石鎚村を歩く | ア-ルの写真記

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(日本写真家協会 会員)

旧石鎚村(千足山村)にある四国霊場 第六十番札所 横峰寺奥の院 星が森峠(金の鳥居)から愛媛県西条市と久万高原町の境に位置し聳えている西日本最高峰 石鎚山(1982m)を遠望出来る。

ここから観る石鎚山は実に雄壮で神々しい山だと見るたびに思う。

何度見ても飽きない山だと思う。

バス路線が河口まで開通する昭和初期以前、多くの石鎚参拝者や千足山村(石鎚村)の住人はじめ多くの人たちがこの星ヶ森峠を跨ぎ往来していた。

 

星ヶ森峠から石鎚山へと通じる道を10分ほどだろうか、下りていくと郷集落跡が見えてきた。

そこで「寛政四」の文字と一緒に「千足村」の文字も彫られた地蔵の台座を見つけた。

寛政4年(1792年)のころ、すでに石鎚村は千足村と呼ばれていたようだ。

 

地蔵の台座に寛政四と彫られた文字       於 石鎚 郷集落跡

 

明治時代の町村制施行により1889年から周敷郡 千足と呼ぶようになるが、1897年周敷郡と桑村郡が合併し周桑郡となり、周桑郡千足山村となっている。

千足山村の集落はほとんどが石鎚山の山間にあり、遠方からやってくる多くの参拝者たちは、村内を往来したり村内で宿泊したりと、昔から石鎚山とは深いつながりがあった。

多くの参拝客を受け入れしている村として、又石鎚山に寄り添うようにしてある村として、千足山村より「石鎚村」という名の方が親しみがありふさわしいのではないか、と村議会で審議したという。

結果、千足山村から石鎚村に村名変更することが決まり、1951年から「石鎚村」となった。

しかしながら、石鎚村と呼ばれるようになったのもつかの間、4年後に小松町との合併問題が持ち上がり、1955年4月に合併し小松町石鎚という呼び名に変わった。

石鎚村とよばれたのはたったの4年間だけだった。

 

                横峰寺奥の院 星ヶ森峠から遠望

 

        1951年(昭和26年)ごろ石鎚村(千足山村)の地図

石鎚山の山頂より旧石鎚村方面を望む。

見渡すかぎり山である。

そんな中に石鎚村はあった。

標高200~600㍍ほどのところに20ほどの集落があり、明治時代は人口は多いときで1300人余りの人が暮らしていたという。

写真の上部は雲が覆っているが、天気のいい日は山並みの向こう側に周桑平野が見え、田園風景や工業地帯が広がり、町並なども見下ろせる。

さらにその向こうには、湖のように波静かな瀬戸内海が見える。

 

 

かつて、石鎚山頂からは旧石鎚村の中村集落や兼藪集落などが見えていた。今は畑や家跡に植林された杉やヒノキの木が大きく育ち、山肌にあった集落や一面にひろがっていた畑を覆ってしまい、山頂からほとんど見えなくなった。

下の写真下方に、台形の形をした白い小さなものがポツンと見える。

旧石鎚村の中村集落に2014年末まで住んでおられたS氏のお家だ。

石鎚山頂より石鎚村中村集落方面を望遠レンズで写した。

 

中村集落

あき谷という谷川に架かる石橋、長さが2㍍ほどはあるだろうか?

この橋を渡って坂道をしばらく行くと石垣が見えてくる。中村集落に近づいたようだ。上がって行くと石積みのダイナミックな石灯籠に出会う。

 

中村の灯籠(野灯)の石積みは、石貝にある野灯と同じように素晴らしい。この村では、石灯籠のことを野灯(やとう)とよぶようだ。

このような石積みの野灯を、崩れているものも含め村内で7カ所見つけた。

石鎚村にある個性的な石灯籠だ。

          (写真は下から見上げて写したもの)

 

 

中村の灯籠(野灯)向こうに見える山は成就社あたり。

山の向こう側に成就社の境内がある。

石鎚中村集落は平家の落人集落で、落人たちが隠れ住んだ時代、野灯がある辺りは落ち合う場所だったと、中村に住んだS氏はいう。

 

