堕落論2018  恐怖の思想-地球温暖化の恐怖 2- | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

                             堕落論2018  恐怖の思想-地球温暖化の恐怖 2-
                                                                                    秋 隆三
<ティッピング・ポイントって何だ?>
 
  インターネットで最近の地球温暖化問題を見てみると、盛んにティッピング・ポイントという言葉が出てくる。臨界点のように訳されているが、後戻りできない点のことである。どうも、元々は、マーケッティング用語として使用されたようである。辞書によれば「tip」にingを付けた言葉である。「~から転じる」という意味らしい。今まで売れなかった本が急に売れ出すというような使い方をする。だからといって後戻りできなくなる点を指してはいない。急に売れ出した本も、時間がたてば売れない状態になる。
 こういう言葉を、常識のない科学者が、受けを狙って使うと、温暖化を止められなくなる臨界点、ティッピングポイントだということになる。今や、ティッピング・ポイントは、人類生存の恐怖の言葉と化した。
 二酸化炭素等の温暖化ガスの濃度が高くなり、ある一定値(ティッピング・ポイント:転換点)を超えると、地球の熱放射(宇宙に熱を放射する)の量が減少して、いわば魔法瓶の中の状態になって地球全体が高温のままの状態になる。この状態になると、太陽熱の一部を吸収しつづけることになり、地球の高温化が加速するというものである。人為的な二酸化炭素排出量を止めない限り、大気中の二酸化炭素濃度は上昇すると前回にも説明した。海水・森林が二酸化炭素を吸収する。しかし、森林は、二酸化炭素の吸収と排出については、プラスマイナス・ゼロなので長期的には対象外である。勿論、育成の仕方と200年ほどの期間内では、若干であるがプラスに働くかもしれないが、長期的循環の条件では、二酸化炭素の吸収源とはなりえない。従って、海水の二酸化炭素吸収力が頼りである。温暖化によって海水温が高くなるとともに、吸収力が低下し、限界に近づいているというのが、温暖化加速説・ティッピング・ポイント説の根拠となっているらしい。
 
