この国の精神 「日本精神(史)研究」(1)-2 | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

話は逸れるが、過日、桜井よしこさんの外国人記者クラブでの会見(元朝日新聞記者による慰安婦報道名誉毀損訴訟の棄却判決に関する記者会見)のビデオを見ていて、外国人記者の気になる発言があった。桜井よしこさんが韓国と日本との歴史を説明したことに対して、司会の女性外国人記者が桜井さんに、「あなたは歴史家ではありませんよね」と、質問というよりは意見・批判ともとれる発言をしていた。

 

桜井さんは何も反応しなかったが、こういうバカな質問をする輩が日本人だけではなく世界にもいることに驚いた。「あなたは専門家ではありませんよね」という質問が如何にばかげた質問かであるか。最近、評論家等言論人が経済・歴史・社会・科学に関する意見を言うと、「専門家でもないのに」とか、「専門家以外が勝手なことを言って」など、揶揄、批判するものが少なくない。特に、ジャーナリスト、官僚、学者、政治家にその傾向が強い。

 

そもそも、彼らの専門的知識なるものがどれほどのものか、かつて真理だと言われていた原理・法則が嘘であったという例を取り上げれば山ほどある。例えば、「樹木の樹高成長は林木密度とは無関係である」という原理は、つい最近の経過観察結果から「高密度林分では樹高は低くなり、低密度林分では高くなる」ことがわかった。しかし、こんなことは森林を長年観察していれば、今更発見などということもなく、私だって知っていた。自然科学でさえこうなのだから、社会・人文科学においては歴史とともに劇的に変わることさえある。専門分野が細分化されればされるほど全体としての曖昧さの度合いは増してくる。情報のエントロピーである。素人が、評論家や言論人が専門的知識を言論表現において使用する時、そのテーマがアプリオリである場合、あるいは文献、書籍等で公表され異論がない場合では、利用するのは当たり前であり何の支障もない。利用するからには十分に裏をとっていると考えるべきだ。質問する側が知らない事実であるからといって「専門家ですか」などの質問は、質問者として不適格であり、それこそプロとして失格である。

 

ときに、日本と朝鮮半島との関係は、歴史的にどのようなものだったのだろうか。最近の日韓関係の悪化に影響されたわけではないが、ちょうど良い機会だから勉強してみた。が、何と、資料がないのである。日本書紀以前の資料が極めて少ないこと、朝鮮史の資料が少ないこと、中国資料にもほとんど朝鮮半島のことは記録されていないこと等、記録があるのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐、江戸時代の対馬藩雨森芳洲以後なのである。

 

とは言っても、近年の考古学的発見、DNA解析の進歩により、日本人のルーツが解明されつつあるようだ。国立歴史民俗博物館の篠田氏等が行った縄文人、弥生人のDNA解析、特にY染色体の解析から日本人と朝鮮人とはルーツが違う、つまり違う民族だということが分かった。これまでは、日本人のルーツは朝鮮人、つまり渡来人だと言われてきたが嘘だったのだ。朝鮮半島からの渡来人によって縄文人は、北と南に追いやられ、渡来人が弥生人となったというのがこれまでの定説だった。しかし、Y染色体つまり男系DNAの解析では、弥生人は、縄文人と中国系及び満州系渡来人との混血であり、特に縄文人の特徴を多く残していることがわかった。さらに、東北及び沖縄の弥生人は縄文人そのものでありほとんど混血が進まなかったこともわかった。それを裏付けるように、朝鮮半島南部の発掘調査では日本の縄文時代に相当する地層から縄文土器だけが発見されている。縄文時代には、日本の縄文人が朝鮮半島南部に住んでいたが、その後絶滅したと考えられている。現代日本人のルーツは、朝鮮半島からの渡来人ではないのである。

 