雪の旧石鎚村 中村のS氏宅。

S氏宅前はS氏の庭でもあり谷ヶ内集落へと行く道でもある。

屋根から落ちてきた雪が覆っていた。

車を駐めた諏訪神社の駐車場にはほとんど雪はなかったのに、ここまで上がって来ると雪も多くなっていた。

ここの標高は600㍍弱だろうか。

 

 

中村集落を通り抜け、少し上ると見晴らしのいい所に出る。

ここから石鎚山の山頂が見える。

 

 

さらに上って行くと鉄製の索道があった。

この索道は二代目だそうで、昭和48年頃に同じ場所に架け替えたという。

 

索道のすぐ上に、コンクリート製の水槽があった。

最初見た時、防火用かと思った。

水槽の水をタンクに入れて重しにし、索道で下から荷などをここまで運び上げていたという。

後に水力から、発動機(エンジン)に変わっていったようだ。

昔使っていた発動機が索道下に残っていた。

 

 

急峻な山肌にある中村から谷ヶ内に行く道は、植林した木々などが手入れされずに雑然と立っていて陽当たりは悪い。下草も十分に生えず、地面は猪にほじくり返され崩れ落ちて来た土砂が覆っていて道がわからなくなっている。

人が利用しなくなり役割を終えた古道は補修されることなく消えかけている。代わりに猪やシカなどが通る獣道らしき道があちこちに出来ていて、古道と間違うことがある。

高度を上げ下げせずに、道だったと思う荒れた山肌をほぼまっすぐ進んでいった。

 

ここらあたりは、イノシシが山肌をほじくり返して荒れている所。

 

谷ヶ内集落

足下に気をつけながらゆっくりと進んで行きふと顔を上げると、突如として石造物が目に入ってきた。六地蔵だ。

集落はまだまだ先にあると思い歩いていたのに、思ったより早く六地蔵がある所に着いた。

谷ヶ内集落の入り口あたりに来たようだ。

集落入り口付近に六地蔵が鎮座している集落は石鎚村にはいくつもあると、石鎚村出身者の方が小松史談会の会報誌に書いていた。

槌の川や石貝、成藪、大平、郷、古坊なども、集落入り口近くにあった。

 

長年の風雨にさらされ続け浸食されたのだろう。

谷ヶ内の六地蔵は見るからに古そうだ。

藩政時代に造られたものだろうか?

ノミと鎚だけで彫ったものだ。

こんな山奥で、鎮座する地蔵に顔を近づけじっと対峙していると地蔵が神秘的に見えてくる。

道沿いに石を積みあげた崩れかけの台の上で何とか立ち続ける地蔵に心が動く。石鎚山の麓、周桑平野にかつて住んだ石工が彫った物をここめで持ってきたのだろうか。

芸術品を観ているようだ。

 

 

 

六地蔵前を通りすぎて行くと、石垣に沿って古道は奥に向かって長く続いている。

石垣群も奥へと長く続いている。

 

 

石垣の上は家や畑だったようだ。

集落に入っていくと、残骸がある。

茅葺きの家が潰れ落ちた跡だ。

押しつぶされて腐り土に戻ったのもあるだろうが、家の骨格部分がまだ腐りかけで残っている。

茅葺きの家は、人が住まなくなるとまず屋根がぬけ、やがては崩れ落ち、腐り、ゆっくりと地面になじみ溶け込み、土となり自然に帰っていくようだ。今日の家ように、粗大ゴミにはならずに。

昔山にたくさんあった茅葺きの家は自然の中で循環していく優しい建物だと思う。

 

谷ヶ内集落。

白壁?の比較的に新しいお家が見えてきた。

二階建ての建物のようだ。

一階は山から崩れ落ちてきた土砂が入り込んでいた。洗濯機が家中にあり、倒れかけで半分ほどが土砂で埋まっていた。

珍しい木製の種まき機が階段にもたれかかるようにしてあった。

 

さらに奥に行ってみる。

手前に三角形のトタン板がある。

かやぶき屋根の棟に被せてあったトタン板のようだ。

 

植林された木々で遮られ見えにくいが、重い石を積みあげた石垣が崩れ落ちてくる土を食い止めるように山肌を橫に這うようにして長く続いている。そんな石垣群が上の方にもあるようだ。

