笠哲哉ブログ

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主筆 笠哲哉   ryu543212001@yahoo.co.jp                      


       



当ブログは文化的社会的意見の報道を目的とした日刊の機関ブログです 特定の個人 公職候補者等の支持または不支持を訴えるものではありません 念のため

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恭しく 紀元節を御祝い奉る

神津御祖皇大神の 天降りを御命じ奉りましてより今年で一百七十九万五千一百四十五年余 
皇孫の 御神勅を奉じ給いて 天降り給いましてよりの
宝祚の 弥栄を御祝い奉る
皇御祖 神日本磐余彦火火出見天皇の橿原宮にて御即位遊ばしましてよりの 
高御位の 弥栄を御祝い奉る
天機麗しく大慶至極を御祝い奉る
東宮殿下はじめ皇族殿下安康を御祝い奉る

皇祖皇宗の肇国の礎となりし皇御軍の英霊を奉護・顕彰する 英霊顕彰会は 建国記念祭を
靖国神社にて奉祭致し 
天孫降臨以来の皇国体の護持・顕現 天壌無窮の御神勅 恢弘大業の大宣 神武神勅建国の大詔の精髄を奉伝拝承する紀元節奉祝式典を奉催する

純正保守の旗を掲げ 国民に選択肢を与えよ(上)

欧州政党政治における4大勢力


西欧の立憲君主国や共和国をモデルとした政治学上の知識では 政党政治を構成する政治勢力を大きくは4大勢力に分類する事がある 仏革命や英革命を先鞭として 第一次世界大戦における露 独 墺の帝政崩壊 そして 第二次大戦における伊の王政崩壊と 中欧や東欧でのこの二つの大戦の結果起きた諸君主制の崩壊は 西欧・北欧諸国においても立憲君主国の内実を民主共和制に近似させる趨勢の一つの要因ともなった 現在ではソ連圏の崩壊が逆に 中欧・東欧では王政復古の流れを作り出し始めているのはブルガリアのみならず 散見されるところであるが 革命によって王家が血統として途絶させられるという経緯をもってしまうと 幸運にも亡命王家をもった国とは異なり 擬似王政たる ナポレオン三世型帝政あるいは国民社会主義型独裁やプーチンのような行政権力主導の統制政権などのあいだを彷徨するという不幸な行く末をたどることになる
4大政治勢力とは 第一に 市民・国民革命の主力であって 王権を倒して誕生した 国民主権主義者 今日の自由民主主義勢力である 私的所有の保護拡充を基調とする市場経済派であって 市場の社会的あらわれである市民社会における(政府からの)自由や権利を政治上の原理とする
第二には 第一勢力の同伴者であって 充分に果実を獲得し得なかった無産階級の利益を代弁する社会主義・共産主義勢力である 究極 生産手段の社会的所有を目指し 第一勢力が結果主導権を握る 市場の自由や 議会制度の原理性を否定する
第三には無産階級や労働運動を基盤とするが 国民経済上の富の均霑を根拠に 政治権力による市場経済と社会的弱者の調整が可能とし 究極的にも生産手段の社会的所有を原理とせず 従たる調整政策としての重要公共産業の国有・国営化や富の再分配を 議会政治を通じて 漸進的に実現せんとする社会民主主義勢力である
これらの三大勢力の共通点としては 哲学的には人間 政治的には政府やその意思決定過程を支配する主権者に程度の差はあれ 絶対的可能性を認め 従って 政治の計画・企画した事を実現することで 人間が幸福になれる 転じて 理想や理念を目標に むしろ 現実を改革・進歩させるのが政治の任務と心得ている点である
これらの基調となっている人間万能主義 社会改造志向への反動が 第四の保守勢力であって 人間の頭脳の創作した 理念や政策ひいては科学・技術の万能性への不信や専門知への軽蔑が哲学的基礎にあり 慣習や伝統 個人の判断より 共同体の暗黙の了解を重んじる 本来 革命勢力とは敵対するのだが 選挙による議会構成が秩序化すると 議会の中に国民主権の牙城たる議会のなかに議会制度そのものへの反動である保守「党」が存在するということになる
概ね 欧州からみると 保守勢力・王党派がほぼ皆無である教派上の亡命・移民国家として出発し 国内最保守派が 欧州ではリベラルと分類されるようなバイアスをもち 二度の大戦でいずれも戦勝利得を得社民・共産の勢力の伸張をみなかった例外国家 米国を除いては 欧州では 自由民主主義と社会民主主義の二大勢力に キリスト教民主党勢力という 保守の要素も含む中間政党がからむ形で 政権が構成されてきた 結果 いずれの勢力の支持者も望む 産業振興や高福祉 労働者・零細企業・自作農の保護を国家の経費で賄うという政策が 戦後復興からの連続でおこなわれ その結果各国共通の国家財政破綻と行政セクターの肥大による 市場経済への寄生・間接部門の増大は 現在 新自由主義経済政策による マイナーチェンジを この政権担当二大勢力である 社民・自民にもたらしている
そもそも 共産・社会主義勢力がソ連圏という背景を持ちながら 労働者・農民・零細市民をして市場経済・自由世界秩序を脅かす 伸張をすることの防止策という 観点から 自民も社民も 政府による公共政策や富の再分配に血道をあげてきたのだから ソ連崩壊にともなって 反動が一般化したのは当然だった  


