この国の精神 「日本精神(史)研究」(1)-1 | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

「日本精神」に関する研究

 

「この国の精神」を論究する前に、これまでに「日本精神」について書かれた文献を見る必要がある。「この国の精神」は、極めて広い領域にわたるが、これから取り上げる「日本精神」とは、時代精神とも言うべきものであり、ある時代を生きた特定の人々の意志、あるいはその時代の国民の一般的意識を指している。一般的とは、平均的と言っても良い。

「日本精神」という表題で最近出版された図書に、長谷川宏氏の「日本精神史(上下、講談社、2015年)」というのがある。まだ、読んではいないが、古代から現代にいたる思想、文化を網羅的に整理している一方、ある時代の精神とは何であったかを論じるというものではなさそうなので、とりあえず除外しておく。

上記の図書を除くと、「日本精神」に正面から挑んだ図書は、下記の3件である。

①日本精神の研究 玄黄社、1924年(大正13年) 安岡 正篤

②日本精神史研究 岩波書店、1926年(昭和元年) 和辻 哲郎

③日本精神研究 文録社、1930年(昭和5年) 大川 周明

 

上記は、出版年度順に示したものであるが、いずれも小論文を再編集したものであり、掲載論文の発表年はかなり早い時期のものも含まれている。三人の著者の中で、大川周明が1886年(明治19年)生まれで三人の中では最も年上、次いで和辻哲郎が1889年(明治22年)生まれ、安岡正篤が一番若く、1898年(明治31年)の生まれである。この三人はいずれも東京帝国大学を卒業しており、和辻哲郎、安岡正篤は旧制一高、大川周明は旧制五高の出身である。

 

彼らの青春時代は、明治維新から40年~50年が経ち、欧米風の法制度、科学技術、宗教、思想・哲学、風俗など、我が国の世相は、急激に変貌した時代である。上記の著者達は、明治19年以後の生まれであり、大川周明、和辻哲郎は日露戦争を、安岡正篤はロシア革命、第一次世界大戦を果敢な思春期で迎えている。

著者達が日本精神を論じる以前の明治維新から日露戦争までの我が国は、西欧の文化・文明の吸収に躍起となった時代である。そういった文明開化の荒波の中で、福沢諭吉、中江兆民らが、現代日本の言論、評論への道を切り開いた。

 

我が国は、日清・日露戦争の二度の勝利体験を経た結果、台湾領有、日韓併合へと突き進む。日本は、何故、西欧列強の植民地政策を真似るかのような政治思想に向かったのだろうか。幕末から明治初期にかけて、東アジアにおける西欧列強の侵略行為を概観しておかなくてはならない。

 

1840年、清国とイギリスの間で有名なアヘン戦争が勃発する。イギリスがインドで作ったアヘンを中国に売りつけて莫大な利益を得ていたことに清国が反発したものだが、清国が負けてイギリスが香港を永久領土とすることになる。

16年後の1856年、第二次アヘン戦争と呼ばれるアロー戦争が勃発する。この時は、イギリス・フランスの連合軍との戦争となり、北京が占領下におかれる。イギリス・フランスの連合軍に加えて、アメリカ・ロシアが機に乗じて参加する。清は、莫大な賠償金を支払わされた。ロシアは調停国であったが、漁夫の利で満州沿海部を領有した。19世紀後半の中国は、イギリス、フランス、アメリカ、ロシア等西欧列強の軍事力の前になすすべもなかった。蒸気船が軍艦に採用され、大量に兵士・兵器の輸送が可能になったこと、近代兵器による破壊力の増強、近代戦術等、西欧列強との戦力差は明らかであった。

 

幕府・雄藩は、こういった中国の惨憺たる状況を把握していたことは確かである。吉田松陰は、「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満州を斬り従えん」(Wikipediaより引用)と説いたそうである。明治初年の征韓論、日露戦争後の台湾領有、日韓併合へと向かう一連の思想的系譜は、吉田松陰に始まるという説がある(秦郁彦)。しかし、同時代には佐藤信淵らの国学者が同様の思想を展開しており、徳川光圀の水戸学、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らの国学思想にもつながる。

 