かつては、ここの石垣の上にも畑が広がっていたようだ。

 

 

大小の山石を上手く並べたり積み上げたりして造った、山上から谷に向かってある大がかりな排水路が、何カ所かあった。

コンクリートのない時代、石を上手く利用し土木工事を行い様々な構造物を造っていたようだ。

 

 

 郷集落跡の石碑

「ここに郷集落があったことをいつまでも忘れないでほしい」という強い念いで郷出身者の伊東鶴一氏が昭和54に建立した石碑。

郷にある六地蔵の前に立っている。

氏は、かつて住んだ石鎚村や若い頃のことを記録した『山家の思いで』という本を昭和の時代に出版している。

 

 

郷集落にあるこの石垣の上に尋常小学校が大正時代から昭和の4年まであったようだ。

石垣上に行き跡地を見まわしたが、小学校だったという痕跡を残すものは、すでに何もなかった。


槌の川集落跡

集落の家は谷川の両岸にそってポツンポツンとあったようだ。

千足山村(石鎚村)の村役場は昭和19年まで槌の川にあった。

ここには派出所も組合形式のお店もあって、千足山村といわれた時代の一時期、村の中心地としての役割を果たした。

しかしながら、虎杖まで車道が開通すると、交通の便利な虎杖にだんだんと人が集まりだし、派出所や農協などが移転、その後村役場も昭和20年に虎杖に移転した。

派出所は昭和3年に虎杖に移転し、村の中心地は時代とともに少しずつ、虎杖や土居といった車が通行可能な道沿いの集落に移っていったようだ。

 

槌の川の滝前という家があったあたりだろうか。

石を積み造った排水路があり、その上に石橋が横たわっているのがわかるが、長年の大雨などで遺構はだんだんと破壊され原型はもうとどめていない。

 

 

 

 

 

伊東鶴一氏が書いた本「山家の思いで」の中に槌の川集落の手書きの地図がある。

その中に、滝がある所から谷沿いに下りていく長い石段道が記してあった。

下の写真が傷んではいるが、石段道のようだ。

石段道の長さは100㍍まではないと思うが、足下が悪くて下りていくのに長い時間がかかった。

壊れかけの石段道を下りて行くと、谷川に突き当たった。

 

 

石段道を下りきった近くに家跡があった。

鶴一氏の本にある手書きの地図で屋号が「滝前」となっているお家だろうか?

棟部分の骨格だけが残っている。

 

 

 

瓶 何を入れるのに使っていたのだろうか?

酒を造っていたのだろうか?

 

 

「石積みのおくどさん」?のようなものがあった。

上には風呂釜にしては浅いが大きな釜がその上にある。

直径1㍍ほどはあるだろうか?

湯を沸かしていたんだろうか?

何に使っていたのだろう?

木を焼べて燃やす下方の火口は、石を被せ隠したままで、きれいな形で残っていた。

このような「石積みのおくどさん」のようなのが槌之川にはもう1カ所あった。

他の集落跡では、このようなレトロな「石積みのおくどさん?」は見なかった。

 

これは対岸にあったもの。

煙突が見える。

ここも大きな釜がのせてあり、中はゴミと雨水でいっぱいになっていた。

 

 

平地が広がっている所にきた。

役場があっただろうと思う所に来た。

 

 

あたりを散策。

これは五右衛門風呂の釜のようだ。

 

下の写真はお湯を沸かす茶釜。

昔母屋のおくどさんの上に載っかかっていていたのを思い出す。

 

 

槌之川集落を二分するように谷川が流れている。

ゴツゴツした大きな岩が谷川一面に転がる景色からは信じがたいが、この谷川の両サイドに点在して家はあったようだ。

 

谷川の岸に石積みが見える。

川に下りる石段がまだ形をなしなんとか残っている。

民家は谷川の両岸に沿って散らばってあり、谷を渡り行き来するのに丸木を束ねた橋が何か所かに架かっていたと思うが、とっくの昔に流されてしまったのだろう。なかった。

木製の橋が流されていかないようにと、橋にくくり付けたワイヤの片方が大きな岩や大木の根元には残っていた。

 

 

 