朝鮮人のルーツも分かってきた。朝鮮半島の日本渡来の縄文人が絶滅した後、中国漢族(南中国系)が朝鮮半島南部に住み着き(衛氏朝鮮)、そこに満州族が侵入して混じり合ったのが現代朝鮮人のルーツである。日本の弥生時代のことである。弥生時代は西暦200年代まで続くが、魏志倭人伝に記録された240年頃には、日本は朝鮮半島を経て魏に朝貢しており朝鮮半島との関係を示す資料はどこにもない。この時代の朝鮮半島南部は、馬韓、弁韓、辰韓の三韓時代と呼ばれるが、村落程度であり、実態としては中国魏領であったと推測される。

 

鳥取県青谷遺跡から発掘された弥生人は、人骨の年代測定では2世紀頃と推定され、既に中国系のDNA配列が解析されていることから、朝鮮半島経由で中国との交流が始まっていた。

 

古墳時代の390年代には、広開土王碑文として知られる高句麗の記録があり、日本(倭)が百済、新羅に兵を送って日本の領土としたが、その後高句麗に滅ぼされたとされている。百済人が日本人のルーツと言われたこともあったが、これもDNA解析から百済人と日本人は関係がなく、百済人は漢族と満州族との混血であることがわかっている。ということは、百済語が日本語の基だということも疑わしく、日本語が百済語の基になったと考えられ、百済が滅びたことで百済語も失われたとするのが妥当なところだろう。

 

西暦350年頃から680年頃までの330年間、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済が頻繁に戦争し、高句麗が勝って他の2国が負け、負けた国が復活しては戦争してまた負けるを繰り返している。最終的には、唐が朝鮮半島を制圧するが、すぐに朝鮮半島を放棄し、生き残った新羅が統一することになる。唐が朝鮮半島を放棄したのは、農耕地がほとんどなく、金も銀も出ない、つまり利がない貧しい国土のためであった。680年から936年まで新羅が続き、936年から1392年の李王朝まで高麗時代が続く。李王朝は日韓併合の1910年まで続くことになる。

 

朝鮮半島は、今でこそ北部山岳地帯にレアメタルが豊富だと言われるが、歴史的にはほとんど不毛の地域であった。ちなみに、地質・土壌は、花崗岩の風化した砂質土と花崗片麻岩の風化した粘土である。日本では特殊土壌地帯(特土、マサ土)に相当する。森林植生は、極めて貧困であり、クロマツ、アカマツ、モミ、ナラ等であるが、土層厚が浅く立木が曲がる(理由は不明)。日本のように通直なスギ、ヒノキは成立しない。百済時代の発掘棺材はコウヤマキであり、コウヤマキは日本及び済州島以外では絶滅しているので、日本から輸入したものと考えられる。

農業生産には不向きな地域であり、古代の日本及び中国からみれば、交易の中継地としての価値しかなかったと思われる。

 

西暦400年頃に、日本が朝鮮半島南部にまで進出しなければならなかった理由は、どこにも記録がないからわからないが、当時の中国は三国志の時代が終わり、ころころと王朝が変わる混沌とした時代である。そのため中国は、朝鮮半島に関心がなかったというところだろう。日本から出兵した僅かな兵で百済、新羅を制圧できたのだから、国家というには余りにも規模が小さく、せいぜい村落程度ではなかったかと推定される。さらに言えば、この時代、日本という国家は存在せず、日本のどこかの部族が朝鮮半島に進出したと考えられる。日本の進歩的部族からみれば、朝鮮半島の村落間闘争は中国との交易の邪魔になったのではないだろうか。

 

この後、日本は、朝鮮半島とは政治的に一線を画し、中国晋・宋と朝鮮半島南部を経由して直接交流することになる。仁徳天皇の時代である。同時代の中国では、仏教が急速に普及し、書家の王羲之等、文化的進歩の著しい時代である。400年代から500年代にかけての100年間は、ヤマト王権の成長時代と言えるが、500年代初頭には、新羅と関係の深かった九州豪族磐井と任那等朝鮮半島南部を支援するヤマト王権との間で磐井の乱が勃発し、ヤマト王権が勝利する。朝鮮半島南部にヤマト王権の出先機関があったことは間違いなさそうである。

