堕落論2018  恐怖の思想-自由にものが言えない社会- | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

          堕落論2018  恐怖の思想-自由にものが言えない社会-
                                                                                      秋 隆三
 
  クライトンは、「恐怖の存在」の最後に、「自由にものが言えない社会」について、オールストン・チェイスの言葉、「真実の探求が政治的意図でひっかきまわされるとき、知識の探求は権力の追求に堕する」を引用した。オールストン・チェイスという人は、日本ではほとんど知られていない。アメリカでも知っている人は少ないと思うが、ハーバードを出た哲学者である。クライトンの言う「自由にものが言えない社会」とは、政治における科学的知見の悪用、乱用を意味する。現代の日本では、個人や仲間同士で自由にものを言っても誰にもとがめられることはない。
  例えば、「今の国民健康保険制度はどこかおかしいぞ、あれが税制なのか」といった会話は自由である。本当にこの制度の不合理性は、徹底的に追求する必要がある思うが、国会での議論などは聞いたことがない。
  地球温暖化問題とその対策は、極めて政策的であり、政策なしでは二酸化炭素の排出量の抑制などは到底不可能である。しかし、二酸化炭素濃度が、地球温暖化の要因であることは今もって科学的に検証されていないことはこれまでの説明でも明らかである。科学者が、何も言わないのである。現役の学者が、「温暖化はどこかおかしい」等と発言すれば、「おまえそれでも学者か」と罵倒され、失職するかもしれない。「もったいない学会」という名の学会HPをみると、完全にリタイヤした学者が自由に発言しており、大方は、「地球温暖化と二酸化炭素濃度との関係は、科学的には検証できない」というものである。この点は、クライトンも指摘している。現役の学者と「金」は、密接に関連しているため、年金暮らしにならないと本当のことが言えないのだ。何とも、情けない社会である。現役世代が「自由にものを言う」ためには、全てを捨てなくてはならない。まさに、清貧に身を置く覚悟がいるのである。
  遙か昔に読んだ、中野孝次の「清貧の思想」という本を取り出して再度読んでみた。「貧乏」では人後に落ちぬ貧乏人で自慢できるほどの貧乏人である今の私からみると、この人は、本当の貧乏を知らないのではないかと思える。「貧乏」については、別の機会に論じることにしよう。
  クライトンは、「自由にものが言えない社会」が如何に恐怖の社会であるかを、「優生学」を例に説明している。「優生学」については、NHKでもフランケンシュタインの何とかという番組で取り上げていたのでご存じの方もいるだろう。さらに、最近の話題では、旧優生保護法により断種や不妊手術が強制された問題がある。
  「優生学」は、1883年にフランシス・ゴルトンにより提唱された科学と言われるが、現在では疑似科学、つまり科学とは似て非なるものとされている。しかし、優生なものは遺伝的に継承されるとする考え方は、古代から現在までほとんど信仰といって良いほどに信じられている。劣等な人間からは劣等な人間が生まれ、劣等人種の人口が増加することで社会の秩序が失われるというのが、優生学のいう基本理論である。何が優生で何が劣等であるかという定義さえ曖昧なまま、人間の価値を人種差別にまで適用したのが戦前のナチである。日本でも、ナチほど過激ではないが、同じような思想はあったし、人種差別が半ば公然と行われていた。戦前の日本は、ドイツ等の欧米諸国に比べて、極端な優生学論者ではなかったが、戦後になってにわかに「優生学」が政策に登場する。昭和23年の優生保護法の制定である。
  優生学が、科学ではないことは今では常識となっているが、当時は先端の科学として認識されていた。科学とは何かは、既に19世紀の学会で相当に議論されていたから、優生学が科学ではないことぐらい、学者の間では当たり前であったはずだ。しかし、学者は誰一人として、とは言い過ぎだが、ほとんどの学者は何も言わなかった。
 1920年代頃から優生学理論は、幅広い知識層、経済人から支持を得ることになる。ルーズベルト、チャーチル、グレアム・ベル、マーガレット・サンガー、スタンフォード、H・G・ウエルズ、バーナード・ショー、等々、蒼々たる知識人が支持を表明する。さらに、カーネギー財団、ロックフェラー財団等が研究資金を提供するに至ると、アメリカ科学アカデミー、全米医師会、アメリカ学術審議会などの学術界、ノーベル賞学者までもがこぞって賛同し始めた。なんと、1939年の第二次世界大戦の直前までアメリカからドイツに研究資金が流れていたのである。
