あなたの知らない沖繩と琉球舞踊

あなたの知らない沖繩と琉球舞踊

観光や日常生活では気づかない知っているようで知らない沖繩や琉球の歴史や文化、華やかな琉球舞踊の事を徒然と書いていきます。

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"ほんとに美しい生き物じゃよ"
アルバス・ダンブルドア
ハリーポッターより

 


映画ハリーポッターの中でフェニックスはそう評されました。

 


フェニックスとは、死んでも蘇ることで永遠の時を生きるといわれる伝説上の鳥です。 寿命を迎えると、自ら薪から燃え上がる炎に飛び込んで死ぬのですが、再び蘇るとされています。不死鳥、もしくは見た目または伝承から火の鳥ともいわれています。(引用:wikipedia)

 


日本でも手塚治虫が「火の鳥」という大作を残しています。その中で、火の鳥の血を飲んだ物は永遠に命を手に入れられると言われています。そして人々は火の鳥に翻弄されます。

 


古今東西の記録によれば、登場する時は何らかの出来事が起こる時と言われています。

 


「何らかの出来事」

 

 

あなたはそれを良い兆候と捉えますか?悪い兆候と捉えますか?

 


今、沖縄を起因として起きる事柄で悪い兆候と捉えられる事が多く起きているように感じます。

 


でもそれは、“感じている”だけで、具体的でも客観的でもありません。

 


実は、確かなものが無い時に、フェニックスは人々の前に姿を現すのではないでしょうか?

 


そして、現実なのか?虚像なのか?確認する事を暗に求めます。

 


自らの闇に気づく者もいれば、自らの光に気づく者もいる。

 

 

 


正解も不正解もなく、ただそのとおりになるというシンプルな原理原則。

 


今、あなたの目の前にフェニックスの姿はありますか?あなたはそのフェニックスを見てどう感じますか?

 

 


 

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心で見なくちゃ、
ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、
目に見えないんだよ。


サン=テグジュペリ



見えないものは信じない?

 

人は目に見えるものだけを信じようとする傾向があります。でも目に見えないものでも確かに存在するものは多くあります。

風、電気、磁力、熱、電波、気持ち、愛・・・・

情報が溢れる現代と違い、古の人は物事をどう見ていたのでしょうか?

 


世界的な雑誌「Fobes」によれば


エジンバラ大学とケント大学の研究チームは、トルコ、スペイン、フランス、そしてドイツの洞窟に描かれた動物の壁画を調査したそうです。それぞれの壁画は年代に数十万年の差があるが、高度な天文学に基づいた同じ方法で時間を表していることが判明したそうです。

 


「洞窟内の壁画は、数万年前の氷河期に生きた人類が夜空の星について、高度な知識を持っていたことを示している。現代の人類と知的な差はない。今回の発見は、人類が複数回の彗星の衝突を目撃してきたという仮説を裏付けるもので、先史時代の人類に対する見方が革新的に変わるだろう」とエジンバラ大学のマーティン・スウェットマン(Martin Sweatman)は声明で述べたそうです。

 


この研究では、壁画に使われている塗料の年代から描かれた時期を割り出し、当時の星の位置と比較した。その結果、動物の絵は星座や、彗星の衝突などの重要な出来事を示している可能性があることが分かったそうです。驚きですね!

 


他にも洞窟の壁画と天文学の関連性は、以前から歴史学者によって指摘されてきたようで、これまでの研究で、トルコのギョベックリ・テペ遺跡の石柱に掘られた絵が、氷河期を引き起こした紀元前1万1000年ごろの彗星の衝突を表している可能性が明らかになったそうです。

 


古の人は目に見える事、見えない事もふくめて現代に伝えようとしたのかもしれませんね!

 




目には見えないけれど誰しもがその存在を意識する事が出来る代表的なものが「風」かもしれません。

 


髪を軽くゆらすおだやかな風、立っていられないほどの風、その姿は見えませんが確実に存在を感じます。

 

 

 


ちなみに、日本語は「夏の風」を表すだけでも多種多様な種類があります。

少し例を挙げると


薫風 -くんぷう-
初夏、新緑の間を吹いてくる快い風。

青嵐 -あおあらし―
青々と視した草木や、野原の上を吹き渡っていく風です。

青田風 -あおたかぜ―
青田とは、まだ稲の穂が出るに至らない時分の頃で、その青々とした稲田の上を吹き渡る風が青田風です。

油照り -あぶらでり―
夏の、空が薄雲って、風のない、じりじりと蒸し暑いことをいいます。

夕凪 -ゆうなぎ―
朝夕、海陸風が入れ替わるために風が凪ぐ現象で、それぞれ朝凪、夕凪といいます。

土用間 ―どようあい―
夏の土用中に吹く、涼しい北風。

地あゆ ―じあゆ―
内陸の方へ寄った北東の風。

まあゆ ―まあゆ―
東よりに吹く北風。

白南風 ―しらはえ、しろはえ―
梅雨が明ける6月末ごろから吹く南風。

黒南風 ―くろはえ―
梅雨の初めに吹く南風。

青田風 ―あおたかぜ―
青々とした稲田の上を吹き渡る風。

朝凪 ―あさなぎ―
朝方、陸風から海風へ交代するときの無風状態。

                                etc・・・


他の民族でも、風にも多種多様な表現や単語があるという事を聞いた事があります。

 


