この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(2) | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(2)

 

<大学・中庸>

 

  論語により孔子が説いた儒学に少しだけ触れてみた。孔子は、言葉の定義はおろか断定的な表現もしていない。自分で考えろと言っている。しかし、大学・中庸では、正反対に極めて説教的なもの、つまり教条的なものとなり、いわば儒教の教科書としての性格が強くなるのである。

 

 大学は、漢の武帝(前141年~前88年)による大学設置に関連して、論語、孟子、荀子など、儒学思想の核心を集めて大学教育のために編纂されたと考えられる。「大学」の内容に注目した人は、まず唐の韓愈(768年~824年)である(金谷治訳「大学・中庸」岩波文庫版から)。唐時代の仏教興隆に対抗して儒学を復興させるためであった。その後、250年を経て北宋の司馬光が初めて礼記から抜き出して注釈を加えた。その後二程(程明道、程伊川兄弟)、呂大臨らが大学の解釈本を著している。「大学章句」(漢文は区切りなく連続しているため、区切りやかえりを付けるなどして読みやすくすること)として完成させたのは、朱子学の開祖である朱子である。

 

 大学第一章(一)は、「大学の道は」という言葉で始まり、大学教育の本質を説いている。

「大学之道、在明明徳、・・・・・・・知所先後則近道矣」

「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。・・・・・・先後する所を知れば則ち道に近し。」

 

 最高学府である大学で学ぶべき事は、輝かしい徳を身につけ世の中にさらに輝かせることである。・・・・・・何を先に行い何を後にすべきかを知るならば、それは道に近づいた事になる。

 

 現代の最高学府である大学でこんな教育を受けることができるだろうか。1200年前の大学は、現代の大学とは格が違うのだ。今の大学では教える側の教師に、徳の微塵もなく、金銭欲、名誉欲、地位欲という欲望の塊となった堕落者だけである。

 

 「道」とは、学習能力を高めること、つまり研究心の涵養によって自ずから開けるものであると言っているのである。

 

 第二章(二、三)は、儒教の根本思想である「修己治人」を説いている。第一章(二)は概ね下記のような内容である。

 国を平安にしようとするには、「国を治め」、国を治めるためには「家を和合(斉)させ」、家を和合させるためには「己を修め」、己を修めるためには「心を正し」、心を正しくするためには「意念(思い)を誠実にし」、意を誠にするためには「知を致(きわ)め」、知を致めるためには「物に格(いた)る」のだ。

 

 この論理展開は、「目的展開」とも言われる。目的を達成するためには下位の目的を実施しなければならず、下位の目的はさらに下位の目的というように展開される。国家統治のためには「格物致知」から始めなくてはならないと説く。

 「致知」(知を致(きわ)める)とは、知能を高めるあるいは道徳的判断力を高めるというように訳されるが、学習能力を高めると解釈すると、論語学而の思想と一致する。

 「格物」は、物事の善悪を確かめることであるが、王陽明は「格」を正すと読んでいる。従って、「格物致知」は、学習能力を高めるためには物事の善悪を確かめること、あるいは物事の何が正しいかを考えることが学習能力を高めることになると読めることから、「格物」と「致知」は相互に関連し切り離すことはできないとも考えられる。

 

  「大学」では、「明徳」、「格物」、「致知」に関する明確な説明はないが、後の朱子学、陽明学において最も重要な概念として解釈されることになる。

 

  (三)は、要約すれば、「天子から庶民に至るまで自分自身を良く修めることを根本とし、その根本を知りぬいていることを知のきわみ(致知)という」である。

 

  天下国家を治めるためには、我が身を修めることである(修己治人)と説く。君主が国を治めようとすれば、まず我が身を修め格物致知であらねばならないとすることは理解できるが、一般庶民が修己であることと国家治人とはどのような関係にあるかなどは何の説明もない。

 

  国を良く治めるためには、国民がすべからく修己し、格物致知とならなければならないとすれば、それは理想国家を通り過ぎて空想国家である。人は様々であり、格物致知など国民の隅々にまで啓蒙普及させることなどは不可能である。