  この理論、つまり、「優秀な人間が遺伝的に増加する速度は、劣等な人間が遺伝的に増加する速度よりは遅い」という理論を、一般論にまで拡大して社会問題に無理矢理適応させたものである。この理論に問題があることは、すぐにおわかりだろう。日本には「鳶が鷹を生む」ということわざがあるように(英語にも、「A black hen lays a white egg」ということわざがある)、劣等な人間から突如優秀な人間が生まれることは生物学的にも歴史的にも知られた現象である。だから、「何世代か後には、世の中は劣等な人間が圧倒的に多くなる」ということにはならず、優劣度合いによる人間の分布は、正規分布のようになる。優生学という似非理論は、極めて狭い条件で成立するかもしれないが、社会現象として成立することはあり得ない。従って、科学的には間違いなのである。何故、科学理論としてノーベル賞学者までが支持することになったのか。政治と金が「知」を堕落させたとしか言いようがない。
  現代の学術論文なるものを見ていると、研究成果が社会の役にたつかという点で言えば、優生学の理論展開と同じような論文がほとんどである。極めて限定的な条件での成立成果であり、一般的状態どころか特殊な状態でも起こり得ないと考えられるにも関わらず、新たな発見だとして発表される。そのような条件の発生確率がどの程度なのかには一切触れられずにである。現代においても科学的理論なるもののほとんどが、この優生学の理論展開と同じなのである。研究は、それなりにかなり厳密ではあるが、研究成果を社会に適応させる場合には、実にいい加減な仮説、理論展開を基にする。政策と科学は密接に関連しているが、様々な科学分野を統合して政策に適応させる科学は存在しない。
  地球温暖化、温暖化ガス排出問題等々は、この優生学という社会運動とどこか似ているとは言わないが、科学的というにはあまりにも問題が大きいと、マイクル・クライトンは言う。最も大きな問題は、優生学がそうであったように、科学者が自由にものを言えない社会だと言う。優生学の時代には、時のノーベル賞学者や政治家、作家が、こぞって賛同した。現代の地球温暖化も同様である。
  豊かな社会とは、定義はいろいろあるだろうが、端的には、企業が成長し、個人所得が増加し多くの国民が食べるには困らず、文化的な生活を営める社会のことであるが、こういった社会の最大の特徴は、税収が増加することによって際限なく肥大化する政府組織の存在にある。政府組織が、ある一定規模を超えると、もはや誰も止めることができない自己増殖の循環に入る。政府組織が豊かな社会を走るためのエンジンと化すのである。戦争状態となった政府の暴走を誰も止めることができないのと同じである。19世紀後半から成長を続けた資本主義社会は、二度の世界大戦を引き起こした。豊かな社会とは、社会の進むべき方向について、自由にものを言わせない社会なのである。豊かな社会は、暗黙のうちに、「豊かでありさえすれば」として自由にものを言わせない社会を容認し、こういった時間が長く続くと、政府組織という権力組織が豊かさに潜む堕落を餌に勢力を伸ばすのである。
  地球温暖化問題とは、豊かさに潜む堕落が作り出した新たな権力そのものである。知識人の諸君、科学者の皆さん、我が少国民よ、社会はどこかおかしいぞと叫ぼうではないか。
 
  安倍総理の三選が決まったそうだ。対立候補の石破氏は、地方創生、貧困が主な政策課題であったが、本音は自民党のなかで自由に議論できないムードに対する批判にあったのではないかと思う。かつての自民党、具体的には田中、三木、福田等々、1980年代初頭の自民党では、それこそ、これが政権与党かと疑いたくなるような議論があった。勿論、議論の細々した内容が報道されることはなかった。議論には、政治記者も加わっていたのだから、オフレコなどという前に、議論に加わった者として当然の仁義を通した。自由にものを言う社会にとって、知識、論理等に付随する教条性は有害である。自由にものが言える環境を作り出すためには、ものごとに対する個々人の経験と直感による極めて原初的な疑問が必要である。疑問の端緒を生み出す直感の確からしさを確認するために知識と論理が必要なのである。政治家の政治信念、理念といったものは、自由にものを言う風土がなければ醸成されることはない。かの、トランプを見ろ。政治とは何かについて、自由にものを言いあう環境の欠如が生み出した典型的な政治家である。トランプの価値観は、現実の損得勘定だけである。現実とは、少しだけの過去と、現在と、少しだけ先の未来であり、損得勘定とは、損か得か、儲かるか儲からないかである。今、損をしても数年先には儲かるからやるという未来の損得勘定は、トランプの価値観には存在しない。莫大な遺産を相続し、現実の損益勘定だけのビジネスによって何とか成功してきた経営経験が生み出した、極端に現実的な高利貸し的経営思想である。ビジネスは、利益がなければ継続は不可能であるから、ドラッカーが言うように利益を出すことは企業にとって経営目的ではなく活動継続のための制約条件でしかない。高利貸し的経営は、一に利益、二に利益、三、四がなくて五に利益、つまり利益が目的のすべてとなる経営のことである。トランプの言動をみると、アメリカ・ファースト、国益重視、国益になるならば嫌な相手でもお世辞を言い、それで駄目なら脅し、脅迫、とりあえず何でもする。