 こういうこともありうるかもしれない。しかし、考えてもみろ。地球の歴史では、35億年前から25億年前の間に、シアノバクテリアが海水中で爆発的に増加し、光合成の働きによって膨大な酸素を放出した。シアノバクテリアは、現代でも大量に生存しており、光合成を続けている。爆発的に増加した原因は、海水中に二酸化炭素が大量にあったことを示している。
 ところで、植物には葉緑体があり、光と二酸化炭素から有機物と酸素を作る。小学校高学年で学習するから、光合成を知らないと言う人は希であろう。ところがである、この光合成というものがどのようななメカニズムなのか、どのような化学反応であるかは、つい最近までわからなかったのである。光合成について調べると、現象の説明か、せいぜい光による電気的反応程度の説明しかない。2017年、理化学研究所のSACLA(X線自由電子レーザー施設:高性能の電子顕微鏡みたいなもの)が、葉緑体中の光合成タンパク質の中に「ゆがんだイス」と呼ばれる触媒機能を持つ分子構造を特定した。水分子を分解して酸素を放出するのである。水の電気分解に似たようなものであるが、分解された水素は、二酸化炭素と化学反応を起こして別の有機物(例えばセルロース等)を生成するらしい。これだけ科学技術が発達しても、誰もが知っている光合成さえ人工的には出来なかったのだ。人工光合成システムが可能になれば、二酸化炭素の固定だけではなく、水素の生成も可能になる。エネルギー問題、二酸化炭素問題は一挙に解決する。とはいかないが、方向性を見いだすことはできそうだ。
 二酸化炭素の排出量抑制、COPだコップだと叫び、森林破壊だ消滅だ、森林が二酸化炭素の吸収源だとバカの一つ覚えのように叫ぶ世界の政府、環境保護団体なるものは、一体全体、何をしているのだ。毎年、何だかんだと集まって金を使い、結局、何も決まらない約束、決まっても守るこのできない約束を机上で作るだけである。どうせ金を使うならこういうところに金を使えと言いたくなるがいかがだろう。エネルギーにしてもそうだ。代替エネルギーだといって、自然災害ですぐに壊れ、耐久性能の低い、ちゃちなソーラーパネルや風力発電を山ほど作り、いくら作っても化石燃料の使用量は減るどころか増えている。さらに、電気自動車だそうだ。都市の大気は少しは改善されるだろうが、エネルギー使用量は増えるばかりだ。
 話が逸れて、愚痴になってしまった。愚痴の部分も、この「地球温暖化の恐怖」で取り上げてみたいが、”ティッピング・ポイント”に話を戻そう。
  さて、ティッピング・ポイントのもう一つの論点は、温暖化が進むと、北極、南極、グリーンランドの氷が溶け、深層海流の流れが止まって気候変動が進む、それも極端に温暖化するというものである。地球の歴史の中では、1万2千年前頃に深層海流が止まったことが知られている。「ヤンガードリアス」期と呼ばれる北大西洋で起こった気候変動である。2万年前の氷河期が終わり温暖化に向かった頃に、ヨーロッパやグリーンランドの氷床が溶けて大量に大西洋に真水が流れ込み、北大西洋の深層海流が止まった。それでは温暖化したかというとそうではなく、北半球全体が、一時的な小氷期になったのだ。それも温暖な状態から寒い状態に移行するまでに数十年という短期間で移行したという。この後、寒冷化は、1300年ぐらい続いたらしい。深層海流が長期的な気候の安定化に大きく影響していることは、わかってきている。深層海流の周期は、千数百年だから、「ヤンガードリアス」期のように、一端止まると、千数百年は気候が安定しなくなる。特に、北半球の高緯度地域は、暖かい海流が北極に移動しなくなるので寒冷化する。しかし、深層海流のメカニズムは、北極や南極の氷塊だけではなく、潮汐という月と地球と太陽に関係があることは明らかだ。温暖化が進むと深層海流が止まり、急速に地球は寒冷化すると考える方が正しいではないか。北極海や、グリーンランドの氷が溶けるのは地球を冷やそうとしているのだ。温暖化が止められなくなるという根拠にはならない。二酸化炭素濃度が高くなり、温暖化が止められなくなり、地球が金星のようになって、生命体は消滅する、それも100年後だなどの風説は、ノストラダムスの大予言みたいな話で、デマもいいところということになる。むしろ、寒冷化を心配しなくてはならない。
 ところで、ティッピング・ポイントはどうなったのだ。深層海流が止まることで、赤道付近で熱を吸収した海水の行き場所がなくなるから、赤道付近は高熱になるが、極に近い高緯度付近は、深層海流が止まったことで海水からの熱放射がなくなり、極端に寒くなる。高緯度付近の大気が冷えて収縮し、部分的に大気層が薄くなることが寒冷化の原因だ。赤道付近の高温状態も長くは続かない。極めて短期間で冷やされて、地球全体が寒冷化する。
 以上のように推測すると、ティッピング・ポイントなどはないと考える方が妥当である。「ヤンガードリアス」期の極地域の氷が溶けたのは、二酸化炭素が原因かどうかはわかってはいない。しかし、化石等から大規模な火災が発生したことは確からしいから、二酸化炭素濃度も急激に上昇したことは推測できる。彗星、隕石が衝突し、粉塵により太陽熱が遮られ寒冷化したという説もあるが、最近では否定的である。
 仮に、今世紀末に二酸化炭素濃度が極めて高くなり、地球の平均気温が現在よりも2℃以上上昇し、極の氷が溶けて「ヤンガードリアス」が発生したとすれば、22世紀初頭の数十年間で地球は急激に寒冷化する。勿論、グリーンランドや南極の陸地の氷床がとけるのだから海面上昇は避けられない。しかし、それも一時的である。寒冷化が始まると、北半球の仙台ぐらいの緯度地帯の山岳部は、全て氷河に覆われ、海面は急激に後退するだろう。「ヤンガードリアス」期のイギリスの年平均気温が-5℃というから、東京の年平均気温は0℃ぐらいであろう。とても生活できる環境ではない。およそ、日本全体での農業生産は困難となり、現在のような1億人を超える人口を支える等は不可能である。日本と同じような状態が北半球全体で起こるから、現在の先進国は全て消滅する。寒冷化は、恐怖の時代を作り出す。さて、22世紀初頭に、化石燃料はあるだろうか。寒冷化して、人口は112億人に達し、食料がなくエネルギーもない状態で、どうやって人類が生存できるだろうか。温暖化問題ではなく、寒冷化問題の方が人類にとっては恐怖ではないのか。
 