  そこで、第二章(一)の有名な言葉が登場する。「小人閑居して不善を為し、至らざる所なし」である。「つまらない凡人は、一人で人目につかぬ所にいると、悪事をはたらいてどんなことでもやってのける」と訳されている。小人とは、徳のない人、身分の低い人から転じてつまらない凡人と訳している。

  古代中国には、奴隷制もあった。プラトンの「国家」では、奴隷制は当たり前であると認識されている。「修己治人」は、国を治めるにたる資格のあるもの、つまり官僚であり、君子たるものに必要なのが「修己治人」・「格物致知」なのである。

  さらに曾子の言葉を借りて、「曾子曰く、おおぜいの目に見つめられている、おおぜいの手に指さされている、だれもいないと思ってはならぬ。ああ、畏れつつしむべきことだ」としている。

論語の解釈において、前述のように、安富は、アダム・スミスの倫理論を取り上げて、「スミスは、全体の利害のために自分を犠牲にすることが「倫理」であり、他人の目にさらされていることへの意識によって「倫理」は生じるとしている」とし、孟子の倫理は、自己の内部からの自発的作動であり、西欧的倫理との違いであるとしている。しかし、曾子(孔子の弟子)では、明らかに周囲の目が自己規律において重要だと説いている。これでは、スミスの言う西欧的倫理と、儒教が説く倫理とにさほど変わりがないのではないかと思ってしまうが、そうではない。

  この曾子の言葉を引用したのは、「君子がうわべをつくろって悪事を蔽い善いところを見せようとするが、そんなものはすぐばれるものだという」ことの説明であり、「心が公明正大であると肉体もおおらかになる。・・そこで君子は必ず自分の意念(おもい)を誠実にするのである」と説いてる。自己内部からの、理屈ぬきの心の作動が君子たるものの根本であるというのである。

 

  これが、東洋と西洋の倫理の違いである。

 

 

  「中庸」という言葉は、人の世の中をうまくわたるためには、なるべく極端に走らず、ほどほどのところを行く方が良いという処世訓として、現代にも生きている。しかし、最近では、平均的な生き方とか、問題の解決方法を選択する場合に、二択ではなく三択の真ん中を選択することを中庸だなどと言っている。「中庸」とは、こういう意味ではない。

  「中庸」の「中」とは、「喜・怒・哀・楽」(この4つの感情に愛悪(お)欲の3つを加えて7つとする場合もある。悪とは「憎しみ」の意味である(小島毅 朱子学と陽明学より))などの感情が動き出す前(未発)の平静な状態を「中」(ちゅう)というのである(「中庸」第一章(二))。「庸」は、「かたよらない」という意味である。人と会うことで感情が動きはじめたら、感情は表面に出てくるが、その場合には節度が必要であり、それを「中庸」では「和」と言っている。小島は、「人倫にもとる行為を知った場合には、むしろ怒らなければならない。ただし、その起こり方が問題なのである」とし、「正しい起こり方や正しい悲しみ方がある」という。正しい感情の表出の仕方が「礼」である。

  さて、「中庸」の第一章(一)は、「天命之謂性、率性之謂道」(天の命ずるをこれ性という。性に率(したが)うをこれ道という)で始まる有名な一文である。「天」とは、宇宙万物の主宰者であり、だれだか何者であるかはわからないが宇宙や全ての生物の運行を司る極めて漠然とした存在であり、まさに抽象的概念そのもと言ってよい。しいて言えば、我々が普通使用している天と同じであるが、「神」ではない。つまり、宇宙万物の創造主でなければ霊的存在でもないのである。

  

  人は、生まれながらにして平等に本性(もちまえ)を持っており、それは「天」が命令として個別の人間に人間としての本質をわりつけたのだというのである。現代に生きる人類の種は「ホモサピエンス」の一種だけであり、遺伝子構造は同じなのであるから、まさに「中庸」の言うとおりなのである。この世に存在する人間という種(ホモサピエンス)は、本質的には全て同質であるという思想である。孟子は、「人間の本性は善」であるという性善説を説いたが、この「中庸」における人間の本性に関する思想的確立があってこそであるとも言えよう。

