令長官とする連合艦隊で迎え撃つ態勢を整えつつあった。

※連合艦隊司令長官
東郷平八郎大将

※日本海軍 連合艦隊旗艦 
戦艦『三笠』


バルチック艦隊がウラジオストクへ向かうため日本海に入るには、
対馬、津軽、宗谷のいずれかの海峡を通過する必要があった。
どの海峡を通るかで、迎撃の艦隊の配置を変えなければならないが、
レーダーも軍事衛星もなかった当時、それがどこかは、直前になるまでわからない。

敵が現れてから現場へ向かったのでは、まったく間に合わない。
かと言って、すべての海峡に艦隊を分散配置すれば、それぞれの戦力が低下し、勝ち目はなくなる。
日本海軍はどの海峡で待ち伏せするべきか、
海軍内部で議論があったが、
東郷長官は、さまざまな状況を分析して、バルチック艦隊は対馬海峡を通ってやって来ると確信していた。

これに裏打ちされたように、
戦艦『三笠』を旗艦とする日本艦隊は、対馬海峡に近い朝鮮半島の鎮海湾に拠点を移していた。
日本側の動員可能な艦艇は、
数でこそ約100隻と、バルチック艦隊を上回っていたが、それは、100トン未満の水雷艇なども含めてのもので、
戦力の中枢となる戦艦は、バルチック艦隊の半数の4隻に過ぎなかった。
この戦力の差をカバーするため、東郷長官が行ったのが、砲撃の精度を極限まで上げることであった。
日本艦隊は、バルチック艦隊を迎え撃つべく、鎮海湾で連日猛訓練を繰り返した。


4月下旬、
アフリカ南端の喜望峰を回ったバルチック艦隊は、インド洋を越えて南シナ海に入り、
フランス領インドシナ (現在のベトナム) のヴァンフォン湾に投錨した。
ここで後続の第3太平洋艦隊と合流すると、
総数38隻となったバルチック艦隊 (第2・第3太平洋艦隊) は、
5月17日、同湾を出て北東に針路を取った。



しかし、
日本側は、その後のバルチック艦隊の足取りが、ようとしてつかめない。
なかなか対馬沖に現れないことから、
バルチック艦隊が津軽海峡か宗谷海峡に向かったのではと疑心暗鬼になり、
日本艦隊を、鎮海湾から北海道の近くに回航させようという意見も出始めた。

そんな中、
明治38年 (1905年) 5月27日
午前4時45分、
九州西方の海上を哨戒中の仮装巡洋艦『信濃丸』※注釈1 から、
「敵艦隊ラシキ煤煙 (煙突の煙) 見ユ」
の無電が発せられた。
この第一報のあとも『信濃丸』からは、
「敵ノ第2艦隊見ユ 地点203」
「敵ハ對州 (対馬) 東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ」
など、バルチック艦隊の動向に関する情報が逐次打電された。

※仮装巡洋艦『信濃丸』(商船時代の写真)


これを受けて、鎮海湾に停泊中の『三笠』艦上にあった東郷長官は、
「全艦隊ただちに出港」を下令。
続いて、戦史に残る有名な電文を大本営に打電した。
「敵艦見ユトノ警報に接シ連合艦隊ハタダチニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
後半の “天気晴朗ナレドモ・・・” の文章は、
先任参謀の秋山真之中佐が書き加えたものである。

※連合艦隊先任参謀 秋山真之中佐
(司馬遼太郎の小説
『坂の上の雲』の登場人物としても有名)


午前6時半、
旗艦『三笠』以下約40隻の日本艦隊主力は、予定順序に従って抜錨、次々に鎮海湾から出撃した。
この時、各艦は余分な石炭を大量に積んだままだった。
これは、もし、バルチック艦隊が津軽海峡方面に現れた場合、回航する際に使用する予備の燃料だったが、
それも、今は必要なくなった。
石炭庫に入り切れず、柳行李に詰められて甲板にまで積み上げられた石炭は、
戦闘が始まれば邪魔になる上、重みで吃水線を数十センチも沈下させ、艦の速度を低下させていた。
そのため、艦隊が外洋に出ると、どの艦も乗組員総出でこの石炭を海中に投棄する作業にかかった。
投棄する量は、艦の大小によって異なるが、
記録にある戦艦『敷島』で、約400トンにのぼった。

※戦艦『敷島』


2~3時間の石炭投棄作業が終わると、
乗組員たちは順番に入浴して体を洗い、そのあと、消毒済みの新しい制服に着替えた。
戦闘で負傷した際、傷の化膿を防ぐためである。
そして、木製の甲板に砂が撒かれた。
これは戦闘中、敵弾が着弾した際の火災を防ぐためと、死傷者の血糊で甲板が滑るのを防ぐためである。
こうして、出撃した連合艦隊は、着々とバルチック艦隊との戦闘準備を整えていった。

午前10時から11時の間に、各艦早めの昼食をとることになった。
『三笠』艦橋に運ばれたメニューは、にぎりめしと梅干、それに牛肉の缶詰が付いていた。
日本海軍の食事は、模範にしていたイギリス海軍に倣って、明治の頃からスープやパン、カレーなども出るハイカラなものだったが、
戦闘態勢にある時は、各員配置場所で食器なしで食べられる簡素なものだった。
なお、他の艦では、縁起をかついで鯛の塩焼きを出したところもあった。

同じ頃、バルチック艦隊では厳かに式典が執り行われていた。
この日はちょうど、ロシア皇帝ニコライ2世と皇后の戴冠記念日だった。
各艦の甲板に整列した将兵たちは、
ロシア正教の作法に則って祈りを捧げ、皇帝を称える歌を合唱した。
そのあとの昼食時、士官たちは士官食堂でシャンパンで乾杯し、
「皇帝陛下万歳!ロシア帝国万歳!」を唱えた。