大木が繁り天気のいい昼間でも鬱蒼としている谷川沿いに、鉄筋コンクリート製の頑丈な橋が架かる。

この橋を渡ると梅本八幡神社跡がある。

旧石鎚村が千足山村と呼ばれた昔、村の人口は1300人余りいたときもあったようだ。

千足山村のこの槌之川集落に役場や派出所や農協があり、村の中心地だったとは、この辺りの光景を見ていると信じがたい。

                       槌之川

 

洪水時に流されて来る大きな石や流木などで、長年の間に橋はかなり傷んでいる。

人が住まなくなって45年以上も経つが、まだなんとか流されずに残っている。

橋の建設当時、氏子は二十数軒だったようだ。

そんな中、大金を投じこんなに立派な橋をよくぞ造ったものだと感心する。

当時の人達の神仏に対する念いは、相当なものだったんだなと想像する。

 

橋を渡りきると梅本神社と書かれた石碑がある。

高さは、地面からは3㍍くらいはあるだろうか?

石碑の奥に神社境内は広がっている。

本殿が境内奥の方に建っているが、屋根は倒木が刺さり傷んでいた。

手前にあった潰れた建物跡は拝殿?だろうか、崩れ原型を留めていない。

氏子の戸数が25戸と石碑に刻んであった。

 

 

槌之川集落を流れる谷川

 

槌之川の谷川

この谷川をどんどん遡って行くと天ヶ峠にいく。

 

 

黒川集落

石鎚参拝道、黒川道沿いにあった黒川集落の氏神様、八妙神社の入り口に立つ「八妙神社」と刻まれた石碑。

黒川には妙見神社と八幡神社、二つの神社が別々の場所にあったが神社合祀令でひとつになり、両方の神社名から1文字ずつとり八妙神社と以後呼ぶようになったという。

八妙神社と刻まれた石碑は御大典記念で昭和三年十一に建立され、碑の裏側に 石工 三津屋 粟田省悟とあった。

三津屋に私は住んでいるが近くに粟田石材店があった。先代の人かと思う。

 

 

今にも崩れそうな石製の八妙神社の鳥居。

山の斜面を通る八妙神社に通じる古道は崩れかけている所がいくつかあり、そこを通り抜けるのにちょっとあずった。

 

八妙神社境内

大きな狛犬が両脇に鎮座し、アーともウーとも言わずに黙って迎えてくれた。 

 

黒川道は、石鎚登山ロープウエイが開通するまで、今宮道と共に石鎚参拝の大動脈道としてたくさんの人たちが利用し行き交った道だった。

道の途中に上黒川、下黒川集落と二つの集落があり、参拝客を泊める季節宿が合わせて20軒程あり、お山開きの時期はものすごく賑わいをみせたという。

宿組合の料金表

宿泊代は米を持参をして炊いてもらっての値段だろう。

副食は味噌汁と漬物だけだろうか?

 

高校生のころ瓶ヶ森や石鎚山へ行っていた時は、米2合を持参し、たしか一泊650円を払って瓶ヶ森の白石小屋に宿泊していた。

晩飯は自分で持参した缶詰と炊いてくれた飯で、朝は味噌汁とたくあん2切れ、昆布の佃煮少々、昼の弁当にとおにぎりを用意してくれた。

 

 

 

諏訪神社秋祭り

土居、中村集落の氏神様 諏訪神社の秋祭り 

毎年11月3日に村出身や子供家族が集まりまずは神事が行われる。

 

 

神事の後は、練習を重ねてきた獅子舞の奉納がある。

 

 

 

途中之川(とちのかわ)

中山川の支流妙之谷川を

中山川の支流、妙之谷川を遡って行くと途中右に分かれる谷があり、その上にある道を上がっていくと途中之川集落がある。

途中之川の氏神様 鎌足神社跡。今は湯浪の尾崎八幡神社に合祀されている。

 

鎌足神社は集落からちょっと離れたところにあり、1本の道を10分ほど上がっていくと山の稜線にあった。道は神社前を通りこしどこに続いているかわからないが、稜線を跨いで下に向かって続いていた。

境内は草木が繁茂し境内を覆い尽くしているが、大きな石の鳥居が立っているのがわかる。

 

