旧面河村方面へ行ってみようと車を走らせた。
西条市から国道11号を行き、走り曲がりくねった桜三里の道を行った。
東温市の河之内トンネルを抜けると下り坂になる。
少し進むと左に田園風景が見えはじめた。
その中を山に向かって走る国道494号が見えだした。
しばらく行き、左に曲がりると494号線に入り、その道を上がって行った。
国道といっても、11号を逸れると車の往来は急に減ってくる。
車の往来が少ない山道にしては、道幅は広い。
見晴らしも申し分ないしお天気も上々、絶好のドライブ日和り。
緩やかに上がっていく国道をどんどんいくと、問屋(地名)というところに店が一軒ある。
白猪屋という酒や雑貨を売っているお店。
氷瀑で有名な白猪の滝へは、この辺りから上がって行くようだ。
藩政時代、久万高原町の旧面河村あたりに住んでいた人たちは、三坂峠や黒森峠ではなく割石峠を越え、狭い道を徒歩で上り下りしながら川内や松山に行っていたという。
明治の初年ごろになって、旧面河村の渋草や笠方から黒森峠を越えていく黒森街道が完成し、徒歩で割石峠を越えて行き来していた道は次第に寂れていった。
黒森街道と呼ぶ道は荷馬も通れる1.5㍍ほどの道幅で、馬がすれ違い出来る広めの場所が要所要所に設けられていたという。
面河地方で産出された材木や炭などの林産物は問屋という地域(下の写真)や、さらに下方の河之内近辺の店まで馬の背に載せて運び、帰りは醤油、昆布、塩やいりこなどの生活物資を載せて運んだという。
昭和の31年(1956年)に車が通れる県道黒森線(現在の国道494号)が開通し、車の普及とともに黒森街道もしだいに役目を終えていったようだ。
俯瞰すると、国道494号が曲線を描いているのが見える。
標高980㍍ほどの黒森峠を越えると久万高原町。
下っていくと家が所々に見えてくる。
笠方小網集落辺り。
建設業をしていたのだろうか。
倉庫の前にコンクリートミキサーが置いてある。
今は使っているようには見えない。
さらに下っていくと市口集落。
かつては近くに小学校もあり、地図では30戸ほどの家があったようだ。
1970年代後半に来た時、市口の憩いの家の下の方?にも茅葺きの家が何軒かあったように思う。
その場所は、今は整地され公園になっているあたりだったのだろうか?
茅葺きの廃屋があった頃
旧面河村の市口辺り(昭和50年代)
面河村立 笠方小学校跡
昭和43年4月に渋草小学校と統合とある。
学校跡の池でアカハライモリがたくさん泳いでいた。
高台にある学校跡からは面河ダム湖が見渡せる。
見晴らしはとてもいい。
となりには別荘が建っている。
小学校跡近くに八社神社がある
狛犬
さらに下って行くと無人の販売所があり、ピーマンやトマトなどが並んでいた。
土泥集落の大きなお家。
かつては茅葺き屋根だったのだろうが、今はトタンで覆っている。
古い地図を見ると土泥には30戸ほどの家があったようだ。
土泥にガソリンスタンドがあったが、今は廃業している。
国道494号線の拡張工事に伴いこのお店は立ち退きになり、今はこの建物もなくなっている。(2011年7月撮影)
となりには比較的新しい建物の食堂もあったが、それもなくなっていた。
この店の左側の道を入っていくと石灯籠があった。
石鉄 金比羅の文字が見える
県道(後に国道)が完成するまで、おそらく橋を渡り家横を行くこの狭い道が主要な道だったのだろう。
石灯籠
石鉄山 金比羅の文字が見える。
橋の名前が書いてあるが、わかりにくい。
昭和23年6月架設と書いてあるのか?
橋を渡ったところに数軒の家がある。
旧道にかかる橋を渡って行くと、家の軒下にあるむしろやじょうれん?の上に作物(芋の茎?)が天日干ししてあった。
大きなお家があるが住んではいないようだ。
家前の畑は耕作はしているみたい。
時々は訪れ畑仕事をしているようだ。
土泥の近くにお堂のようなものがある。
松山市農協の渋草の面河支所
店舗の裏山にはお茶の木が植えてある。
車道がだんだん整備されていき自家用の自動車が普及するまでは山間の旅館は繁盛していたようだ。
「この辺りにはもう一軒宿があった」と、渋草に生まれ育った知人の中川氏(今は松山市に在住)が話してくれた。
この大西旅館は大きくて目立つ。
よく見ると木造3階建てだ。
面河ダム建設当時は、建設に携わる多くの労働者たちが利用したという。
大西旅館前にある貯水槽
旅館横に、今はもう営業はしていないが高須賀酒店があった。
その上には薬師寺がある。
酒屋店内のなつかしいポスター群。
(現在は廃業していて商品などは何もなく、空っぽになっている)
昭和の面影を残してくれていたお店だったのに
閉店してしまい残念。
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