だが、この荘厳な式典の雰囲気は長くは続かなかった。
ロシア帝国の繁栄を祈っていたロシア軍将兵たちは間もなく、
同じように、祖国の存亡をかけてその行く手にたちはだかる日本艦隊との戦いに翻弄されることになる。



午後1時39分、
敵を求めて南下していた日本艦隊は、南南西の水平線上に、幾条にも煙をたなびかせて航行するバルチック艦隊を視認した。
旗艦『三笠』艦橋の最上階甲板に居並ぶ東郷長官以下、艦長や参謀たちの目には、
バルチック艦隊が、2列と3列の縦隊で進んで来るように見えた。
「ロシアの艦隊は、団子になってやって来よりもしたな」
そう言ったのは、
東郷長官と同じ薩摩出身である艦長の伊地知彦次郎大佐だった。

本来ならば、戦闘に有利な単縦陣で突入してくるのが定石であったが、
あとからバルチック艦隊 (第2太平洋艦隊) に合流した第3太平洋艦隊は、残っていた老朽艦をかき集めた部隊で、ロジェストヴェンスキー長官はこれを足手まといと思っていた。
艦の性能に差があり、乗組員の練度も低いバルチック艦隊は、
日本艦隊との遭遇に備えて次々に隊形を変えているうち、単縦陣ではなく、横にふくらんだ団子状になってしまったようだ。



ほどなく、東郷長官は全軍に「戦闘開始」を下令した。
午後1時55分、
両艦隊の距離が13000 (メートル) の時点で、『三笠』のマストに “Z旗”※注釈2 がへんぽんと翻った。
その意味するところは、
「皇国の興廃コノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」であった。



午後2時05分、
彼我の距離が8000に縮まった時、東郷長官はスッと右手を挙げ、続いてその手を90度の弧を描くように左へ倒した。
 “取り舵一杯” (左回頭) の合図である。
これを受けて、参謀長の加藤友三郎少将は、
吹き付ける海風にかき消されぬ力強い声で、後ろの伊地知艦長に「取り舵一杯!」と伝えた。
続いて伊地知艦長は、伝声管に向かって「取り舵一杯!」と叫び、この命令は操舵室に伝わった。
操舵手が「とーりかーじ」と復唱し、舵輪を大きく素早く左に回す。

今まさに、“東郷ターン” として戦史にその名を残す、日本艦隊の敵前大回頭が開始されようとしていた。

まず、旗艦の『三笠』が回頭を始めた。
波しぶきを浴びながら左に急転回する『三笠』の右舷正面には『スヴォーロフ』以下のロシア戦艦群が進んできている。
この時、“丁字 (ていじ) 戦法” の陣形が組まれつつあった。※注釈3
第1戦隊 (戦艦4、装甲巡洋艦2)、第2戦隊 (装甲巡洋艦6) と一直線の単縦陣で進んでいた日本艦隊主力は、
先頭の『三笠』に続いて、各艦が順次回頭態勢に入った。



バルチック艦隊先頭の旗艦『スヴォーロフ』からこれを見た司令長官のロジェストヴェンスキー中将は、
「トーゴーは気が狂ったか!」と叫んだ。
本来、艦隊同士の海戦では、
縦列を組んだ両軍の艦隊がすれ違いざま、あるいは並走しながら撃ち合うのがオーソドックスな戦い方である。
それが、バルチック艦隊の目前を日本艦隊が急転回し、横っ腹を見せながら横切ろうとしている。
その回頭運動が終わるまでの十数分間、日本艦隊は砲撃をすることがほぼ不可能になる。
無防備のまま、恰好の標的になるに等しい。

しかし、この丁字戦法は以前からある既存の戦法だった。
敵艦隊の進行を遮り、横一例になった自軍の各艦から敵の先頭の艦に攻撃を集中させ、各個撃破を図る戦法である。
     


日本艦隊が敵前回頭を終え、丁字戦法の態勢を作るまで、
バルチック艦隊からの狙い撃ちに持ちこたえられるかが、勝敗の鍵を握っていた。

『三笠』が決死の回頭を終え、2番艦『敷島』以下の各艦がそれに続こうとしていた時、バルチック艦隊各艦は砲火を開いた。



砲撃が集中した『三笠』艦上では、
安全な場所に移るようにとの部下の勧めを断り、東郷長官が、吹きさらしの艦橋最上階甲板に立ち続けていた。
その腰には、開戦時、嘉仁親王 (後の大正天皇) から下賜された鎌倉中期の名刀吉房を加工して造ったサーベルが下げられていた。
東郷長官は、このサーベルを御守り代わりに佩用していた。

いまや、日本という国家の存亡は、
バルチック艦隊を迎え討つべく『三笠』の艦橋に仁王立ちする東郷長官の作戦指揮にかかっていた。


 つづく



【注釈】
1. 仮装巡洋艦は、一般商船に偽装して敵国の商船を攻撃することを主目的にした艦で、砲などを隠蔽して装備している。
『信濃丸』は日本郵船の貨客船を徴用した仮装巡洋艦。

2. 本来の国際信号旗としての意味は「ワレ曳航を要ス」だが、日本海軍は「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ・・・」の意味を持たせていた。

3. 日本艦隊が左に回頭したあと、バルチック艦隊は丁字になるのを避けるように右に回頭して双方並航 (並走) 戦となっているので、東郷ターンは丁字戦法ではないとする説もある。