欧州に近似する我が国 社会民主勢力



我が国も明治維新以降 主として欧州の政治制度を 国情に照らし適切と判断できるものは取り入れてきた そして それを 近代国家の外皮として纏ってきたのだが 先ほどの四分類でいくと 保守以外の勢力はほぼ無力といってよいほどの小勢力でしかなかった これは政府が国民各層の政治的・社会的要求を政府の政策として予め取り入れてゆく能力に優れ また 内務省の牧民思想が 政策の実施場裏においてうまく適用されていたこともある 帝國臣民としての自覚は 相次ぐ戦争にもかかわらず 政府を中心に一致団結した国民意識を薫嬢した
ポツダム宣言受諾 停戦 占領となって 最初に 各政党が立案した 綱領や 憲法草案の類を見ても 日本共産党を除いては 無産政党すら 国体護持 立憲君主制という線では揺ぎ無かった
日本社会党を中心とする社会民主主義勢力は その中に加入戦術をとっていた社会主義協会という(現在の新社会党)紛れも無いマルキストや 社会主義青年同盟解放派(現在の革労協)同じく社会党員・総評構成団体の外皮をまとった動労(現在のJR総連・革マル派系)などの新左翼諸派を除いては 村山総理の皇大神宮参拝に見られるごとく 決して 革命勢力ではなく 戦後の空気のなかで 支持者を獲得し煽るための策略としての社会主義であって 内容は 欧州立憲君主国の社会民主勢力並みであったといえる
細川政権以降の 政界再編において マルキストよりの言説から解放された日本社会党の政治家は 現在民主党に移行し 冷戦が前提での 日米安保体制に対する評価で分裂していた 民社党 日本社会党の二派は今双方が民主党の中核を占める 総評・同盟も連合として統一され 労働者政党が二つある意味もなく 小沢民主党党首は名目上の副代表やらあるいはTVに良く出るような 新保守ないし新自由主義系の連中ではなく 実際に己の側近として選挙・党機関・国対を掌握させてるのは 連合と関係が蜜な日本社会党出身議員であってこの構図は 主義主張というよりも金と票を握る労組と一般国民へのイメージ戦術としてのネオ・リベラル若手議員の活用という西欧社民の手法そのものでしかない