 

  「中庸」の中間部では、主として孟子の五倫(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)を実践するための「知・仁・勇」の三徳(達徳)が説かれ、後段の「誠」の思想へとつながる。

  「知・仁・勇」の三徳については、「人格の働き(徳)として人に備わるものを、知的・情的・意志的の三者に分けた」という解説がある(金谷訳)。論語の子罕編(第九 三〇)には、三徳(達徳)に関する有名な言葉がある。

  「子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼」

  「子曰く、智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」

 

  「知識が豊かで賢い人は惑わされることがなく、思いやりのある人は憂うことがなく、勇気ある人は物事に懼れない」とでも訳されようか。三徳とは、人ならば誰もが身につけることのできる徳のことである。

中庸の中心的目標は、後半第十章の「誠身有道」(身を誠にするに道あり)から始まる。

  

  「身を誠にするに道あり、善に明らかならざれば、身に誠ならず」であり、「わが身を誠実にするためには、現実の問題に対して何が善(正)かを明確に認識する能力を獲得しなければならない」とでも訳すことができる。

  ここでも論語の学習論と知識論がその基本的骨格をなしている。知性を高めるためには、一にも勉強、二にも勉強なのである。

 

<儒教伝来>

 

  かくして、儒学という哲学は宋の朱熹により中庸として完結することになる。

  飛鳥寧楽時代、あるいはそれ以前かもしれない時代に我が国に輸入された儒教は、論語、孟子、五経であったと思われるが、利用しれたのは五経の方ではなかったかと思われる。儒教の思想・哲学にどれほどの学術的好奇心を抱いていたかはわからない。それよりはむしろ、様々な儀式・儀礼様式、孟子の五倫という倫理的社会構造、役人・官僚の試験問題、占い等々のHow toものに関心があったのではないだろうか。哲学としての儒教は、極めて限られた僅かな特権階級の知識人や僧侶が、趣味として細々と続けていたと考えられるのである。

 

  和辻哲郎のところでも説明したように、儒教が日本に渡来したのは、応神天皇の16年、王仁が論語と千字文をもたらしたのに始まるとされる。応神天皇が実在の人物であるか否かは確かではなく、世界遺産登録に伴い、2011年に応神天皇の陵墓の調査がされているが、結果は公表されていない。王仁天皇の16年は西暦275年であり、中国では三国志時代の末期に当たる。また、中国で千字文が編纂されたのは5世紀末から6世紀初頭と推定されるので、王仁がもたらしたとする年代は、千字文の編纂時期よりも250年も遡ることになる。応神天皇陵とされる陵墓の建立時期が5世紀初頭と推定され、この陵墓が応神天皇陵であることが証明されれば、応神天皇の在位期間は4世紀~5世紀にかけての時代ということになる。それでも、千字文の編纂時期よりは早い時期となるので、千字文に似たような漢字の練習用木簡等がもたらされた可能性はある。いずれにしても、かなり古い時期から論語を読み、学習していたと考えられる。聖徳太子の「以和為貴(和を以て貴しと為す)」も論語から引用された。

 

  日本における平安時代から鎌倉時代にかけての儒教の変遷についての研究は極めて少なく、「従来の儒学が朝廷における博士の漢唐訓詁の学であるか、民間の研究にしてもほとんど寺院内における僧侶の個人的=趣味的研究にとどまっていた」(「丸山真男全集 第1巻」(丸山真男著 岩波書店 1996))と思われる。こういった、趣味的研究が、やや広く公開講座となり、仏教教理(主として禅宗)と妥協するのは、鎌倉時代の宋学の渡来からである。需釈不二が説かれる。仏教への一方的依存から儒教が独立するのは、江戸時代初期に登場する藤原惺窩とその弟子林羅山である。

  