そのように名前をつけることで相手により正確に伝わるなどメリットがあったのかもしれませんね。

 


ちなみに沖縄の方言でも風には種類があります。

 


カーチベー(夏至南風)
ミーニシ(新北風)
タントゥイベー(種子取南風)
ヤナカジ(悪風)
スストゥイニス(白鳥北風)
ニングヮツィカジマーイ(2月風廻り)
プスプローマヌパイカジ(星昼間の南風)

               etc・・・


目には見えなくても感じ方が明らかに違うのです。


THE BO0Mは残念ながら解散してしまいましたが沖縄にゆかりの深いあるミュージシャンです。

そのTHE BOOMの有名な曲で「風になりたい」という曲があります。
 

 


風になりたい
作詞    宮沢和史
作曲    宮沢和史
唄    THE BOOM

 

大きな帆を立てて あなたの手を引いて
荒れ狂う波にもまれ 今すぐ 風になりたい

天国じゃなくても 楽園じゃなくても
あなたに会えた幸せ 感じて 風になりたい

何ひとついいこと なかったこの町に
沈みゆく太陽 追い越してみたい

生まれてきたことを 幸せに感じる
かっこ悪くたっていい あなたと 風になりたい

何ひとついいこと なかったこの町に
涙降らす雲を つきぬけてみたい

天国じゃなくても 楽園じゃなくても
あなたの手のぬくもりを 感じて 風になりたい

天国じゃなくても 楽園じゃなくても
あなたに会えた幸せ 感じて 風になりたい
風に 風になりたい

 

 



この歌詞の中にある

『生まれてきたことを 幸せに感じる
かっこ悪くたっていい あなたと 風になりたい』


この部分が大好きです。


あなたが幸せに感じる事はどんな事ですか?

 



うりずんの季節

 

沖縄には「うりずん」と呼ばれる季節があります。
weblio辞典によれば沖縄地方の初夏の頃や旧暦の二・三月の頃の心地よく過ごしやすい季節を指します。

 


言葉の由来としては古語の「潤い初め(うるおいぞめ)」が語源とされているという説があります。

 


沖縄ではこのうりずんの季節が終わると暑くジメジメとした梅雨に入ります。ですから本土のように新芽が出てきて潤うというよりは暑い夏に向かう前の、ひと時の清涼感のあるかけがえのない時期を「うりずん」と呼んでいると思います。

 


うりずんの季節の風は、からっとして爽やかです。太陽はさんさんと照っていますが暑くなく、海はその光を受けて眩しく輝いています。草花も燃えるように咲き誇ります。この時期に自然の中にいると生まれてきた事を幸せに感じられます。自然に抱かれている感覚になるのがこのうりずんの季節です。

 

 


うりずんの季節の思い出と琉球舞踊

 


うりずんの季節は心が踊ります。

 

 

うりずんの季節の旧暦の3月3日は沖縄の一部地域では「浜下り」があります。
それに関連した「サングヮチー」の行事があります。


私の住んでいる地域も「三月遊び」の伝統行事が現在も継承されています。旧暦3月4日の日に、地域の拝所に色とりどりの供物を供え、健康、家内安全の祈願をします。その後、鼓(チヂン)を打ち鳴らしながら各々が歌い踊ります。

 

 

それから、公民館へ移動して、各班ごとに舞が披露され宴を楽しみます。

 


 私が幼い頃、明治生まれの祖母から聞いた話では、旧暦3月4日の「三月遊び」日は、年に一度の女性解放の日だったと聞きました。
その日女性達は一張羅の着物(晴れ着)を着て、最高のお洒落をして遅い時間まで踊り楽しんだそうです。

 

写真引用:TIDA

 

 

祖母がその行事の前になると、ウチナーカラジにさすジーファー(銀のかんざし)を、金細工職人にピカピカに磨かせていたことを、今も思い出します。

 


また、地域の年長者は自分の子や孫に踊りを習わせ、年に一度の「三月遊び」に踊らせることを誇っていました。私も幼い頃から参加し、そのことが琉球舞踊を本格的に習い始めるきっかけとなりました。

 

 

「三月遊び」に参加する女性達は、今も昔も美しく輝いていて、老いも若きも、踊る人も観る人もそれぞれが、うりずんの季節に咲く花のように美しく咲き誇ってる様に感じます。
冬が終わり、大地が潤い初め、自然も人も心躍る沖縄のうりずんの季節が、私は大好きです。
 

 



うりずんと「島唄」

 

THE BOOMの代表曲ともいえる曲に「島唄」があります。あの曲は邦楽の「ボヘミアン・ラプソディ」というくらいドラマティックな展開をする一曲です。

 

2005年、朝日新聞に「宮沢和史の旅する音楽」というシリーズが連載され、「島唄」の創作秘話が語られています。

 

 


「島唄(しまうた)」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。

 91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。

捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟<どうくつ>)の中にいるような造りになっている。このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。

歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。2人は本土の犠牲になったのだから。

2005年8月22日 朝日新聞(朝刊)

 

 

 



本来なら爽やかな季節であるうりずんの季節~暑い夏に渡った悲しい沖縄での戦争。様々な思いを曲の中にこめている素晴らしい曲だと思います。語り継がれる名曲ですね。

 



そして、うりずんの季節は今年も繰り返しやってくる

 

 

今年も、本当に爽やかなうりずんの季節は沖縄にやってきました。しかし今回記事を書くにあたっていつもの年とは違う感覚を感じました。心地よく、爽やかな時期はずっと続くのではなく期間限定。だからこそ価値があり、人はそれを慈しむように過ごすのです。

 

 

 

 

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芸術に限界はない。そして、どんな芸術も完全ではない。
プタハヘテプ

 

 


自然と芸術

 

もし、すべての人が認める芸術が存在するとしたらそれはその存在そのものが芸術なのかもしれません。


Kannesteinen Rock
写真引用:Peachy

 

 


写真引用:skyticket 観光ガイド

 



屋久島縄文杉
写真引用:Holiday

自然の芸術にあなたは何を感じますか?
 