一方、日本の幕末期の西欧では、マルクス・エンゲルスが資本主義の研究に没頭していた。「経済学批判」、「資本論」第1巻の発表である。「商品・資本の所有者が支配者」となり、「イノベーションが失業者を生み、労働価値は減少し」、そのため賃金は上がらず、「さらなるイノベーションは、剰余価値の減少を招き、利潤率が低下し」、したがって資本主義的生産の限界に達するというのが、資本論の趣旨である。我が国の江戸時代末期の頃である。

 

日本は、日露戦争を契機として、近代資本主義を加速させることになるが、同時代の欧米列強は、欲望の資本主義の真っ只中にあった。産業革命から100年が経過し、科学技術は飛躍的に進歩した。マルクスは、この時代のイノベーションと労働価値の考察から、「手動の製粉機が封建社会を生み、蒸気機関が資本主義を生む」と結論づけた。自由をうたう資本主義に対して平等をうたう社会主義の萌芽である。

 

ところで、共産主義と社会主義とはどこが違うのか。現代では、同義として使用されているが、本来、共産主義とは資産・財産の私的所有を廃し、共有による平等な社会を目指すという思想である。社会主義については、これも諸説あるが、個人主義に対する社会主義という言い方からも、個人の自由を原理とする資本主義・市場経済に対する計画経済、社会保障政策による政治思想をいう。

 

さて、経済理論つまり経済構造及び経済現象の解明は、アダム・スミスの国富論に始まるとされるが、マルクスが指摘したように産業革命というイノベーションがもたらした資本主義経済の発展とともに多くの研究がなされていた。19世紀初頭には、ベンサムが「最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the greatest number 幸福な個人の総計が、社会全体の幸福を示す)」という資本主義経済における道徳原理としての功利主義の正当性を唱える。勿論、この原理には、合成の誤謬、集計の誤謬、幸福の定義等々、現在では様々な問題も指摘されているのだが。

 

明治中期の自由民権運動が一段落し、日露戦争が終結した後、工業生産の近代化が進む中で、共産主義思想が我が国にも湧き起こる。現代の我々が考えると当然の帰結であるが、政治運動、労働運動、農村運動等の社会運動の発端は、思想が先行するのではなく、集団化せざるを得ない逼迫した現実的問題によって発生し、その運動の継続のために思想・精神が必要となるのである。

 

こういった時代背景の中で、日本精神に関する研究が発表された。著者の大川周明、安岡正篤は、右翼あるいは保守思想家であるが、和辻哲郎は、哲学・倫理学、文芸評論といった、政治思想とは一線を画した時代の文化に関する評論家である。人間の精神をどの視点で捉えるか、精神は様々である。

 

 

和辻哲郎 「日本精神史研究」

 

和辻哲郎と言えば、「古寺巡礼(大正8年)」、「風土(昭和10年)」等が著名である。「日本精神史研究」は、「古寺巡礼」の後、「思想」等の雑誌に掲載した論文を再編集して出版された。「古寺巡礼」は、和辻29歳の作品である。私も、奈良に魅せられた一人であり、二年間で十数回も奈良を訪問し歩き回った。古寺建築や仏像の美への興味というよりは、この国の生い立ち、日本人とは何か、1500年前の日本人の痕跡に直接触れてみたいという、言いようのない衝動からであった。

 

「日本精神史研究」は、和辻が30歳代の作品であり、大学の講義録等が基になっている。和辻が最初にもってきた論文は、「飛鳥寧楽時代の政治的理想」(大正11年、1922年)である。

 

この論文が書かれた時代は、第一次世界大戦の戦争特需が終わって景気が低迷し始め、前年には原敬の暗殺事件、翌年には関東大震災が発生している。婦人参政権運動も始まった。これまでの特権階級による政治から、原敬に代表される庶民政治への期待が膨らんだ時期でもあった。

 

大正時代というのは、僅か14年たらずの期間であるが、戦前思想の醸成時期として欠くべからざる時代である。大正5年、河上肇が「貧乏物語」の連載を始め、大正6年(1917年)にはロシア革命が勃発。大正時代とは、我が国における共産主義、社会主義思想の始まりといって良い時代であった。

 

ところで、ヨーロッパの共産主義・社会主義思想家、革命家を支援したのは、ドイツと日本である。日露戦争当時、明石元二郎は、レーニン、トロツキーに接近し、現在の価値で400億円を超える資金を革命工作に投下した。後に、レーニンは、日本の支援に感謝していると記している。

 