<化石燃料は枯渇するのか?>
 
 ティッピング・ポイントは、学者やジャーナリズムが、人々の好奇心をかき立てるために、ウケを狙ってでっちあげたのではないかと推測できる。それでは、化石燃料枯渇の恐怖についてはどうだろう。地球上の資源が有限であることは当たり前であるから、化石燃料だって有限である。これは、誰が考えても正しい。だとすれば、化石燃料は枯渇しないという主張は嘘である。いつかは枯渇するのだ。それが50年後なのか500年後なのか、それとも5000年後なのか誰もわからないということである。実は、地球の資源が有限であるということを人々が認識し始めたのは、つい最近のことである。
 「宇宙船地球号」という言葉は、19世紀のアメリカ合衆国の政治経済学者、ヘンリー・ジョージがその著書「進歩と貧困(Progress and Poverty)」(1879年)のなかで登場させた。このときの「宇宙船地球号」は、汲めどもつきぬ「未亡人の壺」(旧約聖書)であり、資源は無限に存在すると考えた。それから90年後には、バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)が「宇宙船地球号操縦マニュアル」(Operating manual for Spaceship Earth 1963)により資源は有限にしか存在しないことを主張する。K.E.ボールディングは、「来るべき宇宙線地球号の経済学」において、開いた経済と閉じた経済という極端な経済モデルにより、社会的、経済的、倫理的価値の逆転を論じた。
  100年前と現在とでは、地球資源の有限性に対する考え方は正反対である。わずか1世紀前には、地球の資源は無限に存在すると考えられていたのだ。
 ところで、化石燃料の埋蔵資源量がどのくらいあるかについて正確にわかっているのだろうか。図-1は、エネルギー資源の確認埋蔵量を可採年数で表したものである。確認埋蔵量とは、現段階の技術と価格で経済的に見合う採取可能な資源量のことであり、可採埋蔵量とも言われる。可採年数は、確認埋蔵量をその年の生産量で割った年数である。図-1のグラフでは、石油は51年である。それでは、51年後には石油がなくなるのかと言えばそういうことはない。確認埋蔵量は、1970年代には40年程度であった。その後もしばらく40年が変わらず、2010年頃から50年と言うようになった。まあ、とりあえずいい加減で適当なのである。石油資源量の統計は、森林資源統計のように国家的統計ではない。世界の生産量の上位は、米国、サウジアラビア、ロシアの三国である。米国は何らかの資源調査を行っているが、その他の国では、企業が管理しており、資源探査も企業が行っているので、どのくらいの資源量があるかは、企業機密となっているため、本当のところはわからないというのが実態である。とりあえず、メジャーと呼ばれる石油会社の情報を基に、現在の可採可能な資源量を集計すると図-1のようになるということである。
                        図-1 エネルギー資源の可採年数
 