今にも潰れてしまいそうな鎌足神社跡。

 

 

途中之川は下途中之川と上途中之川、上部下部と2カ所に集落がある。

下途中之川に千足山村途中之川本校跡と刻また石碑が立っている。

横の面に明治41年開校と刻まれている。

ここは千足山村で一番最初に出来た小学校の跡だそうだ。

他の集落の子供たちが、峠を越えて長い道のりを何時間もかけて通うのは大変だということで、大正12年に本校は峠を越えた郷集落に移転、途中之川は分教場となったようだ。

この小学校跡は元々は寺の境内だった、と案内してくれたS氏は古老から聞いたという。

この石碑をS氏の祖父がたてたということを、石碑に刻また名前を見てS氏は初めて知ったようだ。

 

一面植林された下途中之川の尋常小学校跡地。

 

 

戸石集落

国道11号線から市道楠窪戸石線をどんどん上がって行くと 、コンクリートを一切使ってないトンネルに出会う。

岩勝トンネル(戸石トンネル)という。

建設当時、このトンネルの上のほうに岩勝集落があり、その名が付いたようだ。

ここ岩勝は昔の桜樹村楠窪、トンネルを抜けて行くとそこはもう隣村の千足山村(石鎚村)戸石集落になる。

 

家跡の横に山中に向かって続く道があり、行くとお堂があった。

 

 

お堂の中に破れた太鼓が残っていた。

 

天然石で造った手水舎があり、その奥に地蔵が鎮座していた。

地蔵の台座に安永、戸石 願主 影無 〇〇〇と名がある

影無は石鎚村でなく隣村の桜樹村で隣の集落だ。

両集落は往来や交流は盛んにあったようだ。

元禄時代の石碑も立っていた。

 

 

ここは戸石集落の荒魂神社跡。

荒魂神社は北川の石鎚団地内に移転し、その地域の氏神様として現在も祀られている。

 

荒魂神社前を通る古道は山の上に向かって続いている。

その道を上がって行くと天ヶ峠に辿り着く。

峠に地蔵と石鎚ミニ四国88ヶ所の42番札所がある。

ここからさらに星ヶ森峠に行く古道が消えているところもあるが稜線に沿って残っている。

現在は古道に沿うようにして林道も走っている。

天ヶ峠の地蔵さんの表情はやさしそうだが、頭はちょっとデカイ気がする。

 

 

大平集落

ここは大平と成藪集落の氏神 石素神社跡

今は諏訪神社に合祀されている。

「昭和の時代、石素神社でも祭りの日は獅子舞が奉納されていて、獅子舞を見に行ったことがある」

と石鎚の土居に昔住んでいた知人が話してくれた。

年輪を重ねた大木がある石素神社境内で、村人達がおおぜい集まり、賑やかに獅子舞が舞う姿が想い浮かぶ。

 

神社入り口。

鳥居の左側手前に石素神社と書かれた石碑が立っている。

その手前に石積みの台が左右に一対あるが、その上には何もなかった。

上には狛犬が鎮座していたのだろうか?

 

枯れて久しい大木の跡。

のこぎりで切った跡がある。

根元の直径は1.5m位はあるだろうか?

他にも枯れた大木の根元が境内の所々に残る。

 

有永集落

石鎚小学校跡近くにある橋を渡り上がって行った。

蔦に絡まれわかりにくいが電柱のような木の柱が2本立ちハシゴのように間に鉄の棒が何本かある。

よく見ていると半鐘台のようだ。

しかし半鐘はなかった。

 

有永集落の高智子神社跡

明治の神社合祀令のとき、諏訪神社に合祀したようだ。

村内をうろうろしていると「高智子神社遺跡」と刻まれた高さ1、2㍍ほどの石碑が有永集落内にポツンと立っていた。

ここに高智子という神社があったようだ。

 

土居

土居にある崩れた家の柱に陶器製のプレートが打ち付けてあった。

珍しいので写真を撮った。

このお家は飲食関係の店を営んでいたようだ。

 

 

土場の石鎚小中学校跡

ここは土場というところ、車も通れる道沿いに石鎚小学校と中学校はあったが、昭和52年(1977年)に閉校している。

小学校が出来る前、この場所は上流で切り倒され流れてきた木材を、ここで引き上げ溜める場所だったようだ。

 

