この国の精神  精神(心)とかたち | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

精神とは何か

 

司馬遼太郎に「この国のかたち」という、紀行文というか、随筆というか、何とも言いがたい作品がある。司馬師匠にあやかってこのタイトルを付けたわけではないが、「この国」の「かたち」というテーマの漠然さに比べれば、「精神」というだけ、テーマは絞り込めていると言えそうである。

 

かなり昔のことだが、某墓園企業が次のような宣伝文句を流していた。

「心はかたちを求め、かたちは心を勧める」

実に名言ではないか。人間が作りだした物とは、物体・ハードだけではなく、生活習慣、経済行為、集団規則、国家、政府、法律等のいわば無形・ソフトなものも含めたモノである。かたちとはモノのことである。かたち・モノは、人間の意識・心が創り出した。人間がモノを創り出すと創り出したモノが心にもっと作れと語りかけるのである。モノと心の相互作用こそが、知性である。司馬師匠の「この国のかたち」は、「この国の精神」が作り出し、「この国のかたち」が「この国の精神」を醸成すると言い換えることもできよう。

 

しかし、精神という言葉は、かなり曖昧で抽象的だ。「精神力」だなどと言えば、「おじさん、今時そんなこと言わないでよ」と小娘にバカにされ、「心の問題」などと言い出そうものなら「私の心がわかると言うの」と言われ、「気合いだ」などと叫べば「レスリングの応援か」と笑い飛ばされる。とかく、「精神」に関わる言葉を使うには「気」を使う時代となった。

 

かくのごとく、「精神」とは、個人の心の働きを意味しているが、それは、意識的なものだけではなく、無意識の中にも存在する。一方では、同じ考え方を持つ人間が集まれば、集団の意志、志、思想となり集団、地域の精神となる。「大和魂」、「アメリカンスピリッツ」等は、国の精神を示す。

 

ところで精神とは何かである。今更であるが、辞典の解説を見るのが手っ取り早い。

百科事典マイペディアでは、「物質あるいは肉体(身体)に対する語で,認識,思考,反省などを行う人間の心的能力」とある。「人間の心的能力」とは何だ。ますますわからなくなるではないか。人間の脳内で行われる知的作用のことなのか。しかし、この説明の後に、「近代以降の西洋哲学では,精神を実体ではなく機能,知的能力ではなく意志・意欲と考える傾向が強い」とある。こういう説明になるともはや無茶苦茶と言わざるを得ない。「実体のない機能」とは何なのだ。意志・意欲は知的能力ではないのか。

 

それでは、平凡社世界大百科事典(第2版)では、どのように説明しているかといえば、「〈心〉と同じ意味にも用いられるが,心が主観的・情緒的で個人の内面にとどまるのに対し,〈精神〉は知性や理念に支えられる高次の心の働きで,個人を超える意味をはらみ,〈民族精神〉〈時代精神〉などと普遍化される」としている。こちらの説明の方が論理的であり、納得がいく。精神とは、「知性や理念に支えられる高次の心の働き」としており、百科事典マイペディアの「知的能力ではない」という説明と全く逆の意味になる。

 

精神とは、心としての意味もあるが、多くの場合は、知的作用が発揮された結果としての想像物をモノとして実現する場合の強い意志、意欲をさすと考えられるのではないだろうか。心の場合には、心が沈むとか、心が悲しみで一杯になるとか、うきうきした心というように個人を取り巻く環境変化が、個人の知覚と認識によって感情脳に与える変化と捉えられる。精神は、あの人は強い精神力の持ち主だというように、周囲の変化に動揺することなく、理性的に振る舞うことができるというように用いられる。精神とは、理性的判断能力そのものを指しているとも言えそうだ。

 

「精神」という漢字は、中国の古い漢語にもあり、元来、エネルギーや力と言った意味である。日本では万葉集に登場するという。心、気力、やる気、霊魂等モノに対する人間の内的な働きや形而上的なものであるとした。古くから、それもかなり古くから、モノに対する人間の思考そのもの、あるいは哀れみや恥、礼儀や善悪の判断(孟子の四端、「孟子巻第三 公孫丑章句上 凡九章 六」)といった感情の働きを指した抽象的概念としての「精神」は、恐らく全人類に共通であると思われる。

 