和辻は、飛鳥寧楽(奈良)時代、645年の乙巳の乱(大化改新)に始まる天皇制、その後の律令国家の成立を理想国家としてとりあげた。この一文の最初は、政(まつりごと)は祭事からはじまり、「祭事の総攬」(総攬とは束ねること、統括するという意味である)の機運が起こるが、「祭事が支配階級の利益というごときことのためでなく民衆の要求に基づいて起こったとすれば、この祭事の目ざすところが民衆の精神的及び物質的福祉にあったことは疑う余地がない」という。我が国の原始的政治の発端が少数者の権力欲によって起こったものではなく、衆人が天皇の即位を懇願したものだと言う。

 

原始部族において、呪術的・精霊的原始宗教(シャーマニズム、アニミズム)が部族統治の必然的帰結であることは、未開人の文化人類学的考究からも事実である。魏志倭人伝に登場する日本における部族統治がそのようなものであったであろうことは容易に想像できる。しかし、一端、原始的であれ統治の仕組みが発見されると、そこには少数の権力者と多数の衆人という階級的関係が生じることは明らかである。「衆人が天皇の即位を懇願」するとは、「古事記」が示す神話、国作り物語に他ならない。祖霊崇拝とシャーマニズムが融合し、神道へと変化していく時代である。飛鳥寧楽時代の天皇制への移行が民衆の要求によってなされた理想政治だと、和辻は何の疑問も呈することなく断定する。

 

さて、和辻がこの小論文を書いた大正時代は、共産主義、社会主義思想が我が国の底辺で渦巻き、小作農を中心とする農民運動、自由奔放な資本主義に対する労働組合運動が頻発している時代であった。和辻が天皇を中心とする政治こそが民衆の要求に応える政治であり、これこそが日本政治の基本的・伝統的精神であると主張するのは何故か。和辻の論調には、すべてにおいて時の政治に対する批判という姿勢が感ぜられず、悪く言えばおもねりではないかと思われる側面がある。文芸評論とは、時代批判ではなく、美に対する絶対的評価であらねばならぬといった和辻の思想が見え隠れするのである。芸術に絶対なる価値は存在しないのだが。

 

次いで、理想的国家制度として、班田収受の法、律令国家の成立を挙げ、班田収受の法、つまり租税制度を詳細に解説している。班田収受の法とは、中国の制度に習った租税制度であるが、当時の中国では有名無実化している制度である。班田収受の法は、戸籍を設定し、戸当りの粗税額を決定したことである。つまり、一人当り田畑面積を決めれば、1戸当りの粗税収量が決まるというものである。班田収受の法を実行するためには、公地公民であることを原則としなければならない。公地公民という言葉は、日本書紀のどこにもでてこない。公地については、養老律令に見られるが、公民という言葉はない。公地公民とは、歴史学者や社会学者によれば、土地や人民は公共のものであり、権力者が自由にはできないものだと言うが、日本書紀や養老律令のどこにもこのような定義はない。ここでいう「公」とは、「大君、天皇」のことであり、当時の文献からも周知の事実である。つまり、国土と人民はすべて天皇のものだということである。学者というものは時代の要請に応じて、単純な解釈さえ平気でねじ曲げるのだ。

 

班田収受の法の目的は、戸籍制度を徹底させることで、毎年の税収を安定させ、かつ、確実に確保することである。さらに、税に関して地方豪族の介入を許さず、中央集権体制を確立することこそが重要なねらいであったと思われる。

 

ところで、この時代は、朝鮮半島南部に存在した百済朝との関係が極めて深い。一説には、百済語が日本語の起源であるというが、後述するように逆ではないかと考えられる。つまり、百済語の原型が日本語ではないかと思われるが、百済語は失われており、片鱗だけが確認されている。中国唐が勢力を伸ばし、朝鮮半島に進出し、20年後には、有名な白村江の戦いによって百済は崩壊する。財源の確保、国民皆兵制度を確立しておくことは、時の政権において急務であったろう。

 