 

この頃には、朝鮮半島南部では仏教が盛んになり、538年百済から仏教が伝来する。ということになっているが、果たして本当か。

 

ところで、儒教が日本に渡来したのは、応神天皇の16年、王仁(中国人)が論語と千字文をもたらしたのに始まるとされる。応神天皇が実在の人物であるか否かは確かではなく、世界遺産登録に伴い、2011年に応神天皇陵墓が調査されているが、結果は公表されていない。応神天皇の16年は西暦275年(日本書紀)とされるが、最近の研究では405年ではないかと言われている。中国で千字文が編纂されたのは5世紀末から6世紀初頭と推定されるので、王仁がもたらしたとする年代は、千字文の編纂時期よりも100年以上も遡ることになる。応神天皇陵とされる陵墓の建立時期が5世紀初頭と推定され、この陵墓が応神天皇陵であることが証明されれば、応神天皇の在位期間は4世紀~5世紀にかけての時代ということになる。それでも、千字文の編纂時期よりは早い時期となるので、千字文に似たような漢字の練習用木簡等がもたらされた可能性はある。いずれにしても、かなり古い時期から論語を読み、学習していたと考えられる。聖徳太子の「以和為貴(和を以て貴しと為す)」も論語から引用されたとも言えよう。

 

漢字が伝来した時期を特定することは困難であるが、弥生時代末期から中国との交流があることを考えると西暦300年から500年頃にかけてかなりの漢字文献が伝来していたことは容易に想像できる。また、儒教も同様にかなり早い時期から入っていたと思われるが、翻訳・理解が可能になったのは500年代に入ってからではないかと思われる。この国は、孔孟思想、老荘思想等の究明にはまだまだ未熟であった。中国で仏教を国教としたのは、南朝・梁(502 - 549年)の武帝の時代であるから、仏教伝来は、断片的には400年代に、仏教思想としては恐らく500年以後のことであろう。

 

前述のように、500年代初頭の磐井の乱において近畿地方を拠点としたヤマト王権が九州豪族を平定して、どうやら日本の部族統一となったようである。また、仏教も朝鮮半島を経て日本に伝来するが、歴史上は百済王が500年代中期に経典、仏像を倭王に献じたとしている。中国本土の仏教事情は、南朝が国教、北朝が弾圧と分かれていた。朝鮮半島では、百済、新羅が仏教に熱心であることからも、百済人の多くが中国南朝出身者であると推定される。

 

このように西暦500年に入ると、日本人の知識層では漢字が常用文字となり、仏教、儒教、道教といった中国思想もまた知識層に広まった。それでも、仏教の排斥勢力(物部氏)と仏教推進派(蘇我氏)の対立は激しく、結果的に物部氏が滅ぶ。物部氏は騎馬民族系あるいは中国北方系・満州族系渡来人と考えられ中国の反仏教系に通じ、蘇我氏は武内宿禰を祖先とすることからヤマト弥生人系と漢族系・朝鮮系の混血と考えられ、仏教系であったとも考えられる。

 

西暦500年代は、日本という国家の成立において極めて重要な時代であったと考えられる。

まず、日本語と文字の対応付けである。つまり漢字の読みを日本語に取り入れたことである。この漢字の読みは、取り入れた時代によって呉音、漢音、唐音と変化する。漢字の読みとは、例えば、言語道断は、呉音では「ごんごどうだん」、漢音では「げんごどうだん」となる。日本に特有の名詞、例えば植物、魚の名前、地名、助詞、形容詞等は、漢字の読みをあてる借字が用いられた。これが万葉仮名の発明である。万葉仮名は400年代末には完成していたとされる。漢字の日本語化、万葉仮名の発明で、中国語文法であるSVO形式を日本語文法のSOV形式に変換することが可能になった。ひらがなが発明されるのは平安時代初期(800年頃)というのが定説であり、万葉仮名が利用されていた期間が250年ぐらいあったことになる。これは少し長すぎると思われるが、万葉集の完成時期を考えると妥当なところであろう。