孟子の四端が出てきたので少しばかり寄り道をしながら「精神」について考えてみよう。孟子は、紀元前372年~289年に実在した人物である。紀元前300年代の中国は、春秋戦国時代の真っ只中であり、小国が乱立している時代である。孟子は、孔子の約100年後に誕生しており、孔子の孫に学んだと言われているが、年代が合わないのでひ孫ぐらいがいいところかもしれない。孔子の教えを孟子が孔孟思想として発展させ儒教を完成させたとも言われるが、一つの思想なり教義の体系というものは一人だけで作り上げられるものではない。百年以上数百年の時間をかけて、それも多数の弟子達の手によって作り上げられ、弟子が弟子を育てるという組織化の過程とともに体系化されると考えるのが歴史解釈の常識である。思想が組織化を図り、組織が思想を勧めるとも言える。

孟子の有名な説話に、孟母三遷というのがある。子供の教育に周囲の環境が影響することを説いた物語である。昔も今も、子供を育てるためには母の知恵が重要であることに変わりは無い。

孟子は、公孫丑の治世についての問いに対する答えの中で、人の心とは何かについて次のように言っている。

無惻隠之心、非人也

無羞悪之心、非人也

無辭譲之心、非人也

無是非之心、非人也

惻隠之心とは、見るに忍びない哀れみの心であり、人は生まれながらにこの心を持っている。羞悪は、悪を恥じること、辭譲は譲りあうこと、是非は善悪の判断であり、この4つの心を四端という。これらの心は、学習と経験によって一層磨きがかかり、仁・義・礼・智の四徳となる。

思想というものは、このように言い切ってしまわなければならぬ。惻隠の情なきものは、人ではない。獣であり、たたき切ってしまえと言わんばかりの迫力である。孔子の論語には、このような言い方はない。仁についての説明はまったくといってない。極めて、短かく、簡潔すぎるぐらいの文章である。

惻隠、羞悪、辭譲、是非の4つの心を共に備えていることが、人間であることの必要十分な条件である。

話はそれるが、最近のニュースに子殺しのニュースの何と多いことか。母親までも父親と一緒になって虐待するという。孟子に言わせれば、こんな奴は人ではない。鬼畜・獣の類いである。母親は、子供を連れて男親の暴力から逃げるのが普通ではないのか。何とも、悲しく、見るに忍びないニュースだ。隣近所のおじさんやおばさんは何をしているのだ。こんな町には住みたくもないと思うがいかがか。

 

ところで、マイケル・サンデルというハーバードの政治哲学者が書いた「これからの正義の話をしよう」という本が数年前に話題になった。NHKがドキュメンタリーとして放送していた。この本の冒頭で、二つの道徳的ジレンマを取り上げ、正義としての道徳的な原理といったものが果たして導き出せるかという問題を提起した。その道徳的ジレンマの一つ目は、暴走する路面電車の例である。この例は、哲学的分析事例として有名である。二股に分かれた線路の左には5人、右には一人がいる。路面電車が暴走して分岐点に到達しようとしている時、あなたらどちらに進むかという問題である。これだけの条件で決められるわけがない。しかし、一人でも多くの人命を救うことを原則とすれば、右に進み一人を殺す方を選択する。この問題を孟子に問えば、簡潔明瞭に、惻隠の心に従い、一人を殺せと言うだろう。

人命救出における選択問題は、度々、小説や映画の題材としても取り上げられる。プライベート・ライアンという、トム・ハンクスとマット・デイモンによる戦争映画があった。マット・デイモン扮する兵士には、男兄弟が何人かいて、彼は末っ子であり、兄たちが皆戦士したため、一人残ったマット・デイモンをアメリカに残った母親の元に返すべくマット・デイモンの救出命令が下される。そこで、前線にいるマット・デイモンを救出すべくトム・ハンクス扮するミラー大尉は7~8人の部下と共に前線へ向かうのだが、最後にはドイツ軍の侵攻を止めるためにマット・デイモンだけを残してすべて死んでしまうという物語である。一人の命を救うために8人もの兵士を送り出すという設定は、まさに道徳的ジレンマそのものである。救出途中で戦死者がでるが、結末は、たまたまドイツ軍の侵攻に合って、マット・デイモンを残して全滅するということになっている。いずれにしても、一人の命を救うために、8人が犠牲になったが、結果としてはドイツ軍の侵攻を止め、マット・デイモンも自分だけ生き延びるわけにはいかないとして、共に戦ったことで、「一人でも多くの人命を救う」という道徳原理は成立しなかったことになる。