  政治思想が現実的であるべきか理想的であるべきかという論争は、ギリシャ時代から論争されてきた。E.H.カーは、1919年から1939年までを危機の20年と呼び、この時代の理想主義と現実主義との相克を分析した。トランプには、政治思想というものがない。政治思想としての現実主義でもない。政治における現実主義は、今そこにある貧困、今そこにある人種差別、今そこにある難民問題等、今そこにある現実問題に対する政治的処方のあり方にある。
  とはいっても、世論調査によれトランプを支持する者は40%以上はいる。株や金融商品の動きを見ると、トランプの言動で乱高下し、トランプが言動修正するたびに上昇に転ずる。石油価格もあっという間に40ドル台から70ドル台まで上昇した。このままいくと、シェールオイル・ガスによるミニバブルが起きそうである。トランプが、誰かわからないが、背後にいる経済人に巨額の利益を誘導しているとみるのは、思い過ごしだろうか。「ブラック・リスト」というBSドラマを見ていると、トランプが、秘密結社の幹部のように見えてくる。ところで、「ブラック・リスト」は、面白いので一度見てください。米国のTVドラマは、科学捜査もの、FBI、CIA等、サスペンスがほとんどだが、いずれも良く考えている。駄作も少なくないが、面白い番組は、複数のシナリオ・ライターによるグループ作業らしい。到底、一人で考えられる範囲を超えている。複数の人間でシナリオ創りしたからといって、必ずしも面白くなるわけではない。普通は、バランスが悪い、物語の合理性が失われる等、いわゆる面白くなくなる。優秀なインテグレータがいるのだ。極めて豊富な知識と教養を持ち、文芸的才能だけではなく、芸術全般に関する感性豊かなインテグレータである。我が日本はと言えば、NHKの何ともつまらないドラマばかりだ。時代劇には、時々面白いものもあるが、面白いのは池波正太郎のリメーク版ぐらいのものだ。原作がいいからだ。女性には申し訳ないが、女性が脚本・脚色のドラマというのはどうして面白くないのだ。脚本家、脚色家の大半は、今や女性だからあきらめるより仕方がないか。
  話が逸れてしまった。自由にものが言える社会では、こういう意見もお許し願いたい。面白くないものは、面白くない。韓ドラも同じだ。10年前の韓ドラは、日本にはない斬新さがあり、面白かった。最近のは、二番煎じどころか五番煎じ、六番煎じだ。韓国時代劇のあの"はでばでしさ"は、昭和30年代の東映時代劇ではないか。内容にしても、韓国王朝時代とは似ても似つかない。儒教政治、奴隷制度、過酷な刑罰制度、経済格差等韓国王朝時代と日本の江戸時代とでは天と地ほどの違いがあるはずである。何故、自国の歴史についてある程度の正確さを踏まえたドラマを創れないのだ。日本のバブル時代にも沢山のミステリードラマが作られた。どれもこれも実につまらない。原作が悪く、脚色もひどい。そんな作品を20年も作っていると、もはや面白い作品が生まれなくなる。堕落するのだ。そのときのブームにのった価値観が、人の感性を堕落させるのである。たかがドラマだ。たかが脚本だ。ものを言っても仕方がない。
  そうだ、これこそが、自由にものを言えない社会を生み出す源泉なのだ。少子高齢化社会は、自由にものを言わない社会を創りだした。研究者が完全にリタイヤしてから、本当のことを話すと言ったが、リタイヤしても本当のことを言わない研究者がほとんどである。現役時代の金と権力と地位の保身のための発言や何も言わなかったことに対する羞恥心や自尊心から何も言わないままに死んでいく。そこへ行くと、私のような少国民は気軽なものだ。老人達よ、ボケている場合ではないぞ。もう死ぬだけだから、後は野となれ山となれではない。今の社会はどこかおかしいとは思わないか。おかしいはずだ。いつの時代でもおかしなことは山ほどある。
