この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(3) | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(3)

 

  米国大統領トランプがコロナに感染し、さらに劣勢に立たされている。この男の振る舞いを見ていると、思わず吹き出しそうになる。見方によってはなかなか愛嬌があって面白い男である。ジョン・ウエインをコミカルにしたような男だ。

 日本では、日本学術会議会員の任命拒否問題だそうである。堕落論2017以来、何度も指摘しているように、学者、研究者は、それ事態、本質的に堕落した存在なのだ。その堕落者が、政府の庇護のもとに屋上屋の組織にあぐらをかくなどは許されるものではない。即刻、解散すべきである。学者としての功績を評価するのであれば、学者集団80数万人で、別途アカデミーでも作ったらどうだ。堕落者であれば、企業や金持ちをだまして寄付を集めるぐらいお手のものではないか。

 国会委員会で、野党は任命拒否理由を示せと叫ぶが、常識外れの質問しかできない野党の知的レベルの低さと、こんなことしかできないクズ政党などはつぶれてしまえと言いたくなる。「学問の自由を奪う」などの発言には、あきれてものも言えない。さらに、ジャーナリストさえも拒否理由を示せというに至っては、どうにもならん。

 

 そうは言っても、政府が権威の象徴として、「日本学術会議答申」なるものを散々利用してきたことも事実である。答申の中味の正しさについては、誰も検証していない。批判などすれば学者業界の仁義に反することになり、さらに政府批判にもなるから誰もしない。

 聞くところによれば、レジ袋有料化の提言もこの会議によるものだそうだ。レジ袋有料化と科学とどんな関係があるのだ。海洋ゴミの大半は、中国、北朝鮮、韓国あたりが排出していることは、誰もが確信している。排出源を科学的に調査した結果としての提言であるならば、納得できるが、ゴミ排出意識を変える等とうそぶくなどはもってのほかである。最近、ゴミ回収をしている市民活動の報告では、ゴミの量が増えたそうである。レジ袋有料化の影響が出ているのかもしれない。これに輪をかけて、スーパーやコンビニ、あるいは街角からゴミ箱、灰皿が消えている。レジ袋がなくなって、小さなクズゴミが多くなり、ゴミ処理に手間がかかることが要因である。近い将来、この国はゴミであふれ、見た目も低開発国となるに違いない。責任は、日本学術会議、小泉とかいうクズ環境大臣にある。個人が裁判を起こすことはできないが、どこかの小売店でいいから行政訴訟を起こしてくれないだろうか。環境汚染が争点ではない。法律でもなく、国民負担に関わる義務化を強制する通達・規制に対する憲法違反が争点である。こんな悪政を許してはならない。ついでに環境汚染も問題にすれば良い。

 

 即刻、解散すべきである。

 

 落ちるに落ちた学者業界の実態が、これから様々に暴かれることになるだろう。安岡正篤が生きていたら何と言ったろう。この人は、学者業界とは生涯一線を画した。陽明学とは、「知行合一」を基本思想としているのだから、学者は、知の人だけで生涯を終えてはならないのである。

 

 

朱子学と陽明学

 

 儒教哲学をごくおおざっぱに見てきたが、孟子の五倫である父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信は、2000年以上を経た現在においても、全ての日本人の底流に流れている倫理観であり、いかなる宗教的倫理も及ばない。日本人には、宗教観がない、あるいは信仰心がないと言われるが、それは、儒教的思想にたいする批判精神と学問的探究心という日本人特有の気質によって生み出された道徳倫理の確立によるものではないかと考えられる。

 明治維新の精神的原動力は、西欧列強の脅威や先進知識の導入といったことだけではない。江戸時代の200年間にわたり繰り返し行われた思考実験、つまり儒学を受け入れ、批判し、分解し、再構築するという実験の結果に他ならないと考えられるのである。それも、朱子学ではなく、陽明学が批判展開され、我が国特有の道徳倫理学へと変化し、そのことが日本人の思考方法、つまり思想形成に重要な影響を与えたことである。

 

 さて、朱子学と陽明学について、その概要に触れておこう。先にも説明したように、朱子学、陽明学と雖も儒学に変わりはない。ここでいう「学」とは、儒教の解釈の仕方、考え方の一派を指している。朱子学とは、朱熹の解釈であり、陽明学は、王守仁(陽明)の解釈である。