 石油資源の探査には、莫大な費用がかかるそうである。そのため、探査しても予想どおりの埋蔵量が確保できなければ探査費用倒れで倒産に追い込まれることもある。可採年数がつい最近まで40年程度だったが、50年以上となったのは、オイルサンドやオイルシェールも統計に含めることにしたためである。
 地球そのものが鉄と炭素で出来ているみたいなものだから、生命体が鉄と炭素だけで生きていけるならば、資源はほぼ無尽蔵といっても良い。石油は、炭素と水素の化合物である炭化水素と呼ばれる物質である。炭素の数が1個の場合はメタン、2個になればエタン、3個ではプロパンとなる。炭素元素の結びつき方によって炭化水素の特性が変化する。石油は、炭素の数が5個以上10個程度までを言うらしい。炭素は、炭素としても存在するが、二酸化炭素や有機物・無機物の形でほぼ無尽蔵にある。しかし、水素は自然の状態では存在しない。水や有機物の中に存在する。だから、炭素と水素が含まれる有機物から石油が作られるという説は、合理的で説得力がある。有機物起源による石油生成説のことを石油有機起源説というらしい。油田地域は、大陸移動前の太古の大陸の海岸線に多く分布しており、油田からは生物化石が発見されていることから、この有機起源説が有力な仮説であった。
 これに対して、最近、石油無機起源説が有力となってきた。46億年前、地球誕生頃の膨大なメタンガスが地球内部に閉じ込められ、それが基岩部の割れ目からしみだして地下数千mで、地熱と地圧で石油に変化したというものである。これ以外にも岩石と水から石油ガスが作られることは実験的にも確かめられている。2005年に文藝春秋の日本の論点で取り上げられて話題となった。調べてみると、1870年代のメンデレーエフが始まりらしいから、かなり古くからあった仮説である。この仮説が真実であるとすれば、石油もほぼ無尽蔵に存在することになる。要は、探査・採掘技術の如何に関わることになる。
 石油生成の起源は、恐らく両方考えられるのだろう。2~3億年前の有機物を起源とする石油と、地球創成に関わるメタンガスを起源とする石油、あるいはこれらの要因が重なって生成された石油である。石油無機起源説の正しさが示されれば、石油あるいは石油ガスは、ほぼ無尽蔵と考えられる。
 石油の埋蔵量は、正確にはわからないのである。まあ、50年程度はあるということさえ確かであれば、「後は野となれ山となれ」である。今まで、何とかなってきたのだから、その先もあまり心配する必要はないということだろう。しかし、将来のエネルギー状況がこれほどあやふやな状況で、人類70億人の経済活動がよく営めるものだと考え込んでしまう。50年後に石油がなくなることが確実だとすれば、石油価格は暴騰するだろう。それが100年後であっても枯渇することが確実なら、希少性の原理から買い占めなどで高騰することは間違いない。庶民の生活で石油を消費するなどはとても考えられない価格となる。つまり、枯渇はしないと誰もが予想しているから、価格は安定しているのである。かつて原油価格が高騰した時代があった。現在も上昇しているようだが。第一次、第二次オイルショック(昭和48年、54年)の日本では、トイレットペーパーさえスーパーから消えた。その後、世界各地で油田開発が進み、ソ連の崩壊とともにロシア石油が、テキサス油田の枯渇に変わるオイルシェールの開発、カナダのオイルサンド、ベネズエラ、アフリカと次々に石油資源開発が進んだこともあって、比較的低価格で安定したが、2003年のイラク戦争を機に原油価格は上昇し、1バレル140ドルを超える価格を付けた。2008年のリーマンショックで30ドル台まで急落した。しかし、その後再上昇したが2015年以後は、比較的安定していた。先物市場と言っても、何十年も先の資源量の需給状況ではない、今よりもほんの少し先の、ほぼ現実といってよい程度の需給状況で動く価格変動である。石油資源の埋蔵量とは無関係と言って良い。
 石油市場にとっては、石油資源の可採埋蔵量が、毎年毎年、継続的に40年~50年と評価されていることが重要なのである。この可採埋蔵量の年数が短くなると、現実の需給状況で存在する市場が機能しなくなるのである。
 人間の知性というか精神というものは、何ともはかりがたいものではないか。現代社会にとって必要不可欠な基礎的資源である石油の埋蔵量が、40年~50年はもつらしいということがどうも確からしいと誰もが認識すれば、それ以上先のことは心配しないのである。もっぱら目先の利益のためだけの活動に終始する。それ以上先のことは、そのときに生きている人間が考えれば良いのだ。「後は野となれ山となれ」という思想は、人間存在の真理をついているのだ。それは、一方では、資本主義の真理であると言えなくはない。
 マイクル・クライトンは、「資源枯渇が目前に迫っていると信じている人は少しおかしい・・・」と言う。おかしいのは、資源枯渇教の信者ではなく、当面は資源枯渇がないと信じている市場経済にある。石油資源の市場が、市場を形成する企業、政府が、「現在の需給状況をみると、当面、資源枯渇にはならない」ということを相互に確信しあっているから市場が成立しているのである。市場経済というのは、たかだかこの程度のものである。市場経済は、目先の利益の追求だけに存在する。安定した市場とは、せいぜい40~50年程度の安定供給を前提条件として成立するのだ。考えてみると、人が成人し、家族を持ってから死ぬまでの人生期間とほぼ同じ年数ではないか。ある時代に生きている多くの人々が、死ぬまでに資源枯渇がなければ全てよしなのである。その後は、どうなろうと知ったことではない。
 