  スエーデン社会の報道が時々ある。税金は、高いが社会保障が行き届いた理想的社会のように。しかし、現実社会はどうなのだ。夫婦共稼ぎをしなければ、年金支給額が制限され、子育てにくたくたになっている社会だ。こんな社会が、理想的社会か。我が国でも、女性の労働力の活用とかで、政府は、夫婦共稼ぎ社会の実現を目指している。そのための働き方改革だ。女性が社会進出することは、大いに結構だし、大賛成である。能力があり、やる気のある女性は多い。男女平等の就業機会づくりや労働環境づくり、女性差別のある仕事・慣行等を徹底的に排除する社会の実現は重要である。だからといって、夫婦共稼ぎ社会に持って行こうというスエーデン型の政策には断固として反対する。女性の社会進出を推進した結果がスエーデン社会だ。女性の社会進出を推進すると、扶養控除がなくなり、年金制度も制限され、社会保障制度そのものが夫婦共稼ぎを前提とした社会に組み替えられていく。今の日本は、その途上にあると言っても良い。社会学者、経済学者が、科学的根拠のない社会実験をしたがるのだ。我が国の介護保険、年金制度、医療制度等の社会保障制度は、まさに学者の社会実験の場となっている。制度の持つ不公正、不公平、不平等は全て無視し、国家として国民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことの保障を放棄し、保険制度という何の科学的根拠もない社会実験を続けることは、ある意味では国家的犯罪にも等しい。女性の社会進出、共稼ぎ世帯の推進、社会保障制度の充実、国家による救済社会・・・・。理想社会の実現へと向かっているように見えるが、その実、無限に拡大する国家組織が背景に潜んでいる。これこそが、恐怖の社会なのだ。
  介護保険制度などは、即刻廃止すべきである。こういうと増え続ける認知症老人はどうするという意見が出る。介護保険でもカバーできません。金持ちならば、資産を処分して有料ホスピスに入れば良い。数百万人に上る貧困老人に対しては、無料のホスピスを全国の山村に設置すべきだ。過疎化している山村には、使われなくなった公共施設がごろごろしている。認知症老人にプライバシーもへったくれもない。快適な空間、冷暖房、食事の提供、集団介護システムがあれば良い。期間は、せいぜいあと20年程度だ。全国1000の山村で、1山村当たり1000人収容であれば百万人は収容可能である。百万人の維持費は、年間2兆円もあれば十分である。施設改修費でも1兆円ぐらいだろう。20年間で41兆円で済むのである。なぜ、介護保険などという面倒くさいシステムを考え出したのだ。
  社会保障制度には、おそるべき恐怖が潜んでいる。単純明快に解決可能なシステムがあるにも関わらず、あえて面倒くさいシステムを作り出すには、何か理由があるからに他ならない。
  地球温暖化などもその典型である。二酸化炭素の排出量を抑制するために、莫大な税金が投入される。二酸化炭素の吸収システムの開発には、ほとんど投資されない。技術的には、吸収対策の方が単純明快であるにもかかわらず、しないのである。今世紀末には、海面が上昇し、沿岸域の都市は水没する。なぜ、都市移転を進めないのだ。
  一方で、電気自動車だそうだ。電力供給のためのインフラ整備に50兆円、電力供給量を現在の数倍に上げなくてはならない。こんなくだらないことのために電化が必要なのか。電力インフラの再整備をするぐらいなら、光合成による水素生産の方がはるかに現実的である。学者に言わせると水素生産の方が、電力生産よりもはるかに費用がかかるという。嘘だ、うそだ、ウソだ。これらの問題を打ち破るのが、科学ではないか。かつて、大型コンピュータ全盛時代に、パソコン等は、能力的に汎用機にはかなわないから、パソコンがとって変わることはないと、研究者や企業の技術者が叫んだ。しかし、そんなことは20年も続かなかった。大企業が推進しなかったのだ。パソコンの開発スピードを上げると、汎用機が売れなくなるからだ。電気自動車も良く似ているが、エネルギー全般の問題に関わる。もはや原子力発電では、無理である。新たな物理学を持ってしても、核廃棄物の無害化は不可能だからだ。そうなると、水素発電、核融合、放射線のでない核分裂、反分質エネルギー等を推進しなくてはならない。こういった研究開発にどれだけの投資がなされているのか。微々たるものだ。
  太陽光発電、風力発電などはもってのほかだ。止めてくれ。こんなインフラ整備に税金や電力料金を使うのはやめてくれ。ゴミの山を作るだけだ。昔、炭鉱にはぼた山があったが、太陽光発電と風力発電は未来のぼた山だ。
  自由にものが言えない社会は、科学者や研究者だけが保身のためにものを言わないのではない。彼らがものをいわない社会には、もっと沢山のものを言わなければならない問題が潜んでいる。自由にものを言えない社会は、自由にものを言わない人々、国民がつくりだしたのだ。恐れるな。知識がなければ、勉強すれば良い。ものを言う場は、昔と違ってサイバー空間があるではないか。スマホのかけ放題電話で無駄話をしている暇があるなら、SNSでも何でもいい、ネットにだせ。誰も見なくても結構。自由にものを言うことが重要なのだ。
                                                     2018/10/08