本節においても小島毅と安岡正篤(小島毅「朱子学と陽明学」、安岡正篤(「王陽明」)を参考に、朱子学、陽明学に迫ってみよう。

 朱子学が興るのは、陽明学に遡ること340年前の南宋(1127~1279)と呼ばれる時代である。朱子学・陽明学と並べて標記すると、同じ時代に論じられた二論と思いがちだが、とんでもない。時間差は340年もある。現代日本で比較すれば、340年前は、何と1680年代の元禄時代である。当時の社会・政治思想は、赤穂浪士の討ち入り、巷ではやる心中に代表されるように、武士階級における士道・政道の堕落、近松が著した色恋沙汰という風俗の退廃であり、現代からは想像さえ困難である。しかし、人々の心情だけがエッセンスとして現代の我々に伝わる。

 王陽明が朱子学をどのように受け止めたかは知るよしもないが、この時間の流れ、つまり歴史の受け止め方は、彼の思想に大きく影響したことは疑いようがない。

 

 さて、朱熹は、南宋建国の4年目に生まれ、19歳で科挙試験に合格した。成績はあまりよくなく、一地方官として赴任しており、70歳で死ぬまで10年程度しか任官しておらず、中央への登用はごく僅かであったと言われている。

 儒学は、前述のように孔子、孟子、曹氏のように紀元前500年から秦の始皇帝の焚書坑儒を経て、漢・唐時代の五経を中心とする経学・訓詁学(字句の解釈)として継続していたが、唐時代には、仏教、キリスト教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教など、それこそ世界のあらゆる宗教が唐に集まり、宗教混濁時代と言っても良い時代を迎えていた。

 

 ところで、中国の歴史を見ると、純粋な漢民族による統治などは、漢時代以後には存在しない。中国には、日本の天皇のような万世一系という思想はないし、山鹿素行が言うように、儒教の易姓革命なる思想は我が国にはないのである。易姓革命とは、徳の低い者が天子となるのを良しとせず、徳の高い者が取って代わる、性を易(か)え、天命を革(あらた)めるという儒教の思想である。儒教的治世感では、徳が高ければ、たとえ民族が違っていても為政者になることは一向に差し支えないのである。

 

孔子は、学而の思想だけではなく、古来から伝わる陰陽五行説等を統合整理し、易経等にまとめている。陰陽五行説は、現代では迷信で片付けられるような「説」であるが、孔子以前から中国にある思想であり、いわば中国固有の宗教感であると言って良い。こういった宗教感はそう簡単に無くなるものではなく、現代の共産主義中国にも深く根ざしている。

 

 朱子学は、中国古来の宗教思想である陰陽五行説からインスパイアされた孔子の五経の歴史的解釈学に対する新たな論評であると言える。前回の丸山真男の解説を再掲する。

 「朱子学の形而上学の基礎となったのは周濂渓の太極図説である。これは易の繋辞上伝に「易に太極あり、是れ両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」とあるのに基づいて、之に五行説を結びつけて宇宙万物の生成を説いたもので、その趣旨を要約すると「自然と人間の窮極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合により水火木金土の五行が順次に発生しそこに四季の循環が行われる。陰陽二気は男女として交感し万物を化生するが、その中人は最も秀れた気を稟けたためその霊万物に優れ、就中聖人は全く天地自然と合一している。故に人間道徳はこうした聖人の境地を修得するところに存する」というのであって、宇宙の理法と人間道徳が同じ原理で貫かれていることがここに示されている。」

 

 シンプルに言えば、この世界の存在や運動は一定の法則に従っており、これを「理」という。小島によれば、「理」に関する説明は、どこにもないという。孔子の論語には、「理」を説いた箇所はどこにもない。学習哲学である論語が政治・経済・社会の変化・複雑化とともに、ついに「何々すべき」である「理」へと変化する。つまり、世の中はこうあるべきであり、それが「理」であるというのである。小島は、「理」の解字の「玉のすじめ」を挙げて、「そうあるべきすじめ」を「理」と呼ぶようになったとし、漢唐以前には使われていなかった言葉が普通にかつ常識として使われるようになったとしている。

 中国人にとって、この世界のあらゆる物質の存在や人の存在には一定の法則があるということは常識であって、あえて説明の必要がなかったのである。考えてみれば、説明の仕様がない。宇宙・地球の存在、知的生命体としての人類の存在について、何故存在するかという理屈は説明できないのでアプリオリなものとして、それを「理」と言ってしまえということになる。