 

ところで、万葉集の和歌は、いわゆる七五調でできている。これは日本語の基本的リズムではないかと思われる。万葉集の初期の和歌が600年頃であるから、万葉集の編纂とともに洗練され様式化していった。日本語の発音は、韻を踏むようにはできていない。発音数によってリズム感を生み出す。この七五調のリズムについて、井上ひさし(私家版 日本語文法(新潮文庫))は、「2n+1」の原則であると言っている。nは名詞・動詞などの語数である。日本語の名詞・動詞には2語、3語が多く、例えば、カワ、ミズ、ヤマ、カゼ、ウミ、ソラ、ハル、ナツ、アキ、フユ等々。+1は助詞をさしている。日本語は、その特性から必然的に七五調のリズムを有していると言える。必然的に誕生した和歌は、万葉集、古今集そして俳句へと進化する。

 

国家感、政治思想の形成においても、この時代は重要である。近代まで、国家と宗教は一体であった。宗教観は、すなわち国家感である。西暦400年代までは、卑弥呼に始まる卜術(占い)を用いたシャーマニズム、山中他界という祖霊信仰、精霊信仰(アニミズム、霊山信仰)が混在していたと考えられる。この時代になると、儒教、道教、仏教等が断片的な知識として伝来する。シャーマニズムと祖霊信仰が混在し、部族長の祖先を祖霊神として崇め、部族長自身が祖霊神との通信役として部族に君臨するということもあったろう。さらに、中国王朝の変遷についても、三国志等の伝来により知っていたかもしれない。当時の日本は、中国皇帝の正当性が天命によることは知っていたし、中国王朝の栄枯盛衰も知っていたはずである。ヤマト王権の継続には、中国皇帝の天命方式は都合が悪い。儒教、道教、仏教等は問題外である。王権の祖先達を神々とし、祖霊神を祀ることにより王権の直系のみが神となる信仰、つまり、神道の基本様式がこの時代に形成されたと考えることにあまり無理はなさそうである。

神道と言う言葉が記録に登場するのは、日本書紀の用命天皇紀(580年頃)である。神道には教義・経典がない。そのため、仏教、キリスト教等の宗教と比較することは難しい。神道は、古事記、日本書紀に見られる国作り神話によってその体系を確立する。

 

この祖霊神信仰は、日本に限らず地球上のすべての人類に共通に見られるが、日本において神道として権力機構に根付くには、それなりの理由があったのではないかと思われる。縄文弥生人を起源とする日本人と大陸・半島渡来人が融合する、西暦400年から500年にかけて多くの渡来人が入ってくる。このとき、縄文弥生系の、つまり民族系の王権維持の正当性として神道が広まった。それも、男系を原則とするのである。勿論、女帝もいたが、結果的には直系の男子へと継承される。この国は、朝鮮半島とは異なり、外敵に侵入されたことがなく、従って、戦争に負けて男がすべて殺され、女子供が奴隷になるということのなかった国である。混血があったとしても男系では、縄文弥生系民族のDNAは継承され続けるのである。民衆は、民族系の王権が継承されることに納得したのであろう。現代で言えば、難民が流入し、難民の中から大統領が出てくるのは許さないというようなものである。

王権継承の正当性を示す国家宗教神道の発明は、200年以上の時間をかけて、古代日本の知識人が生み出した傑作である。

 

600年代初頭の聖徳太子時代に、行政組織、法律(憲法17箇条)が制定され、聖徳太子の死後、蘇我馬子の専横時代が始まり、645年の蘇我入鹿暗殺へと進むとするのが日本書紀である。ここで重要なのは、500年代から600年代にかけて、天皇派、つまり王権派は、朝鮮出兵(新羅討伐、百済支援)であり、蘇我氏は出兵反対派であることである。蘇我馬子が、崇峻天皇を暗殺したのも朝鮮出兵を止めるためであったとされている。この時、暗殺者に選んだのが九州の豪族であり親新羅派磐井氏の一族であった。征韓論は飛鳥時代からあったのだ。

