石鎚村(千足山村)槌之川の梅本八幡神社へ | ア-ルの写真記

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西日本最高峰 石鎚山に初めて登ったのは、16歳になったばかりの7月だった。石鎚山の頂の弥山から、お天気のいい日で瀬戸内海が見えた。

今は見渡す限り、山一面は緑で覆い尽くされているが、かつては山肌や谷間に、いくつもの集落や畑が広がっていて、山頂からもいくつかの集落や畑は、はっきり見えたはずだ。その当時は、意識して頂上から石鎚村の集落や畑などを見たり、又訪れてカメラに納めたりしていなかった。当時は、自然が魅せてくれる美しい山の景色に魅せられて、ほとんど風景だけを撮っていた。

年齢を重ねる度に、自然の中の人々の暮らし風景にも眼が行きだした。幼い頃から朝に夕に、我が家からあたりまえに見えていた石鎚山系の山々。そ山間にあるたくさんの集落はどこも過疎化が止まることなく進んでいる。

 

石鎚山頂弥山から、石鎚村方面を望む。中村の文字の左側に小さな白い点がある。

石鎚中村に最後まで住んでおられたS氏宅の茅葺き屋根を覆った白いシートが光る。

 

藩政時代は千足村と呼ばれていたが、明治の町村制施行で千足山村となった。

しかし、昭和26年に村名を変更し石鎚村となった。

それもつかの間、小松町との合併問題が持ちあがり、昭和30年に合併し小松町石鎚となった。

石鎚村と呼ばれた期間はたったの4年間のみだった。

現在はさらに合併し、西条市小松町石鎚となっている。

 

廃藩置県後、桜樹地方と千足山地方を管轄する役場が楠窪影無に誕生したが、明治の22年に桜樹村は河之瀬に、千足山村は槌之川にと、それぞれに村役場が誕生した。槌之川には派出所や村の購買所なども誕生し、しばらくは村の中心地としての役割を担った。

 

明治の終わり頃まで石貝にあった素鵞神社と熊野神社なども合祀していた梅本八幡神社の建物跡や神社前に架かる鉄筋コンクリート製の橋を、槌之川に六地蔵を探しに行ったとき偶然見つけた。

 

四国八十八か所第60番札所の横峰寺から、金の鳥居のある星ヶ森峠へ行き、峠を越えて下りていくと、郷という集落跡に着く。「山家の思いで」の著者、伊東鶴一氏が若い頃、この集落に住んでいた。

近くには昭和4年まであった小学校の石垣跡や地蔵がある。

地蔵さんの石の台座の正面には「千足村伊山」と刻まれていて、その横面には寛政の文字が見える。

寛政の時代、すでにこの地方は、千足村と呼ばれていたようだ。

 

 

 

寛政の文字が見える。

 

地蔵前を通り下っていき、槌之川集落跡へ。

倒木があちこちにある沢のようなところを下りて行き、辺りをうろうろしていたら、文字の刻まれた平らな石板が斜面にたっている。

墓石で、宝暦の文字が見える。

今まで倒れずに、こんな所によく残っていたなと思う。

 

 

うろうろしていると、猪のヌタ場があった。

猪はどこに隠れているのだろうか。

槌之川集落を二つに分断するように流れる谷川には、岩のように大きな石が居座っている。

谷川を静かに流れ落ちる水音以外は、聞こえてこない。

鳥の鳴き声さえも聞こえてこない。

槌之川は死んでしまったかのように静かだ。

 

 

 

植林した木々が鬱蒼と茂り、槌之川集落の多くを覆い尽くしていて、天気は良いのに日当たりは悪い。

あたりは薄くもやがかかり、林の中は湿度が高めのようだ。

 

まるで密林みたいだ。

本当に、ここに村役場があったの?と疑いたくなる槌之川集落だ。

 

かつては岩盤の上にも土があって、根を降ろしここまで成長してきたのだろうが、長年の間に、谷川の増水や氾濫などで岩の上にあった土壌部分が徐々に流されてしまったようだ。

谷川沿いの岩盤の上に立つ枯れた樹。

それでも頑固に立ってる姿がすごい。

 

とにかく、倒れまい、流されまい、死ぬまいと、必死で土砂や石を鷲づかみするかのように根を張り生きる、谷川沿いの樹。

まるで芸術品。

人気のない山間を、あちこちと歩き回っていると、過酷な条件の中で植物たちは生きぬき創りだす自然美や造形美を沢山見ることが出来る。

それらを観ていると、時間はすぐに過ぎていく。

 

槌之川集落の手書きの地図がある。その中に谷に沿って石段道の記入がある。

家に帰って、撮影した写真を見ていて気がついた。

石が並んである下の写真は、どうも地図にあった石段道のようだ。

崩れかけていて気がつかなかった。

石を並べた跡が所々にまだ残っている。

もう10年もしないうちに完全にわからなくなるだろう。

 

六地蔵探しを諦め、そろそろ帰ろうと谷川を渡っていると、川下の遠くに人工物が見えたと思った。

目をこらし再度見つめた。

 

 

 

谷川に架かり、神社に行くための橋だ。

コンクリート製の頑丈な橋。

 

橋から上流をみると、流れ下ってきた倒木がたくさん横たわっている。

 

ここが梅本八幡神社境内への入り口のようだ。

鬱蒼とした森中を六地蔵を探してあちこちしていて、もう帰ろうと思っていたとき、偶然見つけた。

槌之川を3度目の訪問で梅本神社跡を発見。

境内に石碑がある。

結構背の高い石碑で、梅本八幡神社と彫ってある。

下の台石も含めると高さは3m位はあるだろう。

 

 梅本八幡神社

 

横面に昭和3年御大典為記念と彫ってある。

昭和3年ごろ建てた昭和天皇の即位記念の碑や鳥居をあちこちの神社や神社跡でたくさん見てきた。

石屋さんは繁盛し、忙しかっただろうと思う。

 

千足山村の村長も歴任し、【千足山村誌考】という冊子を作り残し、下石貝に住んでいた十亀縫之進氏が、一時期ここの神社の宮司さんのような役割を果たしていたようだ。

当時この石碑を建立した時、氏子の戸数は25戸。

たったの25戸でこれだけの規模の神社を維持していた。

 

 

昭和32年3月 合祀50周年記念碑が建立されている。

当時の神職(宮司)は曽我部宇一氏の文字が見える。

 

 

 

 

境内はすごく広そうだ。

高床式のようは本殿がある。

屋根は倒木で潰れているようだ。

手前の潰れ落ちた建物は拝殿だったのだろうか?

 

 

槌之川の八幡神社1462年(寛正3年)に勧請したとの記録が勧請棟札に残ってるようだ。

今から約550年前には、すでに槌之川に神社が有り、村人たちと共にずっと歩み続けて来て、そして45年程前についに使命を果たし終えた神社だ。

 

 

石造物が神社境内のあちこちに散乱している。

 

 

人が去ってしまい、再び元の自然に帰ろうとしている。

この谷川に沿ってあった道をどんどんさかのぼっていけば、やがて水の流れは消えるが、天ヶ峠に辿り着く。

天が峠には、優しそうな古いお地蔵さんが、一体鎮座している。

 

 

天ヶ峠にあるお地蔵さん。

ここも、かつては千足山村内にあるミニ四国88カ所の札所の一つだった。