革新陣営=ソ連・中共贔屓への反動形成としての「保守」


翻って 我が国の 自由民主主義及び保守陣営はどうだったか 占領下 片山・芦田の保守・自由・社会の三勢力が協調した政権の経験を経て 周辺領域で起きた朝鮮動乱を象徴的事態として 米・西側陣営と ソ・中共ら東側陣営による世界分割が国内政治の陣営割りに反映して 共産党と左派社会党に出自する社会民主主義者をも含む日本社会党の陣営と 右派社会党に出自をもつ民社党 また綱領で「人間社会主義」を謳うものの 平和志向の中道右派で市民革命肯定の潜在共和主義者である公明党という 西側よりの中道派 そして自民党というように一旦は落ち着いたものの 左傾マスコミ・進歩的文化人が使い始め擬似学術用語にまでなり 政党自身も使用していた 「革新」対「保守」という通俗政治用語の呪縛が 社共陣営による浮動票や中道右派の囲い込みのみならず 保守・自由民主量両勢力をも捕らえ始める
最近までは 改憲・自主憲法制定 (旧)教育基本法改正 原子力 核武装 自衛隊の軍隊化 靖国公式参拝 行財政改革などの保守的政策は自民党内での研究にとどまり 政治の舞台に上げるのはタブーとされてきた 一つには米国の主導する西側陣営に属するかどうか つまり日米安保条約に対する態度 をもって社共左翼陣営の属さない政治家をできるだけ幅広く自由民主党が組織してきたことが 社会民主主義者も協同組合主義者も自由民主主義者も保守も含む曖昧な「党」としての反動形成性を特徴してきた 
国民共同党党首であった三木武夫総理 初当選は日本社会党であった鈴木善幸総理 新自由クラブ党首であった河野洋平総裁など あきらかに自由主義者のなかでも社民よりの いわば社民リベラルの政治家が総理総裁にまで登りつめている 現在でも小泉・加藤・山崎氏らのネオ・リベラル路線の有力政治家を抱え 彼らの容共・社会改造志向はとても「保守」とはいえないだろう

我が国 政財官界に浸透する中共の工作に痛打を浴びせよ

どうも 軽く調査したところ 中共工作員を抱えるシナ系企業は 我が国にかなり浸透し自民党を含む 与野党の政治家にも パーティー券の購入はじめ金銭上の便宜を与え 従って官庁にも顔が利くらしい 直接にはシナでの商習慣の日常的贈賄を我が国でも習慣的に続けてるだけなのだろうが 結果的には企業幹部のカヴァーをまとった彼ら中共工作員の浸透には効果絶大であったとういことだろう
開 憲兵伍長襲撃事件への反撃からはじまった 我々の情報・保安活動は 自ずと我が国 政財官界への工作の暴露また特定領域においては防諜活動へと発展せざるを得ない
二月十一日の正規の発足が楽しみだ

靖国神社国旗掲揚参拝者殴打事件犯人・王班亜の身元続報

王班亜の職業がほぼ判明した 河南省にある「万通集団」という自動車関連部品製造販売会社の副総経理を務めていたとのこと 「万通集団」では退任時期隠匿の上 在籍していたことを認めた
逮捕後も同社関係者が犯人の支援を行ってる形跡があることから事実上同社の経営陣の一員と判断される
日本国内では「温州市・冠盛自動車部品製造有限会社国際営業部総経理」の肩書きも名乗っているとの情報もあり 未確認ながら 日本自動車市場への浸透を狙って数社のグループで数年来営業活動をしてきたものと認識できる
情報の確度を精査次第 これらの企業集団との取引停止を我が国の自動車メーカーや業界に求めてゆく  また法務省入国管理局に 企業活動中の犯行である点を重視して今後 これらの企業集団に商用査証や入国許可の点で慎重な対応を要求する