 


芸術とは?

 


芸術とは小学館のデジタル大辞泉によれば

 

1,特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。絵画・彫刻・建築などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・映画・舞踊・オペラなどの総合芸術など。「芸術の秋」「芸術品」2、学芸と技術。とされています。

 

 


美とは多分に主観的な側面があります。ジェネレーションによる価値観のギャップや国の違いによるギャップ・・・様々な物差しでその評価も変わるように感じます。

 

 

だからこそ、芸術には価値があり、すべての人に評価される事もないし、されてはならないのかもしれません。

 

 



不安定さがあるからこそ芸術

 

 

個人的な話で恐縮ですが私はフェルメールが好きです。

 


生活のワンシーンを写真のように切り取った空気感漂うその作品は美しいです。

 


でも、素人の私でも感じる不安定さが人間らしくて好きです。「不安定さ」と言っても主観的な表現なのでもう少し言うと光の存在を浮き立たせるために極端に暗いところがあったり、作品に隠された意味があったりするところが大好きです。

 


ただ、一つ言えるのは写真が普通にある現代でもフェルメールの絵が人々の心をとらえるのは「写真のようだけど写真じゃない」という事だと思います。

現実を見ているようで実は現実ではない。ちょうど映画を観ているような気分になるからなのではないか?と思っています。
 

 


人は音楽に何を求めたのか?

 

 

現存する楽譜を基準にすると、世界で最も古い音楽は3,400年前の中東メソポタミア地方の歌と言われています。実はこれを再現したものがyoutubeにアップされています。

 

 


この音楽をアップしたアウェイドン 3Dさんによれば、この楽譜は、粘土の銘板にくさび文字で刻まれている物を、フランスの考古学者が発掘したものを1972年にカリフォルニア大学バークレー校のProf. Anne Draffkorn Kilmerが解読したものだそうです。

 


この歌は、祭礼に使われる賛歌として、古代シリアの土俗神である月の女神Nikkalをたたえる内容となっているとの事です。

 


ヨーロッパでもなく、東洋でもないこの独特な響き。当時の人は崇高な気持ちでこの曲を聞いていたのかもしれませんね。

 



音楽は軽々と国境を超える

 

なぜか。最近、私の周りでYMOの話が出る事が多くなっています。

 


それも武術家や高校生、パン屋さん・・・と幅広い人達から。YMOを知らない人のために少し説明をしますね。

 


YMOとは
1978年に細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人で結成されたテクノ・ポップ・グループ。79年発表の2作目『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』がヒットし、テクノ・ポップの大ブームを巻き起こす。その後も音楽シーンに多大な影響を与え続けるが、83年暮れに散開。93年に一時的な再結成=再生を果たした後、沈黙を続けた3人は2004年よりHuman Audio Sponge名義で活動を再開。以後、HASYMO、Yellow Magic Orchestraとしても活動を行ない、ネーミングを越えた新しい3人のサウンドを追求している。
上記引用元:Rockin`on.com

 

 

 


百聞は一見にしかず。まずは動画をご覧下さい。

 

YMOの音楽的特徴はシンセサイザーという誰が押しても同じ音のする楽器で様々な音楽的実験をした楽曲を発表してきました。世界的評価も高く、その楽曲はマイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンにもカバーされました。

 


YMOの音楽はすでに40年以上前のものですが人々の心を捉え続けています。その理由は何でしょう?

 


YMOは「日本らしさ」を意識しつつも世界の色んな種類の音楽を採り入れています。ですから世界中の誰が聞いても、どこかで自分の国の音楽を感じたり、その人がイメージする日本を感じたりするのではないでしょうか。

 


その採り入れ方が実は理詰めなのにも関わらずそれを感じさせず逆に遊び心すら感じるPOPさにYMOの音楽の素晴らしさがあったと思います。

 


そのYMOの曲の中に「ABSOLUTE EGO DANCE」(1979年)の曲があります。少し聴いてみて下さい。

 


 

最初の指笛のリズムっぽいところから、「あれっ?沖縄っぽいな」と思うのですが、曲の中盤部分では広大なアジアの大陸を思わせるメロディになり、そこにいつの間にか沖縄の「イヤササ」という囃子が入ってきます。

 


沖縄の音楽のパクリとは全然感じません。むしろ沖縄の音楽を通してイメージがどんどん拡がる感じです。

 


沖縄の音楽はYMOのような斬新な音楽でも当たり負けしない個性があると思います。
 

 

 


沖縄の音楽


沖縄の音楽といってもざっくりした言い方ですが、やはり琉球音階を中心としたいわゆる琉球古典音楽の存在は無視できないです。

 


琉球音階とはド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音で構成される音階、それにレを加えたド・レ・ミ・ファ・ソ・シ・ドの6音で構成される音階です。

 