 しかし、恐ろしいのはこの後である。人には本来備わった「性」、「本性」があり、それは理だというのだ。これを「性即理」という。つまり説明できないから天の理(当たり前のこと)だとする。そして、全ての人間には平等に本来の性、つまり「本性」が備わっいることが天の理なのである。これとは別に気質の性というものがある。この気質の性により物事の善悪が生じる。気というのは存在やモノのことであり、人が育つ環境、知的環境等の具体的社会などを指している。

 人の本性は理であり、それは天の理なのである。そうすると、「臣下が君主に、子が親に、妻が夫に絶対服従するのは」(小島 毅 朱子学と陽明学より)、性=理であり、無理矢理させているのではないという論理に展開される。つまり、小島が言うように、自然の摂理なのである。これが、「上下定分の理」として社会階層の上下、封建社会の規範として統治機構に組み入れられ、所謂儒教的社会論として統治思想となる。

 朱子学とは、「性即理」であり、陽明学は「心即理」であると説明されるが、朱子学では性と心を区別していた。「中庸」に言う喜怒哀楽の情の発現が心であり、心の状態が理=性にかなっているがどうかが問われるのだと言う。簡単に言えば、感情のままに人に接するのではなく、あらかじめ修養を積んで理=性にかなう心の振る舞いが重要であり、本然の理=性、自然の摂理は「上下定分の理」であるというのである。

 

 これに対して陽明学では、性=心であると主張する。

 

 さて、陽明学の開祖である王陽明は、本名を王守仁という。朱熹没後の270年後に誕生している。朱熹とは違い、名門高官の出であり、かつ科挙も上位合格し、エリート官僚となる。朱子学が、傍流の人物朱熹により説かれ権力にすり寄る御用学であるのに対して、名門貴族出の王陽明により説かれた陽明学が体制批判思想と受け止められているのも何とも皮肉な話ではある。

この違いは、王陽明が性=心であると主張した点にある。王陽明は、そもそも事物に対応した感情を修養によってあらかじめコントロールするなどは不可能であり、机上の空論、観念論に過ぎないと論破した。「事情磨練」(自らの心を正しくするのはその場において訓練する)なのである。孟子の「惻隠之心」を思い出してもらいたい。あれこれと理屈をこねて正しいの正しくないのと言っているようなものは心ではないのである。

 

 朱子学というのは、かなり順序だてた、あるいは論理的な思考過程を要求している一方、陽明学では現実に活動している人間の内面のあり方を要求する。どちらが哲学的かと言えば前者であろう。

 そこで朱子学も陽明学も「格物致知」が重要であると主張するが、「格物」の意味が上記のように異なることになる。朱子学の言う「格物」は、物事の理を窮めることを指し、陽明学では「物を正す」、つまり「心を正しくする」という意味となる。朱子学が体制教学として統治システムに組み入れられるのはこの「格物致知」の思想、心情ではなく理により治める思想であるからである。一方、陽明学は、個々の内なる精神の正しさは良知(致知)の働きであり、それは必然的に正しい物を生み出す、つまり正しい形を求めるという思想である。

 

 このように、朱子学と陽明学を見ると、朱子学に対する陽明学というように比較対比することにはあまり意味がなさそうである。朱子学は、統治の正当性に関する時代理論であり、一方で陽明学は、人が人生を生き抜くための心のありようを説いたものであり、良知による感情と理性の調和によって誠意・正心が得られ、そのことが予定調和としての秩序となるというものである。

 

 思想としては、この両者は別物であると言って良い。朱子学は、現代ではもはや死学である。孟子の五倫に始まり、「上下定分の理」をもってこの思想は行き詰まる。

 

 一方、陽明学は、孟子の四端に始まり心即理を経て現代に生き残り、思想の普遍性を我々に示す。

このことは、論理的に厳密な思考過程によって得られた理論体系というものは必ずしも普遍的なものではないことを示している。王陽明のように、感情と理性に関する分析的な論理展開などはいい加減にしておいても、その主張には普遍性が潜んでいるのである。

 

 ここまで進んで、いよいよ安岡正篤の著作に踏み込むことにしよう。

 

 アメリカの大統領選挙に興味をそそられて、投稿が遅くなってしまった。トランプが負けそうであるが、バイデンで本当に大丈夫だろうか。何か起きそうな気がするが。例えば、第三次世界大戦など。

 

次回に続く。                                2020/11/05