英霊顕彰会の情報・保安部準備会合

昨日は 英霊顕彰会の本部理事らと 国旗掲揚参拝者殴打事件に対する対応や 紀元節の予定などにつき会合を持った 同じ顔ぶれで 友人の主催する「男たちの国防論」 http://www.giyuugun.jp/yotei.php  にも参加 その後 懇親会で例によって午前様
昨日の会合では とりあえず 具体的方策というよりは 呼吸と精神のすりあわせを重視したため 頭が勤王精神と皇国観念に凝り固まって 「紀元は二千六百年」気分に昂揚を見ていたところ トークライブを拝見していたのだが 第二部から登壇を薦められ 一旦ワイン二本の酩酊を理由に固辞したのだが 結局 登壇 壇上でももう一本で どうもかなりアナクロ感覚むき出しで いならぶ論客や観客の皆さんには 「なにをいってんだ」「キチガイか」「明治生まれか」「神がかってる」と思われたこと請け合いであった
主催者はじめ皆さんのお許しを願う 特に台湾問題については「台湾は本来帝國の一部」「台湾人の82パーセント以上は帝國臣民とその子孫」「現在的にも台湾人の要請に応えて 我が国の軍事的政治的保護下におくべし」などといくら本音とはいえ 皆さんがまじめに現実的情勢などを基礎に議論なさってるのに場違いであったようにも思い 後悔先に立たずといったところで 戦意昂揚時の登壇は厳に慎むべし

さて 正式には紀元節をもって発足させる 英霊顕彰会の情報・保安部の統括責任者から早速 有力な情報がもたらされている当該事件の犯人・王班亜の身元は自動車部品製造販売関連の会社経営者という有力情報で来邦の目的は国際自動車部品展覧会の開催準備らしい 当然我が国自動車メーカーへの営業行為もしてるのだろう 当然 商行為の不能な状況に 我が国企業をして犯人を追い込ませる必要がある

靖国神社に崇敬心篤く 学校の先輩でもある財界人の方に相談をしてみる予定

中共の侮りに 国民の力を示せ

靖国神社における 国旗掲揚参拝者に対する殴打事件は 単に傷害器物損壊ではなく 我が国の国家としての面目に疵を与えんとする共産主義者の暴挙である
敵性=国家標榜武装勢力に内応する非国民の思想運動=革命運動が衰退しているなか 直接に 中共・北鮮によって このような 神聖冒涜が 神域で行われるのを看過するならば 必ずや 便乗する売国勢力の伸張を見るだろう
よろしい 敵が靖国神社を 第一の攻撃目標と定めるなら 我々は敢えて反撃の第一撃を 靖国神社から始めよう 累々たる屍に 己自身続く決意を 己が英霊に続く行動を 靖国神社で誓うのだ
英霊顕彰会は 紀元節を期して 反撃の歩を進める

紀元節奉祝への構え


紀元節の奉祝行事はなかなか一つにまとまっていない 政府後援が長く続いた(財)国民の祝日を祝う会主催の集いは確か政府後援では無くなったとも聞く、以前そちらの事務局から役員の打診が来てたので内容をかなり前だが調べたことがあり 政治色や運動色を希薄にしてるとの事だった
神社本庁などの民間保守国民運動主体の集いは昨年は明治神宮での開催で1500人 同志 有村治子参議院議員も出席 登壇者からは自主憲法に関する発言もあった
もう一つは紀元節奉祝を謳った 新風も参加する集い
また昨年は渋谷での民族派諸団体による街頭行進もあった

英霊顕彰会では英霊にこたえる会の動向 また日本遺族会・神社本庁とも歩調をあわせて 紀元節奉祝の本義をまっとう致したく考えている

また 本年を期して 神武天皇建国の由来や今日における神武精神の継承などを語り継ぐ行事を創める予定

今上陛下御即位奉祝国民大会とその参集を兼ねた行進行事に 当時(学)学習院評議員とともに参集致した際 たしか黛敏郎実行委員長の下 本部のスピーカーから女性の声で先導放送があり「私たちの 天皇陛下 万歳!」と再三 発声があった
評議員と目をあわせ「逆!」「 天皇陛下の私たちでしょう」と驚愕した記憶がある
また同行事では 当時 即位礼での所作が物議を醸してた海部総理が 皇居前広場二重橋付近の満場の国民の歓呼の声に あたかも己の選挙民に応えるように手を振り 罵声を浴びた