西洋音楽の聞き慣れた音階とは趣を異にする音階を用いる事で沖縄らしさが自然に出るようになっています。

 


しかし、この音階はインドネシアなど東南アジアの音楽にも一部存在する(ガムランなど)そうです。そのようなアジアと琉球の歴史的な交流や関係なども琉球音階の成立に影響を与えたのかもしれませんね。

 


沖縄の音楽は先程のYMOで採り上げられたように音楽的にかなりのインパクトがあるようです。沖縄の音楽に影響を受けた楽曲が色々と出てきました。

 


その中でも世界的にも有名なアーティストのライ・クーダーが沖縄を採り上げたのは話題になりました。

 

 

 

 

 

他にもロンドン生まれのプロデューサーのタルヴィン・シンのアルバムでもこのような曲がありました。

 

 

 

 

日本でも、この曲は沖縄の曲と思っている人も多いですよね。

 

 

 

 

そして、最近では米津玄師が「Flamingo」という曲はザ・ブームの「島唄」に影響を受けたと言っています。

 

 

こうやって見ても沖縄の音楽がまるでアメーバのように世代を超えて世界に息づいている事が分かります。
 

 

 


楽器から見る沖縄音楽

 

 

実は琉球音階だけで、沖縄音楽らしさは醸し出されます。でも三線を始めとする楽器もユニークです。

以下、wikipediaより引用

 


【琉球楽器/沖縄音楽を成り立たせるもの】

●三線(サンシン)
●箏(クトゥ)(本土では「琉球箏」または「沖縄箏」と呼ばれることもある)。金属弦のものは「琉琴」という。
●胡弓(くーちょー)
●笛 - 「ファンソウ」ともいう。縦笛ではなく、横笛。「明笛」の一番上の穴(響孔)をテープで塞いで使うことが多いが、最近は元から響孔の開いていない六穴のものも売られ「琉笛」と呼ばれることもある。
●拍子木
●三板(サンバ) - 三枚の板を紐で括った楽器。カスタネット、タンバリン的に使う。
●四つ竹 - 長方形に切った竹を二枚ずつ両手に持ち鳴らす。古典舞踊の「踊りこはでさ」(四つ竹を持って踊ることから四つ竹とも)に使うのが代表的だが、最近ではエイサーに使われることもある。
●パーランク - エイサーで使う小型の片面太鼓。片手で持ち、叩いたら手首を返し、音を反響させる。
●平太鼓 - 締太鼓と一組にして、伴奏に使う
●締太鼓 - エイサーに良く用いられる太鼓。平太鼓と併せて伴奏に使う締太鼓は胴が厚くて重く、形は同じでもエイサーで使われる締太鼓とは異なる。
●指笛 - 合の手的に使う。
●銅鑼 - 八重山諸島において、締太鼓とともに儀礼の唄の伴奏に用いられる。


以上、wikipediaより引用

 

 


カタカナで示されている方言だと分かりませんが漢字を見ると大体分かると思います。この中でも三線の存在は大きいです。たとえ琉球音階を奏でなくても三線で弾けばそこに沖縄を感じる人は多いでしょう。

 


歴史を紐解くと独立国家として栄えていた琉球王国に14世紀末、中国福建の?江(ビンコウ)下流の住民である?人(ビンジン)三十六姓によって三線の原型となる三絃(サンスェン)が持ち込まれました。15世紀になると当時の王・尚真(ショウシン)により士族の教養の一つとして奨励されるようになりました。その後琉球から大和(堺)に伝えられ、三味線として普及していったと言われています。

 


その意味では三線を通してアジアの歴史が沖縄にも根付いているともいえるでしょう。

 


個人的には三線と並んで外せないのは胡弓です。三線に似ているのですが弦が4弦あり三線のように抱えて持つわけではなく縦に持ち、弓で弾くという知らない人から見ると変わった楽器です。動画の右端の楽器がそれです。

 


 

笛だけだと薄くなりがちなメロディに胡弓が加わる事で厚みが出ます。

 


この胡弓に似た楽器で二胡という中国の楽器があります。弦で弾くという事が胡弓と共通していますが弦が2つしかありません。しかし抑揚のある美しい音を出します。

 

 


東京在住の沖縄のアーティストの豊岡マッシーさんは三線とこの二胡で幻想的な世界を創り出します。

 

 

美しい曲も唄っています。

 

 

三線を始めとする楽器と琉球音階だけで沖縄の音楽は時代も国境も超える事ができるのです。

 

ベル豊岡マッシーさんのブログはこちらから
 

 


沖縄の音楽と琉球舞踊

 


琉球舞踊に関する音楽は、琉球王朝時代に生まれた古典音楽が古典舞踊に、一般の人々が楽しんだ民謡や島唄は、明治以降に生まれた雑踊り(zouodori)に、使われています。

 

 

古典音楽は、聞けば聞くほどに味わい深く、耳薬(ミミグスイ)です。古典音楽で舞う古典舞踊は優雅で格調高く、古の王朝人を彷彿させます。

 

 

また、民謡や島唄は、今でも暮らしの中に息づいていて、毎年旧盆には各地域でエイサーが踊られています。それから、沖縄の祝宴では必ずと言っていいほど「かぎやで風」で座開きし、「カチャーシー」でお開きになります。沖縄の音楽や三線は生活とともにあります。

 

 

 