  徳川家康の全面的支援を受けて、儒教=朱子学は、江戸初期に飛躍的発展を遂げる。二程子(程顥・程頤)が発展させた程朱学=朱子学の壮大な体系については、江戸時代から明治時代、あるいは現代においてもその影響がみられることを考えると、朱子学の思想体系をみておく必要がある。

丸山は、朱子学体系の簡単なスケッチをその形而上学(宇宙論)、人生論、実践倫理という順序で述べるとして、次のように解説している。

  

  「朱子学の形而上学の基礎となったのは周濂渓の太極図説である。これは易の繋辞上伝に「易に太極あり、是れ両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」とあるのに基づいて、之に五行説を結びつけて宇宙万物の生成を説いたもので、その趣旨を要約すると「自然と人間の窮極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合により水火木金土の五行が順次に発生しそこに四季の循環が行われる。陰陽二気は男女として交感し万物を化生するが、その中人は最も秀れた気を稟けたためその霊万物に優れ、就中聖人は全く天地自然と合一している。故に人間道徳はこうした聖人の境地を修得するところに存する」というのであって、宇宙の理法と人間道徳が同じ原理で貫かれていることがここに示されている。」

 

  宇宙がビッグバンで誕生し、素粒子がヒックス粒子により減速して質量を確保し、より重い粒子が形成され、それが生命体の発生へと宇宙が進化したことは現代ではほぼ常識となっている。従って太極図説のような宇宙の生成ではない。しかし、朱子は、こういった面倒くさい理屈を抜きにして、「太極はただ是れ万物の理」として、天地万物を超越した窮極的根源であるとした。丸山によれば、「超越性と内在性、実体性と原理性が即自的に(無媒介に)結合されているところに朱子哲学の特徴が見出されるのではなろうか」としている。人は何故人となり、人以外は何故人以外となったか。こうした平等と差別の関係は人間対自然物の間だけではなく、人間相互の間にも存在する。天地万物は悉く「形而上」の理と「形而下」の気の結合により成っている。万物は一理を根源とするいうことで平等であるが、気の作用によって差別相が生ずる。この論法が宇宙論から人生論への橋渡しとなる。

 

  「太極=理は人間に宿って性となる。これが「本然の性」であって生まれながら之を具えない人間はない。人に聖賢暗愚の差別が生じるのは気の作用に基く。気が人間に賦与されて「気質の性」となる。気質の性には清明混濁の差がある。聖人はその稟(う)けた気質が全く透明なので本然の性が残りくまなく顕現する。しかるに通常の人間は多かれ少なかれ混濁した気質の性を持って居りそれから種々の情欲が生れる。この情欲が本然の性を覆(おお)うて之を曇らすところに人間悪が発生する。しかし人間性の善は悪より根源的である。けだし理に基く本然の性-絶対的善-は気に基く気質の性-相対的な善悪-よりも根源的だからである。そこで何人と雖(いえど)も気質の性の混濁を清めれば本然の性に復りうる。そこで次の問題はいかにして気質を改善するかということになり、ここから朱子学の実践的倫理が展開される。

 

  前述の論語の思想とは全く赴きを異にする。論語は、学習過程をその中心思想とし、開かれた学習過程の人のふるまい、態度を仁と呼び、仁なる人を君子とした。それが、人と人との関わりとしての倫理となり、倫理は宇宙観へ駆け上がり、絶対善としての理の概念となり、理は物理の本性であり、物の形を決めるのが気という概念に変化する。

 

  宋学が渡来し朱子学として日本で発展していく時代背景は、疾風怒濤の戦国時代から一転して、漸く固定した秩序と人心の上に成立した近世封建社会であった。朱子学は普遍的な精神態度となるべき充分の素地があった。しかし、徳川幕藩体制が100年も経過すると人はこういった朱子学的な思想に安住しえなくなる。「天理ははたして「本然の」性であろうか。人欲は抑々滅尽しうるか、また滅尽すべきものだろうか。理は一切の事物を規定するほどしかく強力であろうか。窮理が純粋に道徳的実践といえようか。人ははたして皆、聖人たりうるのだろうか。修身斉家はそのまま治国平天下の基礎となりえようか。・・・・・・一の疑惑は他の疑惑を生む」。朱子学は、徂徠学、宣長学において根本的な批判の対象となった。朱子学では、「歴史はなによりも教訓でありかがみであって「名分を正す」ための手段でしかない。そうした基準から離れて歴史的現実の独自的な価値は認められない」からであった。