 

仏教の普及、律令制の推進は、蘇我氏の功績である。しかし、蘇我氏が失敗したのは、天皇の権力を抑える、つまり権力掌握の正当性、大義がなかったことであろう。乙巳の乱により権力を回復した天皇派は、20年後に百済救援のために白村江へ派兵し、唐・新羅の連合軍により全滅することになる。天皇派がなぜ百済だけを支援したかは、よくわかっていない。西暦600年からはじまる遣隋使は、新羅に対する牽制だという説もある。ちなみに遣隋使は、三回~五回程度と言われるが、後半には大型帆船の造船が可能となり隋との直接航路が開設され、朝鮮半島を経由するルートはあえて回避している。白村江の戦いの後も遣唐使は継続するが、新羅との交流は途絶える。665年以後、平安時代を通して、高麗人海賊が九州を襲うという事件が数度あるようだが、鎌倉時代の元寇までの600年間、ほとんど交流の記録は見られない。日本は、朝鮮半島との交流を必要としなかった、つまり、朝鮮半島と関わると一方的な支援だけになり、見返りがない、つまり国益を損なうと考えたのかもしれない。

 

さて、こうやって日本の国家成立の歴史的背景を、日本人ルーツの大陸との関係、中国、朝鮮半島との関係、日本の古代宗教と伝来宗教との関係で見ると、日本国家立国の精神を和辻が言う「祭事の総攬」で片付けることは到底できないのである。

西暦645年を画期として、日本という国家が成立していくが、立国の精神は下記のように整理できるのではないだろうか。

①国家権威(国体)を全て天皇に集中し、その継承は祖霊神信仰を基本とする神道におき、これを国教とする。

②儒教の導入は、官僚組織及び社会秩序維持のための道徳的規範にとどめる。

③霊山信仰・精霊信仰・祖霊信仰等の古代宗教は、伝来宗教である仏教と融合し、これを大衆宗教として定着させる。

④国家権力は、天皇の臣下である官僚の合議と天皇の承認によって行使する。

 

このように整理すると、この時代以後の中国、朝鮮半島との関係も理解できる。

まず、中国との関係は、中国の冊封を受けずに対等の関係を保った。遣唐使も平安時代前期をもって終了し、平清盛の宋との交易まで交流を絶っている。もはや、大陸から導入すべき知識・技術はなくなったのである。朝鮮半島とは、白村江の戦い以後、豊臣秀吉の朝鮮征伐まで交流らしき交流は見られない。

しかし、国家としての交流はないが、地方豪族や商人・僧侶の交流はかなり頻繁にあったようである。政治的な交流はしないが、文化、経済的交流は禁止しなかったということである。

 

 

和辻は、この後、推古時代の仏像について、天平美術様式、万葉集、万葉集と古今和歌集の比較、竹取物語、枕草子、源氏物語、もののあはれ、と飛鳥寧楽時代から平安時代にかけての芸術論を展開する。

この人は、津田左右吉が主張する「大陸文化の模倣論」に対する批判論として、論文をまとめたのかもしれない。和辻は、夏目漱石のところに通った文人の一人であり、口語体論文としてはこの時代の中では、ひときわ優れているが、1920年代の人文系の論文様式には閉口する。事象の説明のために、要点をぼかし修辞文をこれでもかと書き連ねる。この様式は、ヨーロッパの近代人文系論文の特徴であり、日本においても踏襲(模倣)している。明治初期の言論界、福沢諭吉、中江兆民らの著述した漢文系文章は、結論・要点が簡潔明瞭である。

残念ながら、これら和辻の作品から時代精神とは何であったかを読み解くことはできない。つまり、結論がぼけていて理解不能なのである。さらに、美術評論、芸術論としても、人間の美的感性のもつ根源的普遍性、知性・理性による美的認識への言及がないことから、十分なものとは言えない。

しかし、明治、大正期という時代背景を考慮すれば、その時代としては十分に先進的であったことは疑いようのないものである。