<石油資源枯渇問題から見えてくる現実社会とは?>
 
 石油資源は、当面は枯渇しない。当面とは、100年か? 200年か? いずれにしても数千年も先のことではない。技術的・経済的限界に近づいていく。埋蔵量自体は、ほぼ無限であったとしても、探査・採掘可能な技術を開発できないのである。しかし、石油資源の市場では、可採可能な埋蔵量は40年から50年と評価し続ける。石油資源が世界の主要なエネルギー資源であるかぎり、石油会社や産油国は、確認埋蔵量を減らすことはない。そして、Xdayが突然訪れる。テキサスの油田が枯渇したと同じようなことが世界の産油国で発生する。
 話は変わるが、イギリス、ドイツ、フランスは、2040年までに完全に電気自動車への転換を進めるそうだ。といっても、EVだけではなく、HV、PHVも含めて電気自動車と言っているから、ハイブリッド車が対象とみて良い。HV、PHVにはガソリンエンジンが搭載されているから、排気ガスがなくなるわけではない。仮に、完全に電気自動車(EV)に転換すると、電力供給量を今の50%以上にしなければならないという試算も出ている。安定した電力供給を前提とすると、太陽光、風力発電では無理だそうで、火力発電所と送電線網の追加が必要になるらしい。その投資額が、イギリスで10兆円以上、日本ならば50兆円以上と推定されるという。何ともばかばかしい話だ。石油資源の消費量が減ることはなさそうである。電気自動車が、科学技術の進歩の結果だと考える愚かしさと、それを利用しようとする政治と経済こそが、地球温暖化に潜む恐怖である。
 地球温暖化問題には、石油資源経済というグローバルな経済システム、国益の名の下にうごめく世界政治、エネルギー消費から逃れられない自動車産業、増え続ける電力需要を抱えた電力企業、等々、我々の日常とかけ離れた巨大システムがその解決のカギを握っている。例えば、電力消費は、家計部門が多いから、エコな生活を送りましょうと叫んでみても、現実社会では電力消費量を減らすような動きは何処にも見られない。国家を挙げてEVの普及をする等は、まさにその典型的な例である。電力消費量を今の半分に減らすことが出来たとしたら、全ての電力会社は、破産するか、電力料金を今の倍にしなければならない。第二次世界大戦後、世界の先進国の国家目標は、経済成長であった。鉄は国家なり、電力こそが成長のカギだと叫んだ。
 
 二酸化炭素濃度を抑制する、つまり、石油消費量を減らす等は、到底不可能である。二酸化炭素濃度は減らない。地球が温暖化するとは限らない。気候変動は二酸化炭素濃度とは無関係に発生する。これが現実であり、これまでの考察の結論である。クライトンが2004年に考えたことにも間違いはあるが、15年経ったが大方は正しそうである。クライトンと共通の感慨は、「自由にものが言えない社会」になっていることだ。地球の温暖化の恐怖の第三弾は、この「自由にものが言えない社会」の恐怖をとりあげてみよう。
                                                                              2018/07/16