奉祝行事であり めでたいことだが 「逆」は戴けない

その辺を重く受け止めながら 国民行事をすすめたい

選挙態勢

年明け早々永田町と霞ヶ関が始動すると選挙がらみの話が聞こえてきた
解散が今秋がタイミングとして良いという声と 現時点での国民世論では次期衆院選での民主党の勝利に期待するむきが半数近い勢いがあるという冷厳な事実との調整
ネット選挙解禁が今月の通常国会に上程 次期衆院選から適用とのこと 条件は氏名とメールアドレスの表示で まさに予想のとうり 当方は既にクリアーしてある
予定候補者のみならず 今後は公職選挙の関してまじめな言論をネット上で展開しようとすると氏名メアドの公開表示が義務づけられるので無責任な程度の低いサイトは淘汰される 公選法がらみは知能犯担当が捜査にあたるが 各陣営からの通報には警察当局は俊敏な反応を示すのは 私の経験では実証済み 室内ポスターを外向きに貼っただけで 通報から30分で警官隊登場である
解散がらみでいえば 古賀選対委員長の御苦労には頭が下がる 菅先生はじめ選対委員会の皆さんも大変な思いで重責にあたってらっしゃるので注文めいた事は発言できない

結果からいえば 現議席確保は 普通は不可能で 出来るだけ多くの当選者を出すことと 自民出身者で現在党を離れている同志が 衆院選後 政権の維持にどれだけ協力いただけるかを睨んだ選挙態勢の構築を秋までという時間限定では あまりに短いというのが現実だろう

民主党には細川・羽田政権の中核を担った幹部も多い 9党・会派連立で内部分裂が政権崩壊の引鉄だったが同時に実現すべき政策が統一されておらず 政治権力そのものが自己目的であった点で自民党と同様の問題を孕んでいたのを記憶してる指導者もいるだろう

自民 民主いずれに所属あるいは無所属であっても ともに政権の重要政策や国家目標をめぐる価値観を 選挙前に明確にし 再編に備える方が行動しやすい その意味で平沼先生や中川先生の「真保守」を掲げた勢力がボールを投げてくれる事を期待する

昭和天皇武蔵野陵遥拝式


1月7日は 
先帝陛下の 崩御遊ばし給いし日 日を見るに 6日に御祀り奉る方がよろしかろうと判ずるのでそうする
学習院の大先輩で会津藩の松平保定伯殿が武蔵野陵の斎官に御奉仕なさっていた時の記録を 御本人の解説で拝見致した事がある 厳冬でもぬばたま染めというか麻の墨衣にての厳しい御奉仕を垣間見た
確か 昭和天皇崇敬会(現在は財団法人 昭和聖徳記念財団に改組)の学習院関係の集まりの流れで 私の所属する学習院桜友会 輔仁会文化部役員桜友会会長で 学生時代から学習院内のこころある学生の指導者であり桜友会理事 学習院評議員等歴任なさり 放射線の研究者としては科学技術長官賞受賞者である 井原先生が上映施設を手配いただいた 井原先生は 御即位御列の儀に神社本庁の御好意で本院が参加致した際も 奉迎団の団長として引率いただき その節は 東園敬神婦人連合会会長( 北白川宮成久王殿下の第2女王殿下として御生誕)に御会釈の栄も賜り 一同の者は恐懼した


下って私事ながら 通常服のネクタイを銀白の斜縞からなかなか銀灰単色のものに切り替えられなかった
思い込みが強いのか装束にも 昭和の 御代の麗しき思い出が一つ観念を結んでしまう
学生時代より年に数回は着用し 裾がモーニングカットではなくまた 最敬礼・拝礼用にワタリを太くしてもらうなど思い出の通常服でもあった 故あって 敬宮殿下御誕辰を節目に 様々な役職の退任の我儘を願い 人断ちまでしていたので処分した

先帝陛下の
皇国体を 御護り給い 国家鎮護・大東亜解放の 御聖徳を 御治世の 御恵みと遍く世界に亙らせ給い今も 国家の進路に 御導きの 御光の明浄に輝き亙るは 人臣の直視能わざる如し