 

石鎚小中学校の敷地跡。

 

小中学校近くには小松町立石鎚保育所もあった。

閉園後は、養蚕組合の事務所として一時期使用していた。

 

虎杖(いたずり)

虎杖の農協跡、この農協の裏側に石鎚村の役場があった。

農協の右斜め前には、槌之川から移転してきた派出所があった。

 

四国88ヶ所霊場60番札所 横峰寺へと行く道。

横峰寺下まで駐車場や平野林道が完成するまで、河口でバスを降りると、ここからは歩いて上り、もえ坂という難所を通り抜け横峰寺に行っていた。

今は大保木の平野という所から、車が通行可能な有料の平野林道が完成しており、難儀してこの道を歩いて行く参拝者は激減した。

 

河口の横峰寺 別院 

石鎚登山ロープウエイのない時代、河口までバスできた参拝者は今宮道や黒川道から歩いて石鎚山を目指し上って行っていた。

この階段を上って行くと黒川道に合流する。

かつて多くの人が利用した登山口だった。

 

 

河口に今ある三碧橋が完成するまで、このトンネルを通り抜けて河口橋を通り谷川を渡っていた。

昭和の42~3年頃まで利用されていたと思う。

未舗装の道だ。

 

 

成 藪

石鎚村の一番奥にあった成藪集落跡

 

 

成藪にある石を積み上げた灯篭(野灯)の上に火袋はすでになかった。

吹き飛ばされたか壊れたのだろう。辺りを探したがなかった。

この灯籠横を集落と集落を結ぶ道(往還)が通っている。

古い地図を見ると、この道を上がって急な山道を登り、峠を越え下って行けば、隣村の櫻樹村横貝集落あたりに着く道があった。

今は通る人はなく、道はほぼ消えてわからなくなっているという。

 

兼 藪

ここは 兼薮集落跡。

昭和の時代、3軒ほどの集落があったようだ。

中村集落から石貝集落に行く往還途中にあった集落で、昭和30年代に廃集落となったみたい。

 

兼薮集落から石貝集落に向い古道を再び行き始めると、古いお墓があった。

墓石は花崗岩の四角の切石ではなく、山石(川で採取?)に彫ったものだった。

天明、寛政の文字が見えた。

古くから残る墓だ。

墓跡を越え行き始めるとすぐに道は消えた。

道を間違ったのかなと思いながらも、高度を保ったままで前に進んで行った。

 

十亀縫之進氏の頌徳碑

氏の出身集落、石貝集落への登り口、土場の石鎚小学校前に立つ。

 元千足山村村長で千足山村誌考という千足山村を記録した本を書いた方でもある。 

 

 

石鎚小学校跡から石貝に行く古道 

石貝には人が住まなくなって40年ほど経つ。

行く度に古道はいたんでいくのがわかる。

 

地蔵と灯籠の間を集落と集落を結ぶ幹線道が走っていた。

左に行けば横峰寺、右に行き下りていけば、石鎚小学校跡に行く。

 

石 貝

石貝集落跡にて。

大豆やトウモロコシを粉にする機械のようだ。

以前は建物内にあったようだが、吹き飛ばされたのか、なかった。

雨ざらしの状態で残っている。

隣には発動機も放置していた。

 

明治の神社合祀令がでるまで上石貝に熊野神社があったようだ。

墓石があるこの辺りだったのだろうか。

銀杏の大木が繁りなんとなくそんな雰意気が漂う場所だ。

天正の時代、熊野権現をここ石貝に勧請した人を忍び建てた墓?

 

 

小松町時代に行われた、石貝集落の移転事業の看板がまだきれいな状態で横たわっている。

 

 

老之川(おいのかわ)

深い谷に架かる老之川橋を渡って行く。

集落までの道は悪いが林道が続いている。

老之川には営林署があったという。

 

草木が繁りここで行けなくなっている。

ここからどんどん歩いて遡って上がって行けば、成就から石鎚に登る途中にある八丁坂という場所に辿り着く。

古い地図にはその道が記入されているが、今はどんな状態であるのだろうか。