私も、三線の奏でる琉球音階(ドミファソシド)の旋律は、琉球舞踊を本格的に習い始める以前の幼い頃から慣れ親しんできました。

 

 

私にとっては慣れ親しんだ沖縄の音楽や三線は、外国の方にとってどう感じるのか、私の下で稽古をしている韓国出身の女性に尋ねてみました。

 

 

その女性は、学生時代に韓国舞踊を習っていたこともあり、感性がとても豊かで、琉球舞踊の習得も早いです。彼女曰く「沖縄の音楽や三線」は異質感はなく、特に三線の奏でる音は、夏の日に降る大粒の雨が大地にしみこんでいくのではなく、地面にはじける音のように聞こえるそうです。

 

 

その他の楽器の箏や太鼓等は、地面にしみこんでいくような音で、三線の音は地面に跳ね返るように感じるとのことでした。感性豊かな彼女の感想は、沖縄の音楽や三線の音に慣れ親しんだ私にとって、とても新鮮な感覚で感銘を受けました。

 


沖縄の音楽に欠かせない三線は、沖縄の人々に癒しを与える大切な楽器です。三線の日(3月4日に時報と共に一斉に世界各地の三線愛好家が演奏する日)の広がりが、今では世界各地にいるウチナーンチュや三線愛好家の外国人にも愛されています。

 

*もう終了しましたがこんなイベントもありました!

 


古典音楽の継承のほか、新しい民謡や音楽が生まれ続けている昨今、新しい民謡や音楽が生まれるということは、舞踊家にとっても新たな創作舞踊の可能性が広がることでもあります。
生活とともにある沖縄の音楽や三線は、人々の心の拠り所だと思います。



沖縄音楽と琉球舞踊はまるで自転車の両輪のようにこれからもお互いを刺激しあいながら、さらに高みに昇ると思います。文化は箱の中にそっとしまっておくものではなく、生活と密着しながらこれからも生きていくと思います。これからも目が離せませんね!

 

 

 

 

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写真引用元:©OCVB 

 

 

 

 

 

 

一生の最もすぐれた使い方は、
それより長く残るもののために費やすことだ。

ウィリアム・ジェームズ 



●光の花

 

光のあるところに希望があり、希望は光になります。
人は電球を発明してから光を自由に操れるようになりました。

 


沖縄では夜間にたくさんの電球を点けて菊を照らして咲く時期を遅くするように調整した電照菊が盛んです。菊の黄色い色は電球の光と太陽の光の2つの光を受けて力強く育ちます。
 

 


●あなた黄色は好きですか?

 

黄色は有彩色の中で一番明るい色です。明るい色なので光のイメージに近いですね。エネルギッシュにも感じます。知性を刺激し行動を活性化するとも言われています。

 




また自然の中でも黄色は花に多い色です。昆虫の可視光線領域は紫外線側に偏っているため、黄色、白、オレンジ、ピンクなどは見やすいようです。逆に人間などには見えやすい赤は虫には見えにくいのだそうです。

 


また、「黄色い声援」という言葉があるように、明るい雰囲気の表現にも黄色が使われていますね。他にも、高級スポーツカーにも黄色は欠かせない色です。威圧的というか目立ちますよね!

 




黄色の心理的な特徴として、

●集中力を発揮させる

●記憶力を高める

●判断力アップ

●気分が明るくなる

●注意をうながす 

 

 

など様々なものがあります。信号の黄色にも代表されるようにアピール力が高いですよね!
 

 


●目を奪われる黄色

 


この鮮やかな黄色の着物をご存知ですか?
これは国宝の「黄色地鳳凰蝙蝠宝尽くし青海立波模様衣裳」という「紅型」という染織物ものです。

 




清代の官服に用いられた海の波と波涛を図案化した文様「海水江芽文」を写しており、国王の正装衣裳「皮弁服」の裾部と一致するそうです。格式の高い文様から、公的な場面で着用されたものとされています。肩と背に鳳凰と瑞雲、裾に嶮山・立浪・火炎宝珠を配し、胴に蝙蝠や竹・丁字などの中国的な吉祥文を散らした紅型衣裳です。(那覇市歴史博物館HPより)

 


「紅型」とは琉球王国の時代、主に王族や士族の衣装として染められていたものです。紅型は13世紀頃には存在していたようです。「紅」は色全般を指し、「型」は様々な模様を指していると言われます。

 

 

この定義をしたのは鎌倉芳太郎と伊波普猷とする説がありますが、鎌倉芳太郎が1924年に初めて使用した「紅型」の漢字表記が広く普及され始めたのは昭和期に入ってからだそうです。

 

 

沖縄県は「びんがた」と平仮名表記する場合が多いです。

 

 

古文書に現れる文字は「形付」、「形附」で「紅型」表記はない。高年者や下級士族向けの藍色の濃淡で染めるものは藍方(えーがた)と呼びますwikipedia参考)



沖縄の歴史は中国と日本の影響を受けていますが紅型も例外ではありません。古紅型と呼ばれるものは江戸時代頃の作品が多いです。本土の影響からか友禅とモチーフが共通したものが多いともされています。

 


しかし、ほとんどは中国の吉祥文様を図案とし、当時の王族・士族階級の女性および成人前の男子の衣装として作成され、文様に衣装を身に着ける者への加護の意味が込められているそうです。

 

 

鶴を赤や緑で染めたり、桜を黄色やえんじで染めるなど色の扱いは「非常に奔放」と、現在の染色家に評価されています。江戸時代は袋物などの小物用生地、明治からは着物などにも使われていました。wikipedia参考)