国体の本義 祭祀と道徳

明治天皇の御製に、
神風の伊勢の宮居の事をまづ今年も物の始にぞきく
と仰せられてあるのは、我が政始の御儀を御歌ひになつたのであつて、この御儀には、総理大臣が、先づ前年中、神宮の祭祀の滞りなく奉仕せられた旨を奏上する。こゝに、我が国政治の最も重要なものとして、祭祀をみそなはせ給う 大御心を拝することが出来る。大日本史の神紙志に、
夫れ祭祀は政教の本づく所。 敬神尊祖、孝敬の義天下に達す。凡百の制度も亦是に由つて立つ。
とあるのは、祭祀と政治と教育とが根源に於て一致する我が国の特色をよく明らかにしてゐる。我が国は現御神にまします 天皇の統治し給ふ 神国である。 天皇は、 神をまつり給ふことによつて 天ッ神と御一体となり、弥々 現御神としての御徳を明らかにし給ふのである。されば 天皇は特に祭祀を重んぜられ、 賢所・ 皇霊殿・ 神殿の宮中三殿の御祭祀は、 天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。明治二年、神祇官内に 神殿を建てて、 天神地祇・ 御歴代 皇霊を奉祭せられ、同三年、 天皇は鎮祭の詔を渙発し給うて、
朕恭しく惟みるに 大祖業を創め 神明を崇敬し蒼生を愛撫す。
祭政一致由来する所遠し矣。朕寡弱を以て夙に 聖緒を承け、日夜怵惕、天職の或は虧くることを懼る。乃ち祗に 天神地祇 八神曁び 列皇神霊を神祇官に鎮守して、以て孝敬を申ぶ。庶幾くは、億兆をして矜式するところあらしめむ。
と仰せられた。臣民は、この大和心を承け奉つて、同じく祭祀を以て我が肇国の精神を奉体し、私を捨てて 天皇の御安泰を祈り奉り、又国家に報ずる精神を磨くのである。かくの如く 天皇の 神に奉仕せられることと臣民の敬神とは、いづれもその源を同じうし、 天皇は祭祀によつて弥々君徳を篤くし給ひ、臣民は敬神によつて弥々その分を竭くすの覚悟を堅くする。
我が国の神社は、古来祭祀の精神及びその儀式の中心となつて来た。神社は惟神の道の表現であつて、 神に奉斎し、報本反始の誠を致すところである。御鏡に関する神勅は、 神宮並びに 賢所の奉斎の由つて来る本であり、神社存立の根本義は、日本書紀の 皇孫降臨の条に於ける 天ッ神籬及び天ッ磐境に関する神勅にある。即ち高皇産霊ノ神が、天ノ児屋ノ命・太玉ノ命に、
吾は則ち 天ッ神籬及び天ッ磐境を起樹てて、当に吾孫の為めに斎ひ奉らむ。汝天ノ児屋ノ命、太玉ノ命、宜しく 天ッ神籬を持ちて、葦原の中ッ国に降りて、亦吾孫の為めに斎ひ奉れ。と仰せられた執心に副ひ奉るのである。
神社に斎き祀る 神は、 皇祖皇宗を始め奉り、氏族の祖の命以下、 皇運扶翼の大業に奉仕した 神霊である。この神社の祭祀は、我が国民の生命を培ひ、その精神の本となるものである。氏神の祭に於て報本反始の精神の発露があり、これに基づいて氏人の団欒があり、又御輿を担いで渡御に仕へる鎮守の祭礼に於て、氏子の和合、村々の平和がある。かくて神社は国民の郷土生活の中心ともなる。更に国家の祝祭日には国民は日の丸の国旗を掲揚して、国民的敬虔の心を一にする。而してすべての神社奉斎は、究極に於て、 天皇が 皇祖皇宗に奉仕し給ふところに帰一するのであつて、こゝに我が国の敬神の根本が存する。
祭には、穢を祓つて 神に奉仕し、まことを致して 神威を崇め、 神恩を感謝し、祈願をこめるのである。 神に向ふ心持は、我が国に於ては親と子との関係といふ最も根本的なところから出てゐる。即ち罪穢を祓つて祖に近づくことであり、更に私を去つて公に合し、我を去つて国家と一となるところにある。
而してその穢を去つた敬虔な心からの自然の発露としては、西行法師の
何事のおはしますをば知らねども忝さの涙こぼるる
といふ歌がある。
神社は国家的の存在であるのを根本義とするものであるから。令に於ける神祇官以来、国家の制度・施設として有して来たのであつて、現在に於ける各派神道、その他の一般の宗教とはその取扱を異にしてる。
