歴史の零れ話...「春雨じゃ濡れて行こう」 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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季節の移ろいの中で...
歌と画像で綴る心ときめく東京千夜一夜物語

春雨じゃ濡れて行こう...

 

「月形半平太」は、行友李風(ゆきともりふう)原作の戯曲。

幕末の京都を舞台にした、長州藩士である月形半平太を主人公にした恋と剣の物語です。

月形半平太のモデルは、武市瑞山(通称 武市半平太)だといわれる。


その中で有名な台詞が、これ。
「春雨じゃ濡れて行こう」
(はるさめじゃ ぬれていこう)

月形半平太が、傘をさしかけようとする舞妓・雛菊に対して言う台詞です 。

雛菊「月様、雨が」

半平太「春雨じゃ濡れて行こう」


今でも、小雨の中を傘なしに歩く時などに、

ある時は気取って、ある時は照れ隠しに、この言葉が使うような時もある、かな(笑)
長州藩士の月形半平太は、茶屋遊びばかりしている。
しかし、心中は勤皇への想いでいっぱいでした。
血気盛んな仲間たちにも、軽々しい行動は慎むようにと説きます。
が、その真意は理解されず、同志の策略で新選組に襲われ、息絶えるのでした。
 その際、月形は、死して護国の鬼になると、辞世の句を残したという。

 


武市瑞山(武市半平太)

文政12年9月27日〈1829年10月24日〉- 慶応元年閏5月11日〈1865年7月3日〉)

幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。

 

 己の生涯を尊王攘夷一筋に捧げた男、武市半平太。

そんな武市にも妻がいました。富子(とみこ)です。

文政13年5月18日に土佐に生まれ、土佐で育ち、

嘉永2年(1849年)に武市半平太に嫁ぎました。

武市半平太は尊王攘夷一筋でしたが、

女性関係にも真面目で妻富子に一途でした。

武市半平太は剣術も学問も優れ、評判の高い人格者で、多くの若者が武市に憧れ、

武市が開いた道場に通い、そして土佐勤皇党に加わりました。

しかし、酒豪が多い土佐では珍しく下戸(お酒が弱い)という一面もあり、

遊郭で女性と遊ぶことも苦手だったそうです。

 そんな真面目な武市半平太の妻富子に対する愛を感じるエピソードを紹介します。

2010年に放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」でも描かれていました。

 

【秘話】

武市と富子が夫婦になって3年たった頃、

富子は武市の友人から言われたそうだ。

「武市さんは立派な人や。子ができんというのは本当にもったいない。

富子さんが家を空けてくれたら、その間におなごを連れてきて武市さんの世話をさせちゃる。

そのおなごに子を産んでもらいや。」

 

武市と富子の間には子供ができなかった。

幕末において一族の血統を絶やさないように子供を産むのは当然のこと。

妻にも子供を産む責任があった。

 

「3年間子供ができないのに、旦那さんは何一つ文句を言わず私を家に置いてくれている。

他の女を旦那さんのそばに置くのは嫌だが、ここは私が我慢しよう。」

富子は家を空けて実家に帰ることにした。

 

代わりに武市の家にやってきたのは、顔立ちの良い若い娘だった。

だが、武市はその娘に対して指一本触れない。

武市の友人もあきらめが悪く、その後もどんどん若い娘を武市の家に連れてきたが、

一切その娘たちに手を付けなかった。

 

友人の策略に気づいた武市は富子を実家から呼び戻し、こう言った。

「つまらんことをするな」

 

武市が吉田東洋暗殺の件で牢屋に投獄された時も、

富子は、

「旦那さんが冷たい地べたで寝ているのに、私が布団で寝ることはできない」

と自分も板の間で寝て過ごしたという。

武市も富子を想い、富子も武市も想う。

子供がいなくても、武市と富子の夫婦のきずなはとても強かったのである。

 

 尊王攘夷に生涯を捧げ、己の生き方を貫いた男、武市半平太。

妻にも一途でまっすぐな男でした。

 

武市瑞山