さて、班田収受の法、律令制は、本当に理想的制度であったのだろうか。一人当りの田畑面積を基に、戸籍にしたがった戸毎に土地を分け与えることが本当に可能だったろうか。これだけ立派な税法を作ったのだから、どこかに当時の戸数等の調査結果が記録されていないかと探してみても、日本書紀はおろかとこにも見当たらない。地方の記録には一部発見されているものもあるが、全国の記録はない。この国のこの時代の人口は、およそ400数十万人と推定されており、戸数にして4050万戸だが、位階階級に応じて配分面積が異なること、既に所有している土地もあることから、再配分するにしても、誰にどの土地を与えるかをどうやって決められるのだろうか。まして、耕作地がどの程度あったかも分からないのだ。

 

すべての土地を収用し、再度配分しなおすという施策を実施することは実現不可能である。とすれば、この法は、税額を決定するためにだけ利用されたと考えるのが妥当なところである。土地を多く所有しているものにとっては都合のよい税制であるが、土地のないものにとっては重税悪政である。恐らく、戸籍のない小作人が多数発生したに違いない。歴史学的には、この時代に難民(律令難民)がかなり発生したという報告もある。日本書紀等にその記録を残さなかったこと等を考えると、実態として、公地公民とはならず、単なる税法であったと考えるところが妥当なところだと思われる。平等な社会とは真逆の、格差が急激に拡大し、大衆が重税に苦しんだ時代ではなかったかと思われるのだ。

 

和辻は、実に丹念にこの班田収受の法の内容を調べている。想像にすぎないが、公地公民制に少しは疑念を抱いていたのかもしれない。しかし、当時の歴史学的知見においても疑義あることは知られていた(津田等)はずである。和辻の結論は、公地公民が実施され、天皇によって土地が配分され、比較的軽い税で国民は豊かであり、理想的国家に近かったとする。

 

和辻は、この論文で何を言いたかったのか。この国の立国の精神は、この理想社会の実現にあると言いたかったのだろうか。この論文は、戦後、和辻の没後に岩波書店から再版されている。岩波文庫版の加藤周一の解説では、「内田義彦は、「作品としての社会科学」といった」と書いている。この本に載っている一連の論文を社会科学と呼べるかどうかには大いに疑問がある。少なくとも科学というには余りにも些末であり、作品と呼ぶにはその芸術性に迫らなければならないからである。

 

古代の政治を理想的なものとし、それを範として民族・国家の精神的基盤を論じる手法は、孔子の時代からあった。孔子は、殷周の理想政治を度々引用する。勿論、悪政をも、である。理想政治を古代や神話に求め、民族精神のあり方を論じる手法は、近世以前の美徳を正義とする政治論であり、理想社会とは何かを構想的、論理的、かつ学術的に論じるのは、産業革命以後の自由を正義とする近代政治論からである。つまり、人類が未来社会を予測し想像し始めたのは僅か300年前のことである。近代科学がもたらした最大の功績は、人間の想像力の飛躍的な成長であると言えないか。

 

和辻は、この小論文の最後に津田左右吉の言、「一種の空想に過ぎないこの極端な共産的制度が長く継続せらるべきものでないことは言うまでもあるまい」を引いて、「というべき見方は、この偉大な歴史的事実を理解したものとは言えない」と断定し、「徹底的に実行せられない法令が、「空想」と呼ばるべきであるならば、多くの私人法人が脱税に苦心せる現在の税法も、また「空想」であろう。が、我々は、現代においてすらも「空想」と呼ばるるごとき津田氏のいわゆる「共産的制度」を、理想的情熱と確信とをもって千余年前に我々の祖先が樹立したという事実の前に目をふさいではならぬ」として締めくくっている。

 

津田にしても、和辻にしても歴史に対して、歴史的事実に対して一定の疑念をもって取り組んではいるようだが、政治思想を歴史的に考究するという立場が欠如していると思われる。飛鳥寧楽時代の税制と大正時代の法制度を同列で比較することなどは言語道断と言わざるを得ない。

 

1400年前の我々の祖先が、高邁な精神をもって平等な社会に向けた理想政治を行ったかどうかは分からないが、少なくとも、それほど単純なものであったとは思えない。権威と権力の分離、天皇の神格化、重税・格差社会、一局集中、厳格な階級・差別社会、小作制等々、この時代が作り出したかたちは、近代まで引き継がれ、第二次世界大戦まで部分的には存在し、現在にその痕跡を残している。

和辻は、1400年も継続することになる世界にも希な君主制がこの時代の大衆精神によってもたらされたと言いたかったのだろうか。和辻思想の根幹に関わる問題である。もう少し、この時代の精神に迫ってみよう。