 

  勿論、この朱子学全盛期である徳川時代前期には、陽明学の中江藤樹、熊沢蕃山、古学の山鹿素行等の思想家が自説を展開して後世に継承されるが、政治思想の主流は政治的イデオロギーにたる朱子学であった。

 

 

  同時代にあたる17世紀、18世紀のヨーロッパ哲学の状況も見ておく必要がある。暗く長い中世の夜明けであり、11世紀、12世紀に始まるスコラ哲学からの脱皮期にあたる。ガリレオ・ガリレイの地動説が異端審判により否定されるが、科学の進歩は確実に宗教的真理の嘘を暴き、「我思う故に我あり」のデカルトによる「理性」による真理の追究という近代哲学へと変貌を果たす。ニュートン力学の発見は、カントの批判哲学に影響を与える。ヨーロッパにおける思惟の体系が宗教哲学から離れ、科学的真理に基づく理性の体系へと変貌している。

 

  徂徠学は、熊沢蕃山の経世論、徳治論を発展させるが、時の封建的諸施策から離れることはできなかった。真淵、宣長学に代表される国学は、日本書紀、古事記の研究を通して中世文学思想、神道へと展開される。西欧における哲学、思想革命あるいは、宗教哲学と科学的真理との対立といった思想の対立には至っていない。しかし、天体科学の飛躍的発展、ニュートン力学の発見等の断片的知見が日本に輸入されていなかったということは考えにくい。壮大な思想体系ではあっても、科学的真理と対立する朱子学の崩壊は、断片的先端知識だけで充分であったと考えられるが、西欧思想の輸入による崩壊ではなく、蕃山-徂徠学による批判という宋学内部からの崩壊であった。

 

  朱子学が徳川時代初期の幕藩体制において盛んになるのは、江戸幕府の正統性の論理の確立のために思想導入の必要性があったためと思われる。さらに儒教的倫理としての天子・諸侯・郷・大夫・士・庶民という身分階級構成(士大夫という)と江戸幕府の士農工商という絶対的身分分離の相似性、士社会の細分化された階級構成等々の社会関係を儒教的イデオロギーで基礎づけるにはうってつけであった。武士支配の理論について、雨森芳洲は次のように述べている。「人に四等あり。曰く士農工商。士以上は心を労し、農以下は力を労して自ら保つのみ。顛倒すれば則ち天下小にしては不平、大にしては乱る。」

武家組織が、大名を頂点とする階層社会へと変貌するとそれまでの恩情主義は求めがたく、ガバナンスの思想的手段としての客観的論理が求められた。俸禄という経済的関係は、家族階級を生み出し、儒教の家族倫理がそのまま導入され、武士階級から農工商へと浸潤するという身分社会の一般的法則が妥当することになる。こういった上位知識階級から下層民へとしたたり落ちる思想の浸潤では、思想の根源的体系が浸潤するのではなく、倫理・情感に直接訴えかける言葉や言葉のもつ感傷的リズム感が網の目をすり抜けて先行的に浸潤する。朱子学の持つ政治的思想よりは原始儒教的用語とその断片的解釈が浸潤したと思われる。朱子学の江戸中期以後の分解過程では、陽明学、原始儒教の古学等、全国に様々な儒教思想家をみることができる。特に、蕃山、徂徠の経世論は、封建制度の頂点にある藩財政の安定化を中心的課題として、小農制思想、勤倹節約思想として、経済制度の中核的存在となる。

 

 

  安岡正篤の日本精神に近づくためには、事前勉強が必要である。論語のいうところの学習こそ知への道、精神を知る道であるので、もう少しおつきあいをいただくことにする。

 

(次回へ続く)

2020/08/31