 


しかし琉球国は、薩摩に侵略されてしまいます。その後、明治時代になり王府廃止により庇護を失った染屋は廃業を余儀なくされました。鮮やかな作品を生み出した職人がいなくなり、宮廷のために生まれた紅型は衰退していくのでした。

 

 


●失われた紅型


昔の作品は古紅型と呼ばれています。それらは時代にすると江戸時代頃の作品が多いそうです。本土の影響からか友禅とモチーフが共通したものが多いともされていますが実は中国の吉祥文様を図案としているそうです。

 

 

当時の王族・士族階級の女性および成人前の男子の衣装として作成され、文様に衣装を身に着ける者への加護の意味が込められているそうです。

 


現代の染織物の専門家から見ると鶴を赤や緑で染めたり、桜を黄色やえんじで染めるなど色の使い方が自由と評価されているそうです。

 


しかし歴史は残酷です。第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失します。しかし一部型紙等は日本の染織家であり、沖縄文化研究者の鎌倉芳太郎により本土へ渡り保管されていました。

 


戦後、それら型紙を分けてもらい紅型復興に尽力したのが、王朝時代から、紅型宗家として染物業に従事してきた城間家の城間栄喜と知念家の知念績弘だったそうです。

 

 

戦後の材料不足の中、拾った日本軍の地図に下絵を描き型紙として利用して、割れたレコード盤を糊(防染糊)置きのヘラに、口紅を顔料のかわりに、薬莢を糊袋の筒先に使用するなど、工夫をしながら紅型の復興に尽力されたそうです。  

 


そんなたくさんの人の苦労を経て紅型は再び蘇りました。そして最近ではこの紅型の振り袖が人気なのだそうです。

 


日本の伝統的な柄とは異なるところが注目されているのだそうです。

イオ・ライフ・マーケット アジアの手仕事~生活と祈り~より写真引用

 

 

イオ・ライフ・マーケット アジアの手仕事~生活と祈り~より写真引用

 

 

イオ・ライフ・マーケット アジアの手仕事~生活と祈り~より写真引用

 

 

 


●新しい紅型の潮流


伝統的な紅型は美しいです。紅型がなぜ美しいか?は個人の趣向により違いがあると思いますが「繊細で複雑な図案」にその魅力を感じる人は多いと思います。

 


芸術の世界では若い新しい才能が、伝統的なものに新しく生命を吹き込んでくれる事が多くあります。JAZZの世界では新しい才能がJAZZの新たな境地を切り拓いていますし、日本の伝統芸能でも歌舞伎が現代風な解釈で様々な演目が演じられています。

 


そして紅型でも若い才能が新たな生命を吹き込んでいます。

沖縄県宜野湾市にある 紅型研究所 染千花の染色家の知花幸修さんの作品では伝統的な紅型を守りつつ新しい価値を提案しています。

 

 

 

 

 

 

 



紅型研究所 染千花さんホームページ 

新しい紅型の可能性を目にして感動と興奮を覚えます!

 

 

 


●紅型と琉球舞踊

 


琉球舞踊を志す者として、紅型衣裳は憧れです。
特に「黄色地紅型打掛衣裳」は高貴で高価でもありますが、自前で持ちたい衣裳です。

 



以前、敬愛する染色家の先生にその衣裳の染めをお願いした際、先生が仰るに黄色地を染める時は、少しの埃でも付着すると変色しものすごく繊細な作業のため、中々、満足する作品ができないとのことで快諾はして頂けませんでした。

 


それでも、私は先生の作品が好きなので何年かかっても良いのでと懇願しました。

 


それから、数年後、先生ご自身が納得いく作品が仕上がったので見て欲しいとご連絡頂き、早速、その作品を拝見し、とても感動したことを今でも覚えています。

 


琉球王朝時代の紅型を復元されてこられた先生のその作品は、尚家伝来の大胆な図柄が格調高く繊細な技術で、唯一無二の作品に染め上がっていました。

 


私はその衣裳を着て舞う度に、今は亡きその先生の思いに包まれ、紅型衣裳の美しさで舞を引き立ててもらっています。

 


紅型染め衣裳は貴重で高価です。昨今は、大勢の人数による群舞、屋外などの舞台、天候や舞台のコンディションで、プリントで化繊の紅型衣裳を使用することも多々あります。

 


琉球王朝時代から受け継がれてきた本来の「紅型」も「琉球舞踊」も貴重な技です。グローバル化が進み、伝統文化への興味が薄れずに、大切な文化遺産を次世代へ確実に継承し、世界へ更なる発信をしてほしいと思います。

 

 

 

 

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美は余分なものの浄化である

ミケランジェロ

 

 

 

 

●ヨーロッパを魅了した漆黒と金

 


シェーンブルン城をご存知でしょうか?

 


オーストリアのウィーン観光の目玉といえばシェーンブルン宮殿です。よくフランスのベルサイユ宮殿にも引けを取らないような美しさと言われます。

 


ただ、シェーンブルン城という名前だけではよく分からない方もいるかもしれませんね。

 


この城はオーストリアで絶大な権力を握ったハプスブルク家の夏の離宮として使われていたそうです。

 


ハプスブルク家は元々、現在のスイス領に暮らしたドイツ系の小貴族でした。しかし13世紀後半にルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたことから領地を拡大してきたそうです。

 


政略結婚を繰り返す事でヨーロッパの地位を確かなものにしていったそうです。フランスに嫁いだマリア・テレジアの娘がマリーアントワネットと言えばどれくらいすごい貴族か分かるかもしれませんね。

 


このマリー・アントワネットの母であるマリア・テレジアは「私は、ダイヤモンドより漆器よ」と言い、シェーンブルンの宮殿に「漆の間」創った事をご存知ですか?

