“雲は焼け 道は乾き” ~『木枯し紋次郎』概論 ② ~ | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。

前回は『木枯し紋次郎』のストーリーのアウトラインをご紹介したが、
今回は、その制作サイドをみてみたい。

『木枯し紋次郎』は、笹沢左保氏の原作で月刊 小説現代に連載されていたものを、ドラマ制作会社 C.A.L が映像化してフジテレビが放送した。
その第1シーズンが放送されたのは1972年1月からだったが、土曜 夜10:30からという放送時間にも関わらず、
翌年の第2シーズンも含め、平均視聴率30%以上という驚異的な視聴率を記録し、紋次郎の決め台詞「あっしには関わりのねえこって」は大流行した。
当時、流行語大賞があれば「あっしには…」は、間違いなく大賞に輝いていただろう。



ここまで大ヒットするとは、制作側も予想していなかったようなのだが、
そのヒットの理由は、なんといっても、従来の股旅物時代劇のイメージを大きく変える斬新な筋書きと映像にあったと思う。
紋次郎のトレードマークの長楊枝や、ヒーローらしからぬ うす汚れた風体の描写は、ほぼ原作通りだが、
ドラマの監督・監修を務めた市川崑監督は、これにさらに独自のアレンジを加えた。

紋次郎の被る三度笠は、実際のものより大きくて深いオリジナルのもので、道中合羽も同様に大きめに出来ている。(楊枝も原作より長い)
これは、時代劇に西部劇のテイストを取り入れたいという市川監督の意向によるもので、当時、一斉を風靡していたマカロニウエスタンを意識した衣裳となっていた。

※右は『夕陽のガンマン』のクリント・イーストウッド。


この大きめの道中合羽を着こなせ、深い三度笠を被っても顔が隠れない役者ということで、長身で顔の長い中村敦夫さんが選ばれたのだと、後年、ご本人が あるトーク番組で語っていた。

この中村敦夫さんの起用も大成功だった。
中村さんは、ニヒルな表情といい原作の紋次郎と年齢や背格好が同じだった一方、
当時、大河ドラマの出演で人気が出始めていたものの、世間一般には、まだ さほど顔が浸透していなかった。
そのため、視聴者は先入観なく、斬新な紋次郎の世界観に入り込むことができた。

『木枯し紋次郎』は、後に違う出演者で映画やスペシャルドラマも作られたが、
私のイメージも、なんといっても “木枯し紋次郎 = 中村敦夫” である。

※中村敦夫さん(左)と市川崑監督(右)。


しかし、ドラマ制作は順風満帆とはいかなかった。
当初、大映京都撮影所に大規模なセットを組んで撮影が行われていたが、2話分を撮り終えたところで大映が倒産したため、そこでは撮影が続けられなくなってしまった。
急きょ、別の撮影施設で撮影が行われたが、間に合わない分は、屋外(野山など)でのロケに切り替えたという。
ところが、これが逆に効を奏し、雄大な自然の中で旅を続ける紋次郎の姿から、
その孤独ながらも たくましい生きざまが、鮮烈に印象づけられた。

加えて、折から国鉄(現 JR)が中心となって展開していた国内旅行客拡大プロジェクト “ディスカバー・ジャパン” を後押しするのにも寄与したといわれている。

※峠の茶店でくつろぐ紋次郎。
(第8話「一里塚に風を断つ」より)


また、第1シーズンの中盤で、中村敦夫さんが撮影中アキレス腱を切るというアクシデントがあり、放送が4週ほど中断する事態となったが、
中村さんは車椅子に乗って上半身だけ演技し、殺陣シーンは代役を立てて行うという手法で、完治するまで なんとか切り抜けた。


ドラマ主題歌の “だれかが風の中で” も大ヒットした。
これは、市川監督の時代劇離れした曲にしたいという意向で、作曲にはフォークグループ 六文銭の小室等さんを、
歌手には “出発(たびだち)の歌” などで六文銭とユニットを組んだこともあり、歌唱力に定評のあった上條恒彦さんを起用した。
また、作詞の和田夏十さんは『木枯し紋次郎』の脚本も手掛けた脚本家で、市川崑監督の奥様でもあった。

そのため、オープニングに流れる “だれかが風の中で” は、市川監督の描く『木枯し紋次郎』のイメージを色濃く反映しているといえた。

※以下、オープニングタイトルバックからの画像集。












ドラマも主題歌も、最初、誰もここまでは期待しなかっただろうというぐらいの大ヒットを収め、社会現象にまでなった『木枯し紋次郎』。
それは、新しいものを求め、冒険をおそれぬ企画を貫いた市川崑監督の意気込みと、
それに応えて、困難に屈することなく制作を進めた若手スタッフや俳優陣が見事に具現化した成果であった。  


【追記】
後の1993年、『帰ってきた木枯し紋次郎』の制作にあたり、そのオープニングを撮ろうと、かつての撮影地にロケハンに向かったスタッフたちは、
20年の年月の流れに一変してしまった風景を目の当たりにしたという。