明治天皇の御製には、
とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊勢のおほかみ
と仰せられ、又、祝部行氏も、
神垣に御代治まれと祈るこそ君に仕ふる誠なりけれ
と詠んでゐる。かくて 皇大神宮は我が国神社の中心であらせられ、すべての神社は国家的の存在として、国民の精神生活の中軸となつてゐる。
我が国祭祀の本旨は以上の如きものであるが、これを西洋の神に対する信仰に比すると、その間に大なる逕庭がある。西洋の神話・伝説にも多くの神々が語られてゐるが、それは肇国の初よりつながる国家的な神ではなく、又国民・国土の生みの親、育ての親としての神ではない。我が国の 神に対する崇敬は、肇国の精神に基づく国民的信仰であつて、天や天国や彼岸や理念の世界に於ける超越的な神の信仰ではなく、歴史的国民生活から流露する奉仕の心である。従つて我が国の祭祀は、極めて深く且広き意義をもつと同時に、又全く国家的であり、実際生活的である。
以上の如き 敬神崇祖の精神が、我が国民道徳の基礎をなし、又我が文化の各方面に行き亙つて、外来の儒教・仏教その他のものを包容同化して、日本的な創造をなし遂げしめた。我が国民道徳は、敬神崇祖を基として、忠孝の大義を展開してゐる。国を家として忠は孝となり、家を国として孝は忠となる。こゝに忠孝は一本となつて万善の本となる。
忠は、明浄正直の誠を本として勤務をはげみ、分を竭くし、以て 天皇に奉仕することであり、この忠を本として親に対する孝が成り立つ。それは我が国民が、祖先以来行つて来た古今に通じて謬らざる惟紳の大道である。
「教育ニ関スル勅語」には国民道徳の大本を教へ給うて、
股惟フニ我カ 皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
と仰せられ、又、
斯ノ道ハ実ニ我カ 皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民卜倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
と宣はせられてある。
我が国に於て明浄正直の誠が重んぜられたことは、語事に見え、宣命に示され、冠位の名ともなつたことによつて明らかである。宝基本紀等に「冥加は正直を以て本と為す」といひ、又倭姫ノ命世記には、
黒き心無くして丹き心を以て清く潔く斎り慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も、万の事違ふ事なくして、大神に仕へ奉れ 元を元とし、本を本とする故なり。
と述べてある。これは即ち明浄正直の精神を明らかにするものであつて、左右相混ぜず、右を右とし左を左とし、各々その位を正し、その分を明らかにして寸毫も違はず、一切の歪曲を許さず奸悪邪曲を容れない心である。而してこの寸毫も違はない正直とその正直の働とを以て、始めて元を元とすることが出来る。北畠親房の神皇正統記は、この精神を承けて正直を強調し、その著とせられる元元集の名は右の文を直接の典拠とすると思はれるが、国民道徳として特に心すべきことは、この左を左とし右を右とし、夫々のものをあるべき情態、正しき姿にあらしめ、以て元を元とし、本を本とすることである。
我が国民道徳の上に顕著なる特色を示すものとして、武士道を挙げることが出来る。武士の社会には、古の氏族に於ける我が国特有の全体的な組織及び精神がよく継承せられてゐた。故に主として儒教や仏教に学びながら、遂によくそれを超えるに至つた。即ち主従の間は恩義を出て結ばれながら、それが恩義を超えた没我の精神となり、死を視ること帰するが如きに至つた。そこでは死を軽んじたといふよりは、深く死に徹して真の意味に於てこれを重んじた。即ち死によつて真の生命を全うせんとした。個に執し個を立てて全を失ふよりも、全を全うし全を生かすために個を殺さんとするのである。生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する。生もこれにより、死も亦これによる。然るに生死を対立せしめ、死を厭うて生を求むることは、私に執著することであつて武士の恥とするところである。生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である。