西欧哲学に、孟子の「惻隠の心」に相当する精神原理を問うたものは一つとしてない。強いて挙げるならば、愛を説いたキリスト教倫理ぐらいのものだろう。倫理・道徳といっても、その基本原理は、西欧と東洋で天と地ほどの差がある。

 

気、根性、魂

 

精神と同じような意味を持つ「気」という言葉がある。例えば、気になる、気をつける、気を使う、気が付く、気に障る、気が散る、気合い、気力等々である。また、中国の武道、中国医学では、気功といった体内を巡る気の循環を重要視する。

根性は、言わずと知れた体育会系の基本原理である。根性とは、人が生まれながらに持っている性質というのが本来の意味であるが、元々は、仏教用語の機根に由来し、仏の教えを理解する力のことを指しているらしい。気力とほぼ同じ意味に使われるが、「ど根性」、「根性の曲がった奴」、「島国根性」、「野次馬根性」のように用いられる。

魂は、霊魂のことである。肉体は滅びても、霊魂は存在するというように、宗教的、形而上的にはその存在が信じられている。一方では、「大和魂」のように精神と同じ意味で用いられる。

 

精神、心に関する言葉は、実に多くかつその意味も多様である。精神、心、気、根性、魂等、どのような言葉でも良いのだが、モノと人の思考、思惟の循環に着目して、現代のこの国の精神について考えてみたい。

 

何故、今、精神なのか

 

今や、この国の社会は、高齢化が進み、子供の数が少なく、小学生から英会話だプログラムだとバカ丸出しの教育にとりつかれ、一人当りGDPは落ちるに落ち、それでいて国民は何となく豊かであると思い込み、ちまたにはスマホ中毒患者があふれかえり、30過ぎても職に就かず、子供を作れば虐待し、高齢者が車で徘徊し人を殺す。

今や、この国の政治は、社会保険・年金制度の維持に汲汲とし、70歳まで働けといい、貿易戦争で震え上がり、自国を守る軍隊さえ憲法に明示できず、与党は官僚統制さえままならず、制度疲労のほころびの修復にやっきとなり、野党は国内・国際問題の本質さえ問えず、財政赤字には見て見ぬふりをし消費税さえ上げることができない。

今や、この国の経済は、共産主義国家のリスクに目をつむり、利に走って慌てふためき、経営者は貯め込んだ金の使い方も知らず、労働者は保身に走り給与を上げろと叫ぶことさえできず、日銀は紙くずとなるであろう国債を買い込み、産業界はイノベーションが今にも起こると嘘をつき、経産省は太陽光発電だ再生可能エネルギーだと国民をだまして金をとり、禁煙・嫌煙だと叫ぶかたわらでスマホ中毒患者を山ほど作り出し、国家は金で動くとたかをくくる。

今や、この国の科学技術は、アジア最大のノーベル賞受賞国家だと奢り、大学は教養なき専門ばかの学者であふれかえり、学生はバカ高い授業料に文句も言わず、企業は技術開発には投資せず、科学者は地球温暖化に沈黙する。

 

この国の今のかたちを、社会、経済、政治、科学といったジャンルで皮肉るとこのようなものかもしれない。このような状況は、何も日本に限ったことではなく、先進国に共通である。しかし、世界では、国民が声を上げている。フランス、ブレグジット、極右の政治活動(オルタナ)、白人至上主義、香港の大規模デモ等々。しかし、この国には、未だその兆しさえ見えぬ。

今、ここにあるかたちは、今の我々と少し前の親たちと、もっと昔の先祖達の精神が作り出したモノである。時代時代の国のかたちは、時代時代の国民の精神が作り出し、かたちと精神の循環により文化文明が形成される。

 

政治・経済・社会の様々な問題、つまり現代のこの国のかたちの歪みを問うには、この国のかたちを作り出した根源であるこの国の精神を問わなければならない。

何はともあれ、この国の精神に迫った文献を追ってみることにする。

 

                                                                                                                     2019年6月17日