 


「漆器???」漆器って日本のものというイメージですよね。それがヨーロッパの貴族それもマリー・アントワネットの母が愛好していたとは驚きです。

 


シェーンブルン宮殿の「漆の間」は下記のようなきらびやかな部屋になっています。


Photo by demarsay - Chinesisches Zimmer in Schloss Sch?nbrunn
 

 

当時、まだラッカー塗装などありませんのでこの漆黒と金色はヨーロッパの人にとってさぞかしエキゾチックで魅力的に見えたのでしょう。

 


余談ですが、この漆をきっかけにヨーロッパに漆黒が生まれます。何だと思いますか?それはピアノです。

 


17,18世紀はピアノは黒ではなく木目でした。

 



しかしドイツでピアノが漆黒に塗られるとそれはまたたく間に拡がり、ピアノの色は漆黒というスタンダードを生み出しました。漆黒は古今東西、人々の心を掴むものだと言えるのではないでしょうか?

 


 

 

●そもそも漆器とは?


まずは漆から見ていきましょう。漆はウルシ科ウルシ属に分類されます。有名なところではウルシ科の植物は70属約600種に及び、ヤマウルシ、ツタウルシ、ハゼノキ、ヌルデなどはよく知られています。

 

 

他にも意外ですがあのマンゴーや、カシューナッツも同類であることは意外と知られていない事です。マンゴーで口の周りが赤くかぶれる人がたまにいます。しかしながらウルシ科の植物がこれだけあるのに、日本で漆が採れるのは、ウルシという木だけだそうです。


漆器は、木や紙などに漆を塗り重ねて作る手法です。現在、日常品から高級品、食器、根付、または車体[と色々な用途があります。

 


漆器の肝になる漆はウルシから採れる加工した樹液の事です。これを加工された素地に塗り重ねていきます。その工程ですが細かく挙げると30から40になる手順になるそうです。日本人らしい細やかな技法といえると思います。

 


参考までにその丹念な仕事を動画でご覧下さい。(約6分)


 


なぜ漆を塗るのか?

 


実は漆には様々な働きがあるのです。
まず、木の表面を保護する働きがあります。漆器など木で出来た物に対して漆は熱気・湿気などの温度変化や酸にもアルカリにも強い特性を活かし保護します。また、防虫効果もあります。四季の季節差のある日本においては重宝なものです。

 


また、建物や漆器など塗料として漆が塗られた面は何と!網目状に高分子結合されているそうです。ハイテク素材なんですね!

 


さらに、網目状の塗膜を職人さんが何度も何度も塗り重ねていくので水分は通さず空気は通るという状態になっています。そのため「木地」と呼ばれる木製の器に漆を塗り重ねた漆器は、木が呼吸できるという理想的な環境を生み出すそうです。

 


他にも強力な接着剤の働きもあります。その接着剤効果で時には、割れやヒビの補修素材として。またある時は金箔などを貼り付けるための接着剤として働きます。
 

 


●漆は太古から使われていた?


現在、世界最古の漆の出土品はおおよそ7000年前といます。しかし、証拠が無いだけでそれよりも前から使われていたとする説が有力です。

 


世界最古の漆塗りを施された道具は7000年前の中国長江の浙江省の遺跡から出土したそうです。


日本で現在、発見された最古の漆の製品は縄文時代のおおよそ6500年前の福井県の鳥浜遺跡から発見されている櫛(くし)とされています。

 


しかし一説では北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡からの漆器が9000年前であったされこれが世界最古の漆器とのことですが、残念ながらこの漆器は正確な測定前に焼失しています。惜しいですね!

 


でも、近年では1万1000年前の漆の木そのもののが鳥浜遺跡から発見されています。更にDNA鑑定の結果日本の漆の木は中国大陸のものとは別種で固有のもであると判明しています。

 


これらの事実からこれまで漆の技術は大陸伝来とされていましたが、実は漆文化は日本発祥ではなかったかと唱える人たちもいます。

 


いずれにしても日本人は有史以前から漆を日常の中に取り入れていたことになります。

 



代表的な日本の漆器

 


日本では、色んなところで漆器が作られています。しかしながら「四大漆器」と呼ばれる有名な漆器があるのをご存知でしょうか?

 

 


①山中漆器

石川県は輪島塗に代表されるように日本で1番有名な漆器の生産地です。その中で漆器製品全体の生産額を上回るのが山中漆器です。

山中漆器は漆塗りもさることながら、その木地作りに特徴があるそうです。

 

 

②越前漆器

越前漆器は日本で最古の生産地と言われています。年代にして1500年前!すごいですよね。
金粉や銀粉を使って漆の上に、様々な模様や絵を描く蒔絵が特徴とされています。

他にも明治頃から、お椀などの丸物だけでなく、菓子箱や重箱などの角物も作られ始めます。伝統工芸ですが前向きなのが特徴です。



 

 

③会津漆器

福島県の会津漆器は、16世紀頃の安土桃山時代に、当時の会津領主が産業として奨励したのが始まりだそうです。

江戸時代には歴代藩主が技術革新を推し進め、中国やオランダなど海外への輸出もされました。

外国人の目も楽しませたであろう会津漆器。


 
 

④紀州漆器

和歌山県で作らている漆器です。紀州漆器で有名なのが根来塗りという技法で塗られた漆器です。この根来塗りの始まりが紀州漆器の始まりで、根来寺の僧たちのために作られたそうです。

この根来塗の特徴は、黒色の漆の上に朱色の漆が重ねて塗られた、真っ赤な漆器になります。本来は、経年変化で黒色が見えてくるのが良いのですが、最近は最初から見えるように加工されています。


 


新しい動きはまたもやヨーロッパ?