戦国時代に於ても、領主はよく家長的精神を発揮して領民を愛護してゐる。これ又武士道の現れでなければならぬ。武士の心掛は、平時にあつては、家の伝統により敬神崇祖の心を養ひ、常に緩急に処する覚悟を練り、智仁勇を兼ね備へ、なさけを解し、物のあはれを知るものたらんと努めるにある。武士道の大成に与つて力のあつた山鹿素行・松宮観山・吉田松陰等は、いづれも敬神の念に篤い人人であつた。この武士道が、明治維新と共に封建の旧態を脱して、弥々その光を増し、忠君愛国の道となり、又 皇軍の精神として展開して来たのである。
仏教は印度に発し、支那・朝鮮を経て我が国に入つたものであるが、それは信仰であると共に道徳であり、又学問である。而して我が国に入つては国民精神に醇化せられて、国民的な在り方を以て発展した。古くは推古天皇二年春二月に、 天皇は皇太子及び大臣に三宝興隆の詔を下し給ひ、その詔によつて君恩と親恩とに報ずるために寺塔が建立せられた。君親の思を報ずるために寺を建てるといふ仏教伝来初期のこの精神は、やがて南都仏教に於て鎮護国家の精神として現れ、天台宗・真言宗に至つてはこの標幟を掲げ、その後臨済宗の興禅護国論の如き、又日蓮宗の立正安国論の如き主張となり、その他、新仏教の組師達も斉しく王法を重んじた。而してこれと共に、その教理的発達にも大いに見るべきものがあつた。真言宗が森羅万象を大日如来の顕現とし、即身成仏を説き、天台宗が草木国土も悉皆仏性をもち、凡夫も悟れば仏であるといひ、解脱を衆生に及ぼすことを説くところに、 天照大神を中心とする 神祇崇敬及び帰一没我の精神、一視同仁、衆と共に和する心に相応ずるもののあるのを観る。南都仏教の或ものに於ては、解脱に差別を説いてゐるのに、平安仏教以後、特に無我に基づく差別即平等、平等即差別の仏教本来の趣意を明らかにして、一切平等を説くに至つたのは、やはり差別即平等の心を有つ我が国の氏族的・家族的な精神、没我的 全体的精神によつて摂取醇化せられたものであつて、例へば親鸞が御同朋御同行と呼びかけてゐるが如きこれである。浄土宗・真宗は聖道門に対する易行道の浄土門をとり、還相回向を説き、時宗は利他教化の遊行をなして、仏教をして国民大衆の仏教とした。親鸞が阿弥陀仏の絶対他力の摂取救済を詮き、自然法爾を求めたところには、没我帰一の精神が最もよく活かされてゐると共に、法然が時処所縁を嫌はず念仏して、ありのまゝの姿に於て往生の業を成ずることを説いたところには、日本人の動的な実際的な人生観が現れてゐる。又道元が、自己を空しうした自己の所行が道に外ならぬとし、治生産業皆これ報恩の行となす没我的精神、実際的な立場をとる点に於て同様のものをもつてゐる。この精神は、次第に神儒仏三教一致等の説ともなつて現れるに至つた。天台宗以下、釈尊よりの歴史的相伝師承を拠り所とし、聖徳太子に復らうとする運動を生じたところには、歴史・伝統を尊重する精神が見られる。かやうにして我が国は大乗相応の地とせられて、仏教を今日にあらしめたのであり、国民的な在り方、性格が自ら顕現してゐる。かくの如く同化せられた仏教が、我が文化を豊富にし、ものの見方に深さを与へ、思索を訓練し、よく国民生活に浸透し、又国民精神を鼓舞してゐるのであつて、彼岸会・盂蘭盆会の如き崇祖に関聯する行事をも生ずるに至つた。

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