 


会津漆器をつくる企業が、遠くヨーロッパの老舗ブランドで受け入れられています。坂本乙造商店では有名ブランドとコラボした漆器を多数作成しています。

 

 

 

 

器の芯となる木地に段ボールを用いた塗り皿のエピソードです。国内では段ボールが素材と聞くだけで敬遠されました。しかし、海外では高く評価され、89年のフランクフルトメッセでデザインプラス賞を受賞しました。また、この塗り皿は、ニューヨーク近代美術館(MOMA)のパーマネントコレクションにも選ばれてたそうです。これからの日本の漆器も楽しみですね。

 



琉球漆器について

 


以下、日本大百科全書より引用 

琉球漆器とは沖縄県で生産される漆器です。14~15世紀ごろから製造が始まったとされ、国の伝統的工芸品に指定されています。

 


沖縄県首里(しゅり)市を中心とした琉球諸島で発達した漆器で古記録には「応永(おうえい)34年(1427)中国明(みん)の宣宗(せんそう)が琉球から生漆(きうるし)を購入」した旨の記述があるそうです。しかし

 


漆芸創始の経緯は明らかでないです。琉球王朝時代の1612年(尚寧王24)には後述の貝摺奉行(かいずりぶぎょう)についての記録があるので、そのころには活発化していたとみられています。

 


ゆがみや狂いの少ない沖縄特産の木地を用い、デイゴは大盆に、シタマギは椀(わん)木地に使用する。下地には速乾性を利用した豚血(とんけつ)と、特産の粘土(クチャ)粉にボイル桐油(とうゆ)を混合したものを用いるそうです。

 


この桐油を混ぜることで上塗りの朱漆(しゅうるし)をより鮮明に発色させる効果があるそうです。高温多湿な沖縄の風土は漆の乾燥に適し、本土では困難とされる油を混ぜた朱漆の乾燥も、ここでは容易な環境です。


加飾法には堆錦(ついきん)、螺鈿(らでん)(青貝)、沈金(ちんきん)、箔絵(はくえ)、漆絵などがあるが、とくに堆錦に特色があります。

 

まず漆に鉱物性の顔料を混ぜ、金槌(かなづち)で打ちながら練り合わせて堆錦餅(もち)をつくる。これに熱と圧力を加えて薄く圧延したのち文様を切り抜き、上塗りを終えた器面にそれを貼(は)る技法です。

 

1715年(尚敬王3)首里の比嘉乗昌(ひがじょうしょう)が発明したもので、今日では琉球漆器の主流を占めています。また、琉球海床産の夜光貝を利用する螺鈿は螺殻(らかく)といい、古くから大陸や本土へ輸出され、首里王府内には貝摺奉行所を設置して螺鈿器を製造しました。このように、琉球では螺鈿のことを貝摺または青貝といっていました。

 

沈金は中国の鎗金(そうきん)が伝わったもので、江戸時代に朱塗沈金が盛行し、今日も本島の各地で多く行われています。[郷家忠臣]

『荒川浩和・徳川義宣著『琉球漆器』(1978・日本経済新聞社)』
日本大百科全書より引用

 

 


 

 


琉球漆器と琉球舞踊

 

琉球漆器と琉球舞踊は一見、何の関係も無いようにも見えます。

 


しかし、小国でありながら独自性のある立ち位置や文化を育んできた琉球王国の歴史の中で王朝文化の中でお互いが昇華していきます。

 

 

 

古典女踊りのひとつで、「かせかけ」という演目があります。かせかけという演目はの小道具である枷と枠は琉球の漆塗りで仕上げられています。

 

黒塗りに七色の糸が巻かれていて、素敵です。

また、踊る前に枷枠の入った箱を開けると、漆の香りがなんとも言えません。

「かせかけ」は愛しい人に蜻蛉の羽のような薄くて極上の織物を織るために、丁寧に糸を巻く所作に心配ります。古典女踊りで唯一紅型打掛の右片袖抜きの扮装で踊ります。

 

 



 

 

漆器は繊細な工芸品です。大量生産出来ない事や、作成に手間暇がかかる事、職人の技術力が必要な事で高価です。ですから日常使いには少し躊躇してしまう事もあります。

 


琉球舞踊もなんだか似ています。カラオケで踊るものでもないですし、衣装も簡易では魅力も半減します。踊り手、演奏者、衣装、舞台・・・日常的ではないように見えます。

 


でも、共通しているのは長い年月を経ても尚、輝き続けそして未来に繋がっているという事です。

 


そこには「普遍の美」があるからだと思います。琉球舞踊も琉球漆器もこれからも「琉球の普遍の美」をこれからも世界中に伝えてくれると思います。

 

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